【15】風邪
子猫はビルが「ぴぃ」と名付けて可愛がっている。なおぴぃの由来は、目玉がピンク色だったからである。ピンクのピから取っている。ネーミングセンスがない。
(精霊の加護受ける国は動物の目の色も普通じゃねーのか)
と、エラは、この国にあるという精霊の加護の強さにやや引いた。
ぴぃは幸い、鳥に突かれて出来たらしい傷以外は問題なく、すぐに元気になって、首にピンクのリボンを巻いて、ビルやエラの周りを好きに行動している。
ちなみに、エラは、猫は好きではない。
というか、ペットは好きではない。
だってペットには餌をやらなくてはならないからだ。
明日の自分の食べ物に必死になっているのに、なぜ畜生に食事を与えなくてはならないのか。貧乏の癖に犬だ猫だを飼っている人間の気持ちが、エラはさっぱり分からなかった。
とはいえ、今はエラが金をねん出して餌を与えなくてはならない存在ではない。
それなら、エラの生活を邪魔しないのであれば、このぴぃとかいう猫がどこで何をしていようが、エラには関係ない事だ。
――さて。
エラの言語習得は相変わらず進みもせず、勝手に木に登ったせいで見張りまでつくようになってしまった。
もう一度木にでも登ろうと足をかけた瞬間、監視役の騎士に子猫を掴むがごとく脇に手を入れられて運ばれた屈辱は忘れない。まあ顔は覚えてないので誰にされたか分からないのだが。
せっかく安寧の場所を得たと思ったのに、安寧の場所にはいけない。悲しい事である。
最近では、家庭教師もエラにはお手上げという感じになってきた。
……そんなある日、エラは、熱を出した。
体調を崩すなんていつぶりだろうか。物理的な怪我が原因以外で寝込むのは、もう、だいぶしていない。
ママママと泣くビルは引き離されて、侍女たちに連れていかれた。それでいい。横で泣かれても困る。
骨の異常を見た医者がまた呼ばれて、風邪だと言われた。安静にしているのが一番だと。
度々看病の侍女がいるが、近くに人間がいると、いまいち寝れない。
カタコトのジュラエル王国語で、部屋から出て行ってくれと言った所、やっと部屋から人間が皆出ていった。
外にはいるのだろうが、熱が出ている状態では動けそうにもないので、それだけで監視も十分なはずだ。
(……はあ。母ちゃん……)
エラは眠りについた。
◆
――額の濡れたタオルが、取り換えられた。その感覚で、目を覚ます。
「……起きたかい」
アダルブレヒトだった。
帰ってたのかと思いながら、エラは無言で彼を見つめていた。
自分とは、目の色以外、何も似ていない、父親だという男。
「少し前よりは、熱が下がっているのではないかな。寝ていたけれど、一度、侍女が着替えさせているよ」
今までの自分の人生には一度もいなかった、父親だという男。
「もし何か食べれそうなら、侍女に持ってこさせよう。水ならあるが、飲むかい?」
――今更、自分の前に現れた男。
「おやこ、ごっこなら、びると、しろよ」
ビクリと、エラの体を優しくなでていたアダルブレヒトの手が跳ねた。
「あたしみてーな、やまざるじゃなくて、びるみてーな、かわいげのあるのを、かわいがれよ」
ああ――エラは自分の気持ちを理解した。
アダルブレヒトが嫌いだ、と。
「っ、エラ。私は」
「いま、さら、ちちおや、なんて、おもえねーから」
三十年近い年数が経っているのだ。今更、父親という顔をしてこられても、困るのだ。だってエラは、父親なんて知らないのだから。
「エラ……」
「せーれーの、ことばとか、うそかもしんねーの、しんじてさ……」
エラには父親はいない。
エラには父親はいない。
エラにはこんな、熱を出した娘に寄り添うような父親はいない。
「遅すぎるのは分かっている。だが、だが、今からでも、私はお前と家族になりたいんだ」
手を握られた。振り払いたいが、元気がなくて出来そうにもない。
優しい父親という図である。
最初は優しくて後から厳しく当たる人間はごまんと見てきたが、その手の男は、エラを、欲をぶつける相手としてしか見ていなかった。
アダルブレヒトの瞳には、相変わらず、そういう欲がなかった。
(こんな――)
エラには父親なんていない。
「……んで」
「エラ?」
エラには父親なんていない。
「……なんで、いま、さら」
エラは、父親、なんて、いらない。
「なんで、もっとはやく、たすけてくれなかったの……!」
「!」
エラには父親なんていなかった。
熱を出した時に面倒を見てくれる父親なんて。
愛してくれる父親なんて。
抱きしめてくれる父親なんて。そんなものいなかった。
ずっとずっと、二十数年、ずっとそうして生きてきていた。
「なんで、かーちゃんが、ぺちゃんこになったときに、たすけてくれなかったのぉ」
母イルザはエラの目の前で、大道具に潰された。
人間が、潰れたトマトみたいに、ぺちゃんこになった。
エラの母は、大道具に潰れなかった右手以外、まともな体は何も残らなかったのだ。
(母ちゃんは、右手しか)
右手――母は――大道具の下にいたエラを付き飛ばした右手以外――全部、潰れてしまった。
母は、エラのせいで死んだのだ。
エラを産んで不幸になった。
エラのせいで、命が終わった。
エラがいなければ。きっとまだ、この、優しい男と別れたとしても、幸せだったはずなのに。
エラのせいで母親の人生は、何もかも滅茶苦茶になったのだ。
――そこからの記憶は曖昧だ。ただ、ずっと、喚いて、泣いていたような気がする。
そんなエラを、アダルブレヒトはずっと、ずっと、抱きしめていたのだけは、朧気に、覚えている。