2.養女
シノ視点。養女教育は難航中。
時は少しだけ遡る。ユーリグゼナの声が戻った夜のこと。
シノは深さのある器に水を注ぎ、部屋に青紫色の小さな花を生ける。殺風景な彼の部屋が優しく彩られる。シノはその花を気の抜けた顔でぼんやり眺めていた。
(捨てるに捨てられなくなってしまった……)
萎れている花を見れば、水をあげてしまう。本当は────怒っていたのだ。ライドフェーズを困惑させ、場を凍らせたユーリグゼナを。今さら出会った時に言っていた花で、シノの心を揺さぶる無神経な彼女を。
でも。ユーリグゼナは紫位の姫だ。側人であるシノが、上手く対応できなかったことに問題がある。シノは今度は彼女と上手く距離を取るようにしなければ、と自らを戒める。
彼は身の回りのことが終わると、疲れた様子で寝台の上に横たわった。身体を休めなければならない。
ユーリグゼナが王の養女になることが決まった。関連の仕事が増え、明日から多忙な日々が始まる。大きく息をつき目を閉じる。
目裏に思い浮かぶのは、朱雀の間で気を失ったユーリグゼナの蒼白の顔。「花のようですね」とシノに言った彼女の切ない表情。シノは胸が熱くなる。
(声が出るようになって、良かった)
心から思うのはそれだけ。なのに自分の鼓動がうるさくて、なかなか眠りにつけない。
ライドフェーズから課されている最優先事項は、ユーリグゼナを王の養女にするための準備だ。すぐに学校が始まるため、先に必要なのは部屋ではなく教育だった。
「この調査書をまとめたのは誰だ?」
ライドフェーズは眉をひそめ、書きつけを机の上に置く。シノは不思議そうに頷く。
「私です。問題がございましたか?」
ライドフェーズは不機嫌そうに言う。
「いいや。私を揶揄しているのか、と思われる節があったのでな。……『人の気持ちに無頓着』だの、『好きな事には口数が多くなり、暴走気味』だの……」
シノは首を大きく振り、にっこり否定する。あくまでもユーリグゼナの資料だ。でも確かに二人はよく似ている。そう思いながら、シノは速やかに仕事の話を続けた。
「ユーリグゼナ様はシキビルド王の養女として必要な教育が著しく足りません。人付き合いに関しては壊滅的です。急ぎ頑張っていただいても、学校には間に合いません」
「そうだろうな……」
ライドフェーズは天を仰ぐ。シノは続ける。
「テラントリー様によると、礼儀作法と所作の基本を習得してはいるそうです。すぐにも御館で生活していただければ、学校までに修正可能でしょう。服装や身だしなみは側人をつければ、すぐに解決いたしますし、食生活に関しても御館で」
「シノ。あのな」
シノの言葉を、ライドフェーズは遮った。そして渋い顔で言う。
「ユーリグゼナはこのままパートンハド家に住ませる。側人は無理かもしれない。人選が難しい。パートンハド家とユーリグゼナ本人の特別な事情があってな」
ライドフェーズの言葉にシノは驚く。
「生活形態を変えずに、養女教育をするのですか?! それでは身に付きません。間に合いません。それに────王の養女に側人をつけないなんて、あり得ません。本人が整えられるわけもなく、外聞も良くありません。ユーリグゼナ様はシキビルドを代表される方になるのですよ?!」
シノは神経質な物言いで迫る。ライドフェーズはぐっと押し黙る。彼は腕を組み、目を伏せる。そしておもむろに言う。
「シノは正しい。でも今回の養女の話は、他国からユーリグゼナを守るためのもの。彼女に無理をさせたくないのだ。ペンフォールドから未だに不安定だからと、厳しく注意されている。王位を継がせるつもりもない。最低限彼女が困らなければいい。シキビルドの面子問題は私が何とか考えよう」
名乗る以上責任があります、という言葉をシノはどうにか飲み込んだ。通常の基準ではなく、ライドフェーズの価値観に合わせることが彼の側人として正しい。シノは眉間にしわを寄せながら、頭を整理して言う。
「アナトーリー様とヘレントール様にご相談しながら、出来る限りパートンハド家で行いましょう。……私が判断して進めてもよろしいでしょうか」
「いい。任せる。学校が乗り切れればいい。シノが出来なかったら誰にも無理だ」
ライドフェーズはシノを信頼し、当然のように許可を出す。ピリピリしていたシノの顔が緩み少し赤みが差す。シノは俯きながら続ける。
