36.母の想い2
シノ視点。
現在と、過去の回想の続き。少し長めです。
引き続き『シキビルド現地語』「共通語」混合します。
シノは代表の部屋を出て、急ぎ足で厨房に向かう。
養子院に戻ってから、気になって仕方がないことがあった。養子院中に、乳脂と甘い香ばしい匂いが充満している。庶民には高価な乳脂と砂糖。質素倹約を常とするここで、なぜ香っているのか。
厨房の準備室では、翌朝の仕込みを終え、帰宅する服に着替えた調理担当たちが、楽しそうに談笑していた。
『ああ。シノさん。お疲れ様。今日のお茶うけは豪華だよ』
初老の調理長が、カラリとした笑顔でシノに声をかける。ジャジャ~ン、とよく分からない効果音を口にしながら、焼き菓子の盛られた皿を自慢げに見せた。
『テラントリー様とユーリが、養子院の全員に作ってくれたんだ。美味いぞ』
料理長は一口大に切られた菓子を摘み、バリボリと小気味良い音をさせて咀嚼する。満足そうな顔から、シノは視線を反らした。
『……連絡を受けていない』
不機嫌そうなシノの態度に、調理長はアリャリャ〜、っと頭を掻く。
『それはおかしいね。テラントリー様は次官に許可貰っていたよ。怒らないでやってくれ。シノさん。…………菓子は、持っていくだろう?』
『……いい。これから子どもたちの様子を見に行くところだから』
シノは足早にその場を去る。戸を閉めても、調理担当たちの声は廊下まで響いた。
『シノさん。機嫌悪かったな』
『先に戻った代表も、珍しく渋い顔してたからな。何かあったんだろうよ』
『だったらなおさら、この菓子食べて欲しいよ。少しは元気が出るだろうに』
『まあ、いらないって言うなら、良いんじゃないか? 俺は、可愛い女の子の手製の菓子を、一つでも多く味わいたいね!』
『だな。──どうせシノさんは、この手のは食べ慣れている』
『違いない!』
シノの背中に、明るい笑い声が突き刺さる。
(菓子くらい……)
背丈の高いシノの頭が、急降下し、地面すれすれで止まった。シノは長い手足を折り畳み、膝を抱えてしゃがみこんでいた。
(菓子くらい、どうして普通に手渡してくれないのか。ユーリグゼナ様。私は約束が果たされるのを、あなたに会えるのを、ずっと楽しみに待って……)
悔しくて、悲しくて、感情が抑えられない。彼の灰色の目に、涙が滲んだ。
ユーリグゼナは、シノ渾身の髪飾りを、卒業という晴れの日に身に着けてくれた。心から喜んだ彼女は、お返しをするという約束までくれた。
シノはこれほどの幸せを感じたことはない。
彼女とのすれ違いが続いても、その約束を心の支えに我慢してきた。それなのに。
(私の気持ちは、彼女に全然伝わっていない……)
ユーリグゼナがシノのために焼き菓子を作り、特別な思いを込めて手渡してくれる。そう信じて疑わなかった。
平民が王女に求め過ぎだと、他人が聞いたら笑うだろう。でも二人の間には、そのくらいの何かがあると信じていたのだ。
約束の菓子を養子院に提供するなら、しかも厨房で作るなら、シノに事前の相談があって然るべき。なのになぜ、わざわざテラントリー経由でオスニエルに許可をとったのか、意味が分からない。
(ずっと会えなくて、連絡が取りづらかったとしてもだ。私へのお返しだろう?!)
