【13】やる気なし
まず最初に取り組まれたのは、言語である。
エラもビルもジュラエル語は分からない。
そしてこの屋敷でエラたちの祖国語が分かるのは、主人たるアダルブレヒトと、彼がエラたちの祖国に来ていた頃に追従していたという使用人たちだけだ。他はジュラエル語しか話せない。
ここはジュラエル王国なので、当然、他国人であるエラとビルが言葉を覚える事になる。
ここで、大人と子供の差が出た。
ビルはあっという間にジュラエル語を習得していって、エラが時々理解できない言語で周りと会話をするようになった。
一方で、なあなあでここに連れてこられたエラは、やる気も薄い。
いや、分かっているのだ。生きていくのなら、覚えた方がいい。しかもわざわざ、アダルブレヒトはエラとビルのために語学の専門家を家庭教師として雇い入れて割り当ててくれている。とんでもなく有難い話だ。普通だったら、こちらでどこかの金持ちの愛人として入り込んで、少しずつ言葉を覚えるのが無難なのだから、とてつもなく恵まれている。
ただ、どうにも身が入らない。
気が付けばエラは息子が日常会話が出来るようになってなお、簡単な単語しか話せないような状態であった。
明らかにやる気がない様子のエラに、家庭教師は様々な手を使ってやる気を出させようとするが、エラのやる気は出ない。
(あたしにそこまで教え込まなくたっていいだろうに)
もう三十近いばばあである。今から貴族令嬢にする、なんて事が出来る年齢ではない。
(貴族ってのは娘と息子を、こう、政略で使うんだろうが、あたしはそれの駒には到底なれん)
ビルが母を必要となくなる年頃になれば、ぽいとされるかもしれない。
むしろ、そうされたいとすら思う。
(ここでの生活は息苦しい)
いつも誰かが近くにいる。何か起こるたびに侍女だ侍従だ近づいてくる。一度逃走しようとした事がここにも伝わっているのか、夜でも監視の人間は多い。
アダルブレヒトも、あまり来ない。
会いたいわけではないが。
「おじーさま、おしごと、たいへんなんだって!」
ジュラエル王国語を凄い速さで習得した息子は、そうエラに教えてくれた。
かつての再来のように、何に関してもテッキトーでやる気のないエラの世話を、ビルがするような逆転母子の生活に半ばなっていた。
これはエラがジュラエル語を殆ど習得していないせいもある。侍女たちの声かけの意味が分からないのだ。
だから、まだ幼いビルが、侍女たちからの言葉を、エラに翻訳するという事が多いのだった。
「ママぁ、ママぁ、ごはんのじかんだからおきてよぉ~」
自分をゆするビルを見ながら、エラは思った。
(こいつも哀れなもんだ。こんな親の元に来ちまったがために。……いや、あたしの子供だから公爵の血筋だったって事考えると、あたしん所来ないと公爵にああも気に入られる事もなかったのか?)
ビルに「一人で食ってな。あたしはまだ寝る」と言い放ちながら、エラは掛け布団を深くかぶり、周り全てから隠れるようにして、眠るのであった。
◆
エラのジュラエル語習得は一向に進まない。屋敷内にも、態度には出さないが、どことなく雰囲気的に、エラを疎む空気が流れだしたような気がする。
(ビルの先の事思えば、流石にこの屋敷の男にゃ手を出せねぇしなぁ)
言語は真面目じゃない癖して、地図は熱心に見るエラは、この屋敷を出た後どうするかで悩んでいた。
(公爵領、広すぎる)
アホみたいな広さの領地の中だと、アダルブレヒトがすぐに見つけてきそうだ。
エラは自分本人に価値は大してないと思っている。エラの価値は、アダルブレヒトが愛した女イルザの娘という一点のみである。それだって、イルザの血を引き自分に似てる孫息子のビルがいるのだから、唯一無二の価値ではない。
だが、その程度の価値も、アダルブレヒトにとっては重要な可能性が高い。
(三十年近く、昔の女を引きずってる男だろ? 執着つえ~だろ絶対)
しかも貴族だ。貴族は自分の所有物がなくなる事には過敏に反応する、という偏見がエラにはある。
自分が興味をなくして捨てるのは良いが、そうではないものがなくなったら、躍起になって探すと思うのだ。
それを考えると、アダルブレヒト、そしてビルから離れるには、公爵領の外に出る必要があると考えたのだが、その方法も、とかく広い公爵領という壁にぶつかり、良い案が浮かばない。
どうにも、アダルブレヒトは兄だとかいう公爵の下であれこれ働いているらしい。語学が堪能で、エラたちの祖国だけでなく数か国語を話し、時には数か月、年単位で他国に行くことも少なくないとか。
(出来れば遠い国にでも行ったときに、逃げるのがいいよな~)
いやでもと思う。
もしアダルブレヒトがエラを逃がすな、なんて命令を下していたら、本心はさておき、ここの使用人たちは本気で探しそうだ。
だって、エラが長年娼婦として様々な人間の、言葉にならない感情を読んできていたから分かる程度にしか、エラを疎んでいないのだ。
会話の中や態度には、こちらを疎んでいる様子は全くないのだ。
(コーシを分けるっつーの?)
仕事が出来る使用人で結構な事だが、エラが逃げるには問題も壁も多いし高い。
(だり~)
明日の事を心配する必要もなく、へたくそな男の相手をする必要もない。
毎日綺麗な服を着て、毎日体を洗って、毎日手入れをされて、毎日腹いっぱい食べる事が出来る。
だが、その生活が性に合うかどうかは、別の話である。
(泥の蛙にゃ荷が重い)
はあ、とエラはため息を吐くのだった。