48.森の小屋
ユーリグゼナは、自らを包む温かい毛布から抜け出すことを躊躇う。
季節は巡り、冬になっていた。何も変えられぬまま、ただ時間だけが過ぎるように感じる。それでも今日は一歩だけ進もう。そう思い、彼女は一気に寝台から起き上がる。
(アナトーリーを泣かせるかもしれない。でも分かって欲しい……)
ユーリグゼナは目を潤ませつつも、しっかりと立ち上がり、いつも通りに朝の支度を終える。
ユーリグゼナが台所へ行くと、先に朝食の準備をしていた従弟の長男フィンドルフが彼女をチラリと見て言う。
「おはよう」
秋に今期の学校は閉校した。フィンドルフは家に帰ってきてから、毎朝ごはんの用意を手伝っている。
ユーリグゼナは彼の肩に軽く触れ、言葉を伝える。
(おはよう。ヘレンは?)
フィンドルフは軽く目をつむる。焦げ茶色のくせ毛が揺れた。
「母上はまだ寝てる」
ユーリグゼナは少しだけ頬を緩ませる。
(少し気が抜けたのかも。フィンが頼りになるから)
フィンドルフは、照れくさそうに鍋をかき混ぜ続けた。
朝食の支度が出来た頃、叔父アナトーリーが部屋から出てくる。だいたい最後に起床する彼は二人を見て、なんだ今日は三人寝坊か、と笑う。
ユーリグゼナは彼に近づき、腕に触れる。
(鍵盤楽器を譲りたいと思ってる。養子院だったら、色んな人が弾いてくれるんじゃないかなって)
アナトーリーは顔を強ばらせ、スッと目を逸らせた。それを見たユーリグゼナの顔が曇った。
その時叔母ヘレントールが、眠そうなアラントスとユキタリスを連れ起きてくる。彼女は優しく微笑んだ。
「フィン。朝食の用意をありがとう」
フィンドルフは軽く首を振ってヘレントールに応える。が、彼の紺色の目はユーリグゼナとアナトーリーを見つめたままだ。
ヘレントールは笑顔で全員を席に誘う。みんなが席に着き、和やかに朝食をとる。その中で、アナトーリーだけは一言も口をきかない。ユーリグゼナの気持ちは沈んでいく。
食事も片付けも終わると、それぞれ部屋に散らばり各々に過ごす。アナトーリーは部屋に戻ろうとするユーリグゼナを呼び止めた。彼の薄い茶色のやわらかな髪が揺れる。
「森の小屋から鍵盤楽器を移動するのは、そう簡単じゃないんだ」
彼の言葉に、ユーリグゼナは首を傾げた。彼女の濡羽色の髪がゆらりと揺れていた。
アナトーリーは「柚子の実を採りに行こう」と、ユーリグゼナを誘う。柚子の樹木は家から少し離れた森にある。ユーリグゼナは彼と二人で歩いていく。彼女は冷や汗をかかずに、森に入れるようになっていた。籠を抱えたアナトーリーは、道すがら話し始める。
「森の小屋が、本当は何か知っているか?」
ユーリグゼナは首を振る。彼女は収穫に使う刃物などの道具を抱え歩いていた。アナトーリーは彼女の抱える道具を何個か取り上げると、自分の籠にヒョイと放り込み言う。
「ベルンは小屋ごと異世界から飛んできたんだ。あの鍵盤楽器も異世界のものだ」
ユーリグゼナはあんぐり口を開けた。でも妙に納得する。小屋の中の物は他では見ないものばかり。小屋の楽譜は、この世界の楽譜とは違う形式で書かれていた。
「小屋の物を外に出してはいけない、と言われ続けただろう? 異世界の物はそれ自体に害はなくても、この世界に影響を及ぼす。あの小屋には父上がかけた結界が張られている。世界を守るためだ」
アナトーリーが祖父の話をするのは、ペルテノーラから戻ってきて初めてだった。張りつめた表情で話し続ける彼を、ユーリグゼナは見つめる。
「父上は、異質なものを感知予知する能力を持っていた。とても珍しくて強い能力だ。他で持っている人間に、俺は会ったことがない」
そう言う彼の目は、どこか遠くを映している。それを見て、ユーリグゼナはどうしようもなく切ない気持ちになる。そんな彼女に、アナトーリーは優しい笑顔で言う。
「でも何とかする。ユーリの願いなら、何だって叶える。絶対だ」
しばらく経ったある日、アナトーリーは再びユーリグゼナを誘う。今度は森の小屋だった。
「鍵盤楽器移動できるぞ。養子院の方も受け入れ用意を整えた」
彼は集中した様子で、テキパキと用意してく。ユーリグゼナは不安になり、彼の腕を引っ張った。
(待って。大事になってる。迷惑かけたいわけじゃ……)
そう伝える彼女の手を優しく包み、アナトーリーは濃い紺色の目を細めて言う。
「ユーリがたくさん悩んで願ったことだと、分かっているつもりだ。違うか?」
彼の言葉で、ユーリグゼナは目が潤んでくる。アナトーリーは続ける。
