47.最良の隣3
アルフレッド視点続きです。
アルフレッドは頭痛に苛まれながら起きた。朝食はまるで喉を通らない。
友人オスニエルを玄関まで見送り、再び毛布に潜り込む。
有り難いことに、今日、パートンハド家の仕事は休みだ。惣領代理ヘレントールのことだから、全て予想してのことかもしれないが……。
演奏会の練習を進める予定だったのに、ガンガン痛む頭のせいで、全てのやる気を削がれる。ナータトミカも同じ状況だから、きっと練習は夕方になる。
それまで、生まれて初めての二日酔から、考えたくないことから、逃げるように、眠る。
◇
頭痛が多少マシになった昼ごろ、思いもかけない人物から音声伝達相互システムが来た。
養子院代表ナンストリウスだ。彼はアルフレッドが名家サタリー家の子息であるのを知りながら『アルフ』と呼び、平民の子のように接する。
しかしそれも養子院内だけのこと。外では全く接点がない。
特権階級社会の中で、特異な存在の彼は、仕事以外では誰とも付き合わないという。
そんなナンストリウスからの連絡を、落ち着かない気持ちで受けた。それに対して、返ってきたのは、心配そうな声だった。
「声が枯れてますね。調子悪そうです。大丈夫ですか?」
「いえ。病気とかじゃないので。ご心配なく」
「……酒ですか」
「恥ずかしながら、そうです。すみません」
「謝るようなことではありません。みんな、それなりに嗜んでますよ。私もよく失敗します」
ナンストリウスは気が抜けるほど、穏やかに話す。
不安が消えるような、心の棘が包まれるような、不思議な力を持った声だ。アルフレッドは、いつの間にかいつもの自分を取り戻す。
「ナンストリウス。今朝より、だいぶ良くなってきたところです。だからどうぞ。ご要件をうかがいましょう」
「そうですか。……これからアルフに、受け取ってもらいたいものがあります」
何なのか、は言わない。アルフレッドは嫌な予感がした。
ナンストリウスの声の調子は変わらない。
「飲み過ぎによく効く薬も持たせましょう。良かったらどうぞ」
「ありがとうございます。しかし……唐突ですね。ちょっと怖いです」
「ふふふ。あなたは本当に正直な人だ。本来ならアルフの体調が万全なときが良いでしょう。でも、すみません。急いだほうがいいと、私が背中を押しました」
「……逃げたら、駄目ですか」
ナンストリウスは楽しそうに笑った。
「はは。あなたは逃げませんよ」
◇◇
アルフレッドは音声伝達相互システムを切った後、身支度し、禊のような気持ちで風呂に入り、心を整える。弾き馴染んだ弦楽器を携え、音を合わせていく。自分自身を取り戻すのに最適な手段。どんなときでも、弾き始めればアルフレッドは夢中になる。
扉が叩かれ、我に返った。側人が来客を告げる。
「こちらの部屋にお連れしますか?」
「いや。行く」
客室には居心地悪そうにしている客人、シノがいた。アルフレッドを見ると、スッと立ち上がり見事な所作で頭を下げた。
なかなか頭を上げない。痺れが切れて声をかけようとしたとき、扉が叩かれる。サタリー家の側人がお茶を持って入ってきた。
一つの器には普通のお茶。もう一つの器には、見たことのない濁った褐色の液体が入っている。嗅いだことがないのに、知っているような不思議な香りがする。
側人はその得体の知らない飲み物を、つぅっと彼の目の前に置いた。
「アルフレッド様。こちらはナンストリウス様からの頂き物です。海の貝の煮汁を味噌という発酵食品で溶いた、二日酔の薬です」
側人はじとりと目を向けてくる。今朝からずっと、彼に飲み過ぎについてくどくど言われ続けているアルフレッドは、不愉快そうに目を逸らした。
「分かった。いただくよ」
側人は立ち去る素振りを見せない。
「アルフレッド様。この薬、本当によく効くんです。酒飲みの救世主とも称されている人気商品で、いつも売り切れなんです。入手困難の貴重品なんですよ!!」
「……ちゃんと飲むよ。何だよ。他にまだ用があるのか?」
アルフレッドは口を曲げた。家の中では、まだ子どもっぽさが抜けない。
「いいえ。元気出してくださいね」
子どもの頃から仕えてくれている側人の顔を見る。そしてようやく気付く。ここのところずっと沈んでいたであろう彼を、昨日から自暴自棄になっている彼を、心配してくれていた。
「……分かった」
