28.恵まれている
ユーリグゼナは鍵盤楽器の練習のため、毎日養子院に通う。でも、不思議とシノには会わなかった。
◇
音楽を深く知るために、楽曲の勉強はとても大切だ。そう、アルフレッドに言われ、ユーリグゼナは学び始める。
アルフレッドとナータトミカのように、常に人の心に響く演奏が出来るようになりたかった。そして、少しでも早く二人に追いついて、三人で先へと進んで行きたかった。そのためなら、解らなすぎて頭が爆発しそうでも、勉強する。
アルフレッドが教師として紹介してくれたのは、養子院に務める彼の友人。仕事の合間に、ユーリグゼナに教えてくれる。
時々、末の従弟ユキタリスも一緒に講義を受けていた。音楽を学び始めた彼は、音楽に関することに貪欲だ。この講義が好きなようで、今日もニコニコしている。
「楽譜読むのって、難しくない?」
ユーリグゼナの問いに、ユキタリスはさらさらした金髪を揺らしながら、ふふっと笑う。
「難しいよ。けど楽しい! 楽譜を読み解くとさ、色鮮やかな音が生きてるみたいに、お話しするでしょう? 知れば知るほど、たくさん喋ってくれるから、ワクワクする!」
七歳の従弟は、小難しい講義にワクワクしている。ユーリグゼナには分からない何かを、理解している。従姉として、音楽を先に志した先達として、面目丸つぶれである。
ユキタリスは、上目遣いで彼女を見た。
「ユーリはもっと先を習っているんでしょう? 早く追いつきたい」
「……うん」
キラキラの笑顔に、思わず頷いてしまった。ユキタリスがユーリグゼナに追いつくのは、時間の問題だった。
◇◇
「失礼します」
扉を開けた先には、華やかなひらひらした服を身に纏う、美しい人がいた。
「ああ、ユキ。よく来たね。ユーリも」
アルフレッドの友人であるオスニエルは、ユーリグゼナが王女であることをもちろん知っている。それでも養子院の通称で呼んでくれていた。
「カーン。お役目ご苦労様」
「本日もよろしくお願いします。扉の外にて、警備させていただきます」
「うん。よろしく」
オスニエルはふんわり笑いかける。
スラリとした身体に似合う、上品な女物の衣装。緩く束ねられた淡い金髪は艷やかで、化粧は薄く自然に施している。近づけば微かに良い香りがする。
男性だと聞いていなければ、気が付かなかったと思う。それくらい綺麗な青年。その上音楽の造詣が途轍もない。こんな素敵な人を紹介してくれたアルフレッドに、心底から感謝していた。しかし……。
綺麗な人に丁寧に教わっても、分からないものは分からない。音楽の原理を理解する脳を、彼女は持ち合わせていなかった。
今日もまた、オスニエルの美しい顔がピクリと歪む。
「ユーリ。今の……全然理解してないね」
「……すみません」
「良いんだよ。分からなければ、丸暗記すればいい。覚えて何度も繰り返し学ぶうち、理解できるようになるから。ただ──ユキは特別」
ユーリグゼナはハッとして、オスニエルの整った顔を見上げる。
「賢いのもあるけど、そもそも感覚が私たちと違う。生まれつき、音楽の才能に恵まれているのだろうね」
彼はユキタリスに向き直り、優しく微笑む。
「ユキ。お勉強は、一旦お休みしよう。楽器の演奏をたくさん覚えてから、また学ぼう。その方がもっと、今よりずっと音楽を好きになれると思うよ」
片付けて養子院の他の子どもたちに合流するよう、オスニエルは言う。
ユキタリスを見送ったあと、ユーリグゼナも早目に講義を終えることになった。片付けて部屋を出ようとすると、オスニエルに呼び止められる。
「君が作ったことになってる曲。本当は誰が作ってるの?」
じわりと緊張が身体を覆う。
確かにこれだけ理解できないユーリグゼナが、曲を作っているとは思えないだろう。ただ異世界の存在を公にしないよう、王やアルフレッドに止められている。話せることは僅かだ。
「……父です」
限られた人にだけ明かされている事実。これが話せるギリギリのライン。
「到底一人とは思えない」
やはり彼ほどの人なら、原曲にそれぞれの作曲家がいることが分かってしまう。どう話すのか、アルフレッドと打ち合わせしておけば良かった。
