44.届けたい
ユーリグゼナは吐き気を催しながら目が覚めた。見た夢の気持ち悪さが感覚として残っている。それでも、今日は決意を持って起き上がる。
朝ごはんの用意に台所に向かうと、先に準備をしていた叔母ヘレントールが笑顔で言う。
「おはよう」
それにユーリグゼナは笑顔で返せず、目を細めるだけだ。彼女はヘレントールに後ろから抱きつく。それが声の出せないユーリグゼナの、心を読む能力を持たない彼女へする朝の挨拶になっていた。そして、ユーリグゼナはヘレントールに手紙を渡した。昨夜ようやく最後まで書き上げることが出来た。
ヘレントールは料理の手を止め、手紙に目を通す。読み終わると、彼女はユーリグゼナをぎゅっと抱きしめた。
「もちろんいいわ。すぐでいいの?」
少し涙声になったヘレントールに、ユーリグゼナは大きく頷いた。眠そうな顔で起きてきた叔父アナトーリーは、姉のヘレントールから話を聞き、ユーリグゼナを抱きしめずっと放さない。あまりに長くユーリグゼナが気が遠くなった頃、ようやく彼女を放しボソッと彼は言った。
「ユーリの願いなら、何だって叶えてやるさ」
ユーリグゼナは、みんな大袈裟だなあ、と思いながら彼に伝える。
(アルフに楽譜を届けたいだけだよ? 学校行ってもすぐに帰ってくるから)
彼の薄い茶色のやわらかな髪がふわりと揺れる。機嫌良さそうに言った。
「分かってる。俺が学校まで付き添ってやる」
「あー。やめて」
ヘレントールが当然のように彼を止める。
「学校に大人が行くのは良くないわ。フィンドルフに頼んで。感応の能力あるもの。それよりアナトーリー。森の小屋に付き合ってあげて。取りに行きたいものがあるんだって」
「あっ? ああ……」
アナトーリーは戸惑いながら了承する。ユーリグゼナは森も小屋も、怖くて一人で行くことができなくなっていた。
(母様とおじい様、そして父様のことをもう思い出してきてる。……でも誰にも言っていない)
ユーリグゼナはその話をすること自体、怖い。アナトーリーが勘づいて、彼女が眠っている間に心を探っているのは知っている。それでも直接問わないでくれるので、彼女はホッとしていた。
森の小屋への道を歩くだけで、ユーリグゼナは冷たい汗をかいていた。そんな彼女の手を、アナトーリーはそっと取る。少し落ち着きを取り戻しながらユーリグゼナは思った。
(なんだか小さい頃に戻ったみたい)
それが聞こえたアナトーリーはにやりと笑う。
「たまには良いだろ?」
そう言って彼は手を握ったままブンブン振り回す。子供に戻ったのはアナトーリーだ、とユーリグゼナが思っていると、彼はこつんと彼女の頭を小突く。
「聞こえてるぞ」
その言葉にユーリグゼナは頬を緩ませた。
久しぶりに来た小屋は、守りの魔法が効いていて特に荒れた様子はない。ユーリグゼナは楽譜だけ取って急いで外に出る。アナトーリーは彼女の後からゆっくり出てきた。ユーリグゼナは、彼が何を見て何を思ったか手に取るように分かった。
(鍵盤楽器に積もる埃を見てた。……ごめん。まだとても無理)
ユーリグゼナは俯きそうになる顔を必死に上げ、アナトーリーを見た。彼は血の気の無い顔で、ユーリグゼナに微笑む。
「行くか」
彼女が頷くと、アナトーリーは再び彼女の手を取る。二人で黙って家までの道のりを歩いた。
学校に行く日、ユーリグゼナは今年初めて制服を着る。パートンハド家の御用達となった研が『私に依頼してください!!』とアナトーリーに懇願し、彼女とフィンドルフと二人分を仕立ててくれていたものだ。とても綺麗な黒に見えるほど濃い紫の生地だ。
(何だか母様に似合いそうな色……)
そう思いながら、彼女は楽譜を持ち出発する。結局アナトーリーは時空抜道まで付き添うことになっていた。拠点に着くと先に学校から到着していたフィンドルフが、ユーリグゼナに駆け寄る。彼女の顔を見てホッとした顔をするが、すぐに顔を背ける。ユーリグゼナはフィンドルフに触れ、伝える。
(どうしてこっち見ないの? ぎゅってしていい?)
