50.想い
ライドフェーズ視点
ライドフェーズは養女の話をあっさり了承してしまったユーリグゼナに、拍子抜けしていた。もっと面倒だの必要無いだの、ごねると思っていたのだ。
(謝るタイミングを逃してしまったではないか……)
彼は、命を犠牲にしようとしたことを謝罪したかった。一生許してもらえなくても。仕方なく、本当はごねた時に言うつもりだったことを自分から言う。
「今回の謝罪に、アルクセウス様への願いだった楽器は、私が探して負担しようと思っている。大して詫びにならぬのは分かっているが。……他に願いはないか? 出来るだけユーリグゼナの希望を叶えたいと思っている」
ライドフェーズの沈んだ声に、ユーリグゼナは不思議そうに首を傾げる。
「何の件ですか?」
「ばっ」
馬鹿め。と言いそうになり、ライドフェーズは慌てて口を閉ざす。謝罪するのだ。もっと落ち着いて話そうと思った。
「鎖を奪おうとした件だ」
「鎖、ですか? 何もとられていませんが?」
彼女は理解不能、という顔で再び首を傾げる。ライドフェーズは真面目に言うのが馬鹿らしくなる。が、ぐっと我慢した。
「奪おうと朱雀の間に連れ込んだせいで、結果的に声を失ったであろう。申し訳なかった」
そう言うと、ライドフェーズは深く頭を下げた。机に彼の栗色のくせ毛がかかるほどに深くだ。ユーリグゼナは戸惑いがちに、頭を上げるようライドフェーズに言う。
「あの……。私、多分よく分かっていません。倒れたあと意識が無くて。私が声出なくなったのは、あの時光り始めた母の魔法陣のせいだと思っていましたが、違うのでしょうか」
「違わない」
ライドフェーズは呟くように言うと、ユーリグゼナは笑顔になった。
「私はライドフェーズ様とギスギスした話をするのが、一番怖かったんです。本当にもういいです。セルディーナ様のご容態は落ち着かれたのですね。鎖なくても大丈夫だったのですね」
嬉しそうな彼女の様子に、ライドフェーズは気が抜ける。力なく答える。
「朱雀の力でとりあえずの延命はできている。だが、このままでは駄目だ。何とかしようと思っている」
「私にできる事があれば、仰ってください。何でもします!!」
ユーリグゼナは前のめりで言う。ライドフェーズは頭がくらくらしてきていた。
「ユーリグゼナ。前から思っていたのだ。どうして自分の命を大事にしない」
その言葉に急に、彼女は縮こまった。ライドフェーズは腹立たしくなっていた。あれだけ人の心を揺さぶる演奏をするのに、なぜ彼女自身は命を軽視しているのか。低い声でライドフェーズは言う。
「さっきの鍵盤楽器を聞いて思い出したのは、死んだ同胞のことだ。上の者が絶対に言ってはいけないことだが、敢えて言おう。死に意味など無い。戦死に意味など持たせるから、次の争いが起こるのだ。命は誰の、何の命も等しく大切なものだ。それを苦しみながら生きて示すのが、残された者の役目。それが自分の心を捻じ曲げても、我々を生かした死者への手向けになると思っている」
ライドフェーズは厳しい表情で、ユーリグゼナを睨む。
「お前は、命を懸けてお前を守ろうとした者たちを愚弄する気か?! お前の命はお前だけのものではない。いつまでも腑抜けたことを言うな!!」
彼は怒りのこめて彼女に言い放った。ユーリグゼナの目から、ボロボロと水が溢れ出していた。ぐちゃぐちゃの顔で謝罪する。彼女の小さな肩が震えていた。その様子を見て、ライドフェーズの怒りは急速に冷めていく。
(謝罪するつもりが、なんでこんなことになっている……)
子供相手に言い過ぎた。彼には収拾不能だった。逃げるように部屋を出てシノを呼びに行く。
ライドフェーズは、シノを捕まえ状況を伝える。シノは入れ替えるお茶と、顔を冷やす厚手の布を用意して言う。
「ご家族をお呼びしましょう」
「頼む。こっちは私が持って行こう」
ライドフェーズはそう言って茶器と布の乗った盆を持つ。シノが心配そうにそれを見ていたが、彼は頑として譲らなかった。反省していた。何かしなければと思っていた。
部屋に戻ると、ユーリグゼナに布を渡しお茶を入れ替え、甲斐甲斐しく世話を焼く。その様を唖然とした顔で見ていた彼女は、徐々に表情を緩ませる。
「ライドフェーズ様に、お茶を淹れて頂くとは思いもしませんでした」
はにかんだユーリグゼナを見て、ライドフェーズは小さく息をついた。扉を叩く音がして、シノが入室してきた。すると、いきなりユーリグゼナは立ち上がる。
「あの!」
声をかけられたシノは無表情だったが、ピクリとこめかみが動く。非常に驚いていることが、付き合いの長いライドフェーズには分かる。ユーリグゼナは俯きながら、消えてしまいそうな声を出した。
「せ、先日はご迷惑をおかけいたしました。よ、良ければ、こちらをお納めください」
しどろもどろの彼女は、鞄から玻璃の容器を出し、袋と共に机に置く。シノの顔は硬直している。見ているしかできないライドフェーズは、心の中で叫んだ。
(間が悪すぎるんだ! 馬鹿者!!)
