33.合わさる音色
シノ視点続きです。
シノは、人間がどのくらい血を失うと死ぬのか知らない。もっぱら内向きの仕事ばかりで、戦場にも競技の場にも縁がないので、怪我のことはよく分からなかった。
彼は携帯している清潔な布でユーリグゼナの腕を覆い、もう一度彼女を抱きかかえる。しかし布はあっという間に真っ赤に染まり、廊下を移動する間にポタポタと血が垂れていく。彼は細くて軽いユーリグゼナの身体をしっかり支え、歩く速度を上げた。彼女の死を恐れた。彼女の体温が彼には心許なく感じられる。
(本当なら治療の前に家族に相談するべきだ。このような異常な状態であれば特に……)
シノは苦々しい表情になる。ユーリグゼナは最も位の高い紫位の姫だ。怪我の経緯が外に漏れれば経歴に傷がつく。だから家庭内で魔法で治療する。それが一般的だ。
(でももしアナトーリー様が間に合わなかったら……)
シノはそう考えるだけで寒気を覚える。彼にはその可能性がある選択を出来なかった。このところの失策は冷静になれないことが原因だった。それでも彼は決める。自信が持てないまま。
「お願いします」
シノは養子院の一室の訪ねる。高齢の女性が扉を開け、シノとユーリグゼナを部屋の中へ誘導する。シノはユーリグゼナを白布がピンと張られた寝台にゆっくりと横たえた。その途中にも血が辺りを濡らしていく。茫然とする彼に高齢の女性は、自分の胸あたりをポンポンと叩いてみせる。シノはすぐに察する。
(着替えの服か……)
彼は女性に頷き処置室を出た。治療で衣服を緩めるので男のシノを追い出す意図もあるだろう。この刹という女性は優れた医の者だ。シノは彼女を信じて任せ、自分ができる事をする。
シノは子供たちを世話する女性たちに、ユーリグゼナ用の着替えの服を処置室に届けてくれるよう頼んだ。自らも着替え、パートンハド家への手紙を書き、彼女が起きられる想定でお茶の用意する。手紙は誰に託せばいい。シノが離れるわけにもいかず、灰色の目を伏せた。
コンコンコン
扉をたたく音がして、返事をすると刹がユーリグゼナを連れてシノの部屋に入ってくる。ユーリグゼナが歩いて来れたことにシノはホッとしつつ、顔色の悪い彼女を寝椅子へ座らせる。刹は懐から出した書きつけをシノに差し出す。彼はそっと受け取った。
(刹は話せないからな……)
刹はシノに小さく頷いて見せる。そしてユーリグゼナのところへ歩いていく。穏やかな顔で、患者の頬に優しく触れた。ユーリグゼナは力なく刹に微笑んだ。
シノは退室していく刹に会釈しながら、彼女の書きつけを見る。
『治療は終わったが安静が必要。魔法の治療を受けさせるように。今日中に受ければ傷は残らない』
ユーリグゼナはぼんやりと寝椅子に座っている。シノはお茶とお菓子を給仕する。その様子を彼女はただ黙ってじっと見ていた。何度も会っているが、二人だけなのは町で柚子茶を飲んだ以来。彼の気持ちは静かに沈んでいく。
(御館では何度会っても、こちらを見ようとしなかった……)
彼の立場ではユーリグゼナに声をかけられない。周りの目もあった。ずっと複雑な思いを押し込め、無表情に対応するしかなかった。
シノは何を話して良いのか分からなくなり、黙ってお茶を彼女の前に置く。傷の炎症が治まる効果がある薬草のお茶を選んでいた。ユーリグゼナが小さく会釈して、器の取っ手に白布がきつく巻かれた指をどうにか引っ掛ける。
(そうだ! 取っ手で持てない……)
配慮の忘れに気づき、シノは側人の自信がぐらつく。ユーリグゼナはきつくグルグル巻きにしたもう片方の手を添え、器を持ち上げ口に運ぶ。神妙な面持ちだったが、次第に穏やかな顔つきになる。
シノはその間にお菓子を一口で食べれる大きさに切り皿に並べていた。お菓子に気づいた彼女が嬉しそうに笑う。早速先の尖った匙をどうにか握る。今日のお菓子は養子院の子供用に作られたフワフワの焼菓子だ。甘味が足りないのでシノが蜜を添えようとすると、彼女は手を小さく振る。蜜は要らないようだった。
(そういえば彼女発案の甘酒は平民向けの味だった)
結婚式で配った甘酒は平民には大好評だったが、配った護衛たちには甘味が足りず微妙な反応だった。そのことを思い出し、シノの表情が微かに緩む。
ユーリグゼナは全て平らげる。表情が和らぎ、顔色もほんの少しマシになる。彼女の目線が、部屋の隅に吊るしてある金属の棒で止まった。布を固く巻きつけた木の棒で叩き鳴らすものだ。音ごとに何本もあり、食事の合図など日常の節目に使っていた。前王時代から使われていたが、シノが来た時に折檻の呼び出しに使われていたのを腹立たしく思い、外させたままこの部屋にある。
ユーリグゼナは寝椅子から立ち上がり、ひかれるように金属の棒に近寄っていく。木の棒を取りあげると叩いた。
ポーン
空気を震わせ音が鳴る。ユーリグゼナの表情がパッと明るくなる。彼女はどんどん棒を叩いて音を出す。最初はバラバラの音だったが、いつの間にか音の高さ順に鳴っていた。
(音階になっていた?!)