「ユーリの馬鹿!」
思わず大声になり、フィンドルフは口を押える。そしてふうっと息をつくと、ユーリグゼナの手を取り伝えてくる。
(痩せすぎ! 周りに心配させるために行くようなものだ)
(そんなに痩せた?! でも会って渡したい……ダメかな)
ユーリグゼナの言葉を感じながら、フィンドルフは苦笑いする。彼の焦げ茶色のくせ毛がふわりと揺れた。
(いや。いいと思う。そしてアルフレッドたちに怒られるといい)
そう意地悪そうに伝えてきた。ユーリグゼナが心配そうに顔を曇らせるのを見て、フィンドルフは少し笑って彼女の手を引く。
「行こう」
「フィン。ユーリを頼む」
アナトーリーは苦しそうな顔で言う。道中も終始心配そうだった。フィンドルフはアナトーリーににっこり笑い、手を振ってユーリグゼナと時空抜道に入っていった。
二人きりの暗いトンネルを彼らは手を繋いだまま歩いていく。ユーリグゼナはフィンドルフに久しぶりに会えて嬉しかった。
(フィン。背伸びたね? 学校どう?)
無表情ながらも弾んだようなユーリグゼナの心の声に、フィンドルフは頭を抱えた。
「背伸びたし、学校で上手くやってるさ。……それより何? その黒い鳥」
ユーリグゼナは自分の肩を見る。黒々とした羽根がツヤツヤで、とても綺麗な鳥がとまっている。
(ああ。声出なくなった辺りから、時々鳥の形に実体化するようになったの。前はもっと細長くて生ぬるい感じだったんだけど)
「……そんな話、アナトーリーから聞いてないぞ」
(言ってないからね。前はトンネルでシキビルドに帰って行ったのだけど、今日は学校までついてくるみたい)
ユーリグゼナの話にフィンドルフは呆れかえり、片方の眉を歪ませた。彼は繋いだユーリグゼナの手をぎゅっと握り締める。
「もう勝手にいなくなるな。俺が守るから」
(……ありがとう。フィン。大好きだよ)
ユーリグゼナが嬉しそうな心の声で伝えると、フィンドルフは「全然分かってない……」と力の抜けた声で呟き、ため息をついた。
シキビルドと学校は季節も時間も繋がっていない。二人が学校に着くと早朝だった。朝もやの中、シキビルド寮へと移動する。猛暑のシキビルドと違い、肌寒い。寒さで心細さが増しているユーリグゼナに、フィンドルフは持っていた上着をヒョイとかけた。上着は彼の体温で温まっていた。彼女は彼の手を取り伝える。
(ありがとう)
フィンドルフは軽く頷いて目を逸らす。彼のこっそり思ったことがユーリグゼナに聞こえてきた。
(まだ全部思い出したわけじゃなんだな……)
どこかホッとしたような感じだった。ユーリグゼナは知らないふりをして俯く。彼の顔が見れなかった。
ユーリグゼナが声を失ったことは、家族とその場にいた者以外に漏らさぬよう、ライドフェーズが箝口令を敷いていた。本来はアルフレッドたちに会うことも禁じられていたが、アナトーリーがライドフェーズに掛け合い、秘密裏に設定される。なぜそんなに隠すのか、ユーリグゼナには分からなかった。
今回、寮の特別室の使用が許可される。二人は人目に触れぬよう入室した。ユーリグゼナの目に艶やかな薄紅梅色の髪が映る。ユーリグゼナは思わず駆け寄り、抱きしめた。
テラントリーは少し驚いた様子ながらも、そっとユーリグゼナを抱き返して言った。
「本当に、本当に心配していました……」
言いながらテラントリーの声がかすれる。そしてユーリグゼナを抱きしめ続けて言う。
「どうしてこんなに衰弱されているのですか? 命令のことは分かっています。話せることだけで結構です。お食事がとれない状況なのでしょうか」
テラントリーの薄茶色の目が揺れている。彼女の心配する気持ちがユーリグゼナに伝わってくる。ユーリグゼナはフィンドルフに向き直り、小さく頷く。フィンドルフはユーリグゼナの代わりに説明した。
「ユーリは今、家でのんびり過ごしています。声が出ないのは相変わらずですが、これでも食欲は少し出てきていると叔父から聞きました」
フィンドルフの言葉にテラントリーは、ほんの少しだけ表情を緩める。ユーリグゼナはフィンドルフの手を取り伝える。
(テラントリーの首元につけている緑の石、私があげたものなの。綺麗に加工されていて、とても似合ってる!! って伝えて。あと式の舞姫の時もつけてたでしょう?! 光の中でキラキラして綺麗だった。舞も本当に……)
ユーリグゼナを遮るように、フィンドルフが言う。
「待て。それを全部俺に言えと?」
彼の紺色の目が呆れたように細められる。ユーリグゼナは首を傾げる。また分かってないな、と呟きフィンドルフが頭を抱える。
