15.彼女が厄介な理由2
スリンケット視点続き。微かにR15入りです。
薄い紫色の魔樹の花びらが舞い散る中、黒く艶やかな髪の彼女は、茶色の目を優し気に細め、彼に微笑む。
「若。どうなさいましたか」
彼女の柔らかい声に、胸は高鳴る。スリンケットはもどかしい思いで、彼女の下に駆け出そうとする。
でもこれは────。スリンケットの立ち切れない望みが見せる夢。会いたくて会いたくて。やりきれない夜は減ることはあっても、無くなることは決してない。
合同練習の後にナヤンが「ユーリグゼナに乗り換えたんだ」と囁いてきたとき、スリンケットは、かかった、と思った。手紙がウーメンハンの仕業なら、ユーリグゼナの名前を出すと予想していたからだ。でもナヤンの次の言葉で、彼は大きく揺さぶられる。
「もう、なかったことにしたいわけ?」
ロヴィスタによく似た顔で言われ、最初に来たのは眩暈、次に強い感情が彼を支配した。
(そんなわけないだろう!!)
ずっと待ってる。ロヴィスタを。スリンケットの心の半分は彼女でできていた。それをなかったことにすれば、彼自身も生きられない。忘れることなんて、なくしたい思い出なんて一つも無い。
スリンケットは寝台の上で、まだ覚めきれない頭を抱え、縮こまる。ユーリグゼナと同じく、彼も家族を亡くしている。違うのは、ほとんどの家族親族が、戦後の弾劾裁判で罪に問われ処刑されたことだ。父が全てを予想しスリンケットが困らないよう、家も側人もきちんと用意していた。処刑された家の子供としては、裕福で恵まれた生活をしている。
今朝も寮の食堂には行かず、部屋で側人の用意した朝食に手を伸ばす。
シキビルドでは、卒業と同時に成人になる。特権階級の人間はほぼ全員、成人と同時に結婚する。彼は追い込まれていた。
(親って、ありがたいものなんだな……)
スリンケットはふうっと息をつく。
今が一番、そう思っているかもしれない。通常、結婚する子の親同士が縁談を決める。それが、直接スリンケットにもたらされていた。結婚式の準備で顔見知りになった人たちは、彼自身を買ってくれて話を持ってきた。それぞれの思いを一つ一つ断っていくのは、かなり骨が折れる。そして聞かれる……「では、どなたと?」
学校にいる間はアナトーリーが仕事を手伝っていた好みで、対応してくれている。でももう、それも難しくなっていた。
(パートンハド家に入るのは、アルフレッドに決まったからね)
スリンケットは浮かない顔で、側人に食事を下げるよう言った。
実は世間では、彼がユーリグゼナの本命と見られていた。アナトーリーの仕事をずっと手伝い、一時期はほぼ毎日パートンハド家に通っていた。先日、連に「悪い。思う通りにならなかったわ」と謝られた。彼を紹介したのは、婿入りの意図があったらしい。
ライドフェーズも「お互い、一番都合がいいのではないのか」と、アルフレッドとの婚約が本決まりになるギリギリまで勧めてきた。
(本当は、そう。都合はいい)
スリンケットは、ぼんやりした顔でお茶を飲む。
アナトーリーとの関係も、紫位を賜る際の周りの目も、卒業後の仕事も全部都合がいい。そして本当にありがたいのは、ユーリグゼナには能力が及ばないこと。スリンケットは、人の心が読める。そして嘘にも気づく。人は自然に嘘をつく。長い時間人と話すと疲れ切ってしまう彼にとって、心が読めない彼女は休まる相手だ。そして……
(ロヴィスタのことを想ったままでも、罪悪感を持たなくて良い)
お互い結婚はふりでいい。どちらにとっても最高の条件だ。
それでも……ユーリグゼナは選ばない。絶対。
ユーリグゼナが青として歌う時に使う変声魔術機械は、難航していた。彼女の金属かぶれがひどく、使える素材の選定に時間がかかったからだ。
ようやく、一つの素材がみつかる。