「側人はやはり必要です。何か事情があられるなら、ご存じの方々で必ずお探しください」
「分かった。何とかしよう」
ライドフェーズは深く頷いた。そして言う。
「実は学業の方も壊滅的なのだ。昨年1年分と為政者の科目4年分が丸々取れていない」
「それは…………落第しますか」
「ああ。そうならないように私が学校開始前に叩き込むのと、アルクセウス様にも協力を頂くつもりだ。これ以上借りは作りたくないが、仕方あるまい……」
ライドフェーズの目が細くなり厳しい表情になる。こういう顔を見るとシノは思う。
(変わられたな)
ライドフェーズは前はどこか投げやりで、先のことなど考えていなかった。今の姿はシキビルドの王に相応しく、シノは側人として誇らしい。何とか主の助けになりたかった。
ユーリグゼナの状況は、教育の総責任者であるシノの下に集められる。そこから出されるシノの結論は……
(絶対、王の養女は向いてない)
彼は自分の寝台に、こてんっと横たわる。手の平で目を擦る。非常に疲れていた。向かない彼女をどう仕上げるか。シノの基準には到底及ばない。
ため息をつきながら茶色くなった小さな花を見る。そろそろ限界だろう。枯れていく姿を日々見て思うのは、今のままで十分幸せだということ。ライドフェーズの温かい言葉が思い出される。身分は関係なく特別に思える人。ユーリグゼナが自分にとってそういう人なのだと思えば、胸が熱くなる。
シノの想いは、王であるライドフェーズにとって厄介事だ。でも彼はシノの想いを汲み、喜んでくれた。まるで家族のように。せめて仕事では、彼にとって役に立つ自分でいたかった。
(ライドフェーズ様が困らない程度には、彼女を仕上げなければ)
考え事をしているうちに、いつの間にか眠っていた。
シノはヘレントールと連絡を取る。パートンハド家で話し合いをすることになった。招かれた家は、温かい雰囲気で思わず長居したくなるような良い家だった。でもそれはシノ個人の感想。
(特権階級の家としては、完全に不可だ)
シノはヘレントールと初めて会った時に言われた言葉を思い出す。人を招く用意ができない、と。
ユーリグゼナは養女になっても、体調の問題でペンフォールドの許可が下りず実践的な教育は後回しになっていた。ユーリグゼナは学校の勉強と最低限の知識を先行して進め、ライドフェーズとシノの課題をどうにかこなしていた。会うのは、彼女が声を取り戻した養子院以来だ。その時と比べればだいぶ落ち着いて見えて、シノはホッと胸をなでおろす。
(あんな風に泣かれたら、耐えられない)
ユーリグゼナの泣き顔はシノを揺るがす。しかし、今度は別の理由でシノは揺らいでいた。話し合いの場に研がいたのだ。研はシノがパートンハド家とルリアンナを探りまわっていた時、「月の無い夜は……」と脅してきた人物。シノは身震いしそうになるのを必死に抑えた。
「御館に住まなくていいのは助かる。まだ難しいんだ」
アナトーリーは薄い茶色のやわらかな髪を揺らし、シノに微笑む。シノも柔らかい笑顔を返し言う。
「もう開校まで時間がございません。礼儀作法と所作の部分は御館にお通いいただき、進めたいと思います。食生活についてですが……」
シノは書きつけに印をつけながら、次々に確認していく。途中、指摘を受け修正した内容を書いていく。最後に服装と身だしなみ。
「こちらでご用意してよろしいでしょうか」
「ああ。頼む」
アナトーリーが答える。王一族の予算がつく。本来は本人の好みも聞くところだ。しかし先ほどからユーリグゼナに聞くと非常識な言葉しか帰ってこない。シノは黙って進めた。そして小声で「失礼します」と断り、ユーリグゼナの洗いざらしの髪に触れる。シノは指先で彼女の毛先をなぞる。
(何の手入れもされていない……。でも毛質は良い。綺麗な濡羽色の黒髪と艶)
シノは準備する薬液や紐、髪飾りを書きつける。元がいいので特別なものは要らない。開校までに十分揃うだろう。そう思いながら、ユーリグゼナの髪から手を離す。触られ慣れていない彼女は硬直していた。
(側人が探せてもこれでは……)
シノが小さく息をつく。すると、アナトーリーが緊張を解くように息をついた。驚いたシノが目線を上げると、一同が凍り付いたようにシノを見ていた。
(え?!)
