25.開くとき
長らくお休みしてすみません。
雨降り続く武術館で、無数の色鮮やかな魔法陣が舞台を守っている。
思い通りに進まない演奏会だったが、ユーリグゼナはわくわくしていた。たくさんの人が手助けしてくれている。演奏を待ってくれている。
演奏会は良い観客がいて、初めて成り立つ。
「私も、みんなに応えたい……。アルフ。ナータトミカ。力を貸りていい?」
「貸すに決まってる」
何を今さら、とアルフレッドが少しむくれながら答える。
ナータトミカは優しい顔で目を瞑る。
「心地いい伴奏だった。次は俺たちが合わせる番だ」
「あの。私……二人の音がとても好きだよ。一緒に弾くの、楽しい。だから最後の曲も二人の音を綺麗に響かせたい。そのために合わせたいのであって、自分が主に弾きたいわけでもなく……その」
自己本位な演奏を希望するような、一方的な言い方になっていたのかと、ユーリグゼナは慌てた。
「ユーリ、そんなの分かってるさ。一緒に弾いて伝わらないわけがないだろう? でももっとユーリらしい音を、俺たちが聴きたいんだよ。思うように弾いてみて。昔みたいに無茶しても、今なら余裕」
アルフレッドがいつものようにポンと彼女の頭を叩いて、席に着く。
ナータトミカは楽しそうに笑っている。
ユーリグゼナは、覚悟を決めて鍵盤楽器の椅子に腰掛ける。
魔法陣をひいた観客たちは、席に戻っていた。人の声は消え、外に降り注ぐ雨粒の音が広い会場を支配している。
(雨音も、曲の一部みたい)
ユーリグゼナは、左右の全ての指で鍵盤をかき鳴らす。
チャラルラリラ チャラリラルラ
チャラルラリラ チュラロン
突然の雨は、平和な日常を薄い墨色に染める。
響く不協和音は、聴く者の心に不安感を植え付ける。続くナータトミカの大型弦楽器は、地を這うような低音で、緊迫感を高めた。
しかし天気はすぐに変わる。
アルフレッドの穏やかで、どこか気の抜けた音色が、空気をみるみる軽くしていった。異国情緒を感じさせる旋律が、雨上がりの石畳に雲間から光が差し始めるような明るさで、曲の始まりを告げる。
ユーリグゼナはきりりと顔を引き締める。
(行きます!)
彼女の指が鍵盤の上を、一気に跳ねる。
ズン チャッチャ ズン チャッチャ
くるくると踊るように拍を刻む。
アルフレッドは軽やかな弓さばきで、低い音から急上昇、高い音から急降下を繰り返す。ナータトミカは大型弦楽器の音程を乱さず、器用に合わせてくる。
ユーリグゼナの伴奏は、円舞曲を踊るように響き合う二人の演奏とともに、より激しく叙情的なものへと導いていく。
円舞曲の拍は、踊りたくなるようなものでなければならない、とナータトミカに何度も言われた。大昔、ペルテノーラでは内戦と飢饉で、国が壊滅状態になったことがある。身分や思想の違いにいがみ合う人々の心を開くため、王は円舞曲を使ったという。
(『ズン チャッチャ』の魔力は凄い)
耳にしてしまうと、その気がない人までもが自然に身体が動いてしまう。
不意にたくさんの気配が動き、ユーリグゼナは頭上を見上げる。目にした光景に思考が止まった。
(ええーっ?!)
舞台の上で、色とりどりの魔法陣がくるくると回っていた。
すぐに鍵盤楽器へと目線を戻すものの、先ほどの情景が頭から離れない。
水色、淡緑色、薄い赤に薄い藤色に淡い臙脂色に……。色も濃さも大きさも、さまざまな魔法陣が、円舞曲の拍で踊るように回転していた。
ユーリグゼナは、演奏する手が彼女の思考を越え、何かの力で動かされていくように感じた。
(私も……踊らされてる、かな)
我知らず笑顔になる。
踊らされるのは楽しい。みんなの掌の上で転がされて、みんなが楽しい音楽を奏でられるなんて最高だ。
アルフレッドの口元の微笑みと、ナータトミカの優しい顔が、それでいいと言ってくれる。
楽しい。心が軽い。
ずっと弾いていたかったけれど、やはり音楽は終わるものだった。
止まない拍手のなか、色とりどりの魔法陣がポン、パン、ボボン、と音を立てて消えていく。雨は完全に止み、頭上には晴れ渡る青空が広がっていた。
ユーリグゼナ、アルフレッド、ナータトミカは立ち上がり、観客に応える。笑顔の三人が手を組み、腕を頭上高く突き上げる。温かい拍手に歓声が加わった。
その時だ。
ふわふわと、薄紫色の花びらが舞い降りる。
(え?)
