ビアガーデンからの帰り道
後悔することは無駄だと思う。だっていくら後悔しても過去はやり直せないから。後悔するより過ぎたことは忘れて前を見ていたい。いつもそう思う。
でも、今それができないでいる。三時間、いや一時間でいい。時間を巻き戻したい。
「思い出しましたか?」
私をおんぶしているクマが聞いてくる。顔が見えないからわからないけれど割と気にかけてくれているみたいだ。
「思い出しました……」
「それはよかった」
クマの体が小刻みに震え出した。声も少し笑いを堪えきれていない。私は腹が立ち無言でクマの肩をぽかぽか殴った。クマの肩は柔らかくて叩くとなんだか面白かった。
「そうだ、お会計は?」
クマの肩を叩いているとふとお会計のことを思い出した。食事券をもらったからビアガーデンに行ったのに私は食事券を出した記憶がない。
「ゆり子さんがちゃんと食事券を出してくれましたよ」
「そう、よかった」
私は胸を撫で下ろした。でもすぐに嫌な予感がした。クマがまたぷるぷると体を震わせ出したから。
「ゆり子さん、帰る前にヒグマさんをテーブルに呼び出したこと覚えてないんですか?」
「なにそれ? 嘘でしょ?」
そんなの全く記憶にない。ヒグマさんを呼び出す? 私が? まさかそんなことする訳がない。
「本当に覚えてないんですか? お酒とお料理のことをいっぱい褒めた後に『釣りはいらねえ!』って言って食事券をテーブルに叩きつけたんですよ」
「嘘でしょ……」
「食事券出して釣りはいらねえって……見ていて楽しかったですよ」
クマがくくくと笑っているが怒る気になれなかった。私は夜空を見上げて自分の愚行に絶望した。
「ああ、誰でもいいから時間を巻き戻して。もう今すぐに!」
少し大きめの声で空に向かって言ってみた。だけど私の願いが叶えられることはなかった。クマがさらにくくくと笑った。
私たちのマンションが遠くに見えてきた。相変わらず私はクマにおんぶしてもらっている。
たまにすれ違う人の視線にも慣れてきた。最初は恥ずかしかったけれど今はちょっと自慢したい気持ちになってきている。だってクマにおんぶしてもらえることなんてなかなかないもの。
「私、酔っ払って他に変なことしてない?」
だいぶ頭が回るようになった私は心配になって聞いてみた。まだ食事券をテーブルに叩きつけた記憶はどう頑張っても思い出せない。もしかしたら他にも何かやらかしてるんじゃないかとだんだん不安になってきた。
「大丈夫ですよ、お店を出た後すぐに寝ちゃったんでおんぶさせてもらいました」
「そっか。ならよかった」
私はふーっと息を吐いた。よかった。いや、よくはないけれどこれ以上変なことをしていたらもう私は恥ずかしすぎておかしくなってしまうと思う。お酒の飲み過ぎには本当に気をつけなきゃ。
「あ、そうだ……」
「え、なに?」
クマが思い出したかのように話し出した。
「何度か寝言を言ってましたよ」
「もう最悪……私なんて言ってた?」
「ほとんど聞き取れませんでしたがいろいろ言ってましたよ。そうそう、何度か『お母さん』って言ったのは聞き取れました」
私は一気に酔いが覚めた。鏡を見なくてもわかる。今は誰にも顔を見られたくない。絶対にひどい顔をしているから。今日初めてクマにおんぶしてもらっててよかったと思った。
「ゆり子さん? どうかされました?」
「え? ああ、ごめん。大丈夫よ」
しっかりしなきゃ。自分がまさかそんなことを口に出すなんて思ってなかったからつい動揺してしまった。
そうこうしているうちに私たちはマンションに着いた。
「ありがとう。もう下ろしてくれて大丈夫よ」
クマがおんぶをしたままマンションの階段を登ろうとしたので私は少し怖くなった。大丈夫だとは思うけれど万が一この状態のまま階段から落ちたら……そう思うとかなり怖い。
「ゆり子さん、ゆり子さんのお母さんってどんな人なんですか?」
「何よ急に。どこにでもいそうな普通の人よ。いやそんなことどうでもいいの。どうして話を逸らすの! 早く下ろして」
クマは私の言うことを無視して階段を登り始めた。一段飛ばしで軽快に階段を登るクマ。クマの背中はかなり揺れている。本当に怖い。
「うーん、ビクトリー!」
階段を登り切った時、クマが両手を高く上げて叫んだ。大声を出すなと注意したかったができなかった。私は落下の恐怖から解放されてなんだかどっと疲れていた。
「ゆり子さん、誰かをおんぶしながら階段を登るのっていいトレーニングになる気がします」
「あら、そうなの? それはよかったわね」
私は特に何も考えずに返事をした。だって頭が全く回らないんだもの。今すぐベッドに潜り込みたい。あ、シャワーはちゃんとしなきゃな。化粧も落としたい。
そんなことを考えているとクマが鼻歌を歌いながらリズムよく階段を降り始めた。
「ちょっとちょっと、なんで階段を降りるのよ! せっかく上がってくれたのに」
私はびっくりしてクマの肩を叩いた。
「いやー、ちょっと楽しくて。ゆり子さんもう一回階段登ってもいいですか?」
「いいわけないじゃない。しかもなんで聞く前に階段を降りるのよ!」
「あ! 本当だ!」
「本当だ! じゃないわよもう」
思わずため息が出た。そしたら私の息は臭かった。それはもう私の口から出た息とは思えないぐらい酒臭かった。酒臭い息を匂った瞬間なんだか熱いコーヒーが飲みたくなった。
「じゃあ登りまーす」
クマが元気よく言った。
「ねえ、クマ。私コーヒーが飲みたい」
言ってみた。
「コーヒーですか?」
クマが少し驚きながら言った。
「クマの淹れたてブラックコーヒーが飲みたい」
今私が一番飲みたいものを言ってみた。
「いいですね、コーヒーブレイクにしましょう!」
そう言うとクマは私をおんぶしたままクマの部屋に向かった。このクマ、コーヒーブレイクって単語の意味を知ってるのかしら? 私は短い休憩じゃなくてゆっくりとコーヒーが飲みたいんだけど。少し引っかかったけれど黙っておくことにした。
この日、私はクマの部屋でお日様が顔を出すまでのんびりとコーヒーを飲ませてもらった。たまにクマが焼いてくれる分厚いホットケーキを食べながら。




