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敗戦国の眠り姫  作者: 神田 貴糸
第3部

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36.母の想い2

シノ視点。

現在と、過去の回想の続き。少し長めです。

引き続き『シキビルド現地語』「共通語」混合します。

 シノは代表(ナンストリウス)の部屋を出て、急ぎ足で厨房に向かう。

 養子院に戻ってから、気になって仕方がないことがあった。養子院中に、乳脂(バター)と甘い香ばしい匂いが充満している。庶民には高価な乳脂(バター)と砂糖。質素倹約を常とするここで、なぜ香っているのか。




 厨房の準備室では、翌朝の仕込みを終え、帰宅する服に着替えた調理担当たちが、楽しそうに談笑していた。


『ああ。シノさん。お疲れ様。今日のお茶うけは豪華だよ』


 初老の調理長が、カラリとした笑顔でシノに声をかける。ジャジャ~ン、とよく分からない効果音を口にしながら、焼き菓子の盛られた皿を自慢げに見せた。

 

『テラントリー様とユーリが、養子院の全員に作ってくれたんだ。美味いぞ』


 料理長は一口大に切られた菓子を摘み、バリボリと小気味良い音をさせて咀嚼する。満足そうな顔から、シノは視線を反らした。


『……連絡を受けていない』


 不機嫌そうなシノの態度に、調理長はアリャリャ〜、っと頭を掻く。

 

『それはおかしいね。テラントリー様は次官(オスニエル)に許可貰っていたよ。怒らないでやってくれ。シノさん。…………菓子は、持っていくだろう?』

『……いい。これから子どもたちの様子を見に行くところだから』


 シノは足早にその場を去る。戸を閉めても、調理担当たちの声は廊下まで響いた。


『シノさん。機嫌悪かったな』

『先に戻った代表(ナンストリウス)も、珍しく渋い顔してたからな。何かあったんだろうよ』

『だったらなおさら、この菓子食べて欲しいよ。少しは元気が出るだろうに』

『まあ、いらないって言うなら、良いんじゃないか? 俺は、可愛い女の子の手製の菓子を、一つでも多く味わいたいね!』

『だな。──どうせシノさんは、この手のは食べ慣れている』

『違いない!』


 シノの背中に、明るい笑い声が突き刺さる。


(菓子くらい……)


 背丈の高いシノの頭が、急降下し、地面すれすれで止まった。シノは長い手足を折り畳み、膝を抱えてしゃがみこんでいた。


(菓子くらい、どうして普通に手渡してくれないのか。ユーリグゼナ様。私は約束が果たされるのを、あなたに会えるのを、ずっと楽しみに待って……)


 悔しくて、悲しくて、感情が抑えられない。彼の灰色の目に、涙が滲んだ。

 

 ユーリグゼナは、シノ渾身の髪飾りを、卒業という晴れの日に身に着けてくれた。心から喜んだ彼女は、お返しをするという約束までくれた。

 シノはこれほどの幸せを感じたことはない。

 彼女とのすれ違いが続いても、その約束を心の支えに我慢してきた。それなのに。


(私の気持ちは、彼女に全然伝わっていない……)


 ユーリグゼナがシノのために焼き菓子を作り、特別な思いを込めて手渡してくれる。そう信じて疑わなかった。

 平民が王女に求め過ぎだと、他人が聞いたら笑うだろう。でも二人の間には、そのくらいの何かがあると信じていたのだ。


 約束の菓子を養子院に提供するなら、しかも厨房で作るなら、シノに事前の相談があって然るべき。なのになぜ、わざわざテラントリー経由でオスニエルに許可をとったのか、意味が分からない。


(ずっと会えなくて、連絡が取りづらかったとしてもだ。私へのお返しだろう?!)


 こんな形で約束を果たしたことにされたくない。意地でも受け取るものかと、シノは拳に力を入れ立ち上がった。


  


 しかし、神様はいるのだろう。

 その夜遅く、御館から戻ったナンストリウスから、「御館に来るように」というライドフェーズからの呼び出しを受け取った。


「流石にシノも腹が立つだろう? 直接苦情を言うといい」


 ナンストリウスは、笑いを噛み殺したような顔をしている。

 誰への苦情とは敢えて言わない。言わないけれど、ユーリグゼナへ、なのだと分かる。

 彼の言葉とともに焼き菓子がシノに手渡される。綺麗に包装された包みから、甘い香りが漂う。



 


 


 呼び出しの日。シノは朝早く御館へ向かった。

 お茶の準備をして、シキビルド王ライドフェーズの部屋へ向かう。茶の道具を持つ手が震えた。本当に彼女がいるのだろうか。浮足立つ自分を、上手く抑えられない。

 部屋に入り、席についたユーリグゼナを見た瞬間、すべての恨み言は消え去った。

 

