10.音を震わす
二回目の合同練習は、授業の無い日に設定された。長時間に及ぶ予定だ。ユーリグゼナは前日までに必死で授業の課題を終え、この日を空けた。練習はずっと夜間にしていた。王女特権で、防音機能付きの特別室を使用する。
「ユーリ。大丈夫なのか?」
従兄弟の二学年フィンドルフが不安そうな顔で、彼女の顔を覗き込む。ユーリグゼナは胸を張った。
「大丈夫。練習してきた。今日はよろしく」
「いや。そうじゃなくて……」
フィンドルフの紺色の目が揺れる。しかし早々に始められた練習で、二人の話は中断された。
今日の音合わせは無事に進み、一度休憩を挟む。その間に各国の代表が集まり、改善点を話す。今回は作曲者の話も聞きたいという理由で、ユーリグゼナが呼ばれた。アルフレッドはため息混じりで囁く。
「俺の仕切りへの不満が溜まってるんだ。要求を通すために、王女のユーリを巻き込もうとしている。ごめん」
「全然。任せっきりでごめん。役に立てるの嬉しいよ」
ユーリグゼナは穏やかな気持ちで言う。いつだってアルフレッドの一番の味方でいたい気持ちは、変わっていない。
彼女は、スリンケットが脅されている事実をアルフレッドに相談した。彼を守りたい気持ちが、二人を前のような関係に近づける。彼は不用意に彼女に触れなくなった。ユーリグゼナは彼の側で、気兼ねなく過ごせるようになっていた。
ウーメンハン代表は黒髪で茶色の目をしている。椅子に座ると同時に不服そうに話し始めた。
「ペルテノーラとシキビルドのレベルが低すぎる。全体の音を乱してる。曲を短くしたのもそのせいだろう? 選抜人数もおかしい。学生数が十倍以上も多いウーメンハンが、なんで同数なんだ。レベルが違うのも当然だ」
それを聞いて、ナータトミカがゆっくりと立ち上がる。元からの怖い顔で、のっそり話す。
「ウーメンハンは、アルフレッドの指揮に合わせないからな。どっちに合わせるのが正解か、教えてくれたら改善できる」
「なんだ? レベルが低いのと関係ない話だよな」
ウーメンハン代表は、ナータトミカに喰ってかかる。が、ナータトミカの方がはるかに体がでかい。子供が大人に飛びかかっているように見えた。
カンザルトル代表は濃い橙色の綺麗な髪を手で梳きながら、つまらなそうに黄緑色の目を細めた。
「なーんか。ウーメンハンの演奏って嫌な感じよね。粋がっちゃって下品。海の曲ではあなたたち、見せ場多いんだから、他ではもう少し他を立ててくれない?」
そう言いながら、そっとユーリグゼナに近づき手を取った。にっこり笑いかける。
「ねえ。ペルテノーラとシキビルドばかりに貴重な楽器が割り当てられるの、おかしいと思いません?」
ユーリグゼナは、美人に迫られるのはやぶさかではない。でも何が彼女の望みか分からず、小さく首を傾げる。
「打楽器とか笛にご興味があるのでしょうか?」
「違うわ。そうじゃなくて。鍵盤楽器を編成してもいいと思うの」
二年前の閉校式に、カンザルトルの学生が鍵盤楽器を演奏したと聞いている。彼女が弾いたのかも知れない。
「鍵盤楽器が入れば、表現が広がります。素敵だと思います」
ユーリグゼナの台詞に、男性陣全員がギョッとした。
「おい! 待て」
「これから変更はちょっと……」
言い合いをしていたウーメンハン代表とナータトミカが、慌てたように話に入ってくる。二人の勢いに彼女は戸惑う。アルフレッドが静かに促した。
「ユーリ。ちゃんと最後まで説明して」
彼女はこくんと首を動かす。
「今日の全体を通した仕上がりを聞いて、私は心が震えました。鍵盤楽器を加えた演奏に変えても、これには劣ると思います。それに時間の問題もあります……」
流し目でアルフレッドを見ると、彼が深く頷いた。それに力を得て、彼女は姿勢を正す。
「もう一曲練習したいと思っています」
彼女の言葉に、ウーメンハンとカンザルトルの代表が眉をひそめる。
「……演奏が終わった後、まだ聞きたいと余韻に浸り、帰らない人がいると思うのです。その時に弾ける曲を練習しませんか」
「そんな用意いるか?」
ウーメンハン代表が皮肉気に笑う。ユーリグゼナは穏やかに微笑みを返す。
「誰も待たないと」
「ああ」
「それだけの演奏ができないということですか?」
「……」
彼は彼女を睨んだ。ユーリグゼナは笑って受け流す。
「ナヤンは、予定にない贈り物って、嬉しくありませんか?」
「それは、嬉しい」
「心に残りませんか?」
「……残るだろうな。でも良いものだったらだ。つまんないのだったら、いらない」
ユーリグゼナは嬉しそうに頬を緩めた。ナヤンは不服そうに、ちゃんとしたのだったらの話だからな、とグチグチ言う。
