9.依存
ユーリグゼナがアルフレッドから逃げ出し、部屋に戻ると細身の側人が静かに控えていた。
「テラントリー様のお部屋に行かれますか?」
「……そうしたいけど、約束してないから」
ユーリグゼナが沈んだ声で足元を見ていると、彼女は優しく言った。
「先にテラントリー様の側人に話を通しておきました。お待ちだと思います」
ユーリグゼナは、ぱっと顔を上げた。
「サギリ。ありがとう」
サギリは目を細め、彼女を愛おしそうに見つめる。
ユーリグゼナの身体には深い傷あとがいくつもある。彼女自身、どうしてついたのか思い出せない。服に気を使うのが面倒だ、それぐらいの気持ちしかユーリグゼナにはない。
孤児となり、叔母のヘレントールの嫁ぎ先に身を寄せるようになったとき、異常が現れた。肌に直接手で触れられると身体が硬直する。失神寸前にまで自分を追い詰めてしまう。
最初に手を繋げるようになったのはフィンドルフ。戦後再会した、親戚たちとは抱擁も大丈夫になった。友人とも平気になった。でも……
(最近のアルフは少し怖い)
アルフレッドは急に態度が変え、距離を詰めることがあった。別に大したことではない。手を掴まれるのも、髪に触れられるのも別に普通のことだ。ユーリグゼナだって、テラントリーの手や髪に触れる。同じことだ。
なのに、怖い。
(これが恋だというなら、私には到底無理)
恐怖で投げ飛ばしてしまったことを、ユーリグゼナは申し訳なく思っている。
アルフレッドは大切な人だ。ずっと一緒に音楽をしていきたいと、切に願う。そのためだったら、何でも彼の望みを叶えたい。彼の真摯な想いを受けとめられたら、自分にも普通の人みたいに恋愛ができるかもしれない。
でも。身の程知らずだったと、すぐに分かった。女性として触れられることを、受け入れることが出来ない。
(私は欠けてる。人として)
知っていたことをもう一度突き付けられた。養女になって見た目も所作も整えて、たくさんの人に協力してもらって、ここにいる。なのに、中身は何も変わっていない。人の好意に応えられない、感謝知らずで、身も心も汚い小娘のままだ。ユーリグゼナは暗い目をしたまま、一人、机に顔を埋めた。
ユーリグゼナは側人を必要としていなかった。でも王の養女になりどうしても必要と言われ、サギリが側人に決まる。スリンケットが推薦し、研が話をつけた。ユーリグゼナは彼女を前から知っていた。
(時間外の食堂で、いつもご飯を用意してくれた人)
取り戻した記憶の中にも彼女はいた。母に長年仕えた側人として。
サギリから肌を触れられないように、誤魔化しながら過ごしてきた。が、ついに湯あみに付き添われることになった。準備をする間、寒さではない震えに襲われていたユーリグゼナに、サギリの落ち着いた優しい声が届く。
「ユーリグゼナ様は、どの香りがお好みですか」
彼女の腕には三種類の泡が用意されていて、いい香りが漂う。ユーリグゼナは顔を近づけそれぞれ香ってみる。柚子の香りがする泡があった。これがいい、と伝えるとサギリは丁寧に薬剤を泡立て、ユーリグゼナの身体を洗っていった。肌がみるみる泡に覆われる。良い香りが彼女を包む。
「流しますね」
温かいお湯で泡が流されても、柔らかい布で拭かれても恐怖が湧き上がることは無かった。直接肌に触れるサギリの手は丁寧で心地よい。彼女の胸の奥から温かい感情が蘇る。
(母様)
思い当たった途端、目が熱くなった。ポロリこぼれたものをサギリは、そっと唇ですくい取る。ユーリグゼナはサギリにしがみ付いた。
そうなると、人の温もりを求める気持ちが止まらなくなった。ユーリグゼナはサギリの部屋に、幾夜も訪ね、執拗に縋りつく。サギリはどんな彼女も優しく受け入れる。ユーリグゼナはますます依存していく。自分の異常さが怖かった。
スリンケットが相談があると連絡してきた。ユーリグゼナは自分の部屋に彼を招く。王女向けの部屋には客室がついている。セルディーナに初めて呼び出されたのは、この客室だったことをようやく思い当たった。