こんな形で約束を果たしたことにされたくない。意地でも受け取るものかと、シノは拳に力を入れ立ち上がった。
しかし、神様はいるのだろう。
その夜遅く、御館から戻ったナンストリウスから、「御館に来るように」というライドフェーズからの呼び出しを受け取った。
「流石にシノも腹が立つだろう? 直接苦情を言うといい」
ナンストリウスは、笑いを噛み殺したような顔をしている。
誰への苦情とは敢えて言わない。言わないけれど、ユーリグゼナへ、なのだと分かる。
彼の言葉とともに焼き菓子がシノに手渡される。綺麗に包装された包みから、甘い香りが漂う。
◇
呼び出しの日。シノは朝早く御館へ向かった。
お茶の準備をして、シキビルド王ライドフェーズの部屋へ向かう。茶の道具を持つ手が震えた。本当に彼女がいるのだろうか。浮足立つ自分を、上手く抑えられない。
部屋に入り、席についたユーリグゼナを見た瞬間、すべての恨み言は消え去った。
しかしシノを見たユーリグゼナは、大粒の涙を流し始めた。頬を伝う水の粒が美しい。シノは再び落ち着きをなくす。
原因となった髪飾りを、早々にやっつける。それでもユーリグゼナは、ハラハラと泣き続ける。彼女もまた、会えなくて苦しんだのだろうか。
シノは救われたような気持ちになった。
涙すら愛おしかった。貸した手布は必ず回収して、宝物にしよう。そんなことを密かに企みながら、彼女から目を離せずにいた。
見惚れていたから…………いや、言い訳はすまい。
シノはお茶を駄目にするという失態を犯した。
最初の計画では、お茶を出しながら自然にユーリグゼナと話をするつもりだった。なのに、何ということだろう。淹れ直すために一度退出しなければならない。
悲壮な心持ちでお茶を下げようとすると、思わぬことが起こった。
「あの。そのお茶、私にくれませんか?」
ユーリグゼナの漆黒の目がシノを捉える。シノの顔は強ばった。
彼女の側人サギリは、シノの表情をお茶という自分の領域を荒され苛立つ、狹い了見の男の姿と見たようだ。この際、もう何でもいい。
シノは舞い上がり、表情を作れなくなっていた。
ユーリグゼナの方から、シノを引き止めてくれた。お茶という下手な口実で、シノにここにいて欲しいと訴えた。
上気する彼女の頬が、たどたどしく動く唇が、美しい輝きの黒曜石の目が……全部可愛い。
(私のために、もっと赤く染まるのを見たい)
シノは常軌を逸した行動をとった。
彼女の器で、彼女の飲みかけを口にする。極限まで赤面するユーリグゼナを堪能し、上機嫌で廊下へ逃げ出した。
テルにすれ違い、『顔が気持ち悪い』と呼び止められた。彼女から次々と放たれる氷の言葉に急速冷凍され、ようやくシノは気づく。自分の行動が、変態と呼ばれる類いのものであったと。
◇◇
世間のユーリグゼナの評価は、相変わらず低い。そして、いつも疑問符がつく。
「あんな感じだけど、音楽は凄いのでしょう?」
「まあ、ね」
彼女をよく知る人ほど、曖昧な顔で答える。
彼らにとって、給仕をするシノは空気と同じ。そんなシノだから、その苦笑いに潜む優越感に気づく。
ユーリグゼナの身も心も捧げて演奏する姿は、厳かで清らかだ。心の内側まで沁み込む音を聞き取った人間は、骨抜きにされる。
しかし特権階級の人間は、それを認めるわけにはいかない。音楽のような娯楽に我を失うなど、幼稚で未熟な証拠だと、いまだに軽蔑されている。
まるでユーリグゼナ自身の魅力のよう。
威厳がなく、会話は覚束ない。周りに助けられなければ、まともな公務は不能。点数をつければ落第点の成人王女。
なのに、音楽だけは凄いのでしょう?
それだけが評価されている。そう思われている。この符号は、彼女の魅力を示す隠語だ。
ユーリグゼナは、人の弱い部分をくすぐる。自らを否定し、苦しみながら生きている人へ、私もそうだよ、と伝えてくる。
彼女の音楽とたどたどしい言動は、同じものを抱える人間にだけ届く。
それを受け取ってしまった人にとって、彼女を肯定することは、自分の弱さを認めることだ。だから皆、惹かれていると口にしない。誰も口にしないから、自分だけがユーリグゼナを理解できるような、優越感に陥ってしまう。
(口にできない想いは、本人も知らないうちに深く根を張る)
シノはその危うさを身をもって知る。気づいたときには、もう取り返しがつかないほど大きくなっていた。
我知らず、常軌を逸した行動をしてしまう。
◇◆◇◆◇(回想)
シノが十歳になる頃、彼の母は寝たきりになった。
