36.母の側人
時空抜道を進むアルフレッドの足取りは遅い。並んで歩くユーリグゼナはサギリと目線をかわしながら、黙って歩幅を合わせる。ようやく出口に着く直前、彼の足は完全に止まった。
「ユーリをシキビルドに帰したくない」
自分が帰りたくない、ではない。
「私を?」
「ああ。失いそうだ。ユーリを」
彼の深緑色の目が暗く光る。アルフレッドは能力なしといっても、信じられないくらいに勘がいい。ペルテノーラから出るとき見送りに来たナータトミカ、アクロビス、ナンシュリーの微妙な空気の変化にも気づいていた。だから先に伝えた。
カミルシェーンを蹴り倒して逃げてきたこと、王子二人に求婚されたこと、そして断ること。彼との婚約のみを継続させることも言ったのに、なぜかずっと浮かない顔だった。
「ユーリはいつも、一番大事なことを口にしない。俺だけは察してユーリの役に立つのが好きだった。でも、もうやめる。無理」
アルフレッドの言うことが何一つ理解できない。こんなことは初めてだ。
彼は思いつめたような顔で彼女の手を取ると、再び時空抜道を進み始めた。彼女は出口から吹き込んできた冷たい空気に身震いする。夏だったペルテノーラと違い、シキビルドは冬だった。
◇◇
『お帰り──!!』
興奮し過ぎの鳳魔獣に頭を擦りつけられ、ユーリグゼナは地面に押し倒された。それでも彼はお帰りー!! お帰りー!! と彼女にくっついて離れない。彼女は地面から起き上がれないまま、彼の美しい羽と羽に合間を掻いてやる。鳳魔獣は嬉しそうに目を細めた。
アルフレッドはその様子を窺いながら聞いてくる。
「ユーリ。養子院に向かう時は毎回護衛させてくれないか?」
「ああ。うん。分かった」
護衛。本来そういう理由で側にいたはずなのに、すっかり忘れていた。アルフレッドは彼女の返事に、ホッとしたように表情を緩め帰路につく。彼女はサギリと鳳魔獣に乗ってパートンハド家に向かう。夜明け前の一番冷える時間帯になっていた。
『お湯のとこ行く──?』
『行く! どうしてそんなに機嫌いいの?』
『ユーリグゼナとペルテノーラ王、頑張ったね。ペルテノーラの森の歪みが無くなって、こっちの森も良くなった』
そんなに影響があるのか、と改めて驚く。目的地に下してもらう。こんな時間に行っても、家でお風呂は難しい。森にお湯が噴き出す池がある。一人で森の小屋で暮らしていた時によく利用していた。
空が白んでくる。冷たい空気の中、湯気の立つお湯に浸かっているのは格別だ。冷え切った身体と、ささくれだった心がほどけていく。
(セルディーナ様、ごめんなさい。カミルシェーン様に余計な情報を与えてしまいました)
空を見上げると、じわりと目が潤んでくる。
すぐ隣で湯に浸かっていたサギリは、気の抜けた顔をしていた。彼女一人で、側人の仕事と護衛も務めあげた。やはり疲れていると思う。
「サギリ。ペルテノーラでもたくさん助けてくれてありがとう。森のお風呂どうかな?」
サギリはふわふわした笑顔で彼女に答えた。
「はい。全身から力が抜けて、護衛としては少々問題です。でも、とても休まっています。ありがとうございます」
「ゆっくりしよう」
彼女の言葉に頷きながらも、サギリは手に力を籠めた。
「これから出過ぎたことを申します。どうかお許しください」
「えっ。はい」
「妄想執着変態男の話を聞いてはなりません。あれは、気を引くために何でも言うのです」
唐突過ぎて、すぐには分からなかった。サギリは、学生のときからルリアンナに付きまとっていたカミルシェーンに、とてつもなく悪い印象があるらしい。相手のためではなく、自分が何をしたいかが原動力の生き物なので、会話をしてはならないそうだ。
「ルリアンナ様は『鬱陶しい!!』とよく苛立っておりました。会わなくなって、ようやく友好関係を築いたように思います」
「そ、そうなんだ」
「それで本題です。アルフレッド様とは距離を置いてください。近くに身を置きすぎて、あの方は勘違いをなさっています」
サギリの目が凍るように冷たい。ユーリグゼナはしっかり肩まで湯に浸かり、話を聞いていた。
「好きな人の気持ちを察するのは当たり前です。自分だけが察することができるなんて、思い上がりもいいところです」
サギリは無表情のまま、ぼそぼそと何やら呟く。「私は普通にやってる。偉そうな理由が不明。ろくに護衛もできず役にも立たないクソ男……」と呪文のような低い声が不気味に響く。
「男に情けは無用です。触れてくる者は殺して構いません。後片付けは私がいたします」
殺し? 急に物騒になり、彼女は身体を起こす。
「殺しはちょっと……。それにアルフは一緒に音楽をやりたい人だから、カミルシェーン様とは違うと思う」
そう訴えているうちに、ユーリグゼナの表情が緩んでくる。そう、彼女の気持ちが嬉しい。
「────ありがとう。なんか少し楽になった」
サギリは少しだけ微笑んだ。
「そのようですね。ユーリグゼナ様が幸せなら、サギリは何でもいいんです。あなたが世界を敵に回すような選択をしても、必ずお守りいたします」
どんな想定をしているのだろう。サギリはなかなか突拍子もない。
「いつも私の気持ちを優先してくれて感謝してる。でもサギリは? どうやったら幸せになれる? ……私ばかりがいつも甘えてごめんなさい」
「ユーリグゼナ様の願いを叶えることが、私の使命です。ようやく側でお仕えできて、今とても幸せです」