「もう少し、アルフレッドと婚約者らしくできない?」
スリンケットは目を伏せ、ゆっくりとお茶を飲む。ユーリグゼナは手にしたお茶を何となく、飲めずにいた。
「……人がいるところでは、上手くやってるつもりでした」
彼はふうっと息をつく。
「そうだね。そう思ってるのが周囲に丸分かりだよ。最初、かなり仲良かった。その差がひどいんだ」
「具体的にどうすれば婚約者らしいのでしょう。指示もらえれば、そうします」
「指示ねえ……」
スリンケットは口を曲げ、目を細める。
「嫌なの? アルフレッドが」
彼女は何度も首を振る。彼は弱り切ったように眉を下げた。
「だったらとりあえず、一緒に行動してくれない? 護衛の意味でも。君は護衛が要らないくらい強いの分かってるけど」
ユーリグゼナは探るように彼を見た。思い切ったように口にする。
「私、狙われてるんですか?」
スリンケットがサッと顔を強ばらせる。一瞬、間があった。
「何で? 何かあった?」
「……この間、アルフを投げ飛ばした時」
暴力行為に気づいたアルクセウスから、ユーリグゼナへすぐに連絡が入った。其方の怯えが見えた。そして聞きたい、と。
「アルクセウス様が、不審者と不埒者のどちらか、と」
彼女の言葉に、スリンケットは眉をひそめた。口元に拳をあて考え込む。
「学校側もいや、調停者として情報を掴んでるのか。どうして知ってるんだか」
彼はふうっと息をついて、彼女を見る。
「でもよく気付いたね。それだけで」
「何となく……。それで、狙ってるのはウーメンハンですか?」
「え」
スリンケットは絶句する。ユーリグゼナは小さく首を傾げる。
「スリンケットが言ったんですよ」
彼は口を開け、驚いたように自分を指さす。
「僕?」
ユーリグゼナは頷く。
「ロヴィちゃんが諜報で、ウーメンハンの切り札を掴んでたって」
「言ったね」
「私が思い出せないって」
「言った……。ねえ。ユーリグゼナ。君は本当は賢いの? たまに鋭すぎてびっくりするよ」
スリンケットの失礼な発言に、彼女は苦笑いした。今日はいつもの彼だ。最近ずっと苛立つ彼に戸惑っていたので、ホッとする。
扉が叩かれ、サギリが入室許可を求める。ユーリグゼナが応じる。サギリはスリンケットに礼をして言う。
「ここをお二人にしても構いませんか。すぐに戻ります」
「問題ないよ。どうぞ」
彼はサギリに軽く頷く。サギリは礼を述べ、最後にユーリグゼナに微笑み退出して行った。スリンケットは頬杖をついた。
「サギリと上手くやってて何よりだけど、ちょっと君の態度は心配だね。王女としてどうなの?」
ユーリグゼナはドクンと胸が大きく鼓動する。何も言えず黙り込む。スリンケットはサギリと前から知り合いだ。二人は話しているのか。ユーリグゼナのことを。そう考えると、ますます鼓動が大きくなり息は浅くなる。
「自分でも異常だと分かっています。でも彼女を求めないと、自分を保てない……」
「待って……。ああ。もう君は……」
ユーリグゼナが顔を上げると、スリンケットは赤い顔を手の平で覆っていた。
「そんな赤裸々な話、別に聞きたくなかったよ。甘え過ぎだから、威厳を持とうねって話だったのに……」
「えっ……」
「あのね。側人は絶対主人の秘密は言わない。特にサギリは絶対だ。彼女のパートンハド家への忠誠は本物だから」
ユーリグゼナは彼を静かに見上げた。スリンケットはため息をつきながら言う。
「みんなさ。何かしら側人に、人には言えない秘密を守ってもらってる。……僕も。ロヴィは側人だったし」
彼女は問う様に彼を見る。スリンケットは優し気に目を細める。
「ユーリグゼナが思うより、大したことじゃない」
スリンケットはユーリグゼナの頭に手を伸ばし、慰めるようにふんわり撫でた。
「……本題入るの忘れそうだった」
スリンケットは疲れたように言う。懐からユーリグゼナが見慣れている首飾りを出した。