「魔樹の樹液を固めた物が、耳装身具の素材になるとは思わなかったよ」
スリンケットは、机に白い布をのせる。そこには小さく加工された赤い耳装身具があった。ユーリグゼナは覗き込み、にっと笑う。
「これで、歌えるようになるんですね」
「いや。まず耳に穴を開けて、安定させる。これはそのためのものだ」
「そうですか。……綺麗な赤ですね。ようやく、私も耳装身具がつけられます」
嬉しそうに言う彼女を、スリンケットは頬杖を突きながら見る。
「ユーリグゼナが装飾品に興味があるとはね」
「テラントリーとお揃いを着けるのが夢でした……」
彼女は目をキラキラさせ、片手を握りしめる。彼はどうでも良さそうな顔で、うっすら笑う。今日は彼女の耳に穴を開けるところまでだ。安定して問題が起きなければ変声魔術機械を装着し、不具合を潰していく。スリンケットは先日、自分も開けたばかりなので、道具は一通り揃っていた。手際よく準備を進める。
「開けたいところにこの器具を着けて、押しきれば終わり。消毒はした。はいどうぞ」
スリンケットが器具を手渡すと、彼女は硬直した。彼は片眉を上げて促す。
「時間かけると、かえって怖くなるよ」
ユーリグゼナは、彼の言葉にびくっと肩を震わす。ゆっくりとスリンケットの方に顔を向けながら、言った。
「スリンケットに開けてもらうわけにはいきませんか……」
「ええ?!」
彼の顔は大きく歪む。
「嫌だよ。自分でやって」
「怖すぎて無理です。どうか、お願いいたします。じっとしています。怖くても痛くても」
ユーリグゼナは黒曜石のような目をうるうると潤ませながら、必死で訴える。スリンケットは盛大なため息をつく。余計な時間がかかるよりマシか、と諦めて彼女に従うことにした。
「どこに開けるの?」
彼が鏡を渡しながら言う。彼女は濡羽色の黒髪を無造作に縛り、耳たぶ辺りを示す。スリンケットは眉をひそめ、怪訝そうに言う。
「目立つよ?」
「髪下ろしてるから平気です。一番痛くないと聞きました」
ユーリグゼナは力強く答える。スリンケットは彼女の耳に器具を装着すると、どうしても気が乗らなくなった。目の前で小さく震える彼女に言う。
「……やっぱりさ」
「早く!! 待ってる時間が怖いです。お願いします!!」
威勢のいい声なのに、不憫に思えるくらい怯えていた。ユーリグゼナを渋い顔で見つめながら、スリンケットは器具に力を入れた。カチンと小さく響く音がした。
その時だ。彼は、背筋から何かがぞわぞわと上ってくる感覚に襲われる。
(は?!)
スリンケットは身体を支配する感覚に耐えながら、手に持っていた器具をどうにか机に置き、彼女から離れ、しゃがみ込む。ユーリグゼナの能天気な声が耳に届く。
「もう終わりました?」
「……うん」
必死に答える彼の様子に、彼女は気が付かない。
「思ったより痛くないです。どうもありがとうございます」
そう言って振り返るユーリグゼナが、硬い表情になる。
「どうしました……? 息が荒いし、汗も。それに、顔が真っ赤です!」
抑えるのに必死のスリンケットの額に、彼女が触れる。彼は、冷たい手の感覚にぎょっとして、慌てて身体を引いた。彼女は彼の側に膝をついて、心配そうに目を細めている。
「結構熱い……。こんな急に具合」
「どうして平気で触ってくるんだよ! アルフレッドには触らせないんだろう!!」
スリンケットはユーリグゼナの言葉にかぶせるように言った。余裕がなくて、きつい言い方になる。ユーリグゼナの顔からスッと赤みが消えた。彼はそれ以上彼女を見ずに「休めば大丈夫だから」と、急いで部屋を出る。荷物も全部置きっぱなしで走った。男子寮が恐ろしく遠く感じた。
彼は寮に戻ると、自分の部屋に一人閉じ籠る。処理し、全身の力が抜ける。気だるさと虚しさに苛まれた。
(なんで、こうなった?!)
