50.良い夢を
前回の続きです。長めのお話です。
パートンハド家に、静かな夜が訪れていた。
ユーリグゼナは今晩の寝台を自ら整える。勝手知ったる元自分の家。側人のサギリがいなくとも、特に不自由しない。パートンハド家に滞在する間くらい、サギリに身体を休めて欲しいので、休暇にしている。
昨夜は青として歌っていたので、遅い就寝だった。明日は朝から森に行くし、今夜は早く休んだほうが良いと分かっている。が……とても寝ることはできない。
(シノはまだ、厨房で片付けをしているよね)
勉強という大義名分を手に寝室を出た。
◇
ユーリグゼナは食卓の机の上に、全四国上位階級登録者年鑑を広げ、深いため息をついた。
王女教育は覚えるまで終わらない。各国の上位階級くらい、さっさと頭に入れたいのに、全く集中できない。
従弟の真ん中アラントスと末っ子ユキタリスは、すでに就寝していた。叔母ヘレントールは、ユーリグゼナの向かいで資料を広げ仕事をしている。
ポコポコと温かい音を立てながら、お茶を注いでいるのは、従弟の一番上フィンドルフだ。
「ユーリ。開いてるページがずーっと『ア行』なんだけど、進んでるか?」
ひんやりとした声が、ユーリグゼナの背中を撫でる。
「進んでる……よ。少しは」
「へえ。じゃ、『ハ行』を最初から言ってみろよ」
「……【パートンハド家】シキビルド王国紫位で、世界で最も古い一族。最強の戦闘能力を持ち、特異な才能を保持する」
「それ、言う必要あるか? 次は?」
「……【ヘレントール】現在パートンハド家の惣領代理で」
「おい。飛び過ぎだろう? ……ぜんっっぜん覚えてないってことだな」
「うっ。すみません。……でも『ア行』なら得意だよ?」
いつもア行から読み進めるため、よく頭に入っている。
「当ったり前だろう?! ア行は知り合いばっかりじゃないか。アラントスにアルフレッド。アーリンレプト王女、アクロビス王子、学校長アルクセウス、あと……」
「アナトーリー!」
「ああ、そうそう……って、新しく覚えるところなんてあるか?」
「た、多少は」
「いいから、とっとと覚えろ」
「うぅ……はい」
フィンドルフに言い訳なんか通用しない。聞いてくれるだけマシである。彼の機嫌はだいぶ直ったような気がする。
厨房から、すらりとした美しい立ち姿のシノが現れた。後ろに爽もついてきている。
「ヘレントール様。片付け終えました。今夜は下がらせていただいて、よろしいでしょうか」
「ええ。爽。お疲れさま。今日もありがとう。おやすみなさい」
「おやすみなさいませ。ヘレントール様」
爽は深く頭を下げ、自室に下がる。
名前が呼ばれなかったシノは、戸惑ったようにヘレントールを見た。
「私も下が」
「シノはまだいいでしょう? ユーリの勉強を見てくれる?」
「……はい」
シノはぎくしゃくした動きで、ユーリグゼナの隣の椅子を引く。それはそうだろう。爽の側人研修に訪れたはずなのに、王女教育をみてとは……。
席についたシノに、フィンドルフから刺さりそうな視線が飛んでいる。
こんな状況下で勉強が進むはずもない。誤魔化すため、書き取りを始めた。
「もしかして、音順に覚えようとしていますか?」
「へ。……は、はい」
しばらく黙って見ていたシノが、突然言葉をかけてきたので、ユーリグゼナは動揺する。
彼は至極真面目な顔をしている。
「書き取りは効果的ですが、覚え方は変えた方がいいかもしれません」
そう言うと、紙にさらさらと書き始めた。
「国の組織、交友関係、世代順、家系図。どういった方向でも構いませんが、自分でまとめ直すと頭に入ります。ユーリグゼナ様は、幸運なことに全四国の主要な方々と面識があります。そこから繋いでいけば、だいぶ覚えやすくなるのではありませんか?」
形の良いシノの指先から、整った文字が現れるのをじっと見入ってしまう。
カンザルトルのリナーサの家系の一人から、ペルテノーラ王カミルシェーンへと線が繋げられる。王妃として嫁いできたのか。ということは第一王子アクロビスの母方はカンザルトルの出身で、リナーサと遠い親戚……。
ペルテノーラのナータトミカとレナトリアの姉弟の一族は、代々各国の実力者と婚姻関係が結ばれている。捕縛されたウーメンハンのミネランの父方と線で結ばれているのを見て、ユーリグゼナは息を呑む。