「終わった後なんて、みんな席についていないと思いますわ。ちゃんと聞いてくれないところで、弾くのは嫌よ」
カンザルトル代表は腕を組み、口を歪ませている。ユーリグゼナは彼女を見つめた。
「心惹かれる演奏だったら、人は足を止めます。足を止めてまで聞いた曲は、きっと忘れません」
彼女は黄緑色の目を細め、厳しい表情になる。
「言いますわね。あなたならやれるというの?」
「リナーサならやれる、と思っています。このあと試しに演奏します。私が成功したら、再登場用の主旋律を担当してくれますか? 鍵盤楽器を諦めて」
リナーサは不敵な顔でユーリグゼナを見た。これまでの本音を隠した媚びへつらいをやめた。
「いいわ」
ユーリグゼナはにっこり笑う。そして、練習終了時に試してみます。と言い、席を立った。
「……助かった」
追い付いてきたアルフレッドがユーリグゼナに声をかけた。彼女は興奮気味に振り返る。
「役に立った?!」
「かなりな。王女対応、ありがとう」
アルフレッドの気を抜いた笑顔に、ユーリグゼナも頬を緩める。彼は心配そうに彼女を見つめた。
「再登場用の曲の模擬演奏は、確かに予定してたけど、終了後の予定じゃなかった。やれるのか?」
「もちろん。練習してきた」
「いや。そうじゃなくて……」
休憩時間が終わり、アルフレッドが呼ばれる。彼はため息をつくと、ユーリグゼナをチラリと見て壇上に向かった。
無事に練習が終了して、アルフレッドが解散の合図を出す。長時間の練習で疲れ切った学生たちは、さっさと椅子を片付け始める。帰る準備に忙しい。ガヤガヤと雑音が一向に止まない。
「こんなうるさい状態で弾くのか?」
大型弦楽器を手にしたナータトミカは、ユーリグゼナを不安げに見る。彼の橙色の目を見ながら、ユーリグゼナは悪戯っぽく笑う。そして、アルフレッドとフィンドルフを振り返る。二人はにやりと笑う。アルフレッドは、無茶はいつものことなんだ、とナータトミカを宥めた。
彼女の濡羽色の髪を飾っていた深紅の花から、花びらが二枚落ち、ふわりと舞った。彼女は弦楽器を構え、弓を大きく引いた。
ティラリラリー ティ
チェラチェラチ ティーリ
ユーリグゼナは華やかな強い音を出す。さらに弦を押さえる指を揺らし、音を震わせる。
一瞬で周囲は静かになった。さらに音を震わせながら、感情を揺さぶる旋律を強く激しく奏でる。彼女の髪がさらさら揺れている。どこからか風が入り込んでいた。
ユーリグゼナの演奏は抒情的で、拍が不安定だ。にも関わらず、ナータトミカは低音部の音をピタリと合わせる。アルフレッドとフィンドルフも、落ち着いた音を重ね、曲に深みを出していく。
帰りの準備をしていた学生たちが、みんな手を止めていた。驚いた顔で突然始まった演奏に目も耳も奪われる。
ユーリグゼナは主な旋律を、アルフレッドと交代で演奏していく。交代の瞬間、視線は絡み合う。二人は旋律を奪い合うように、激しく強弱を繰り返す。アルフレッドの金髪が汗で額に貼りつく。最後は全員で強く奏で、同時に弓をふり切った。
演奏が終わると、拍手ではなくガヤガヤと大声が混じり合い、大騒ぎとなる。ユーリグゼナは呆然としながら息をととのえる。騒々しすぎる雑音の中、アルフレッドに尋ねた。
「これって失敗?」
雑踏で互いの声が聞き取りにくい。二人は演奏した興奮のまま、距離を詰めた。アルフレッドは彼女に耳打ちする。
「いや。大成功。本当に驚かしたみたいだ」
その時ようやく拍手が起こり始め、大きくなっていく。リナーサが眉間にしわを寄せ、ユーリグゼナに近づいてきた。彼女の目がきつく吊り上がった。
「こんな下品な演奏、無効ですわ。音をわざと震わせて感情に訴えるなんて! しかも何度も何度も。破廉恥よ」
そう言って、赤い顔で口を尖らせて出て行ってしまった。上流階級では音楽は嗜むもの。感情を表現するものではない。彼女の反応は至極真っ当といえる。
(私、おかしいんだ。ここでも)
ユーリグゼナの心は、暗い感情に覆われる。その時、アルフレッドが彼女の手をとった。学生が騒いでいる中心へと彼女を連れて行く。彼はユーリグゼナを振り返った。嬉しさを堪え切れないように口元を腕で押さえていた。
「みんな興奮が収まらない。ユーリを担ぎ上げてくれって」
(担ぎ上げるって、どういう……)
ユーリグゼナは戸惑い、固まっていると、ナータトミカが何とも優しい顔で彼女に近づき、ヒョイと抱き上げた。高く空中に身体が浮き上がる。そして、そのままアルフレッドの右肩とフィンドルフの左肩に座らされた。下の二人は彼女の身体をしっかり支える。
(えっ!?)