ごろりと寝台に身体を横たえる。未だ冷めやらない。体の奥に余韻が残り苦しい。それでもどうにか頭を動かし考える。彼女の耳に穴を開けたことが引き金なのは、間違いなかった。
(あったような気がする。他人の体に傷を付けてはいけないって禁忌事項。それはそうだって、普通に思っていたけど)
多分、魔法的な問題だ。両親がいない彼は、大人の暗黙のルールに疎い。それにしても普通、女の子の耳に耳装身具の穴を開けるなんてことしない。うかつだった。何で疑問をいだけなかったか。……ふっと答えが浮かぶ。
(ロヴィだ)
最初に彼の耳に穴を開けたのは、彼女だ。先ほどのユーリグゼナのように、小さかったスリンケットは怖かった。ロヴィスタと父が用意してくれた音声伝達相互システム用の薄紫色の耳装身具を少しでも早く着けたくて、ロヴィスタに開けてくれるよう頼んだ。
(こんなことになるって、教えといてよ。ロヴィ)
そう思いながら、言わなかった理由も分かっている。いかがわしい気持ちになったと、相手に伝えられるわけがない。
(側人に確かめよう。いや、それよりユーリグゼナは………)
放っておかれた彼女がする行動。サギリを呼んで「耳装身具の穴開けたんだよ!」「ご自分で開けられたんですか?」「ううん、スリンケットが!!」
そこまで想像すると、スリンケットはガバッと身体を起こす。
(駄目だ。絶対マズイ)
慌てて部屋から出る間にも、次の想像が広がる。ユーリグゼナがテラントリーの部屋へ駈け込んで行き「テラントリー。これでお揃いの耳装身具できるね」「穴開けられたんですか?」「そう。スリンケットが開けてくれた」
(もう、やめて)
スリンケットはユーリグゼナの部屋に向かう速さを、全力にする。口止めをしなければならない。彼は必死の思いでたどり着いた。扉の前で言う。
「ユーリグゼナ。いる?」
すると、そろそろと内側から扉が開く。サギリがにっこり笑い、彼を中へと促す。彼女の目が氷のように冷たい。スリンケットは背筋がひんやり凍っていくのを感じた。中に入ると、艶やかな薄紅梅色の髪がゆらりと揺れるのが見えた。
(最悪だ……)
彼はクラっと眩暈がした。いっそ、このまま気を失いたい。テラントリーは、薄茶色の目に凍てつくような殺意を灯し、優雅に微笑む。
「スリンケット様。ちょうどよかった。お伺いしたいことがございます」
とぼけた顔のユーリグゼナに見守られながら、スリンケットは氷のような女性二人に事情聴取を受けた。そこで説明された事実。
他人の体に故意に傷をつけることは、基本的に禁忌。家族と結婚相手のみ同意の上、許される。その主な例が家族間の傷の手当だ。『医』の者は特別な技術と許可を得て、他人を診ている。
(へえ)
スリンケットが興味深く聞いている様子を見て、サギリが態度を軟化させる。本当にご存じなかったようですね、と聞こえるように呟いた。ずっと黙っていたユーリグゼナが不思議そうに聞いた。
「どうして禁忌なのでしょう? 良くないことは分かりますが。スリンケットに、何が起こったのですか?」
(聞くな。馬鹿)
スリンケットは涼しい顔で、聞こえないふりをする。サギリが上手く話しを終わらせ、お開きにした。テラントリーは未だに蔑みの目で、彼を見ていた。それでも伝えてきた言葉は、実に冷静なものだった。
「お二人とも、今回の件はご内密にお願いいたします。もちろんアルフレッド様にもです。ユーリグゼナ様はご自身で開けた、とお伝えください」
スリンケットは大きく頷いた。ユーリグゼナは一度は頷いたものの、次第に首が傾いていく。多分理解していないのだ。
彼は疲れ果てていた。早く部屋で休みたい。戻ろうとする彼を、ユーリグゼナが呼び止める。彼女はじっと彼を見て言った。
「先ほどは触ってしまい、すみません」
スリンケットは大きく首を振る。心の制御が出来ないまま不用意に言ったことだ。彼女が思った以上に気にして、申し訳なく思う。ユーリグゼナはたどたどしく続ける。
「アルフは理解してくれて、私に触れないでいるんです。ご心配には及びません」
(全然、理解してなかったけど?)