幻のように儚い色が、しっかりと地面に着地する。二枚目、三枚目と次から次へと舞い落ちる。
ユーリグゼナがアルフレッドとナータトミカを見ると、二人も不思議そうな顔をしていた。
幻ならまだ分かる。養子院の五角堂の演奏で、山ほど降らせてもらった。でも今回は本物の花びら。
「なあ、この歓声って外からじゃないか?」
ナータトミカの問いかけに、ユーリグゼナはハッと息を呑む。アルフレッドがひらりと舞台から降りた。
「見に行くだろう?」
「あ……うん!」
ユーリグゼナもぴょんと飛び降り、軽やかに出口へと駆けていく。扉を開けると、明るい日の光とともに彼女を出迎えたのは、花の香りだ。
(なんて、濃い香り)
先に退場した学生たちの大多数が、まだ武術館の外に残っていた。歓声を上げる学生たちの表情は明るい。
雲一つない空に、ちらちらと雪のような花びらが降る。視線の先に広がるはずの緑深い森は、霞むような淡い藤色へと変貌していた。
「これ、どういうこと?」
「それ、今さらだろ。また挨拶したんじゃないのか?」
ユーリグゼナは、しばし固まる。
「……した」
「だよな。神々の力、今回は特別すごいな。大盤振る舞い」
アルフレッドは楽しそうに笑った。
森全体で魔樹が花開く。学校全体に薄紫色の花びらが舞い散っている。
アルフレッドの肩に一枚、着地した。ユーリグゼナはそれから目を離さないまま、告げる。
「アルフ。話がある」
「……そっか」
彼のさらっとした見事な金髪が揺れ、目元を隠した。
◇
アルフレッドは音声伝達相互システムでナータトミカに連絡をとった。舞台は続いているらしい。合同演奏会の面子が次々に、自分の演奏の腕前を披露しているのだという。
「休憩終わったら帰って来いって」
「分かった」
卒業生たちを祝う大騒ぎの学生たちから離れ、二人は苔むす倒木の上に並んで座っていた。
「アルフは……多分ナータトミカも、どう演奏したら人を感動させられるか知っているの?」
ユーリグゼナの真剣な眼差しを真っ向から受けとめたアルフレッドが、少し考えてから答えた。
「……知っている。人を感動させる、音や旋律の組み合わせが、いくつかあることを」
「やっぱり、そうだったんだ」
「でも絶対じゃない。人の心はそんなに単純じゃない。ある程度予想できるだけだ」
それでも知っているのと知らないのでは、演奏に大きな違いが出る。
これまで音楽にだけは、真剣だった。でも、それは独りよがりだったのだと、改めて彼女に知らしめる。
「私、追いつきたい。どうやったら学べる?」
「……俺もまだ勉強中だよ。……とても手間がかかるんだ。一つ一つ、楽譜の音と旋律を分解し、意味や効果を読み解いていく。それを何曲も繰り返すうちにようやく幾らか見えてくる」
聞いただけで、なけなしの自信が消えていく。顔色が冴えない彼女に、アルフレッドはからかうような笑顔になった。
「でも今なら、最速で学べるかもしれない」
「本当?!」
「ああ。俺よりずっと先まで研究している友達がいる。一緒に始めたのに、途中から全然敵わなくなった。彼なら、完璧に教えてくれる。今、養子院に務めているんだ。話しておくから会ってみて」
ありがとう、という声が心なしか小さくなる。養子院という言葉に、委縮していた。そう、まだ彼女は本題に入れていない。
「アルフ。養……」
「よう?」
「いや、あの。婚……」
「こん?」
次の言葉を告げるたびに、口が戦慄く。こんな事では駄目だと、自身を鼓舞した。
「私、アルフとの婚約を破棄する!」
言葉は出たものの、地面に向かって宣言……。恐る恐る顔を上げる。深緑色の目が静かに彼女を見つめていた。
アルフレッドは何も応えない。重たい沈黙が二人を包む。
次話は「ハキハキしない婚約の行方」です。近日更新。