シノは驚きユーリグゼナと金属の棒に近づいていく。吊るされた順では音階になっていなかった。ユーリグゼナは隣に立つシノの様子を窺いながら、少し緊張した顔で言う。
「並び変えたいのです。……いいでしょうか?」
シノは思わず頷いていた。ユーリグゼナの黒曜石のような黒い目に輝きが戻る。シノは彼女の言う順に並び変える。すると今度は鳴らす棒をもう一本欲しいと彼女に言われ用意する。シノは自分がよく分からなくなる。もっと重要で急ぐことがあるのになぜこの少女の言うことを優先してしまうのか。
ユーリグゼナはおもむろに両手に棒を構え、演奏を始める。
ポーン ポーン ポーン
間を一音開け、隣り合わない二つの音を同時に鳴らしていく。順番に低い音へ、そして高い音へと叩いていく。同じ拍でただ一つずつずらして鳴らしているだけなのに不思議と音楽になった。何度か繰り返されると、演奏はそのままに彼女が歌い始める。
タンタラタンタラ タンタン タタタタ
合わさる旋律が美しい調和を生み出す。空気が変わったことにシノは気づいた。彼女の周りから清らかな空気が溢れ出してくる。あっという間に部屋を超え、建物全体に広がっていった。彼女は楽しそうに単調な拍を繰り返す。シノの心身が癒されるように感じた。ユーリグゼナは一心に演奏を続けている。彼女の整った横顔を彼は黙って見ていた。
演奏が終わるとシノは扉の外に気配を感じ、間髪を開けずに扉を開け放つ。すると扉に寄りかかっていた子供たちがバタバタと部屋になだれ込んでくる。シノに見下ろされた子供たちは慌てて立ち上がり、ピンと姿勢を正し並ぶ。いつもこうやって怒られているのが分かる行動に、シノは笑みがこぼれそうになる。緊張したままの彼らに聞く。
「御用ですか?」
「はひ。おひゃくさまです」
緊張で上手く話せなかった男の子を見て、周りの子たちは必死に笑いを押し殺す。後ろから困り顔のアナトーリーが現れる。
「シノ。遅れて本当に申し訳ない。それと……」
シノはアナトーリーの顔を見て頷くと、すぐに中へ案内する。シノは扉の外に戻り子供たちに言った。
「立ち聞きは駄目ですよ」
「すみませんでした」
「……綺麗な音でびっくりしたの」
子供の中の一番小さな女の子が言った。
「いつも食事か寝る時か、大人に叩かれるかの時に鳴る音が、あんなに綺麗な音になるなんて知らなかった」
その言葉に他の子供たちも頷く。シノは子供たちを彼の灰色の目で見つめた。他の子供たちも音の出所を探して集まってきている。彼は子供たちにやんわり部屋に戻るよう言った。彼らを見送るシノの青紫色の髪がふわりと揺れた。
シノが自室に戻ると、アナトーリーが慌てた様子で彼に言った。
「シノ。ありがとう。正直詳細が分からないが、ユーリグゼナが落ち着いて無事でいることに感謝している。傷を魔法で塞いでおきたい。すぐに戻ろうと思う」
「はい。ぜひ。ここの医の者もそう言っておりました」
「その者に……」
「口止めします。勝手な事をして申し訳ございません」
緊張した面持ちで謝るシノに、アナトーリーは小さく笑う。彼の薄い茶色のやわらかな髪が揺れる。シノの肩に優しく手を置いて言った。
「違う。伝えたいのは感謝だ。その者と君に。ユーリを助けるのは大変だったはずだ。本当にありがとう」
シノは少し救われたような気持ちになり、緊張が少し解ける。アナトーリーは続ける。
「あとで詳細を教えて欲しい。今は──伝えたいことがある。時空抜道が破損した。その対応で御館は人手が足りない。おそらくライドフェーズ様がシノを探しているだろう。セシルダンテ様への伝言はあるか?」
彼の言葉に、シノは大きく頷きながら思った。
(助かった。プルシェルが無いと本当に連絡手段に困る)
「君にはプルシェルを持って欲しいな」
アナトーリーは苦笑して言う。似たことを同時に言われ、シノは顔を緩めた。シノはアナトーリーにセシルダンテ宛の伝言を伝え、ユーリグゼナの持ち物、血に染まった服や鞄が入った袋をアナトーリーに手渡す。アナトーリーは丁寧に受け取り言う。
「シノ。遅刻の挙句こんなに迷惑をかけてしまって申し訳なかった。お詫びは必ず」
彼の肩越しにユーリグゼナの黒い目がシノをじっと見ていた。彼女はシノの目線に気づくとゆっくりゆっくりと目を逸らしていく。彼を見ていなかったことにしたいのだろう。シノは戸惑うとともに少しムッとした。
(こういうところが対応に困るというか、失礼というか……)
目を細めるシノの頬は少し赤くなる。
次回「家族で話す」は3月4日18時に掲載予定です。




