26.ハキハキしない
ユーリグゼナは自分の鼓動の音を聞きながら、辛抱強く待った。
しばらくして、ぽつりとアルフレッドが言う。
「……俺、初恋の曲はユーリを想って弾いた」
「……へっ?」
思いも寄らない言葉に、ユーリグゼナは慌てふためいた。
二曲目の切ない音色と、底なしに優しい演奏を思い出し、頬が熱くなる。あんな綺麗なものが自分に向けられていた?
アルフレッドは嬉しそうに笑った。
「ユーリ。顔が真っ赤。ようやく…………届いた気がする。いつだってユーリは、俺が気持ちを伝えるたびに、悲しそうで。そのたびに俺の想いなんて、なくしてしまった方がいいんだって、そう思って、苦しかった」
好意が怖くて、女性として見られるたびに逃げ出した。彼はどんな顔をしていた? たとえ応えられないとしても、それくらい知っておくべきだった。
「ユーリが俺と結婚するつもりがないのは、理解している。ライドフェーズ様にはすでに申し上げた。結婚は見合わせると仰っていた」
「えっ?!」
王であり養父であるライドフェーズから、なんの説明も受けていない。
深い縦穴の底からシノを助け出した朝、『アルフレッドと結婚しろ』と命令を出されたまま。いつの間に変更されていたのか。
「ただ婚約はこのまま継続だ」
意味が、よく分からない。
「結婚しないのに、婚約を継続?」
「そう。永年継続」
「永年?」
婚約が永年ってどういうことだろう。婚約と永年は、普通一緒に使わないように思う。
「ずっと結婚しないから、永遠に約束だけ継続される」
説明されたほうが訳が分からない、ってことあるんだな、と思った。
どう話せばいい。ユーリグゼナにはもう、婚約を続ける気なんて無いのに。
「俺さ。モテる」
「…………う? うん」
突然何を言い出す。
「シキビルドの紫位で独身の成人男性は、俺しかいないから」
「そ、そう」
一人だけ婚期を逃す? そういう話だろうか。
「ペルテノーラは、戦争で上位特権階級が激減。ウーメンハンとカンザルトルは政治が不安定で、上位に立つ人間がコロコロ変わる。安定した上位階級がほとんどいない今、俺が王女と婚約を解消したら……縁談が殺到する。断りきれなくて、そのうち誰かと結婚させられる」
アルフレッドはあくまで真剣だった。
「卒業して、これから好きなことができるというときに、縁談も結婚も迷惑だ。だから、このままユーリの婚約者でいて、自分の人生を守ろうと思う」
まさかの独身宣言だった。
「……あの、アルフレッド?」
「俺は婚約者として少しは役立った?」
ユーリグゼナは勢いよく首を振る。
「少しじゃない。たくさん助けてもらった。今までありがとう」
「良かった。じゃあ今度は俺が婚約を利用する番、でいいよな」
本当に何を言っている。
アルフレッドの好意に甘えたまま、ユーリグゼナはシノばかり想ってしまう。こんなどうしようない自分が、アルフレッドの婚約者であるのが辛い。もう彼を傷つける関係は清算したい。そうきっちり言わないから、伝わっていないのか。
「アルフ。私が婚約破棄するのは」
「今でも。誰とも結婚する気、ないだろう?」
鋭くかぶせられた言葉が、ユーリグゼナの口を封じる。無表情なアルフレッドは、年相応の男性に見えた。
「……最初から結婚自体を嫌がってた。なんでだろうって、ずっと思ってた。ユーリは…………男性が怖いのか?」
ざわざわと心が騒めき始める。
「……そう、だよ」
追い詰められ、身体が動かなくなる。
「男性を信用していないんだな」
「そう、かもしれない」
「一番信用できるのは、家族だと思ってる」
「うん」
「ユーリが本当は、俺のこと相当好きだって知ってる。大切に想ってくれている。そうでなきゃ、俺と一緒に一生音楽をやろうだなんて思わないよな。だからこそか? 大事だから、俺に男でいて欲しくないのか」
息をするのが苦しい。でも答えないわけにはいかない、と思った。
「うん。そうだよ」
声の震えは抑えられているだろうか。深緑の目が、気遣うように彼女を見ていた。
「俺、怖い?」
「……今は、少し怖い」
「だよな。俺が愛しくて仕方ないときに限って、ユーリは怯えた目をするんだ。でも今回、すごく正直に気持ちを言ってくれてる……初めて逃げなかった。ちゃんと話をしてくれた。ありがとう」
アルフレッドが柔らかく微笑んだ。
有り難いけど、もう止めて欲しい。さっきからずっと、彼の言葉に翻弄され続けていた。
「アルフさ……。そんなあけすけにものを言う人だった?」
思いが、ばんばん伝わってくる。怖い話が終わった途端、今度は愛しいとか言ってくる。感情の渦に呑まれ、頭がくらくらする。対して、アルフレッドは実に楽しそうだった。
「今日はユーリがちゃんと聞いてくれるから、少し調子に乗ってるかも。いつもこうだったら……。そうか。ユーリは今、心を開いているんだな。さっきの演奏がきっかけか」
アルフレッドの深緑色の目が、熱を帯びる。
「あんな演奏初めてだったよ。ユーリの鍵盤楽器の音が俺たち、観客、武術館のものすべてを繋いでいた。みんなで円舞曲を踊っているような一体感。終わるのが惜しかった……。あの感覚をもう一度掴みたい。ユーリと」
「……うん」
アルフレッドに音楽のことで褒められるのは、震えるほど嬉しい。彼の側にいたいと思っている。たとえそれが、恋でないにしても。
「アルフ。私ね。今日初めてみんなのための演奏ができたと思えたの。アルフとナータトミカが一緒なら、どこまでも昇っていけるような気がしたよ。──今日のこと一生忘れない。ありがとう」
はにかみながら、ユーリグゼナは告げる。
そっか、とアルフレッドは微笑み、彼女の頭に手を伸ばす。
(花びら?)