 しかしシノを見たユーリグゼナは、大粒の涙を流し始めた。頬を伝う水の粒が美しい。シノは再び落ち着きをなくす。

 原因となった髪飾りを、早々にやっつける。それでもユーリグゼナは、ハラハラと泣き続ける。彼女もまた、会えなくて苦しんだのだろうか。

 シノは救われたような気持ちになった。

 涙すら愛おしかった。貸した手布(ハンカチ)は必ず回収して、宝物にしよう。そんなことを密かに企みながら、彼女から目を離せずにいた。




 

 見惚れていたから…………いや、言い訳はすまい。

 シノはお茶を駄目にするという失態を犯した。

 最初の計画では、お茶を出しながら自然にユーリグゼナと話をするつもりだった。なのに、何ということだろう。淹れ直すために一度退出しなければならない。


 悲壮な心持ちでお茶を下げようとすると、思わぬことが起こった。


「あの。そのお茶、私にくれませんか?」


 ユーリグゼナの漆黒の目がシノを捉える。シノの顔は強ばった。 

 彼女の側人サギリは、シノの表情をお茶という自分の領域(テリトリー)を荒され苛立つ、狹い了見の男の姿と見たようだ。この際、もう何でもいい。

 

 シノは舞い上がり、表情を作れなくなっていた。 

 ユーリグゼナの方から、シノを引き止めてくれた。お茶という下手な口実で、シノにここにいて欲しいと訴えた。

 上気する彼女の頬が、たどたどしく動く唇が、美しい輝きの黒曜石の目が……全部可愛い。


(私のために、もっと赤く染まるのを見たい)

  

 シノは常軌を逸した行動をとった。

 彼女の器で、彼女の飲みかけを口にする。極限まで赤面するユーリグゼナを堪能し、上機嫌で廊下へ逃げ出した。

 

 テルにすれ違い、『顔が気持ち悪い』と呼び止められた。彼女から次々と放たれる氷の言葉に急速冷凍され、ようやくシノは気づく。自分の行動が、変態と呼ばれる類いのものであったと。


 



◇◇




 

 世間のユーリグゼナの評価は、相変わらず低い。そして、いつも疑問符がつく。


「あんな感じだけど、音楽は凄いのでしょう?」

「まあ、ね」


 彼女をよく知る人ほど、曖昧な顔で答える。

 彼らにとって、給仕をするシノは空気と同じ。そんなシノだから、その苦笑いに潜む優越感に気づく。

 

 ユーリグゼナの身も心も捧げて演奏する姿は、厳かで清らかだ。心の内側まで沁み込む音を聞き取った人間は、骨抜きにされる。

 しかし特権階級の人間は、それを認めるわけにはいかない。音楽のような娯楽に我を失うなど、幼稚で未熟な証拠だと、いまだに軽蔑されている。


 まるでユーリグゼナ自身の魅力のよう。

 威厳がなく、会話は覚束ない。周りに助けられなければ、まともな公務は不能。点数をつければ落第点の成人王女。

 

 なのに、音楽だけは凄いのでしょう? 

 

 それだけが評価されている。そう思われている。この符号は、彼女の魅力を示す隠語だ。

 

 ユーリグゼナは、人の弱い部分をくすぐる。自らを否定し、苦しみながら生きている人へ、私もそうだよ、と伝えてくる。

 彼女の音楽とたどたどしい言動は、同じものを抱える人間にだけ届く。


 それを受け取ってしまった人にとって、彼女を肯定することは、自分の弱さを認めることだ。だから皆、惹かれていると口にしない。誰も口にしないから、自分だけがユーリグゼナを理解できるような、優越感に陥ってしまう。


(口にできない想いは、本人も知らないうちに深く根を張る)


 シノはその危うさを身をもって知る。気づいたときには、もう取り返しがつかないほど大きくなっていた。

 我知らず、常軌を逸した行動をしてしまう。

   

 


 ◇◆◇◆◇(回想)





 シノが十歳になる頃、彼の母は寝たきりになった。


 またいつか元気になるという、微かな望みも消え去った頃、いつもの母の庇護者たちとは違う雰囲気の男が現れた。男の腕や首には黒い文様が、色濃く彫られている。シノはそれをなぜか懐かしく感じた。