「どうかご無理なさらないで」
「気をつける。ありがとう」
気遣う声に反省したアルフレッドは、ぐっと薬湯を飲み干した。
とはいえ、元凶に立ち向かうのに、無理しないというのは無理がある。側人が下がると、大きなため息とともに目の前のシノを睨みつけた。
◇◇◇
シノは再び深く頭を下げた。青紫色の柔らかそうな髪が、アルフレッドの目の前で揺れている。
「……王の側人シノ、と申します。主に養子院で従事しております」
知ってる。よーく知ってる。
何を今さら。自己紹介もしたことがあるはずだ。王の結婚式の演奏練習の時だから、もう五年も前になるか。その時からずっと、二人の距離は遠いままだ。
シノは王の側人とはいえ、ただ平民。
アルフレッドはシキビルド屈指の名家サタリー家の子息で、王女の婚約者。
二人には、天と地ほどの身分差がある。
シノの卑屈と思えるほど恭しく腰が低い態度は、紫位の特権階級に訪ねて来た平民として、至極真っ当だ。
でもそんな態度も、アルフレッドには不愉快でしかない。
養子院のシノは、子どもを諭し教え叱る。媚びたりしない。いたって普通だ。
それなのに側人として特権階級をもてなす彼は、不自然なほどに微笑んでいる。所作も表情も、全てが馬鹿丁寧。自分がなくて、気色悪い。
心の底では相手を馬鹿にしてるんじゃないか、とすら思う。
(ここまで思うのは、シノくらいだ)
アルフレッドの嫌悪に、シノはすぐに気付いた。互いに距離をとった。今日この日まで、永遠に話すことは無いと思っていた。
「アルフレッド様。本日は急にも関わらず、お時間をいただき、ありがとうございます」
「ナンストリウスに頼まれたんだ。仕方ないだろう?」
突慳貪な返しに、シノはさらに視線を落とす。
本当に何しに来たのだ。腹立たしさが治まらない。
「よく来れたな。嫌われてるの、分かってるだろ?」
「はい。それでも今回のことは、私の口から報告すべきだと思い、参りました」
ユーリグゼナはシノに会うとき、必ずアルフレッドに許可をとる。誰を好きでも側にいて守る、という事実上の敗北宣言のあとも、なぜだか事前に報告される。
ユーリグゼナなりの、表向き婚約者を務めるアルフレッドへの誠意だろう。別にいい、と言ってしまえないくらいには、嬉しい。
今回もそうだった。
シノと想いを交わしたらしいことを、わざわざ翌朝伝えにきた。……曖昧かつ不十分な言葉だったので、何があったかさっぱり分からないが。……オスニエルの話だと。いやいや。
とにかくだ。嫌いな相手から聞くことなど、無い。
アルフレッドはきっぱりと言い放つ。
「ユーリから聞いてる。要らぬお世話だ」
シノはスッと視線を上げた。
「そうでございましたか」
「──俺たちは音楽で深く繋がっている。これからもずっと一緒にいると約束している。この関係が、シノに劣るなんて思わない」
負け犬の遠吠え。そんなことは分かっている。
でも本気。大真面目にそう信じている。シノごときに邪魔されたくない。
シノは表情を変えないまま、アルフレッドを見つめていた。
「そうですね」
馬鹿にしているのか。本当に嫌い。大嫌いだ。
アルフレッドが何を言っても揺るがないほど、シノは自信があるのだろう。
確かに、アルフレッドは負けている。男として選ばれなかった。勝っているのは身分だけだ。
「顔を合わせているだけで、不愉快だ。帰れ!」
心のままに怒鳴っていた。自分の声に、特権階級独特の蔑みが混じっているのを感じ、自己嫌悪に陥る。
自分の嫌な部分ばかりが引き出され、苦しくなった。
そう。シノがおかしい。
彼は相手にひたすら合わせる。何を言われても感情的にならず、ただこちらを観察する。これが気持ち悪い。
たくさん話すのはこちらだけ。話しても話しても、ただただ定型文が返ってくるだけで、シノの気持ちは何も見えない。
彼を色に例えるなら白。いや、濁った白。灰色か。
反抗せず、言い訳もせず、こちらの言葉をただ受け止める。まるで雨水も雪解け水も泥水も、どんなに汚れた水も、注がれるまま吸い込んでいく排水溝のよう。
アルフレッドは自身の想像の不気味さに、ゾクリと寒気がした。
シノは静かに、彼を見据えていた。
「いいえ。このまま帰るわけには参りません」
シノの灰色の目には、僅かに緑が混じっている。そのことに、アルフレッドは初めて気がついた。
今月中に更新予定です。