シノも凍り付く。アナトーリーが取り繕う。
「シノにとっては普通なのだろうが、パートンハド家は側人がいない。しかも男性が女性の世話をするのが、ちょっとな。見慣れなくて」
シノは顔が強ばった。彼は昔からセルディーナの世話もしている。自分が周りから見て異様であったことに、初めて気が付いた。
側人は研が見つけていた。近くパートンハド家に入るとのことだった。話し合いが終わり、シノは辞する旨をアナトーリーに伝える。先ほどのショックから立ち直れない。シノの帰り際に、研が寄り添ってきて言う。
「シノ様は綺麗な指をしていらっしゃる。怪我などされませぬよう」
彼はそう言っただけだ。それが死ぬほど怖かった。
彼らはこれから夕食をともにするそうだ。シノは足早にパートンハド家をあとにする。
ある夜、シノの部屋の扉が叩かれる。シノが扉を開けると、テルがにっこり優雅に微笑む。波打つような深紅の髪が揺れる。
「いいかしら」
シノも綺麗に微笑み彼女を迎え入れた。ゆっくりと扉を閉める。完全に閉まると、二人は同時にため息をついた。シノは疲れた顔で聞く。
「また言い寄られてるのか」
「そうよ。今回は部屋までついてくるんだもの。助かったわ」
テルがうんざりしたように顔をしかめた。二人はお互いを男除けの隠れ蓑にしている。都合よく噂を作り利用していた。その傍ら、二人は定期的に情報交換をする。ライドフェーズとセルディーナに仕えるために不可欠だ。テルに椅子を勧めながら、シノは言う。
「今日は早いな」
テルは金色の目を細めて、笑顔で返す。
「アーリンレプト様の寝つきが良かったの。ユーリグゼナ様がたくさん遊んでくださるから。最近機嫌が良くて助かるわ」
シノは眉をひそめる。
「遊んでる場合じゃないだろう」
遅れている作法と所作を叩きこんでもらわなければ、間に合わなくなる。教育はシノではなくテルを中心にして行われている。同性が教える方が良いからだ。……研が怖いからではない。
「ユーリグゼナ様はとても真面目に教わってるわ。僅かな休憩時間をアーリンレプト様に使ってくださっているのよ」
テルはいつの間にかユーリグゼナびいきになっていた。
(テルの人の基準は、セルディーナ様を良く言うかどうかだからな……)
側人としては狭すぎる了見をいつ指摘したものか、シノは悩んでいる。
「シノがいると、ユーリグゼナ様は委縮して動きが悪くなるの。あなた怖過ぎ」
テルの指摘にシノは思わず言う。
「私のせいだと?!」
「そうよ。シノはちょっと根を詰めすぎなのよ。セルディーナ様が妃になる時と、同じレベルを求めてどうするの?」
「だいぶ、妥協している」
シノは目を逸らした。テルは疑わしそうに目を細める。ため息をついて慰めるように言った。
「まあ、シノの懸念は分かるわよ。ユーリグゼナ様の場合、今までどうやって学校生活を切り抜けてきたのか分からないくらい、言動に問題あるもの」
「急に手厳しくなった」
「そう? でも彼女可愛いわ。とても。きっと周りが守ったのね」
テルが優しい顔になる。シノを窺うように首を傾げて言う。
「そんなに難しい顔しないで。彼女が出来なければ、私たちが支えればいい。今までと同じよ」
シノは大きく息をついた。彼の青紫色の髪が揺れる。
「……そうだ。テルの言う通り」
シノが小さく笑うと、テルは満足そうににっこり笑った。
シノは今夜も、疲れ果てて自分の寝台に倒れ込む。自分の眼球を瞼の上から親指で押す。テルの言葉でだいぶ楽になった。そう時間はない。不完全でもユーリグゼナを学校に送りださなければならない。
昼間は無意識になっている気持ちが、少しずつ動き出す。でもシノはパタンと蓋をする。
(今日も読まないでいられる。大丈夫)
シノはユーリグゼナの手紙を開けないまま、もらったその日に自分の荷物の奥の奥にしまいこんでいた。毎日読まないでいられる自分を積み重ねていって、忘れてしまおうと思っている。
(読んだってどうせ『柚子茶は美味しい』とか、とぼけたことしか書いてないんだ)
彼女は手紙を持参した日、直前まで声が出せなかった。話せない代わりの手紙だ。大したことは書いていない。そう呪文のように繰り返しながら、シノは眠る。
次回「思惑買い」は5月20日18時掲載予定です。ライドフェーズ視点。