「後で手紙でも書け」
彼はユーリグゼナに言い放つと、テラントリーに向き直り言う。
「ユーリは石のことと、式でのことを語りたいようです。手紙の許可は王から下りました。後ほどユーリに書かせます」
「分かりました。お待ちしています」
テラントリーはフィンドルフに頷き、ユーリグゼナに目を細めて笑った。ユーリグゼナは微笑みを返せないながらも、少し表情を緩め頷いた。ユーリグゼナは、気持ちを手紙にするのが本当は難しい。書いている途中で息が詰まって苦しくなるのだ。でもテラントリーの微笑みで、心の中が温かくなってくる。少しだけ頑張ろうと思えた。
(書く。テラントリーに気持ちを伝えたいから)
特別室の扉が誰かに叩かれる。フィンドルフが様子を伺いに行く。テラントリーがユーリグゼナに言った。
「ユーリグゼナ様がいらっしゃることは、先ほどフィンドルフ様の連絡で初めて知ったのです。アルフレッド様もスリンケット様も慌てて準備されていると思います」
ユーリグゼナは、直前まで情報を漏らさない厳しい規制に改めて驚く。
部屋の中にドタドタと足音を立てながら慌てた様子のアルフレッドが入ってきた。彼のさらっとした見事な金髪が揺れる。アルフレッドはユーリグゼナを見ると、動きを止め呆然とする。ユーリグゼナは彼の視線の強さに、居心地が悪くなる。少し目線を逸らし、手を顔の高さまで上げぷらぷらと振ってみた。
それを見たアルフレッドは「何の合図だ。それは」と呟きながら動き出す。彼はユーリグゼナの側に来るが、やはり黙ったまま彼女を見つめるだけだった。
ユーリグゼナは自分の鞄から袋を取り出し、アルフレッドへ差し出した。彼は中身が楽譜だと気づき、驚いた顔をする。が、すぐに不機嫌そうに言った。
「病気を押してまで届ける必要ないだろ?」
そう言われた瞬間、ユーリグゼナはカッと頭に血が上る。衝動的に持っていた楽譜で、力いっぱいアルフレッドをぶっ叩いた。それは彼の顔面に命中。アルフレッドは目がくらんだようによろめいた。ユーリグゼナは出ない声で叫んだ。
(アルフはずっと催促し続けたじゃない!! そんな言い方ある?! ……なんで、なんで喜んでくれないの?)
彼女は声は出ていないのに喉が痛い。何か喉に絡んで息が苦しくなり、咳き込んで口を手で押さえた。そして彼女の手に、目から温かい水がポタリと落ちた。
(え?)
彼女は自分の変化に気づき、呆然とする。それはずっと堰を切ったようにこぼれ続ける。
ユーリグゼナは死を意識したとき、思ったのは二つだった。家族への想いと、音楽への執着。だから死ぬ前に果たしたかったのだ。フィンドルフが学校で上手くやっていけるように側人を探すこと、そしてアルフレッドに約束通り楽譜を贈ること。
(私にとって、アルフレッドは音楽そのもの)
ユーリグゼナは分かった。アルフレッドと一緒に演奏することは特別なことだと。演奏が終わったら、また次をやりたくなる。次へ次へと心が掻き立てられていく。もう一人で楽しむ音楽では満足できなくなっていた。彼女は苦しくて息を詰まらせる。
(でも、もう。今は何も弾きたくない。音楽に触れたくない)
今のユーリグゼナは心が揺れると、苦しくて苦しくて体が硬直する。音楽に対し、本能的に強烈な恐怖感が溢れてくる。アルフレッドに楽譜を渡すことだけが、最後の仕事のように思っていたのだ。
アルフレッドは呆然としながら、ユーリグゼナを見ていた。彼の顔は少し赤く腫れている。アルフレッドは、座り込んだユーリグゼナの前の床に手をつき、腰を下ろす。
「俺が悪かった。頼む。泣き止んでくれよ……」
彼は途方に暮れたように、ユーリグゼナの顔を覗き込んで言う。アルフレッドは両眉を下げ口を半開きにしていた。それがあまりにも情けない顔過ぎて、ユーリグゼナはスッと胸がすくような気がした。彼女の涙が止まったのを見て、アルフレッドはさらに情けない顔になり呟いた。
「……今ので泣き止んだのか?!」
それでも彼は少しホッとして表情を緩める。ユーリグゼナの手を取り引き上げ、一緒に立ち上がった。そして彼の懐から手布を出すと、少し強引に彼女の涙の痕を拭う。床に落ちた楽譜を丁寧に揃えて、袋に入れ大事そうに手で抱える。アルフレッドは優しい笑顔で、そっとユーリグゼナに言った。
「ユーリ。ありがとう」
それを聞いてユーリグゼナは表情を緩める。何か満たされたように思った。
次回「守れない」は4月15日18時に掲載予定です。