「……これほど、各国に血の繋がりがあるとは、思いませんでした」
「何代にも渡り、国の権力階級同士で政略結婚が行われてきました。今ではほとんどが縁戚関係にあります」
「そうですか……。代々親戚同士で結婚するのは、良いことではありませんね。魔獣も親同士の血が近いと、身体が弱い子が生まれる傾向にあります。代々続くと徐々に数が減り、その種は滅んでしまうのです。──権力階級は身分にこだわり過ぎず、婚姻の幅を広げるべきです。そうしなければ、将来的に権力階級だけ人数が減ってしまうでしょう」
言い終えたユーリグゼナはシノを見上げる。彼の顔がピキっと音がしそうなほど固まっていた。
「……私、何か間違えましたか?」
「………………申し訳ございません。私が間違えました。今は各国の主要人物を覚えるときです。…………お茶を入れ替えてまいります」
シノはさっと立ち上がり、各人の器を集める。盆の上で、茶器がかちゃりと音を立てた。動揺しているようだ。足早に厨房へ消えていく。
ヘレントールが書類から目を離し、ユーリグゼナを見ていた。
「ユーリ。今のは良くなかったわ」
「……魔獣の話、ダメだった?」
それくらいしか心当たりがない。確かに魔獣の番の話を、人間に当てはめるのは良くなかったかもしれない。
フィンドルフから唸り声のような、深いため息が漏れている。
「……魔獣じゃない。婚姻の方だ」
ヘレントールは頬杖を付き、水色の目を揺らす。
「ユーリ。お付き合いしている相手に結婚の話をしてはダメよ。さっきの言い方だと、特権階級より平民のシノと結婚したいと聞こえるわ。……まあ、シノは冷静に判断して、ユーリが一般論として話しているのに気が付いたみたいだけど」
「……結婚はしない」
ユーリグゼナは呆然としながら言う。頭に霞がかかったように、ものがよく考えられない。結婚は嫌だ。恐怖にも近い感情が湧き上がる。
「当然だ」
フィンドルフが機嫌良さそうに言う。彼女の言葉を肯定しただけなのに、なぜかイライラした。
◇◇
席に戻ってきたシノは、ユーリグゼナが覚えていない箇所を確認しながら、彼女自身に資料をまとめさせた。
確かにこれを覚えこめば、主要な人物は完璧そうだ。相変わらずシノは教えるのが上手い。なのに、なぜだろう。シノの声を聴いていると、やたら……眠い。シノの声が淡々として穏やかで子守り唄のようだからだろうか。勉強への集中力が途切れたからだろうか。寝不足にも心当りがある……。
ぐわんぐわん、と頭が揺れて、はっとして起きる。
「お休みになられますか?」
シノが横から窺っていた。急いで頭を上げたがバレた。真剣に教えてくれているのに、眠くなるなんて最低だ。
続行すると彼女が答えるより、ヘレントールの方が早かった。
「そうね。寝ぼけて危なっかしいから、シノが部屋まで連れていってくれる?」
「はあ? 母上、何言って……」
フィンドルフの声が裏返る。
シノの顔から表情が消える。
ユーリグゼナはどうすればいいのか分からなくなった。
でもきっと、目が覚めましたので、もう少しやります。明日早いので、シノはもう休んでください。と言うのが一番だろう。
彼女が口を開くより、シノの方が早かった。
「……かしこまりました。ユーリグゼナ様。立てますか?」
シノは机の上を片付け、ユーリグゼナの椅子を引いて立ち上がらせてくれる。立たざるを得ない。
シノは彼女の肩を支える。そんなことをしなくても安定歩行できるのに、どうすべきか。
(これは……)
手の置かれた肩から温もりを感じる。もったいなくて、お断りできない。
狡いユーリグゼナは、眠たい演技をすることにした。しかし抜け目だらけな彼女は、顔だけ眠そうでも、階段を上る足にふらつきがない。この不自然さに気づかないのは、本人だけである。
階段を上がりきったとき、シノが小さく息をつき、肩から手を離した。
「困りましたね」
「……は?」
「夕食前に、ヘレントール様に呼ばれたでしょう? そのとき言われたのです。『シノが接触するたび、ユーリが意識を失うのは問題だから、パートンハド家にいる間に、どういう条件下で倒れるか確認したい』と」
