35.母の想い
シノ視点の養子院の人々と、母。
平民が話す『現地語』と、特権階級の言語「共通語」で書き分けています。
時はしばし遡る。
シノがユーリグゼナに会えない日々が続く頃。
ある真夜中、シノの部屋の扉が叩かれた。
『紫野さん。ちょっと良いかい?』
シキビルド現地語でシノを呼ぶのは、五年前から養子院で世話係を勤めている、古参の女性だ。
シノは寝台から起き上がり、部屋の中から返事をした。
『……はい』
すぐに脇にかけてある上着を羽織り、廊下へ出た。今夜の夜勤担当は、申し訳無さそうに頭を下げる。
『休んでいるところ、悪いね』
平民である世話係は、シキビルド現地語しか話せない。現地語には敬語のバリエーションがほぼ無いので、みんなタメ口だ。
『急な休みで人が減っちゃって、夜勤が二人だけなんだ。悪いけど手伝ってくれないかい?』
シノは手伝うつもりだから、廊下に出てきた。長い付き合いの彼女はそれが分かっていながら、訊いてくる。
『……いいよ』
『控室をお願いできるかい? 子どもの大部屋と乳児部屋はこっちでみるから』
古参の女性は、シノが養子院の担当になった当初に勤め始め、ともにここを支えてきた。シノに礼を尽くすものの、どこか気安い。
シノは苦笑いしながら頷いた。
控室から聞こえてくる赤子の泣き声は、シノの胸にずんと響いてくる。
『……だいぶ泣いてるね』
『母親が行ってあげられないからさ。頼むよ。紫野さん』
世話係は夜勤に入るとき、自分の子どもを養子院に連れて来て良いことになっている。もう一人の夜勤は、新人で若い母親だ。控室にいるのはその子どもだろう。
◇
シノが戦前の旧体制のままの養子院を任されたのは、五年前。
日常的に行われていた子どもの虐待に怒り、担当者全員を解雇した。当然、深刻な人手不足を引き起こす。
苦肉の策で、共通語が話せない平民の母親たちを世話係として雇用した。それでも手薄になる夜間の人員を確保するため、子ども同伴勤務を許可する。そして親が勤務中の間は、シノがその子たちを寝かしつけた。
人手が足りている今でも、古参の世話係たちは、たまにシノを頼ってくる。
控室で大泣きしていた子は、産まれて半年くらいの赤子だった。
(お尻は濡れてない。なぜだろう)
優しく抱き上げ、身体を縦に抱っこしてみる。小さな背中をポンポンと叩くと、ゲフっと小さな声が出た。
乳をあげ、急ぎ仕事に戻った母親が、ゲップを出させるのを忘れてしまったのか。
シノは抱き上げたまま、赤子の呼吸に合わせてポンポンと背中を叩く。
『おやすみ』
ものの数秒で静かになった。そっと布団に戻す。
シノが寝かしつけると、どんなに泣き喚く子も何分と保たない。この技は古参の世話係たちには知られていて、密かに崇められている。
廊下に出ると、複数の泣き声が響いていた。
(もう一仕事だな)
シノは控室を出て、乳児部屋へ行く。
軽く戸を叩き、部屋に入ると、若い世話係は涙を拭いながら、おむつを替えていた。
シノは子どもが泣いている原因を取り除きながら、次々と寝かしつけていく。あっという間に部屋は静かになった。
散乱しているおむつと衣類を、洗い物の籠に集める。洗い場に溜まっていた人工乳を飲ませるための容器は、使用済を下げ、空の置き場には未使用のものを並べておく。無くなりかけた水と白湯を補充する。
一つ一つは大したことではないが、たまってしまうと世話をしながら片付けるのは辛い。折れた心ではなおさら苦痛だろう。
「もっ、申し訳ございません……」
泣きながら謝る世話係を、シノは胡乱な目で見下ろした。
彼女の目は充血し、肌はカサカサだ。ろくに寝ていないのは明らかだった。
前は特権階級の家に下働きをしていたが、身重になって辞めている。平民でありながら共通語を話せる世話係は貴重なので、採用した。
彼女は子どもを預けられる知り合いがいない。有料で預けるより子ども同伴できる方がいいという希望を受け入れ、夜勤の割合を増やしている。
(みんな事情はある。それでも仕事には影響がないよう調整している)
どんな事情があろうと、一人で子育てするリスクをとったのは、彼女だ。仕事場に持ち込むべきではない。仕事中に泣くのも良くない。負の感情は特に、小さな子どもに影響を与える。世話係として失格。
シノは大きなため息をついた。
そんなこと、心も身体もギリギリの彼女に言っても追い詰めるだけだ。
