21.弱者
(……結局、スリンケットは喜んでくれたのかな?)
ユーリグゼナには、確認することができなかった。
雨が止まず、帰れない客が残る『楽屋』で、スリンケットの卒業祝いに歌を贈る。彼は卒業と同時に解禁となった酒を飲んだせいか、顔を真っ赤にして机に伏してしまう。彼女が舞台から下りるころには、なぜか客全員で飲み会が始まり、店員たちとおつまみや酒の用意に追われた。
ようやく雨が止み、空が白んできたころ、飲み会はお開きになる。酒に弱かったのか、スリンケットは正体を無くした状態で、連に家へと送られていった。
明け方に戻ったユーリグゼナとアナトーリーを、寝起きの悪いヘレントールが出迎える。
「は? もう一度言ってくれる?」
彼女は突き刺さりそうな細い目で、アナトーリーを見据えていた。
「……店中の客の支払いが、うちに来る。つまりだな」
酒はいくら飲んでも、顔色の変わらないアナトーリーが、顔色を悪くしながら言う。
「全員、俺がおごってやる! って言っちまった」
ヘレントールの硬い拳が、彼の顔に炸裂した。彼女は床に倒れたアナトーリーの胸倉を掴み、引き起こす。
「誰が払うわけ?!」
「俺が! うっ。俺が払います」
アナトーリーは首を絞めつけられ、息の根を止められそうになりながら言う。彼女の力はどんどん強まっていく。
「アナ、お金ないじゃない。渡した傍から使っちゃうでしょう?! 家の金は駄目よ」
そう言いながらも、彼女の水色の目が楽しそうな光を放ち始める。
「ふふ。アナの秘蔵の楽器を売り払えば、即行完済よ。売りなさい。部屋も片付くし、いいじゃない」
「待て! さすがにそれは、ちょっと……」
騒動が収まり、ユーリグゼナがうとうとし始めるころには、自室に朝日が差し込んできていた。当然、次に起き上がるころには昼になる。
「ユーリ! ユキはずっと帰ってくるの待ってたんだよ!」
四才になったユキタリスは、むくれた顔をしながら力いっぱい抱きつく。まっすぐなさらさらの金髪が彼女の腕をくすぐる。
「ごめん……。今日は森にでも」
言いかけた彼女に音声伝達相互システムの呼び出しがかかる。
(忘れてた……。このまま無視してみてはどうだろう)
呼び出しが止まるまでやり過ごしたユーリグゼナを、起きてきた顔色の悪いアナトーリーが呆れたように見ていた。
「観念すれば?」
彼女はしぶしぶ耳に手をあて、連絡をとった。
「おはようございます……」
目の前に不機嫌なライドフェーズの顔が映る。寝起きには強烈だ。顔を逸らしても、音声伝達相互システムで繋がっているので、視界に入り続ける。彼の不機嫌な顔が歪んだ。
「何がおはようだ。昼だ。馬鹿者!」
頭にガンガン響き辛い。
「一体いつになったら来るのだ。昼食はこちらで取れ!」
話が続くほどライドフェーズの気分が下降する。早々に会話を終えた。御館に来るよう通達は前々からもらっていて、さすがに学校から戻ってすぐでは疲れているだろう、と配慮されて今日になっている。気遣いを無下にしたユーリグゼナが悪い。
(昼ご飯ということは、今すぐ出ろということ……)
ユーリグゼナは動きの悪い頭を動かす。御館に向かうには、王女に適した格好をしなければならない。ぼんやりしている彼女の口に、甘い果物が突っ込まれる。ヘレントールは彼女に明るく微笑んだ。
「今はこれで我慢して、とっとと行ってきなさい」
そう言って、出かける準備を手伝い始める。ユーリグゼナはもぐもぐと口を動かす。甘い果汁が口の中に広がる。少しずつ頭がめぐりはじめた。
「ヘレンありがとう。ユキ。戻ったら一緒に森に行こう」
「ユキとの約束は明日以降にしろ。今日は真っ直ぐに家に帰ってこい」
心なしか厳しいアナトーリーの声が、ユキタリスとの約束を延ばす。ユーリグゼナは不安になりながら、ヘレントールの手を借りて身支度を終える。寝不足の体が一層重く感じられた。
御館に出向くと、毎回越えなければいけない壁がある。それはとても背が高く美しい顔立ちをしているが、ユーリグゼナは高確率で地雷を踏み、氷の冷笑を浴びせかけられる。
御館の入り口で所作に気を付けながら靴を脱いでいると、シノが出迎えた。彼は彼女に礼を執る。いつも以上に低姿勢で丁寧だ。少し距離を感じながらも、ユーリグゼナは不作法にならない程度に頭を下げる。
「遅くなり申し訳ございません」
「……いいえ」
心なしかシノの表情が硬くなった。また失敗したのかな、と彼には見えないようため息をついた。
シノに案内され向かった部屋では、ライドフェーズがすでに食事を終えていた。
「遅すぎる!」
「申し訳ありません」
彼女は謝罪はするものの、もう食べているんだからいいじゃないかと、顔に出ないよう神妙な顔を作る。それにしても彼の機嫌は良くない。ライドフェーズの眉間のしわは、いつもより二本ぐらい多い。