次の瞬間、アナトーリーとフィンドルフが入室してくる。そして二人は机の上に置かれたものに気づき、足を止める。誰も身動き一つしない。五人全員が奇妙な沈黙に息を呑んだ。
最初に口を開いたのはシノだった。
「ライドフェーズ様。鍵盤楽器の搬入作業は無事に終了されたそうです」
「……アナトーリー。ご苦労だった」
ライドフェーズは引きつりながらも、笑顔でアナトーリーを労う。アナトーリーとフィンドルフは礼を執り、跪く。ライドフェーズは言う。
「ユーリグゼナを…………疲れさせてしまったようだ。悪いな」
彼は誤魔化しながら懸命に言葉を選ぶ。アナトーリーは申し訳なさそうにライドフェーズに頷き、ユーリグゼナに帰宅を促した。ユーリグゼナは顔を強ばらせたまま、机の上に視線を落とす。彼女の横をすうっとシノが通り過ぎる。その瞬間、彼女の顔が激しく歪んだ。のろのろした動きで机の上を片付け始める。ライドフェーズは急いで声をかけた。
「それは柚子茶か?」
ユーリグゼナは力なく首を落とす。重ねてライドフェーズは言う。
「セルディーナが飲みたがっている。店で売っているものは蜜が使われていて、赤子には良くないらしい。パートンハド家では蜜を使わないのだろう? それをくれないか」
彼の言葉にユーリグゼナはゆっくりと頷いた。そして玻璃の容器はそのままに、袋を持って出ようとする。
「それも置いて行け」
思わずライドフェーズは言い放った。彼女は袋から手を離し、ちらりとシノの顔を見た。そして硬直する。
(ああ。もうお前たちは。本当にもう……)
ライドフェーズは額に手をあてる。アナトーリーは素知らぬ顔で言った。
「御前失礼いたします。ユーリ帰るぞ」
アナトーリーの声にユーリグゼナは金縛りが解けたように、そろそろと扉に向かう。最後に出たフィンドルフが扉を閉める。それまでが、ライドフェーズには本当に長く感じた。彼の顔は引きつり、痙攣していた。
「申し訳ございません」
扉が閉まるとシノが跪き、深く頭を下げる。ライドフェーズはシノの頭をポンと叩いた。
「菓子が欲しいな。シノもお茶に付き合ってくれないか?」
シノはゆっくりと顔を上げる。顔色を失ったまま頷いた。シノが準備のため一旦退出すると、ライドフェーズはユーリグゼナが置いていったものを確認する。袋の中を見て、彼は頭を抱えた。
(ユーリグゼナは無自覚なのか?)
ライドフェーズはずっと、シノを追い詰めてしまったのではないかと懸念していた。彼の純粋な気持ちを捻じ曲げたかもしれない、と。
今日、懸念は現実のものだったと気づき、彼は責任を感じていた。
シノは茶菓子と自分の茶器を机に置くと、彼自身も椅子に座る。目つきが鋭い。
(シノらしくもない)
ライドフェーズは、苦笑いしながら聞く。
「何を言ったんだ? ユーリグゼナに」
彼の言葉に、シノは自分の茶器をかちゃりと鳴らす。シノには珍しい不作法だ。目線を上げずに、シノは強ばった表情で言った。
「『私には受け取れません』……そう申し上げました」
「なるほど。それを直接、身分が上の者に言うのは、らしくないな」
「申し訳ご」
「そうではないのだ」
深く謝ろうとするシノを、ライドフェーズは遮った。
「シノにとってユーリグゼナは特別なのだろう。身分は関係なく。それは良いことだ。私はシノにそんな風に思える人が出来たことが、本当に嬉しい」
シノは眉間にしわを寄せたまま、驚いたように顔を上げた。ライドフェーズは続ける。
「だから、シノの想い。私が少し預かってもいいか? シノがシノのまま生きられるシキビルドになるまで」
ライドフェーズはもう、生まれや育ちで何かを諦める人間を見たくなかった。シノは変化を恐れず、いつも最善を尽くす真っ直ぐな人間だ。それでいて平民で若い彼の才は、庇護者なしでは生かされない。守ってやりたい。これからも。
「ユーリグゼナはこれから他国に翻弄される。でも彼女の卒業までに、シキビルドと世界が変わっていれば、シノの出している結論が変わってくると思うのだ。別にシノの気が変わらなくても構わぬ。私が世界を変えたいだけなのだから」
そう言うとライドフェーズは椅子から立ち上がり、柚子茶だけを手に退出しようとする。シノは反応が遅れた。
「お待ちください。供の方とお戻りください。…………これはどうすれば」
シノの目先には、ユーリグゼナが置いていった袋があった。ライドフェーズは、片眉を上げニヤリと笑う。
「私が要るのは柚子茶だけだ」
そう言うと自分で扉を開け、シノを振り返り言う。
「セシルダンテが到着したようだ。シノはここで良い」
シノは、少しだけ緑の混じる灰色の目を見開き、動けなくなっていた。ライドフェーズは、彼の様子を注意深く見ながら、扉を閉める。
(シノはどうするだろう。出来れば、花は見て欲しい)
彼は出口へ向かいながら思う。袋の中身は花束と手紙。花は少し萎れていた。小さな青紫色の花で、茎と葉は灰色で少しだけ緑を帯びる。シノの髪と目の色と重なる。彼自身のような慎ましく美しい花だった。他人の心に疎いライドフェーズですら、心が揺さぶられる。
ユーリグゼナは、他国に注目され過ぎている。ライドフェーズはシキビルドを司る王として、国も人も森も守る義務がある。今のところ、彼らの想いは封印するしかない。ライドフェーズはゆっくりと目を伏せた。
次回「内緒の話」は5月13日18時掲載予定です。




