41.寄付した人物
ユーリグゼナは、家出中に訪問したペルテノーラの孤児院でのことを、シノに報告する。
「子どもたちが『シキビルドから来たの? シノとテルを知ってる?』って嬉しそうに聞いてきたのです。二人に教わったときはとても厳しくて怖かったけど、身につけた側人の技術で上の子たちは独り立ちしてるって」
シノとテルはペルテノーラにいたとき、孤児院によく出入りしていたらしい。子どもたちが目を輝かせて語る様子から、とても慕われていたことが分かった。
ようやく話せて、ふわふわと心が緩む。シノは目を逸らし、顔を赤らめながら言う。
「上手くいっているようで嬉しいです。でも……あなたの口から昔の話を聞くのはとても面映ゆい。私は厳しくしか教えられなかった。今でも人に教えるのは下手です……」
彼は御館にいたときとは違い、丁寧だが少し砕けた言葉遣いになっていた。
ユーリグゼナが王女であることは養子院の子供たちには秘密だ。彼女が鍵盤楽器を弾くために養子院を訪れると、毎回子供たちに囲まれる。特別に見えないよう、彼は彼女に対する尊敬語をやめた。二人のときも改めたまま話すようになった。それが彼女はどうにも嬉しい。
「ペルテノーラの側人は足りていました。養子院の教育が上手くいけば、シキビルドも側人の心配はいらなくなります」
「受け入れる側次第ですね」
彼は穏やかに微笑むと、こぽこぽとお茶を注ぐ。華やかな香りが部屋全体に広がっていく。
シキビルドの特権階級は魔法にこだわり過ぎる。シノのように確かな技術で、美味しいお茶と部屋清浄に保つ技、主人への細やかな配慮があれば魔法はいらない。平民も十分勤まる。学校が開校される時期だけフィンドルフと側人の契約をしている平民の子は、特権階級の側人と比べても遜色なかった。
彼女はシノの用意したお茶と菓子に早速手をつける。いつも楽しみにしていて、養子院に通う一因になっていた。もうライドフェーズのことは言えないな、と恥ずかしくなる。
今日の菓子は、木の実に蜜と牛酪を絡めたもの。カリコリした食感と口の中で広がる甘味と牛酪の風味、噛むと感じる僅かな塩味が癖になる。しばらく堪能してから、相談に移る。
「ペルテノーラの現地語を教わりたいのです」
「ライドフェーズ様から伺っています。参考になれば良いのですが」
彼が机に用意した本を見ると、ペルテノーラ現地語を話す人が共通語を学ぶための教科書だった。彼は笑う。
「共通語から現地語を学ぶ人はいません。だから本も存在しない。────それで、勉強する目的は何ですか」
「ペルテノーラの平民の方と意思疎通できるようになりたいのです。それと」
彼女は鞄からごそごそと書きつけたものを出した。
「これを歌えるようになりたくて……」
彼の顔が大きく歪んだ。
「無理……です」
シノは悲壮な顔で言う。整った顔立ちがここまで崩れるのを、彼女は初めて見た。
「そんなに難しいですか?」
カミルシェーンが歌っていた歌と、アナトーリーに聴いた鎮魂歌。どちらも現地語で歌えるようになりたくて、アナトーリーに現地語の歌詞を書いてもらった。当然、彼女には全く読めない。シノは追い詰められた様子で、暗い表情になっていた。
「その……音痴なので」
「へ?」
思いつめたように告白されても、音痴は関係ない。彼には唖然とする彼女を見る余裕もないようだ。自分の手の平から目線を動かさない。
「音楽関係は昔からどうにも習得できない。誰でもやれば、それなりにはできるようになると思っているのですよ。でも……こんなにも困難なものが存在するとは」
「あの。歌詞だけ教えてください。曲は知っています」
シノはハッとしたように彼女の顔を見た。
「そうでしたか。失礼しました」
ようやく自分が暴走していたことに気づき、のろのろと椅子に座り直す。俯いた彼が一気に赤面するのが視界に入り、彼女は必死に笑いをかみ殺す。表情豊かな彼を見れて今日は何ていい日なんだろう、と思っていた。
彼に一通り歌を訳してもらったところで、今日はここまでにしましょう、と言われる。
「アランとユキがそろそろ戻る頃合いです。あなたもこのあと楽器の打ち合わせでしょう?」
ヘレントールは惣領代理の業務を行うようになった。アラントスとユキタリスは昼間、養子院に預けられ他の子供たちと学んだり遊んだりするようになる。彼らが特権階級であることは伏せられているので、アラン、ユキと呼ばれていた。
ユーリグゼナは借りることになった本を鞄にしまい、身支度する。その間に彼は綺麗な曲線を描く頬に手を添え、灰色の目を細めた。
「資金調達はアーリンレプト様のためですか?」
突然振られた話に、彼女は驚きながら大きく頷いた。
「良い生地で可愛い洋服を揃えたり、珍しいおもちゃを手に入れたり……。金に糸目を付けずに可愛がりたいと思っています」
子供用の物は種類も少なく高価だ。意外とお金はかかる。
「アーリンレプト様が望んでいるとは思えない……一番喜ばれるのは遊んであげることでしょう?」
確かに彼の言う通りだ。どうしてそれを忘れていたのだろう。分からなくなる。
「今、テルは余裕がない。幼児が御館に引き籠っている状態は良くない。できれば森に連れ出してください。あなたしかできないことだ」
彼の真摯な目を見て、彼女はぼうっとする。本当にそう。なんで私はこんな大事なことを見落としている? そう考えこんでいると、重ねてシノが言う。
「あなたはライドフェーズ様とよく似ている。落ち込み方までそっくりです。本当に気にしているのは別のことなのに、違う方向へ行こうとする」