「ユーリはこの世界に音楽があって欲しいのだろう? 自分がもう聞くことが出来なくても。だからユーリにとってただの楽器ではない、この鍵盤楽器を他の人に弾いて貰いたいんだ」
違うか? とアナトーリーは彼女の顔を伺う。ユーリグゼナが頷いた途端、温かい水滴が流れ落ちた。どうにも止まらなくて、次々に彼女の目から溢れては流れ落ちる。気が付くと抱き寄せられ、アナトーリーの胸の中にいた。もう思う存分泣く。声は出ないまま。
ユーリグゼナが落ち着くと、アナトーリーは彼女の頭をポンと軽く叩く。そして作業に入った。緊張した面持ちに変わる。緻密な魔法陣を鍵盤楽器にとても丁寧に描いていく。とても時間がかかった。ユーリグゼナは一度家に戻り、お茶と食事を持って小屋に戻る。
日が暮れる頃、ようやく終わった。力を出し切ったアナトーリーは小屋を出た側でしゃがみ込む。彼はぼんやりとした顔のまま、遅すぎる昼ご飯を食べ始めた。ユーリグゼナの疑問に答えるように言う。
「この魔法陣は調停者のアルクセウス様から教えていただいたものだ。父上と同じ能力をお持ちなんだそうだ」
ユーリグゼナは黒曜石のような目を見開く。ただの一国の臣下の娘のために調停者が動くのは、信じられない気がした。彼女はアナトーリーに伝える。
(アルクセウス様は良心的な方なんだね。カミルシェーン様はライドフェーズ様とご兄弟だし。二国と二年前まで戦っていたなんて不思議な気がする。……そもそもどうして戦争になったの?)
彼女の言葉に、アナトーリーは苦い顔になった
「前シキビルド王が、前調停者とともに残虐な行為で聖城区を汚したから。この世界の取り決めを破り続けたから。──でもそれだけでは戦争にならない。一番の理由は、他国と話ができる人間がシキビルドにいなくなったからだ。開戦時にはもう、パートンハド家は……」
彼はユーリグゼナの様子を窺いながら言う。彼女は落ち着いた様子で伝える。
(おじい様も母様も、もう居なかった)
その時、他家に嫁入りしていたヘレントールも、ユキタリスを産んだばかりで体調を崩していた。完全にパートンハド家が沈黙していた時期に重なる。アナトーリーはどこか遠くを見ながら言う。
「開戦時なら聖城区もペルテノーラも交渉できた。本格的な戦闘は避けられたと思う。アルクセウス様もカミルシェーン様も、本当はシキビルドを止めたかっただけだったらしいから……」
そう言う彼の顔から血の気が引いていく。それでも続ける。
「戦争を止めようと、スリンケットの父上が奮闘してた……。でも結局、シキビルドの特権階級は自分の保身を選んだ。国のために戦争を終わらせ、弾劾裁判を受ける決意は最後まで出来なかった」
アナトーリーの話に、ユーリグゼナの顔は青ざめる。スリンケットの父は投了後、弾劾裁判を受けて処刑されたはずだ。先日のスリンケットのかすれた声が思い出される。
そして。戦争の話になると、どうしたって気になることがある。でもずっと聞けないでいる。
(アナトーリーは? 当時の敵国で何をやっていたの)
彼女は彼には伝えない。心の中で思っただけだ。なのにアナトーリーが、息を呑んだ。ユーリグゼナの顔は強ばる。それを見て、アナトーリーは寂しそうに笑い、呟いた。
「……聞こえた訳じゃないんだが、ユーリが何考えたか分かった」
アナトーリーは自分の膝を抱え込み、うずくまる。そのまま小さな声で言った。
「ずっと口にできなかった。想像通りだよ。俺はシキビルドの情報を漏らし続けた。そして……シキビルドの人間をこの手で殺した」
彼の声はかすれ、途絶え始めた。
「俺がいなければ……死んでいれば良かったんだ」
ユーリグゼナはアナトーリーに身体を寄せた。でも全然気休めにもならない。彼女はうずくまる彼を抱きしめようとする。が、腕の長さが足りない。
アナトーリーは苦しそうに息を詰まらせた。
「俺は家族を守りたかった。でももう遅くて。せめてユーリは守ろうとして。でもまた守れなくて。 ……ごめん。本当にごめん……」
彼の苦しい声が、ユーリグゼナの胸に突き刺さる。彼は守ってくれた。もう何度も。だからユーリグゼナは生きている。でもそれを言っても、今の彼には届かないような気がした。
(大事な人が悲しんでる。なのに、私はこんなにも足りない)
ユーリグゼナは彼の後ろから、ぎゅっとしがみついた。まだ足りない。全然足りない。彼女自身も苦しくなって息が詰まる。
アナトーリーはいつも苦しい時、彼女を抱きしめてくれた。寄り添ってくれた。なのに彼に何も返せない。彼女は精一杯アナトーリーにしがみつき思う。力が欲しい。大切な人を守れるように。
次回「降り積もる」は5月6日18時掲載予定です。