またいつか元気になるという、微かな望みも消え去った頃、いつもの母の庇護者たちとは違う雰囲気の男が現れた。男の腕や首には黒い文様が、色濃く彫られている。シノはそれをなぜか懐かしく感じた。
「彼女の最期を私にくれ」
特権階級の、しかもかなり上級の品位が溢れる男は、無遠慮にもそう宣言すると、家に居座った。慣れない手付きで、甲斐甲斐しく母の世話をする。
そしてたびたび母の寝室に籠もり、長時間出て来ない。
そんな正体不明の男を、母は切なげに目で追う。そして時折、静かに泣く。母の無防備な姿に、シノは無性に腹が立った。
「シノはあの人が嫌いなのね?」
母は困り顔で聞く。シノはムスッとした顔を、無言のまま逸らす。
「……嫌いで良いかもしれない。あの人が、シノとセディを引き取りたいと言い出しても、行かない方がいいわ」
「行くわけないよ。母さん。なんで急にそんなこと、言い出したの?」
「……なぜかしら。急に気弱になっちゃった」
痩せ細った母は、シノの見知らぬ顔で微笑む。
「母さんは、シノとセディが大好きよ。幸せになって欲しい。なのに、何もできないわ」
母の頬を伝う涙は綺麗だった。
「僕は、今だって充分幸せだよ!」
「うん。母さんもそう。だけど、これ以上はもう……。母さんがもっと強ければ、あなたたちを守れたのに」
「母さんは強いよ!」
どんなに具合が悪いときも、シノとセディに笑顔をくれた。家事に疲れたシノの愚痴を聞き、温かい言葉と優しい手で励まし続けた。
「僕はこのままでいい。ずっとこのままでいて……」
死期が近い。それは誤魔化しようのない事実で、それが分からないほどシノは子どもではなかった。それでも明日を望まずにはいられない。
母は身体を横たえたまま、シノの頭を引き寄せ、腕の中にそうっと包みこんだ。
「ねえ。シノ。あなたはね、母さんと父さんがどうしてもいて欲しいと望んだから、この世界にいるのよ」
「えっ?」
「この先、あなたを否定する人がどれほど現れても、それを忘れないで」
母の優しい声に、シノは拗ねた言葉しか返せない。
「…………なにそれ。僕は嫌われるってこと?」
「ふふふ。いつも大真面目で、人のために一生懸命な私の自慢の息子だけど、嫌われると思うわ」
「ひどい!」
「ふふふ。そんな風に、真っ赤になって怒る顔も大好き」
「母さん!!」
むくれるシノの頭を、母は愛おしそうに撫でる。
「人に何て言われてもいいの。あなたが幸せなら、私たちの勝ち」
「……母さん。訳が分からない」
「それでいいのよ。シノ。私の可愛い宝物」
◆
母はあっけなくこの世を去る。
埋葬まで居座り続けた男が、シノに呟く。
「私と来るか?」
「いいえ」
「……そうか」
その会話のあと、男は消える。
シノは幼い妹の世話に明け暮れる日常へ戻っていく。
そんなある日のこと、前触れもなく男が家に飛び込んできた。見たこともないほど豪華な軍服に身を包んでいたが、砂ぼこりで薄汚れている。
「ここを離れろ。今すぐだ」
男は血のにじむ唇で、鋭く言い放つ。身に着けていた宝飾品を外し、しかめっ面のシノに押し付けてきた。
「もう二度と戻ってくるな。いいな?!」
シノは勢いに負け、そそくさと身の回りの物をまとめた。妹セディの小さな身体を、彼の背中に紐で固定する。両手に最低限の日用品を抱える。
家の扉が開き、見覚えのある母の庇護者たちが武装した姿で次々と現れる。呆気にとられたシノの前で、彼らは男に膝を折った。
「殿。この隠れ家も露呈しました。私共が退路を開きます。どうか、逃げてください」
「私が生き延びる意味など、もうあるまい」
「どうかっ……殿!」
「いいのだ。もう十分だ。最後の命令を下す。──我が息子と娘を無事逃がしてくれ。そのあと、お前たちも我が一族と縁を切って、達者で暮らせ」
部下たちが泣きつこうとも、男の意志は変わらなかった。
ぼんやり立ち尽くすシノを、男はわずかに緑が混じる灰色の目で見つめた。
「シノ。どんなことをしても、生き延びてくれ。セディを頼む」
彼の身体の黒い文様は広がり、顔までも覆っていた。それが何を意味するのか、シノには分からない。
シノは裏戸から家を抜け出す。男の部下たちに守られ逃げるうち、家はどんどん離れていく。母と過ごした家をもう一度目にしておきたくて、振り返ったときだった。
一気に赤い炎が家を包む。追手であろう人たちの怒声が響いてくる。
シノの胸の中で、黒くて冷たくて痛いものが一気に膨れ上がり、消えていった。
続きます。
次話「母の想い3」は来月更新予定です。