「これ、アナトーリーから預かってきた。変声魔術機械が合わなくなってるって? この改良を僕にさせて欲しいんだ」
「助かります。でも、なぜ?」
ユーリグゼナは驚いた顔で、彼に問う。変声魔術機械は、彼女が平民の店『楽屋』で青として歌うのに、不可欠なものだ。スリンケットは考え深げに、首飾りを見ている。
「卒業研究の課題にしようと思ってて」
ユーリグゼナも卒業生たちが、様々な研究の発表をするのは知っていた。全員がしないといけないものではない。どちらかというと仕事の人脈作りや、結婚相手に自分を売り込むのが目的だ。そう考えると、変声魔術機械はかなり地味だ。
「目立つ必要はない。見て欲しいとしたら、教授と王だけだ。王から、人の体に影響を与える魔術機械はほとんど研究が進んでいないと聞いた。良い課題だと思ったけど、どんなものがいいか悩んでいたらこの魔術機械のことを聞いた」
「アナトーリーからですか?」
スリンケットは頷く。深く息をして、そっと首飾りに触れる。
「すごいよ。似た物は存在しない。完全に一からアナトーリーは作ったんだ。君は愛されてる」
そんな労力がかかったものだと、ユーリグゼナは気づいていなかった。最初に作ってくれたのは五年くらい前。ペルテノーラへ旅立つ最後の日まで、何度も改良を続けていたアナトーリーの後ろ姿を思い出す。
「ユーリグゼナは金属が直接肌に触れるのが駄目なんだよね? 成長も考えて首飾りの形をとっていたんだろうな。でももっと精度を上げるには、身体にしっかり装着する耳装飾具にしないと難しい」
不安そうに見上げるユーリグゼナに、スリンケットは彼の赤茶色のくせ毛をふわふわ揺らしながら、微笑む。
「多分、肌に触れても大丈夫な素材があるはずだ。色々試すけど、協力してくれる?」
「はい。お願いします」
ユーリグゼナは真剣に頷いた。『楽屋』でこれからも歌っていけるのか、これにかかっている。彼は嬉しそうに笑い、よろしくね、と言った。こんな風に自然に話しているスリンケットは久しぶりだ。ユーリグゼナは決意する。彼の腕をガシッと掴んだ。
「これから、スリンケットを脅すことにします」
「はあ?」
スリンケットは驚きながらも呆れた声を出す。そして掴まれた腕を、非常に嫌そうな顔で見ていた。彼女は精いっぱい怖い声で言った。
「誰のせいで嘘ついてるんですか? 何があったか教えてくれないと、心を読みますよ!」
「えっ?!」
彼は片方の手で口元を押さえた。さぁっと顔色が青ざめていく。具合悪そうに言う。
「何、それ」
「ずっと納得のいかない顔で、イライラしています。アルフも気づいていました!」
彼女は睨みながら言い放つ。スリンケットは大きく息を吐く。
「……怖いな。二人とも。言うつもりはないよ。出来るなら、知らないふりしてて欲しいんだけど」
「読みます!!」
「駄目だってば」
彼は顔を逸らす。ユーリグゼナの脳裏に青色の耳装飾具が浮かぶ。
「これ何ですか?」
「もう読んでるじゃないか! だいたいいつからそんなこと出来るようになったのか……」
ブチブチと不機嫌そうに言うスリンケットに、彼女は黒曜石のような黒い目を鋭く向ける。
「スリンケットが前にやって見せたので。────誰に苦しめられているんですか? あなたは、いつだって私とアルフを助けてくれる大事な人です。手助けさせてください」
「……もう。本当に君は」
彼は少し赤い顔を手で隠しながら、大きくため息をした。
「僕がロヴィに贈った耳装飾具が、匿名で送られてきたんだ」
「ロヴィの耳装飾具? 何て言ってきたんですか? 私関係あるんですよね?」
「……本当に君は」
スリンケットが誤魔化そうとするように、目を逸らした。言わないつもりかもしれない。ユーリグゼナは、逸らした顔をじっと睨みつける。しばしの沈黙の後、彼女の気迫に彼はとうとう折れた。眉が下がり情けない顔になっていた。
「……分かったよ。『ユーリグゼナと交換だ』って書いてあった」
次回「音を震わす」は6月14日18時に掲載予定です。合同練習2回目。




