プロローグ
春だった.少し肌寒い春だった.
制服の襟を正しながら,この春に入学した県立高校の激坂をとぼとぼ登っていく.
「今日の授業なんだったっけな,うわ,やっちまった数学の予習してねえわ.まあ,なんとかすっか」
入学してまだ2週間ほどしか経っていないにも関わらず,すでにこの調子でこの先心配になるが,未来の自分に賭けることにして目を瞑った.
坂を登りきり,門をくぐって少し奥にある一年生の昇降口へと向かう.朝のホームルームが始まるギリギリの時間に登校しているため,あまり人は見受けられない.
「こんな時間に学校行くアホは俺くらいしかいねえか」
そんな独り言をつぶやき,靴を脱いで自分の下駄箱を探す.
「あ,間違えた,こっちか」
間違いに気づき,正規の下駄箱に入れに行こうとしていると,タッタッタッとこちらに向かってくる足音が聞こえる.
「やっべ,遅刻寸前じゃね!?早く行かねえと」
声とともにやってきたのは見るからに陽キャで人気者の香りがする男子生徒が昇降口に入ってきた.
「あれ,俺の下駄箱どこだっけ!あ,ねえ,俺1組なんだけど,どこかわかる?」
今,昇降口には俺と急いでるそいつしかいない.絡まれるのは面倒だがギリギリの時間のため長引くほうが,遅刻になって生徒指導室に呼ばれて指導を受けることになることを避けるため渋々.
「1組だったら奥行って右半分のとこだよ」
「そうだったわ,さんきゅー」
ニコッと笑う顔はさながら俳優にでもなれるのではと思うほど,さわやかで男だが一瞬惚れそうになるくらい人を惹きつける悪い笑顔だった.
朝のホームルームまであと3分ほど,少し急ぎで4階にある一年生の教室に行けば間に合う時間だ.
「悠長に人と話してる場合じゃなかった,俺も行かねえと」
教科書は学校に置いているので,大して重くないリュックを背負い階段を上がる.
教室に着き自分の席に座ると,ちょうどチャイムが鳴った.
「あーい,みんな席着いてるね?えーと,欠席はゼロと,んじゃ連絡すっから聞いとけー」
ゆるい感じでホームルームをするのはクラスの担任の白崎,32歳だが20代前半と言われても差し支えないくらい若く見える.やる気がなさそうに見えるが,本人曰く,適度に手を抜かないとやってられない,とのことらしい.教師はやはり負担の大きい仕事なんだなと改めて思う.
教室にはほとんどの生徒が着席していた.ただ一つの席を除いては.
自分こと,古木叶人の隣の席,舞園雪花が座る席である.
叶人はよく知っている,舞園を.幼馴染だとか家が近所だとかそういった類のものではない.だが,よく知っている.
白崎はいつも舞園がいてもいなくても欠席をゼロだと言う.
彼女が入学式から一度も学校に来たことがないからだ.白崎曰く,入学式から一週間経った頃に一度家に行ったことがあるらしいが不在だったのか居留守を使ったのかで会えなかったそうだ.
白崎ですら名簿でしか見たことがないレア人物.
だが,叶人は顔も名前も住所も誕生日も知っている.
古木叶人は人生に疲れていた.高校を出て大学に進学して警察官になった.
大卒ならば並の出世は誰だってできるだろうと思い,収入が安定している警察官になろうと決め,試験を受け無事に合格し晴れて就職をした.
22歳で警察官になり,交番勤務を言い渡され昼夜逆転しながらも日々仕事に励んでいた.
半年が経った頃,自分が配属された市で花火大会の警備を任された.先輩警官と二人で川沿いの花火が見える堤防を巡回して少年少女が悪さをしないよう,酔っぱらいの様子を伺うなどしていた.
花火が終わり,徐々に人が堤防からいなくなっていく頃,それは起こった.
近くで女性の悲鳴が聞こえた,その方向を見てみるとナイフを持った男がナイフの先をカップルに向け今にでも刺そうとしていた.
「おい!行くぞ!」
と先輩警官に言われ二人でその男を取り押さえようと近づく.