今もちらちらと花びらが舞っている。取ってくれようとしているのだろう。
アルフレッドの服にも、先ほどの小さな薄紫色の花びらがついたままだ。
(私も、あとで取ってあげよう)
彼の手だけでなく、顔も近づき、濡羽色の髪に何かがそっと触れた。
「なっ!!」
異常事態に気づき、彼女は素早く立ち上がり、身体を離した。アルフレッドは貴公子らしい仕草のまま、ゆっくり首を傾げた。
「ん?」
ん? ではない。いろいろ誤魔化そうとしている。
「アルフ。私は!」
「しー。静かに。目立つぞ。今後も婚約者のふりは必要だ」
アルフレッドに促され、周りを見渡す。喧騒から離れたこの場所に、いつの間にか男女二人組ばかりが増えていた。卒業を祝っているのか、別れを惜しんでいるのか、とにかくやたらと距離が近い。
早々にここから立ち去るべきだったと気づく。
ユーリグゼナは鬱々とした気持ちで、もう一度小声で言う。
「アルフ。私は本当に」
「分かってる。この婚約は互いの利益のためのもの。だから結婚はしなくてもいい。誰を想っても、俺に罪悪感を持たなくていい」
「そこまで思ってくれているのなら……お願い。解消して。いつまでも中途半端なのは辛いよ。アルフレッドが独身でいられる方法は、別に考えよう? もちろん私も協力するから」
苦しい。もういいじゃないかと、乞う。なのに彼は…。
「嫌だ」
「なんで」
「とにかく、絶対嫌」
本当に何を考えているのだろう。
アルフレッドは、大きな大きなため息をついたあと、深緑色の澄んだ目をユーリグゼナに向けた。
「……成人した特権階級は、身分を軽んじることが許されない。ただの俺では、王女であるユーリに近づけない。今まで通りに側にいるには、婚約者という錦の御旗が必須だ。音楽で実績を作って、周りに唯一無二のパートナーだと認められるまで、時間稼ぎしたい」
そんなことを考えていたなんて、思いもよらなかった。
「アルフ。それ、最初に言うべきだった!」
「まだ一銭も稼げてないのに? カッコ悪すぎだろう」
「大丈夫。すぐ稼げるよ。私も協力するから」
「駄目だ。それじゃユーリの力だって思われる。俺の力で何とかしたいんだ。……本当はみんなに認められる日まで口にしたくなかったのに。ユーリがしつこく破棄したがるから!」
「……しつこい?」
自覚はない。ただ言われてみれば、婚約破棄一択で挑んではいなかっただろうか。最初から彼の意見を聴く気がなかった。
アルフレッドの口は勢いを増す。
「もう現状維持で良いだろう? 本当は俺……ユーリが他の誰かと婚約するなんて、絶対嫌だ! ユーリの隣で婚約者顔するやつなんかいたら、問答無用で蹴り倒す。いろいろ言ったけど、本当のところは嫌だからだ。どうだ、カッコ悪いだろう!」
開き直ったアルフレッドは、偉そうに言い放った。
ユーリグゼナは顔が緩んでしまう。
「……むしろ清々しいよ」
気持ちが良いほど素直に、弱さを晒せるアルフレッドに眩しささえ覚える。
「ユーリが思うより、ずーっと俺のほうが大事に思ってる。だから、ユーリの幸せに必要なものは何でも、たとえあいつだろうと、手に入れられるよう力を貸す………………ようにしたい、とは思ってはいる。けど、……本当は全然納得してないから、やっぱり」
「アルフレッド!」
背後から鋭く呼びかけられた。
「急いで武術館に戻ってください。皆さんお待ちです」
迎えに来た従弟フィンドルに、アルフレッドは苦笑いする。
「分かった。……行こう。ユーリ」
「あ、うん」
ユーリグゼナはアルフレッドを追う。話の結論はまだ出ていない。彼女が口を開く前に、アルフレッドが話し出す。
「演奏会の候補曲に、『降り積もる雪』の曲があっただろう? 聞こえない音域が、どのくらい他の人にも聞こえないか気になって、合同演奏会の面子の前で演奏したんだんだけど、すっごく評判が良くてさ」
さっきの音声伝達相互システムで、ナータトミカと三人で演奏するよう頼まれたらしい。一度合わせてから舞台で弾くという。演奏曲から外されたため、ユーリグゼナはしばらく弾いていなかった。
(私、ちゃんと弾けるかな)
急に緊張してきたユーリグゼナは、早足で武術館に向かう。
そのまま婚約はうやむやになりました……。
次回「反発」は今月中に掲載予定です。
卒業したので、成人王女として扱われます。