オスニエルから、先ほどまでの柔らかい表情が消える。
「異世界の曲だ。そうだろう?」
黙り込む彼女をそっちのけで語り出す。
「音楽の研究が進歩している世界みたいだね。羨ましいよ。『レンベル』や『魔樹の花びら』の楽譜は、アルフレッドに見せてもらった。五角堂の演奏会で子どもたちが金属筒打楽器で弾いた曲は、子どもたちに聴かせてもらった。ただ『負けた者の歌』は……もう一度聴きたいのに、叶わなくて。せめて楽譜を見たい。貸してくれないか?」
彼の頭のなかは音楽のことばかりだ。真剣に求めてくるオスニエルに面食らう。ユーリグゼナはたどたどしく答えた。
「……『負けた者の歌』の楽譜は持っていません。平民の間で流行っている『負けた者の歌』を聴いた叔父が、鍵盤楽器用に編曲し、五角堂の演奏会で披露しました」
「君が、弾いてくれればいいよ」
「私の腕では無理です。全部の音を聴き取ることすら、覚束なくて」
「……君って、本当に恵まれているよね」
オスニエルの声が一気に急降下した。
「異世界の曲を知る父。才能豊かな叔父。音楽に秀でた最高の婚約者。君自身には大した価値がないのに、運ばかり良くて最高の人たちに囲まれている。本当に羨ましい。──君の婚約者アルフレッドはね。他の男にうつつを抜かすような女に、消費されていい人間じゃないんだよ」
侮蔑に満ちた目が、ユーリグゼナに向けられた。彼はふっと息をつくと、歌うように語りだす。
「アルフレッドは気品があって、純粋で。それでいて底なしに優しい。私みたいに音楽にしか興味を持てない、世の中に居場所のない人間でも、彼の近くなら息ができる。そしてなにより──アルフレッドには天性の音楽の感性がある。本当に……なんでこんな女に引っかかったのやら」
オスニエルの視線は、彼の言葉以上に鋭くて、ユーリグゼナを追い詰める。
「最初君のことはどうでも良かったけど、今は違う。心の底から大嫌い。──ただ君の教育は仕事として受けた以上、これからも真摯に務めさせていただく。養子院に恩義があるし、口添えしてもらったアルフレッドの顔を汚したくないからね」
ユーリグゼナに何が言い返せるだろう。震えずに受け止めているので精一杯だ。
オスニエルは何もなかったように、にっこりと微笑んだ。
「また次回。今日やったところは復習しておいて。お疲れ様」
すたすたと扉に向かい、外のカーンタリスと言葉を交わす。
ユーリグゼナはすぐに動くことができない。
◇◇◇
ユーリグゼナは全身を強ばらせたまま、予定通り鍵盤楽器の練習のため、五角堂に向かう。未熟過ぎる腕前を、オスニエルに聴かれるのが怖くなった。音消しの魔法陣を使おう、と思い始める。
いつもなら昼間の練習に、音消しの陣は使わない。鍵盤楽器を楽しみにしてる子どもたちのため……いや、違う。
本当は最も大きな理由が、別にあった。
音がしたら、シノが訪ねて来てくれるかもしれない。そう打算していた……でも。
オスニエルに言われたこと全て、ユーリグゼナが自身に問うていることと同じだ。彼女は恵まれている。実力もないのに最高の人たちと演奏し、最高の友人アルフレッドの人生をも借り受けている。それがどれだけ厚かましく我儘なことか。
(分かっていて、私はここにいる)
オスニエル、カーンタリス。彼女に不信感を持つ面々の言い分は正しい。ユーリグゼナが不誠実なのは、紛れもない事実。批判は全て、黙って飲み込むしかない。
今出来ることをするだけ。周りから少しでも認められるため、練習して演奏の腕を上げて。言葉遣いに立ち振る舞い、所作全て完璧にして王女としての評価を上げて。そしてそして──。どこまでやればいい? 出来ること全部だ。人に褒められないことをしているのだから、当然だ。
それなのに、ユーリグゼナの心はおかしかった。こんな日に限って、シノに会いたくてたまらない。どうかしている。こんなにも図々しいのは、人として欠陥があるから。
シノにはこの日も会えなかった。次の日もその次の日も会えなかった。恵まれているのだから、これ以上望んではならないと、神様に言われているような気がした。
次話「噂話」は近日掲載予定。




