【5】身投げ
エラとビルは幸いにも、国境のすぐそばの町まで無事に移動できた。
とはいえとうに路銀は尽きており、国境をわたるのは徒歩しかない。
大きな問題は二つ。
この国境そばの町から隣国に渡るには、巨大な運河にかかる巨大な橋を渡っていくしかない。
路銀があれば隣国へいく馬車でひょひょいのひょいだが、徒歩ではとんでもない距離になる。ビルは到底歩ききれないだろうし、エラ自身、流石にビルを抱えて渡れるか怪しいところである。
もう一つの問題は、その橋の上には関所があり、国を移動する人々を監視・管理しているという事だ。
金もなく、まっとうな理由もない。そのうえ無理をした旅のせいで中々ひどい見た目になっているエラたち親子を、関所の人間が素直に通らせてくれるとは思えない。
そうなると正規ルートで隣国へ行くのは難しくなるはずだ。
「しくった。距離の近さでここにしたけど……チッ! 山が国境のほう行きゃよかった!」
川となると、船を盗むか何かすればよいかもしれない。だが盗むのは良いとして(良い子は真似してはいけない事を一応補足させていただく)、エラに船を操る能力はない。
この大きな運河に無理してこぎ出せば、よくて遭難、悪けりゃこちら側の岸にすぐ押し戻されて、窃盗の罪状のついた犯罪者になる。
とにもかくにも、どうするか作戦を立てるために、エラはビルと共に街を歩き回った。目立たないように、町の端っこを歩き回ったエラは、とある豪奢な作りの建物のそばに潜むことにした。
理由は簡単。生ごみの匂いがしたからだ。
建物の煙突から立ち上る煙からも、良いにおいがする。
「腹に入れれるモンならなんだっていい!」
エラは地元の孤児の餓鬼共と盛大にやりあい、今日の食事を手に入れた。
ビルと分け合ったのは、よく分からない何かがしみ込んだパンだ。これまで宿屋の奥さん(おばちゃ)が作ったうまい料理しか食べてこなかったビルははき戻していたが、エラは無理矢理食べさせた。
「まずい。ママ、これまずい!」
「食えるだけ感謝しな」
ビルは幸せな環境で育ったので、それはそれはわがままな子供だった。
こんなパンごときで泣きわめくなど、全くもって、先が思いやられる事である。
そんな冷たい事をエラは思いながら夜を越した。
◆
困ったことに、全く隣国に渡る算段は立てられない。ビルが半分腐った野菜を文句も言わず食べられるようになった頃、エラはこの町の中に変な集団が現れたと知った。
「どっかの伯爵家の使用人だってよ。人を探してるんだとか」
「こんな国の端っこに人探しなんて、大変だねえ」
(こんな端っこまで追ってきたとか正気じゃねえって!)
エラはこれまで以上に気を張って生活していた訳だが……残念ながら、エラとビルのピンクの瞳はそれはそれは目立っていた。
「いたぞ!」
「捕まえろ!」
あっという間にエラとビルがこの町にいる事は突き止められ、金と引き換えに次々に情報は売られた。
そうしてエラは、ビルを抱きかかえて走り回るしかなくなったのだ。
「まま、ままぁ!」
うわああんとビルが泣く。舌噛むぞとエラは思ったが、何も言う余裕はなかった。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
町の中に逃げ場はない。
だからエラが逃げ場に選んだのは、隣国に続く橋だった。
橋の上を走り続ける。エラたちが橋に逃げ込んだと知った追手の声が、後方に聞こえてくる。
走り続けてもだめだ。おいつかれる。
そう認識したエラは、柱の手すりによじ登った。
子供のころ、劇場の上の方まで昇って「この糞猿!」と怒鳴られたエラの能力は健在で、ビルを抱えているにも関わらず、あっという間に登り切ってしまった。
エラとビルが登り切ったのは、橋を支えるいくつもある柱の一つだったらしい。その下で、追手たちが何か言っている。風のせいで、何を言っているかは分からなかった。
エラは下を見た。川がある。
「ママ……! すごい、すごいよぉ!」
ビルの場違いな歓声に顔を上げる。
もうすぐ夕焼け。そんな中、水面を太陽の光が照らして、キラキラと輝く宝石の絨毯のようである。
「……ああ、すげえな」
エラはビルをしっかりと抱きかかえた。
きっとビルの事だけ思えば、あの追手たちに渡した方がいいんだろう。
でもエラは、ビルを疎んでも、面倒だと思っても、金食う虫だと思っても、ビルを手放すことは決断できなかった。
だって――。
(母ちゃんはあたしを捨てなかった)
死ぬその時まで、ぐちぐちぐちぐちいいながら、母はエラのそばにいてくれた。母と娘はずっと、小さな布団で肩を寄せ合って眠りについていたのだ。
それはこれまでずっと、エラがビルとしていたように。
「母ちゃん!」
エラは大きな声で叫んだ。ビルは不思議そうに、母の顔を見つめている。
それを見たらなんだかすべてどうでもよくなって、エラは、運河に向かって叫んだ。
「母ちゃん! あんたは押しつぶされて、あたしは溺死さ!」
肺にたまった空気をすべて吐き出すようにそう叫ぶと、なんだかとってもスッキリした。
「今そっち行くかんな!」
「かんな~!」
エラはビルの体に両腕をしっかりと巻きつけて、柱から飛び降りた。
落ちる瞬間、追手たちの絶叫が聞こえた気がしたが、そんなの全部全部、どうだってよかったのだ。