彼の言葉が心に突き刺さる。ユーリグゼナが考えないようにしていたことを、シノが表沙汰にしていく。
「アナトーリー様が行ってしまう不安と、セルディーナ様の容態悪化への焦り。誤魔化しても何も変わらないでしょう? 二人とも本当に素直じゃない。今すぐ自分の気持ちに向き合ってください。あなたが後悔するところを、私は見たくない」
コンコンコン
扉が叩かれる。従弟二人が入室してくる。アラントスは伝言を伝えた。
「楽器の打ち合わせが始まるそうです」
「分かりました。ありがとう」
シノはそう答えると、手早く机の上に残っていた菓子を紙に包む。どこか気遣うようにも見える表情で、彼女の手の側にそっと包みを置いた。美味しいものを断る理由はなく、丁寧に受け取る。もう完全に餌付けされているな、と笑えてくる。ゆっくり立ち上がる彼女に、ユキタリスは呆れ顔で言う。
「ユーリ。お菓子が泣くほど嬉しいの?」
「うん。これ、とっても美味しいの」
彼女は擦れた声で返事をして、目を擦った。
◇◇
王女になってからも演奏仲間の彼女への態度は変わらない。気づかれていないように思う。師匠は「嬢ちゃん」、アルフレッドは「ユーリ」と呼んでいたし、彼女自身の印象が王女とはかけ離れているからだろう。そもそも平民は王族の名前など覚えちゃいない。
新しい楽器作りは、素材を見定め鋳造する段階にまで行っていた。筒状に形成された上部の先端から中央にかけて、大きく切れ込みが入っている。音叉のように響き合う構造になっていた。金物加工ができる工場では音については分からない。演奏仲間がその場で音を鳴らして確認し、音の高さがズレていればまた調整しての繰り返しだ。
「結構、大変なんだよ。まだ三音しかできてない」
彼女の手には試作品がある。振ると上部に取り付けられた槌が、振り子のように筒状楽器を打ち鳴らした。コーンという音が柔らかく空気を揺らしていく。自然に笑みがこぼれる。
「良い音。音程も完璧に合ってる」
「おう。自信作だ」
一人の仲間が肩を揺らして笑う。彼女は慎重に尋ねる。
「これ、また同じものを作るのって出来そう? 記録とかとってる?」
「そんなものないさ。作ったやつと俺が覚えているだけ」
「一音一音、大きさも厚さも切り込みの深さも違うよね? 全部の音をもう一度作れるようにメモを残しておいて欲しい。…………これ絶対売れる。高くても他国は買うよ」
その仲間が嫌そうに顔をしかめる。
「いや。俺たちも職人も読み書きは苦手なんだ」
彼女は自分がやろうと、名乗り出ようとした時だった。
「俺やる」
仲間の一人が声を上げた。ひょろりと背の高い男が、にやっと笑う。
「金になるんだろう? いい話だ」
「狼。すぐにはお金にならない。売れるようになってからだから、時間がかかる」
でも……と彼女は考え直す。工場は女性が入ることを好まない。彼が行ってくれる方がいい。
「………やっぱりお願いする。私払うよ」
「安請け合いするな。嬢ちゃん。金が無いって聞いてる」
けたけたと笑って言う。どっから聞いてきたのか。確かに、試作品の費用すらギリギリというところだ。結局、「今のところは無料でやってやる」という彼の言葉に有難く乗ることにした。
打ち合わせが終わると、何人もの仲間に囲まれ聞かれる。
「なあ、セシルダンテ様ってどんな人?」
平民の人間が、特権階級の名前を正確に言えることに驚く。
「よく知らないよ。どうして?」
「その人が賠償金の支払いのためにたくさん寄付してくれたから、税が上がらなくなったんだと。だから、どんな人か知りたいんだよ。平民の味方なのかなーとか、単に金持ちの気まぐれかなーとか」
「し、知らない」
彼女は引きつりそうになる顔をほぐしながら答えた。寄付した人は、彼らもよく知るシノだ。セシルダンテには名前を借りただけ。
寄付金と寄付者の名前を御館の前に張り出した効果は、平民にも及んでいた。高額者への評価と知名度が上がり、低額者に関しては商人たちが取引に注意するようになったという。セシルダンテの印象が、仲間たちの話の中で作られていく。彼女はハラハラしながら、黙って聞いているしかなかった。
◇◇
演奏仲間との話は終わった。ようやく緊張が解けたユーリグゼナはぼんやりしながら、養子院の執務室に向かう。今日はアラントスとユキタリスを連れてパートンハド家に向かう予定だ。
『なあ』
突然の現地語に、思わずピクリと反応する。でも知らないふりで足を進める。
『本当は現地語分かるって知ってる。来いよ』
声の通り、後ろの気配が移動する。彼女は警戒しながら振り返り、後を追った。
養子院の人気のない庭までやって来た。怪しすぎて、彼女は戦闘態勢のままだ。呼び出した男は、先ほど記録を取ることを約束した狼だった。彼は不用心な奴め、と顔をしかめる。
『自分が最強だって思ってるのか? 何度も痛い目見てるのに、夢でも見てるのか?』
彼のくすんだ灰色の髪には栗毛が何房か混じっている。いつもは気さくな雰囲気だが、今は尖った空気を放っていた。
『ついて来ない方が良かった?』
『ふざけんな。用があるから呼んだんだ』
何とも難解な人のようで、彼女は静かに息をつく。彼は急に勢いを弱め、焦れたように言った。
『もうシノと二人で会うな。俺はあいつが心配でしょうがない』
彼女の黒曜石のような目は好奇心で輝く。これはどういう筋の人だろう。一気に想像が膨らんだ。
次回「次会う日」は明日18時頃掲載予定です。




