母のちょっとした昔話
「クマさんが起きている時期だったら、しっかり看病してもらえたでしょうね……」
母が作ってくれたたまご雑炊を食べていると、突然ぽつりとこぼされた。クマが起きていたら、たしかに看病してもらえていたような気がする。きっと寝込んだ私を見て最初はわたわたと慌てるだろうけど、そのうち慣れてきてにこにこしながら温かい食事を作ってくれる、そんな気が。
「そうね。でも、なんでそんなことをいきなり言うのよ? そんなに会いたかったの?」
たまご雑炊は薄味で体に優しい味がした。丁寧に細く切られた白髪ネギが美味しく感じるのは、私も大人になったという証だろう。でも、熱くて少しずつ冷ましながら食べていたら、いつの間にか食べることに夢中になっていて、母へのリアクションに少し時間差ができてしまった。
「そうね、会いたかったのかもね。まったく似てないのに、クマさんを見ていると思い出しちゃったのよね」
母を見ると、どこか遠くを見るような、そんな顔をしていた。思い出す、それはもしかして私にも関係のある人のことなんじゃないだろうか。写真でしか見たことがない、私の父のことなんじゃ、なんとなくそんな気がしてならない。
「オオカミさんのことを」
「……え? オオカミ?」
「そう、オオカミさん」
わおーん。
私の頭の中をオオカミの遠吠えが大音量で駆け抜けていった。
母よ、思い出すのは人間じゃなくてオオカミなんですか? 人間の男性。しかも私の父親の話になると思っていた私は面食らってしまい、思わず遠吠えの後に頭の中の電源が落ちる音が聞こえた。
数秒の停止時間をあけて、私はぼんやりと母とオオカミが並んでいるのを想像しようとして失敗した。母とオオカミ、組み合わせが謎すぎる。
「ねえ、それどういうこと?」
考えることを諦めた私が聞くと、母は「あれ? 言ったことなかったっけ?」とわざとらしく言った。絶対に言ってないってわかってるくせに、と思ったけれど私はその言葉をたまご雑炊とともに飲み込んだ。
「ねえ、教えてよ」
「そんな大した話じゃないわよ」
そう言いつつも母の顔はどこか真剣で、でも深刻さはなく、大切なものを見つめるようなあたたかさがあった。
「聞いた後でつまらないとか言わないでよ」
そう言うと母はゆっくり話し始めた。
もう随分昔の話よ。大学生の時に、初めて一人暮らしをしたの。私はドラマの主人公になったみたいでわくわくしてた。
でも、新しい生活に緊張して引っ越し初日はがちがちだった。これからどんな生活になるのかなあと、どきどきしながら荷物を持って新居に行ったわ。そしたらね、私の部屋の右隣の部屋の前にいたのよ。立派な黒い毛並みのオオカミさんが。
オオカミさんはアパートのお隣さんだったの。古いアパートでね、そのアパートには当時オオカミさんしか住んでなかったわ。二階建ての建物で、階段を登る音が聞こえたからあいさつしようと思って部屋に入らず待っててくれたそうよ。律儀っていうか、礼儀正しいオオカミさんだったわ。
後から聞いたんだけど、私が緊張しすぎて心臓がばくばくしてたから、その音が家の中まで聞こえたんだって。それでちょっとでもほぐれたらと思ってわざわざ出てきてくれたんだって。恥ずかしい話よ、本当。
引っ越した当初は慣れないことも多くて、オオカミさんとは会った時に挨拶する程度の関係だったわ。挨拶するのも少し緊張してた。でも、何度も顔を合わせているうちに「今日もいい天気ですね」「晩御飯は何にするんですか?」「今日も素敵な毛並みですね」みたいな日常会話が増えていってね。気がつけば一緒に近所のスーパーへ買い物に行くようになってたの。
すごいのよ? オオカミさん、私が全力で自転車を漕いでも涼しげな顔で隣を走るの。どうして一緒に買い物に行くようになったのかはよく覚えてないけれど、それからどんどん仲良くなって一緒に遊びに行くようになったわ。
海に行ったり、山に行ったり、公園にピクニックに行ったり。もちろんたくさん飲みにも行ったわ。
私が飲み過ぎてふらふらになると、いつも背中に乗せてくれた。それがすごく嬉しくて、いつもわざと飲みすぎてたんだけど、たぶんオオカミさんは気づいてたんだろうな。何も言わなかったけど。
私ね、オオカミさんとの関係がずーっと続くと思ってた。私が大学を卒業しても、きっと仲良く過ごせる、いいお隣さん、いいお友達だって思っての。でも、それは私の勝手な勘違いだった。
「そろそろ行くよ」
私が大学を卒業するまであと少しって時に言われたの。オオカミさんは世界中を旅していて、同じところにはあまり長くいないんって。この街も長くても一年かなと思っていたけれど、私がいたから留まってくれていたんだって。
「一緒に行くかい?」
私が寂しいって言ったら、誘ってくれたわ。でも、私はそのお誘いを受けられなかった。就職も決まっていたし、旅をして過ごすってどんな生活か想像がつかなかったから。
「きっとその方がいいよ」
私が悩みながらお誘いを断った時、オオカミさんはそう言ったわ。いつも通り優しい顔で。でも、どこか寂しげな声で。
それから程なくしてオオカミさんは家を出ていったわ。ちゃんと送別会もしたし、送別の品にちょっと高い革の鞄をあげたわ。彼は喜んで受け取ってくれて、笑顔で出発した。
彼が旅に出た次の日、私は気づいてしまったの。私は本当は彼と一緒に行きたかった、行くべきだったんだって。そりゃあ誘われてすぐに行きたいと思ったわ。でも、行きたい気持ちは彼がいなくなってからの方が強くなって、寂しくて私はしばらく泣いて過ごしたの。情けない話よ、いなくなってから自分の本当の気持ちに気づくんだから。
ゆり子のお父さんと出会ったのはオオカミさんが旅に出た三年後ぐらいかな。その頃にはさすがに立ち直ってたわ。
でもね、お父さんにも出会えたし、ゆり子も産まれてくれたからなんの不満もないけれど、たまに思うのよ。本当にたまに、あの時オオカミさんと旅に出ていたらって。せめて、もっとちゃんと自分の気持ちを伝えていたらってね。
「まあ、そんなところよ」
話が終わったのだろう、母は私を見るとにこりと笑った。優しいけれど、どこか寂しげな笑顔。私はすぐに言葉が出なかった。
「あ、あの、それでクマを思い出すって……」
私がなんとか言葉を捻り出していると、母はにやりと嫌な笑顔になった。そして「さあねー」と言いながら、ささっと帰り支度を始めた。
「ねえ、ちょっと教えてよ」
今にも帰ろうとする母を引き止めると、母は呆れたような声で何か言った。小さすぎてよく聞こえなかった私が「今なんて?」と聞き返したけど、母は「いいの、独り言だから」と言ってもう一度言ってくれなかった。
「私から言える言葉はただ一つだけ。いつか後悔しないために、言わなきゃいけないことはちゃんと言いなさい」
母はきっぱりとそう言うと「じゃあ、春になったらまた来るわ」と言って笑顔で部屋を出ていった。
まただ。母の言葉がまた私の胸にどっしりと居座った。