「災難でしたね。急に人員が減って大変だったでしょう」
お決まりの笑顔で語りかける。
「もうすぐ休憩時間ですね。乳の時間が近い子はいますか?」
「えっ。あっ、あと少ししたらこの子が」
彼女があたふたする姿は、誰かに重なる。
「起きて、もじもじしてますね。もうあげて大丈夫です。それが終わったら仮眠をとってください」
「で、でも。私、仕事が遅くて、終わってなくて……」
「休憩も仕事のうちです。しっかり休んだら、また頑張ってください」
シノはそう笑顔で言い切ると、洗い物の籠と汚れた器を両手に抱えて、乳児部屋を出ようと立ち上がる。
「シノさん」
シノが振り返ると、彼女は涙を止め、締まった顔をしていた。
「今日は助けていただき、ありがとうございました。次からはもっと頑張ります!」
「はい。よろしくお願いいたします」
部屋を出てすぐ、暗い廊下で古参の世話係に出くわす。シノの手に抱えていた洗い物と器は、彼女に奪われた。
『紫野さん。これは私らでやるよ』
ニヤニヤしている。
シノが怪訝な顔をすると、彼女はますます意味ありげに笑う。
『あんた変わったね。前だったら絶対、あの子のこときつく叱ってた』
図星を指されたシノは苛立った。
『……立ち聞きは、良くない』
『私は共通語が苦手だから、半分くらいしか分かりゃしないさ』
『そういう問題じゃない』
『確かにそうだ。私が悪かった。すまなかったよ』
古参の女性が神妙な顔になったので、シノはそれ以上言うのを止めた。
『……つい心配になっちまってさ。あの子、あれでも遅刻はしないんだ。あんな小さい子を抱えて、大変だろうって可哀そうでね。紫野さん。彼女に優しくしてくれてありがとう。……今日は助かった。相変わらず魔法みたいに寝かしつけるね』
古参の世話係は快活に笑った。洗い物を抱え、颯爽と仕事に戻っていった。
シノはため息とともに見送り、自室に戻る。
◇◇
ユーリグゼナの婚約者であるアルフレッドの友人が、養子院に勤めている。名をオスニエルという。
去年開かれた養子院の演奏会に衝撃を受け、どうしても養子院で仕事をしたくなったという。最初、代表のナンストリウスは受け入れに難色を示した。それをオスニエルは、熱意で口説き落とした。
シノは気を揉んだ。
シノのことを、友人の恋敵だと敵視しないか。私情と割り切って、きちんと仕事をしてくれる人か。
ところが最初に彼に言われたことは、思ってもみないことだった。
「あなた、ちゃんと休まないと死にますよ」
シノが養子院に住み込み、ずっと夜勤代わりを務めていることに対しての指摘だった。シノは硬い表情で答える。
「……呼ばれないときは、休んでおります」
華やかな顔立ちのオスニエルは、美しい衣装を翻し、拳で机をドンと叩いた。
「いつ呼ばれても対応できる状態を、休んでいるとは言いません。睡眠不足は美容にも悪い」
真剣な表情から、どうやら本気で言っていると知る。シノは粛然と返した。
「……ご心配いただきありがとうございます。恐れながら、夜間に責任者は必要なのです。不測の事態が、例えば火事が起こったとき、責任者は命を懸けて全員を逃がさなければなりません」
「それでは私が、あなたと交代で夜勤に入ります! 非常の際は、必ず務めを果たすと誓います。それなら休めますね?」
夜間の仕事は、睡眠のリズムが狂う。一般的に嫌がられる仕事だ。
平民ならば給金という見返りがあるが、特権階級の彼は無料働きになる。
そこまでして、初対面で平民のシノを休ませようとする。何故なのか、全く理解できない。
ナンストリウスまでもが、『じゃあ、僕もたまには入ろうかなー』と言い出す。
代表就任直後、夜勤が嫌だから辞めると、養子院を逃げ出した彼の台詞とは思えない。
シノを心配してくれているのだと、じんわり心で理解する。お腹のあたりがむずむずしてきた。
特権階級にとってシノは、都合良く使える道具だ。そうあることが自分の価値だと、シノ自身も思っていた。
それなのに、養子院では一人の人間として扱われる。いつの間にか、それを自然に受け止め始めている自分に、驚く。
◇◇◇
ユーリグゼナの卒業後、何故か全く会えず、やるせない気持ちで過ごした。でもそれは、誰かの意図によるものだったらしい。
ナンストリウスから、護衛のカーンタリスがオスニエルと謀り、シノに会わせないよう王女の予定を調整していたと聞いた。