「スリンケットに気楽に触れてしまうのは、家族のように思えるからです。家で一緒に食事をすることも多いですし。でもこれからは、気を付けます……」
(言い過ぎたね。ごめん……)
スリンケットがいたたまれない気持ちで彼女の顔を見ていると、ユーリグゼナは静かに見つめ返す。彼は眉をひそめながら、首を傾げた。彼女は口を開いた。
「聞こえていないと思ってるんですね?」
「え?」
「今日のスリンケットは心の声が大音量なので、聞こえています」
彼はぎょっとして口元を押える。何をどこまで聞かれていたのだろう。彼女は言う。
「一年以上前に接触なしで心で会話したときから、時々スリンケットの心の声が聞こえるようになりました。意識して聞かないようにはしていたのですが、その……」
「何? いいよ。言って」
彼は静かに言う。覚悟を決めていた。いかがわしい妄想を読まれたのなら、潔く謝るしかない。
「スリンケットは卒業することが不安ですか?」
ユーリグゼナの言葉に、彼はポカンと口が開く。突然、何を言い出したのか、頭が追い付かない。彼女はしっかりした口調で言う。
「アルフは、離れて行きませんよ。卒業しても私たちと縁は切れません」
「なんで、そんなこと……」
「スリンケットはアルフが離れて行くのが嫌なんでしょう? 心配しなくても、ずっと側にいます。アルフはスリンケットのことが大好きですから」
彼は彼女を見つめたまま、動けなくなる。ユーリグゼナは頬を緩めた。
「パートンハド家のこともそうです。うちの家名、便利なんでしょう? だったらアナトーリーの養子になってください。それで情勢が落ち着いたら、出て行くなり分家するなり、いくらでも方法はあります」
「……いや。そんな自由なものじゃないよ。由緒ある家の名前を、簡単に借りたり返したりすれば、家名に傷がつく」
慌てて言い返す彼に、ユーリグゼナは自信に満ちた顔で微笑んだ。
「いいんです。『家は人の幸せのためにある。家のために人が傷つくようなときは、家を犠牲にして人を助けなさい』と、お祖父様は言いました。きっと、今ここにいらしたら、家名よりスリンケットをとると思います」
彼の青色の目は大きく開かれる。ノエラントールはパートンハド家の偉大な前惣領。そんなことを言う人だったのか、とスリンケットは少なからず驚いていた。
(もし、そうできたら僕はとても楽になる。でもそうすると……)
アルフレッドの婚約者の立場が揺らぐ気がする。スリンケットは彼が離れて行くようなことはしたくない。でもユーリグゼナはそんな心配いらないから、自由にしろと彼に言う。スリンケットは目をぎゅっと閉じた。
(多分、アナトーリーは受けてくれる)
彼女には知らせていない事情がある。アルフレッドが卒業するまでの二年間だけでも、スリンケットがパートンハド家に入れば、多分役に立てる。
「ユーリグゼナ。ありがとう」
彼は考えておくと伝えた。
悪夢はもう一度起こった。無事にユーリグゼナの耳の穴が安定して、スリンケットは変声魔術機械を彼女の耳に通し、魔法陣を起動させる。その瞬間、強い感覚が再びスリンケットを襲う。自分の部屋に籠る羽目になった。
(仕掛けた方が罰を受けるわけか)
受け手は何も感じないらしい。ユーリグゼナは、気づきもしなかった。
自己嫌悪に押しつぶされそうになりながら、スリンケットは考える。傷つけるにしろ、魔法陣を通すにしろ、人体に何かすれば男女の化学反応が起こる。能力のせいで異常に官能、いや感応性が高いスリンケットは、普通より強く影響を受けている可能性があった。
そして、もう一つ言えること。
(王は間違いなく変態だ)
この研究はライドフェーズから提示された。人の体に影響を与える魔術機械はほとんど研究が進んでいない、自分でもいくつか試してみたと話していた。被験者はセルディーナだろうか。一回でもこんなことがあったら、二度とやらない。普通は。
(研究が進まないのは当たり前だよ。誰が分かっててこんな研究するか!!)
スリンケットは怒りで頭の中が真っ白になる。生真面目な彼に、今回の出来事が堪えている。
アルフレッドは、スリンケットが心を読んでしまっても嫌な気持ちにならない、貴重な人間だ。真っ直ぐで清々しい心持ちに、むしろ癒される。その彼を裏切るようなことは、絶対にしたくない。
(なのに、アルフレッドに言えないことが増えていく……)
ぐったりと疲れ果て、深いため息をついた。
次回「賄賂」は7月5日18時に掲載予定です。