扉を叩く音がして、彼が許可を出すと、側近のセシルダンテが顔を出す。入室してライドフェーズに耳打ちをする。ライドフェーズの顔は険しくなる。
「……悪いがシノ。ここを任せる。話を始めていても良い」
そう言って立ち上がると、セシルダンテとともに部屋から出た。他の側人たちも彼の食事の後片付けが終わると、出て行った。部屋にぽつんと、ユーリグゼナとシノが残される。静かな部屋にきゅーるるると、異音が響く。恥ずかしさに赤面し、俯いたまま顔が上げられない彼女に、柔らかい声でシノは言う。
「すぐにお食事をお持ちします」
彼は笑いをこらえているのか、口を手で覆っている。ずっと硬かった表情が緩むのを見て、彼女の気持ちは和らいだ。
ふわふわ落ち着かない気持ちで、ユーリグゼナは食事を進める。シノはお茶を用意して、自らも席につく。彼女は人前で一人で食事をすると、緊張してしまう。それを気遣ってくれたように思った。お腹が満たされる喜びとシノの柔らかい表情に、彼女の顔は緩み切っている。でも、長くは続かない。
「明け方まで歌っていた?!……ですか」
寝過ごした理由を聞かれ、楽屋のことは言えないため、森で歌っていたと言い訳する。シノの顔は何とも言えないものになった。夜の森と夜更かしは禁止されている。しゅんとして、彼の言葉を待ったが、それ以上出てこなかった。軽く息をつくと彼はおもむろに、彼女に聞く。
「一度お伺いしたかったのです。ユーリグゼナ様は、なぜ養女になろうと決意されたのですか」
「決意……はしてないです。何となくセルディーナ様とアーリンレプト様にたくさん会えるのかな、と思って引き受けました」
彼は眠っているのかと思われるほど、目を細めていた。慌てて彼女は続きを言う。
「でもあの。王女の務めは果たします。みんなを守るために、力を使いたいのです。それに────私の野望のためにも」
「野望……ですか?」
「はい。音楽で生計を立てていきたいのです。そのために王女として各国で演奏会を開き、お金を貯めて珍しい楽器を買いそろえ、さらにその楽器を使った新曲で演奏会を開き、お金を貯めて新しい音楽堂を作り、さらに音楽堂で演奏会を開き、お金を貯めて────」
ユーリグゼナの壮大な野望を、彼は黙って聞いていた。途中から呆れているようにも見えたが、遮ろうとしない聞き手を得た彼女の興奮は治まらない。彼女が心地よく語り終えると、彼は落ち着いた口調で話し始めた。
「生計は立てる必要はありません。王女ですから。ただそれだけのことをやるのには、確かに地位は必要です。…………あなたは、パートンハド家を出て御館に住む覚悟ができますか?」
いつかそうなると、分かっていたことだ。顔を歪めユーリグゼナは首を縦に動かす。シノは彼女から目を逸らさない。
「かしこまりました。受け入れる準備を整えます。御館での生活に何か希望はありますか? 楽器の練習に必要な部屋ですとか、食生活のことですとか」
「側人はサギリ一人でお願いします」
彼の顔が曇る。何とかします、と言う声が彼らしくないほど自信無さげだった。彼女は続ける。
「身体づくりのため、森に行かせてください。夜が駄目なら、早朝でもいいので」
「……森にですか」
「はい」
ユーリグゼナが真剣に頷く。武術を鍛えるために、というのは、王女としてきっと認められない行為だ。そう言われても貫くつもりで言う。彼は眉間のしわを深めて苦しそうに考え込んだ。
「古くから神との契約でパートンハド家の者は、定期的に森に行かなければならない。邪魔するものは呪いを受けることになる。というのはどうでしょう」
「え」
「パートンハド家は神聖なイメージがあります。何とか通用すると思いましたが、駄目でしょうか」
彼は周りを説得する理由を考えていた。ようやく分かり、彼女は笑顔になる。
「そういうことでお願いいたします。ありがとうございます」
シノは苦笑いで首を振る。彼の柔らかそうな青紫色の髪が揺れる。彼の教育はとても細かく、基準は誰よりも厳しい。でも彼女が本気で望むことは必ず受け入れ、希望に添うよう考えてくれる。
「その後、お身体はいかがですか? 前より健康そうに見えます」
「はい。大丈夫です。でも体力が落ちました。それにその……太りました」
彼女は少し俯きながら言う。楽屋で歌う時、身体が重く感じた。学校では勉強と楽器の練習ばかりで、体力づくりを怠っていた。これではウーメンハンの追手と戦っても、勝てなかっただろう……。
「顔も体もあちこち肉がついてきています。元の体形に戻さなければ」
沈みがちな彼女の表情を見ながら、シノは悩まし気にたどたどしく言う。
「あの……戻す必要はありません。それは女性らしく成長された証拠です。と、私が言っていいのかどうか……」
そのまま俯き、顔を上げなくなってしまった。ユーリグゼナは何だか恥ずかしくなるが、表情豊かなシノと話すのは嬉しかった。彼女は濡羽色の黒髪をふわりと揺らし、ペコリと頭を下げる。