こんな風に担がれるのは初めてだ。二人の体温も汗のにおいも感じて、目が回りそうになる。彼女は慌ててバランスをとった。
周りを見ると、たくさんの学生が彼女を笑顔で両手を鳴らしている。彼らの拍手と歓声と熱気が、彼女の顔を紅潮させる。認めてくれる人がいた。学校でも。ユーリグゼナは耳がキーンとするほど騒がしいなか、ぼんやりと嬉しさを噛みしめる。四人での演奏は本当に、とても楽しかった。特にアルフレッドとの協演は毎回面白くて堪らない。そう思いを巡らしている間に、何度かクラっと頭が揺れる。
「アルフ。フィン。下ろして。私……」
一気に蒼白になる彼女の顔を見て、二人は顔を強ばらせた。ゆっくりと地面にしゃがみ、下ろしてくれる。でもその途中で、彼女の意識は遠のく。すぐ近くで鳥の羽音が聞こえた。
ユーリグゼナが目覚めたのは、全然知らない場所だった。ギョッとして起き上がると、クラっと眩暈がして、寝台にぼてっと倒れた。
「横になっておれ」
涼やかな声が後方から響く。僅かに本が閉じられた気配がする。アルクセウスはここが休養室であることを告げた。
「其方は倒れたのだ。……主に寝不足で」
ユーリグゼナは時間をかけて寝返りをうつ。彼がいる方に向き直った。暗がりの中、端正な顔立ちが見えた。ユーリグゼナの顔の横には、丸くうずくまる黒い鳥がいた。その鳥をアルクセウスはチラリと見て言う。
「一応、契約魔法の絡みも調べた。倒れた原因ではないが、これ以上無理が出来ない状況だ。……留年するしかあるまい」
ユーリグゼナは唖然とした表情になる。
「……留年への流れが、全く分からないです」
「其方の実力と体調では、遅れた分を取り戻すのは不可能だということだ。今回の謝神祭の練習も寝不足の原因の一つであろう。巻き込んだのは、儂だ。十年くらいかけて、卒業することを許そう」
アルクセウスの語る恐ろしい未来に、ユーリグゼナはガバッと起き上がり、再び眩暈に襲われ寝台に倒れ込む。青ざめた顔で言う。
「そんな長い間勉強したくありません。何とか終わらせます」
「本来これからの人生のため、深い知識と教養をきちんと身につけて、卒業することが望ましい。────だが強制はできぬ。駆け足で単位を取るというなら、最終学年までに全授業終えられるよう、ライドフェーズと相談しておこう。良いな?」
良いなも何も、学校長が王と決定したことに彼女が口を挟めない。それにしても、とユーリグゼナは思った。
(調停者って暇ですか?)
学生一人倒れたぐらいで、なんで様子見に来てるのかさっぱり分からなかった。
「今日、其方らが演奏した曲を、神々がとても気に入ってな。とても助かった」
アルクセウスは、花びらが舞うようにふわりと微笑む。
「友人と側人が心配していた。程なく迎えがこよう。…………夜の戯れは程々にしておくように」
最後の彼の言葉に、ユーリグゼナは背筋が凍る。全身が硬直した。気づいた彼は、柔らかな物腰で頬杖をついた。
「何をしているのか、までは知らぬ。休む時間を確保するように。それだけだ」
ユーリグゼナは布団に包まったまま、震えるように言った。
「……私はおかしいのです」
声が掠れた。思わず出てしまった言葉に後悔し、ユーリグゼナは目をぎゅっとつむる。休養室の静かな空間のなか、アルクセウスはポツリとこぼした。
「母が恋しいのであろう」
とても人間くさい言葉が、ユーリグゼナの心を震わせた。彼女は何かに促されるように聞く。
「アルクセウス様は、恋しかったですか?」
「恋しいさ。今でも」
彼はゆったりと揺るぎなく言うと、すうっと目を閉じた。ユーリグゼナは潤んでくる目でアルクセウスを見る。彼のようにきちんとした大人もそうなのか。自分の心の落としどころが見つかったように感じた。
(母様が恋しくてもいいのか)
そう思ったら少し楽になった。そして……
(サギリ……)
彼女への態度を、少し変えられるような気がした。自分を変えたい。サギリを大事にしたい。そう思うユーリグゼナの顔が、くしゃりと歪む。ユーリグゼナは包まっていた布を頭から被った。
次回「才能」は6月17日18時掲載予定です。