幸いなことにカップルがナイフを持った男より自分たちの近くに居たため,どうあがいてもカップルに自分たちの方が先につくと確信していた.
だが,その時の叶人は焦っていた.警官になって初めて人が襲われようとしている現場に立ち会ったため,体が少し震えていた.
そんな震えなど気にせず,先輩警官を追い抜きカップルとナイフ男の間に入って襲いかかってくる刃物に立ち向かった.すんでのところで視界の右下から迫ってくる子供に気がついた.おそらく,おもちゃを落としてしまって誰かが蹴ったときに叶人の足元に転がってきてしまったんだろう.
全力で走り出したため,急には止まらない.3歳くらいの子供だろうか,大人が蹴飛ばしたら大怪我じゃ済まないことにもなる.刹那にそう考えた叶人は子供を飛び越えるしかないと判断した.迫りくる刃物を考えず子供を避けようとしたのだ.
刃物は深く叶人の胸に突き刺さった.
そこからはあまり覚えていない.
ふと気がつくと、懐かし味のある天井に、朝食のにおいが漂う実家の自室で目が覚めた。あぁ何年振りだろうか。二階建ての一軒家。一階からは卵焼きを作る音と朝のテレビのニュースの音が聞こえてくる。昔の記憶。おそらく自分は死んだのだろう。死んだ後なのか生死を彷徨っている最中なのか、そんなことはもう気にならなかった。少し短いと思ったが、これもまた運命だったのだと冷静になり心を落ち着かせ、体を起こし両親のいる一階へと足を運んだ。
「おはよう、叶人。今、お弁当の卵焼き作ってるから待っててね」
母の優しい声を久々にきいた。高校を卒業して以来、なんとなく親とは疎遠になっていた。毎月振り込まれる少額の仕送り。そんなのいらないからと言って家を出て、一人暮らしを始めたというのに。子バカかもしれないが、自分の親はいい親だと思った。
「ありがとう、母さん」
しっかりと頭を下げて、上ずりながらもはっきりと母に伝えた。
「急にどうしたの??あ、あれでしょ、なんかお願いしたいことがあるんでしょ〜?」
そう言って、照れ隠しをする母を見て少しだけ涙が出た。
「ただ感謝を伝えただけだよ」
そう言うと、母は少し驚いた顔をして嬉しそうに笑っていた。
「じゃあ、会社行ってくる」
タイミングを見計らっていたかのように8時のニュースが始まり、父はそそくさと出かける準備をして、家を出て行った。父は昔から寡黙だった。幼い時の記憶では、嬉しそうにいつも自分達子供をだっこして面倒を見ていた。
高校時代はこういう日常だった。朝は大学生の兄たちが全く起きてこないので、父、母、自分の3人でいつも朝ごはんを食べていた。最後にいいものを見せてもらったな、このままずっとここに居たい。叶人はそんな当たり前の日常が幸せであったことを噛み締めながら、母との会話を楽しんでいた。すると、
「あっ、叶人!あんたもそろそろ学校行きなさい。もうそろそろ行く時間でしょ?もう入学式終わったんだから、ちゃんと浮かれずに高校生しなさい」
「え?高校?行くの?俺が?」
そういえばさっき、母がお弁当がどうとかって言ってたな。ん?ん?
「春の陽気にやられて記憶飛んでるの?早く準備していってらっしゃい」
「あぁ、うん、記憶飛んでないよ大丈夫、だからその振り上げた右手を下ろしてくれないかな?母さん?ビンタしても記憶戻ったらしないからね?やめてね?」
「お弁当ちゃんと作ったから冗談言ってないで、行きなさいね」
「う、うぃっす……」
そう軽く返事をして、少し怒っている母を回避し、二階の自室へと戻った。記憶の中のはずなのに、なんで学校行かなきゃならないんだ?高校生活が楽しかったからとかか?
考え事をしながら、高校の制服に着替え、母が作ってくれたお弁当をかばんの奥底に入れて
「母さん、行ってきます!」
大きな声で母に手を振って家を出た。
使い慣れた新車のロードバイクに乗り、高校へと向かった。