「そう、だったんですか」
がっかりだ。どうしようもなく落ち込む。触れてきたのは義務。触れられて嬉しかった気持ちは、ただの独りよがり。
「……どうかしました?」
シノの落ち着いた声に、絶望する。そこに彼女への特別な想いは見えない。それはそうだ、とユーリグゼナは深く息を吐いた。
家に来てからずっと嫌な思いをさせている。周りをうろうろしているだけで、なんの助けにもならない彼女に、触れたいわけがないじゃないか。
普通を装い、シノに応える言葉を探した。
「意識を失うわけではありません。急に強い眠気に襲われて、すっと寝入ってしまうだけです。ヘレンにもちゃんと説明しておきますから。……大丈夫ですよ」
本当はそれどころじゃない。目を逸らし気持ちを察せられないようにした。
シノが黙ってしまった。
なにか言うべきなのだろう。でも、自分でも訳が分からないことに、泣きそうだ。
シノの手がためらいがちに伸びてきた。ユーリグゼナの両肩をふわりと包む。
「……すみません」
「え?」
「ちょっと嘘でした」
「えぇ?!」
「本当はずっと、あなたに触れる機会を探してました。でも……これ以上フィンドルフ様の不興を買うわけにはいかないでしょう? 我慢すべきだな、と思っていたのです。でも、ヘレントール様が大義名分を作ってくださったから……乗りました。すみません」
廊下の暗がりのなか、シノを見上げる。鼻筋が通ったシノは、陰影が増すとますます綺麗だ。
「そうでしたか」
ユーリグゼナの顔が、へらりと緩む。シノがホッと力を抜いたのが分かった。
「あなたは、ずっと気を張っていましたね。……どうかしましたか?」
「あ……いや。その」
ずっと見ていて、気にしてくれていたのだと知る。
気持ちを伝えても許してくれるだろうか。
「謝罪したくて……」
ユーリグゼナが顔を上げると、シノが問うように覗き込んでくる。彼女の顔が歪む。
「……シノに不愉快な思いをさせてしまい、申し訳ございません。私がシノを想うことに、家族は好意的ではありませんでした。次回お会いするまでに、どうにか説得します」
大好きな人をもてなす用意が全くできていなかった。家族がシノに強く当たるのを見て、それにようやく気がくなんて……。
温かな手が、彼女の肩を撫でる。
「それは多分。難しいと思いますよ」
「だとしても……。私が何とかします。シノにこれ以上、嫌な思いをさせたくない」
シノは優しく微笑んだ。
「いえ。嫌な思いなどしていません。……フィンドルフ様の焼いてくださった幸包は、とても美味しかったですし」
「でも、あんなにたくさん」
「ええ。量が多かったですね。それでも完食したのは美味しかったからですよ」
楽しそうに笑う。どこか誇らしげに見えた。
「ヘレントール様は非常に厳しい方ですが、身分や周りの評価でなく、私自身を見ておられます。時間はかかると思いますが、認めてもらえるよう一つ一つ信頼を勝ち得ていきます。他の方々も同様です。なので……どうか。待っていて欲しい」
シノの灰色の目には、僅かに緑色が混じっている。
「……シノが、頑張るのですか?」
「はい」
「二人の問題なのに?」
シノがうっと呻いた。
「……そうさせてください。あなたの大事な人、全員に私は認められたい。あなたを取り巻く全てが欲しいのですよ」
「そんなに」
「ええ。欲深いでしょう? 引きますよね」
「そんなの、嬉しいだけです」
ユーリグゼナは一歩、歩み寄る。シノの背中に手を回し、そっと力を込めた。
「そんなに頑張ってもらって、いいのですか? 私のために? どうしよう。私、幸せ過ぎて死ぬかもしれません」
「簡単に死ぬとか言わないでください」
「はい。もう言いません。シノと生きたいから……」
シノの両腕が彼女を包み込む。彼女の身体から力が抜けていく。気持ちも緩んでしまう。
「……シノから、ぎゅってされるの、好き」
「本当に……もう」
シノの腕に一層力が籠もった。蕩けるような声が彼女の耳をくすぐる。
「ユーリグゼナ様」
すると、なぜだろう。意識が遠のいていく。抗えないほどの強い眠気に、彼女の瞼は閉じていく。
「……またですか」
シノの呟きを最後に、眠りに落ちた。
次話「荒れた森」は、来月更新予定です。