「ご迷惑をおかけします。どうぞよろしくお願いします」
御館での生活はおそらく、彼に負担をかける。もちろん、そうならない努力もしようと思っていた。いつの間にか顔を上げていたシノから、表情が消えていた。
「どうか、そんな風に頭を下げないでください。平民の私にそのような丁寧な対応は不要です」
年上には丁寧に。教えを乞う人にも丁寧に。そう教わっていた。突然言われた言葉の意味を理解するのに、時間がかかる。
「……平民? え? 突然何ですか?」
「私が平民と知りませんでしたか」
「音声伝達相互システムをお持ちでないので、多分とは。でも何の関係が」
呆然と答える彼女に、彼は少し頬を歪めながら話す。
「身分で言葉を変えなければなりません。王女が平民や側人に敬語を使ってはなりません」
「……何かあったんですか?」
彼は目を逸らさず黙ったままだ。
「今まであなたはそんなこと一度も言わなかった。どうして急にそんなことを」
ユーリグゼナはシノに問いただすような視線を向ける。彼はその目を受けとめたまま、静かに言った。
「私はあなたの教育係を解任されます」
凍り付いた彼女の顔を見ても、彼は表情を変えずに続ける。
「あなたが御館で苦労されないよう準備したあと、他の方に引き継ぎます」
「……解任の理由はなんですか?」
擦れる声でユーリグゼナは聞く。急過ぎる理由を説明してほしい。彼は目を逸らした。
「平民だからです。あなたの教育は荷が勝ちすぎると」
「は?……それが本当に理由なんですか」
シノは無表情に頷く。彼女は眉をひそめ頭を傾ける。
「共通語は非常に堪能ですよね。他の追随を許さない完璧な発音と語彙力です。シキビルドの特権階級で敵う人間はいません」
ユーリグゼナはシノの語学力を絶賛する。彼は気が抜けたような顔で、頭を下げる。
「はあ。どうも」
「何か禁忌を犯しましたか? 特権階級の常識はよく分からないものが多いです。私もうっかりしたことあるし……」
真剣に言いつのるユーリグゼナに、ぷっとシノは吹き出した。
「あなたにとっては、平民だろうと何だろうと、大した問題ではなさそうですね」
彼は楽しそうに聞く。
「何の禁忌を犯したのですか? とても気になります」
「私の話はいいのです。……身分とかそんな曖昧なことで、辞めさせられるんですか?」
未だに納得のいかない顔の彼女に、身分は曖昧なものではありませんよ、とシノは苦笑いしながら呟く。
「平民の私が王女の教育をするのも、王の側人を務めるのも、出過ぎているんです。そう身分のある方々に思われては居場所がありません」
嫌な予感がした。彼女は慌てて聞く。
「御館は出ませんよね? 側人の仕事は続けますよね?」
シノは黙って目を細めた。そのつもりなのだと彼女は分かった。ユーリグゼナは呆然としながら、口を動かす。
「あなたはライドフェーズ様の側人を務めるとき、一番幸せそうです。あなたにとって最も大事なことではありませんか? なぜそんな理由を、解任を受け入れるのですか?」
彼はしばらく顔を歪め、目をつむっていたが、やがて囁くような小さな声で答えた。
「私がいると、ライドフェーズ様とユーリグゼナ様が悪く言われます。それは自分の身が切られるよりも辛いことです」
「言わせておけばいいです。どうせ悪口は止まりません。私は未熟だし、多分ライドフェーズ様も王らしくないし。だから……」
行かないで、と言ってはいけないだろうか。いけないのだろうな、と思い直して黙り込む。シノが彼女を見つめて言った。
「私はあなたを未熟だとは思いませんよ。大人過ぎるくらいです。────あなたは不当な理由で命を狙われました。声を失い、戻るかどうかも分からないあてのない日々に、一人で耐えました。苦痛も不満も漏らさず。そんな孤独に耐えられる人間は、大人でもほとんどいません」
それは青のときにしか吐き出せない思い。言っても仕方がない愚痴で、家族を困らせたくなかった。心配かけたくないから周りには言わず、水の底に沈めるように心を隠した。それをシノは、そっとすくい上げる。
「……人のために自分を殺せるあなたは、十分過ぎるくらい気高い王女です。今のあなたのまま真っ直ぐ成長されることを心から祈っています」
彼は小さな声でそう、言葉を添えると、礼をして音もなく椅子から立ち上がる。食器の片づけを始めた。そういえば、ライドフェーズはここに戻ってくるような言い方をしていた。お茶の用意をするのだろう。
ユーリグゼナはスッと立ち上がり、彼の側へ寄って行く。久々に彼のすぐ横に立つと、彼女の身長が伸びた分、顔を近く感じた。シノはわざとかと思うほど、彼女の方を見ない。ユーリグゼナはシノの片袖を掴み、端正な横顔を見つめた。
「王女として引き留めたら、あなたは御館にいられますか?」
次回「弱者2」は7月26日18時に掲載予定です。