オスニエルは、シノとナンストリウスの予定を漏らし、友人でもあるカーンタリスを手助けしていたという。
「養子院の情報を外部に漏らすなんて、即刻クビだよ」
ナンストリウスは子どもの安全に、非常に気を使っている。子どもが商品として市場に出なくなってから、子どもの価値は途轍もなく上がっている。代表の不在を狙い、事を起こす輩がいないとも限らない。
「ナンストリウス様。確かにオスニエル様は、やってはならないことをしました。ですが……」
今回はシノとユーリグゼナの間を邪魔をするという、何ともお粗末な理由だ。
「私のせいとも言えます。オスニエル様は、その……私を守ろうとしたのではありませんか?」
養子院には特権階級の婦人たちが、客人として訪れる。善意の寄付が目的だが、その中にはシノに不適切な関係を迫る者もいる。平民であるシノが、彼女たちを追い払うのは容易ではない。オスニエルに何度となく助けられていた。
最高地位の王女に気に入られてしまったら、もう誰も庇えない。だから、身を挺して守ろうとしてくれたのではないだろうか。正義感の強い彼ならあり得る。
「だろうね。養子院の情報漏らす意味だとか、頭から飛んでると思う。『シノを王女から守る!』って熱くなってるんじゃない? あの見た目だけど、オスニエルは男気あるから」
「そうですね」
「シノは嫌じゃないのにね」
「えっ」
「オスニエルは知らなかったと思うから、そこは許してあげて」
「……」
ナンストリウスは面白そうにシノを見ている。この人はどこまで知っているのだろうか。シノは生きた心地がしない。
「ふふ。そうか。シノはオスニエルに怒ってないんだ」
多分、ナンストリウスも怒っていない。
そうであれば、対処はもう決まっているのではないだろうか。
「……厳重注意ということで、今回だけお許し頂けませんか」
「そうしようか」
「ありがとうございます」
ナンストリウスは、オスニエルをクビにするつもりが、最初から無かったのかもしれない。
「ただ王女の予定を外部に漏らし、操作していたカーンタリスは質が悪い。今回のことは王に報告する」
「……オスニエル様たちは処罰されますか?」
「いや。ユーリグゼナが止めるだろうね」
「……」
確かに彼女なら『それがどうして罪になるのですか?』などと、とぼけた顔で言いそうだ。ずっとシノと会えていないことも、全然気にしていないかもしれない。毎日焦れて仕方がないシノとしては、あまりに虚しい。
「まあ。何とかするから、大丈夫」
「はい。どうか、よろしくお願いいたします」
養子院に関わる人は、なぜか善人が多い。
シノはペルテノーラでは感じられなかった居心地の良さを感じていた。シノを一人の人間として、向き合ってくれる人たちと過ごすと、勘違いしそうになる。
(生まれや育ちに囚われず、生きてもいいのか、と)
いつか身を滅ぼす恋と分かっていても、ユーリグゼナのことを考えると、身分や保身、これまで信じてきた正しさがすべて吹き飛んでしまう。
(母も、そうだったのかもしれない)
シノは昔のことは考えない。悪夢をわざわざ呼び起こしたくなどない。
でも悪夢が起こる前、確かに母に愛されていたことは覚えている。
◇◆◇◆◇(回想)
シノの母はとても美しくて、とても弱い人だった。
ペルテノーラの平民のなかでも最下層に生まれた母は、勤め先で特権階級の貴人に見初められ、恋に落ちたという。しかしシノに、貧民街以外の記憶はない。不幸な母親が語りがちな、優しい嘘だと思っていた。
身体が弱い母は、一度寝込むと良くなるまで時間がかかった。仕事は続かず、家事はおざなり。シノが物心がついた頃には、生きるため、ほとんどの家事を担った。
時々やってくる母の庇護者たちは、家事をこなすシノを褒めた。シノが掃除した部屋で、用意した食事やお茶を美味しそうに味わっていく。彼らに都合良く使われていたとしても、役に立っていること自体が嬉しくて、褒められるたびに顔は真っ赤になった。
そんなとき母は、愛おしそうにシノを見る。そのどこか得意げな顔を見ると、何も言えなくなる。
(母が幸せなら、何でもいい)
年々床に着く時間が長くなる母と、病気ばかりの小さな妹の世話をしながら、シノはそう思っていた。
それが薄氷を履むような日々だったと知ったのは、母が亡くなった後のことだ。
続きます。
次話「母の想い2」は今月中には掲載見込みです。。
時系列、今に戻ります。
8/7改題、改稿