そんなことを言われ嬉しくなって、はにかんでしまう。心の底から温まっていた。
珍しくサギリは昔の話をする。この森のお風呂はルリアンナと何度か来たことがあるらしい。
「当時はまだ奥様もいらっしゃって、三人で入りました。私もルリアンナ様もまだ子供で、大はしゃぎでした」
お祖母様のことは、家族の中でもほとんど話が出ない。ノエラントールが青紫色の花の苗を植えた時に話したのを聞いただけだ。
「まさか二人に置いていかれるとは、思っておりませんでした」
サギリは顔を歪ませる。彼女のそんな顔は初めて見た。
「お祖母様と母様のこと、大好きだった?」
「はい」
「一緒に逝きたかったんだね」
サギリは深く頷く。生き残るユーリグゼナを託され、学校での待機を命令された。パートンハド家の最後の時を、ともに過ごすことは許されなかった。
「ユーリグゼナ様の願うものは、とても厄介です。でもルリアンナ様もまた、困難な願いを命がけで叶えられました。私は今度こそ主を守ります。どうか最後までお側にいさせてください」
サギリはまだ、ルリアンナに縛られて生きているように見える。ユーリグゼナもそう。幸せだった家族の思い出に浸ったままでいたい。ぬるま湯はいつまでも浸かっていられるほど心地よい。
◇◇
夜が明ける寸前の美しい森を通り家に着くと、湯冷めしないように寝台にもぐり込む。御館には明日戻ることになっている。一度家に来るのを知った家族は、ユーリグゼナとサギリの部屋を整えてくれていた。徐々に温まる布団の中があまりに居心地が良くて、深く寝入る。
とても幸せな気持ちで目が覚めた。昼近い時間になっていたが、一番上の従弟フィンドルフはすぐに朝ごはんを支度に入る。
「フィン。ご飯ありがとう。幸せ……」
背中に貼りつき涙ぐむ彼女を、彼は背中越しに振り返る。面倒そうな表情になった。
「なんか。相変わらずだな」
「フィン。大好きだよ」
「はいはい」
彼はさっさと作業に戻り、温め直した汁物を器によそりながら答える。大人になってずいぶん素っ気ない。背も抜かれたし可愛くない。
「ユーリ。十六だろう? もう婚約者もいるんだし、ちょっとは考えろよ」
「何を?」
ぼんやり聞くと、後ろから答えが聞こえた。
「いつまでも子どもじゃないんだから、そんなにくっつかないの」
叔母ヘレントールの声に彼女の表情は光り輝いた。
「ヘレン! 部屋を用意してくれてありがとう。すっごく休めた」
そう言って今度はヘレントールにくっつく。彼女は「全然響いてないわね」と、ため息をつきながらも愛おしそうにユーリグゼナを抱きしめた。
「なんか心配になるわ。ユーリ。御館でやっていけるの?」
御館に戻りたくない。ずっと家にいたい。そう思っていることを家族には見透かされていた。
「よっ。元気そうだな」
叔父アナトーリーの声が耳に届くと、彼女は走り寄る。
「アナトーリー!! 聞いて。カミルシェーン様はひどい人だったよ」
鼻息荒く訴える彼女に、彼は呆れ顔になった。
「近づくなってあれだけ言われたのに、全力で立ち向かったからだろう」
「あれ? 詳しい」
「まあな。ペルテノーラは楽しかったか?」
「うん。とても。また行きたい」
彼は曖昧に笑い、食卓についた。フィンドルフは彼女分の朝食を机に揃えたあと、他の家族にはお茶の準備をしている。何となく四人で話をする雰囲気になっていた。
ユーリグゼナは不思議に思いながらも、美味しそうな匂いに誘われ席につく。
「ペルテノーラに行くことになりそうだ」
アナトーリーの言葉に、口の中の香ばしいパンが味を失う。何とか咀嚼しながら話す。
「賠償金の支払いが進んだから、強制しないってカミルシェーン様は言ってたよ」
「そっちはそうだ。でも今回は縁談だ」
「いつも断ってるよね? 今回もそうしたらいいよね?」
彼女は不愉快そうに下を向く。アナトーリーは困った様子で息をつく。
彼に縁談が多いのは知っていた。パートンハド家の惣領が未婚なのは、他の特権階級の女性には魅力的に見えるらしい。でも彼の優れた才能や、心の温かさを知らずに申込まれるような縁は、結ばない方が良いに決まっている。
彼の本当の思いを知らないまま、勝手にそう思っていた。彼が縁談を断るたびに、変わらずにいてくれるのだとホッとしていた。
彼は仕方なさそうに話を続ける。
「今回の縁談の相手は、俺の戦友の婚約者だった女性だ。…………彼女は、俺が戦友を守れなかったことを恨んでいる。だから一度目は、向こうが断ってきた」
あやふやな不安が彼女を追いつめていた。もう話を聞きたくなかった。口の中のものを飲み込み、お茶に口をつける。彼はその様子を静かに見ていたが、やがて口を開いた。
「今朝、改めて話がきた。彼女が了承した」
「断って。お願い」
嫌な予感に怯えた。濃い紺色の目が、労わるような色合いを映す。
「助けになるなら、受けたいと思っている。困窮しているのだろう? レナトリアは」
信じがたい名前がアナトーリーの口から出てきて、言葉を失う。
アナトーリーは、ナータトミカがレナトリアの弟なのも、ユーリグゼナたちの滞在先だったことも、今朝まで知らなかったと言う。
ユーリグゼナの行動が、彼をペルテノーラへ導いた。そうとしか思えなくて、ひどく寒気がした。
次回「家族になるには」は9月16日18時に掲載予定です。