「彼女の最期を私にくれ」


 特権階級の、しかもかなり上級の品位が溢れる男は、無遠慮にもそう宣言すると、家に居座った。慣れない手付きで、甲斐甲斐しく母の世話をする。

 そしてたびたび母の寝室に籠もり、長時間出て来ない。


 そんな正体不明の男を、母は切なげに目で追う。そして時折、静かに泣く。母の無防備な姿に、シノは無性に腹が立った。


「シノはあの人が嫌いなのね?」


 母は困り顔で聞く。シノはムスッとした顔を、無言のまま逸らす。


「……嫌いで良いかもしれない。あの人が、シノとセディを引き取りたいと言い出しても、行かない方がいいわ」

「行くわけないよ。母さん。なんで急にそんなこと、言い出したの?」

「……なぜかしら。急に気弱になっちゃった」


 痩せ細った母は、シノの見知らぬ顔で微笑む。


「母さんは、シノとセディが大好きよ。幸せになって欲しい。なのに、何もできないわ」


 母の頬を伝う涙は綺麗だった。


「僕は、今だって充分幸せだよ!」

「うん。母さんもそう。だけど、これ以上はもう……。母さんがもっと強ければ、あなたたちを守れたのに」

「母さんは強いよ!」


 どんなに具合が悪いときも、シノとセディに笑顔をくれた。家事に疲れたシノの愚痴を聞き、温かい言葉と優しい手で励まし続けた。


「僕はこのままでいい。ずっとこのままでいて……」


 死期が近い。それは誤魔化しようのない事実で、それが分からないほどシノは子どもではなかった。それでも明日を望まずにはいられない。

 母は身体を横たえたまま、シノの頭を引き寄せ、腕の中にそうっと包みこんだ。


「ねえ。シノ。あなたはね、母さんと父さんがどうしてもいて欲しいと望んだから、この世界にいるのよ」

「えっ?」

「この先、あなたを否定する人がどれほど現れても、それを忘れないで」


 母の優しい声に、シノは拗ねた言葉しか返せない。

 

「…………なにそれ。僕は嫌われるってこと?」

「ふふふ。いつも大真面目で、人のために一生懸命な私の自慢の息子だけど、嫌われると思うわ」

「ひどい!」

「ふふふ。そんな風に、真っ赤になって怒る顔も大好き」

「母さん!!」


 むくれるシノの頭を、母は愛おしそうに撫でる。

 

「人に何て言われてもいいの。あなたが幸せなら、私たちの勝ち」

「……母さん。訳が分からない」

「それでいいのよ。シノ。私の可愛い宝物」

 

 



 母はあっけなくこの世を去る。

 埋葬まで居座り続けた男が、シノに呟く。


「私と来るか?」

「いいえ」

「……そうか」


 その会話のあと、男は消える。

 シノは幼い妹の世話に明け暮れる日常へ戻っていく。


 そんなある日のこと、前触れもなく男が家に飛び込んできた。見たこともないほど豪華な軍服に身を包んでいたが、砂ぼこりで薄汚れている。


「ここを離れろ。今すぐだ」


 男は血のにじむ唇で、鋭く言い放つ。身に着けていた宝飾品を外し、しかめっ面のシノに押し付けてきた。


「もう二度と戻ってくるな。いいな?!」


 シノは勢いに負け、そそくさと身の回りの物をまとめた。妹セディの小さな身体を、彼の背中に紐で固定する。両手に最低限の日用品を抱える。

 家の扉が開き、見覚えのある母の庇護者たちが武装した姿で次々と現れる。呆気にとられたシノの前で、彼らは男に膝を折った。


「殿。この隠れ家も露呈しました。私共が退路を開きます。どうか、逃げてください」

「私が生き延びる意味など、もうあるまい」

「どうかっ……殿!」

「いいのだ。もう十分だ。最後の命令を下す。──我が息子と娘を無事逃がしてくれ。そのあと、お前たちも我が一族と縁を切って、達者で暮らせ」


 部下たちが泣きつこうとも、男の意志は変わらなかった。

 ぼんやり立ち尽くすシノを、男はわずかに緑が混じる灰色の目で見つめた。

 

「シノ。どんなことをしても、生き延びてくれ。セディを頼む」

 

 彼の身体の黒い文様は広がり、顔までも覆っていた。それが何を意味するのか、シノには分からない。


 

 シノは裏戸から家を抜け出す。男の部下たちに守られ逃げるうち、家はどんどん離れていく。母と過ごした家をもう一度目にしておきたくて、振り返ったときだった。

 一気に赤い炎が家を包む。追手であろう人たちの怒声が響いてくる。

 シノの胸の中で、黒くて冷たくて痛いものが一気に膨れ上がり、消えていった。

 


続きます。

次話「母の想い3」は来月更新予定です。

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