春の引っ越し
今年の春、私は引っ越してきた。ぽかぽか陽気の心地よいある日、五年ほど住んでいた賃貸マンションで火事がおきた。原因は鰹だった。
一階には大学生のカワウソが住んでいた。趣味が釣りのカワウソ、釣りに行ったら大きな鰹が釣れたので夕飯にたたきを作ろうとしたそうだ。しかし、活きが良すぎたのか、調理する前に何故か鰹が生き返り暴れ出したんだとか。
激闘の末、カワウソは勝利を収めた。しかし、やけくそになった鰹が部屋に火を放ったため火事になってしまったらしい。カワウソの部屋は真っ黒になった。
「実家に帰ることにしました」
火事の翌日、カワウソが引っ越しの挨拶に来てくれた。幸いカワウソの部屋以外は無事で怪我人もいなかった。私が仕事から帰る頃には消火活動も完了していた。 三階の私の部屋ももちろん無事だった。
「お騒がせしてすみませんでした」
そう言いながらカワウソが頭を何度もぺこぺこさせている。
「まあまあ、誰も怪我をしなくてよかった。でも、実家に帰っちゃうんだ。寂しくなるわね」
カワウソはまだ相変わらずぺこぺこしている。そんなにぺこぺこしなくてもいいのに、そう思って見ていると顔がにこにこしているのに気がついた。どうやらぺこぺこするのが楽しくなってきたようだ。
しばらく頭をぺこぺこするのを眺めていると、突然カワウソが動きを止めた。
「そうだ! これ、つまらないものですがどうぞ」
そう言ってタケノコの皮の包みを一つ渡してくれた。
「ありがとう。なにかしら?」
「鰹のたたきです」
「たたき?」
「消防士さんたちが到着するまでの時間で作ったんです。燃える家の中で鰹を炙るのはどきどきしました」
けらけらと笑うカワウソ。私もついつられてにこにこしてしまった。にこにこしながら頭の中でカワウソの性格に呆れていた。
カワウソがくれたたたきは夕飯にいただいた。たたきはとっても美味しかった。それはもう今まで食べた中で一番と胸を張って言い切れるぐらい。
真っ黒になった一階の一室。横を通るたびに焦げ臭いというより芳ばしい匂いがする。中に入りたくてうずうずしていた私は、ある日そっと中を覗いてみた。すると部屋の中に大きな大きなトラネコがいた。
トラネコは我が物顔で部屋の真ん中に七輪を置いて干物を炙っていた。わがままボディをぶにぶにと動かして魚を炙る姿は可愛らしいけれど迫力があった。
ふと、背後に気配を感じて振り向くと小太りのおじさんがいた。大家さんだ。
「あいつ勝手に住み着きやがったんだ」
大家さんは忌々しそうにトラネコを指さしながら小さな声で教えてくれた。
「あら、そうなんですか」
「部屋を修理しようにもあいつ黒焦げの部屋を気に入って出ていってくれないんだよ。それどころか部屋の中で魚炙るから臭いが……まあ家賃払うってさっき約束してくれたからいいんだけどさ」
そう言いながら大家さんはため息をついた。
「じゃあこの部屋は真っ黒のまま?」
「そうなんだよ、参ったなあ」
やれやれと首を振りながら大家さんは去っていった。大家さんの背中と真っ黒の部屋を見て、私は引っ越そうと思った。
「今すぐ入居できる物件は残念ながらこちらだけですね」
大家さんに会った一週間後、不動産屋さんに相談に行った。駅から歩いて15分以内で、できれば静かなエリア。トイレとお風呂が別になっていて、家賃はなるべく安め。そう伝えると不動産屋さんは少し困った顔をしながら一枚の資料を出してくれた。
築三十五年、四階建て。動物入居可能。
「今はどんな方が住まれてますか?」
「えーっと、確かほとんど空き部屋だったはずです。あ、たしか一階にツキノワグマがいたような気がします」
斜め上を見ながら不動産屋さんがわざとらしく言った。灰色のスーツにどぎついピンクのネクタイをした不動産屋さん。この人接客というか演技が下手な気がする。
「じゃあここにします」
「え?」
「この家にします」
「クマがいますよ?」
「はい」
即決だった。クマとご近所さんだなんて、なんて素敵なんだろう。きっと楽しいに違いない。私はうきうきしてきた。
前を見ると不動産屋さんが口を開けて固まっていた。不動産屋さんは申し訳ないけれどそれはそれは滑稽だった。
「あ、危ないですよ?」
「危ないんですか?」
「だってクマですよ?」
何故か不動産屋さんは契約させたくなさそうだった。どうしてこの人はこの家を私に紹介したんだろう。
「何があってもあなたのせいにしませんからさっさと進めてください」
少し強めの圧と共ににっこり微笑みかける。すると不動産屋さんは何かを察したのかバタバタと契約の準備を始めた。
最短の入居日はいつかな。早く引っ越したくてたまらなくなった。
契約や引っ越し業者の手配はさくさく進んだ。そして不動産屋さんに行った二週間後、気持ちのいい春の晴れた日に私は引っ越してきた。
引っ越し当日の朝、一台のトラックがやってきた。私の引っ越しのために来てくれたのはゴリラとチンパンジーと体格のいいおじさんの三人組だった。ゴリラの右腕には「リーダー」と書かれた腕章があった。
ダンボール箱15箱。それからタンスと家電と鏡台などなど。三人組によって私の荷物は滞りなくマンションから運び出された。そして流れるように新しい家に運び込まれていった。引っ越しは半日ほどで終わった。
私の新しい家は二階になった。周りに大きな家がないので二階でも十分日当たりがいい。マンションは思っていたより古い印象はなく綺麗だった。
荷物を運んでくれた三人組を見送った私は一度新しい家に戻り紙袋を取ると一階へ向かった。ご近所さんのツキノワグマに挨拶するために。