24.聴きたい音
大変遅くなりました。長めです。
演奏を成功させようと必死だったユーリグゼナは、楽器を前にして、愕然とする。
(私……)
楽器を前にして、ようやく間違いに気づく。──観客に望まれない演奏は、してはならない。
今年初めて参加した卒業式は、式の間も終了後も、どこか緊迫感があって、話す学生はいない。音楽が入り込む隙間などなく、鍵盤楽器を弾いても拒絶されるように感じた。彼女の全身は強ばる。
「ユーリ? どうした?」
目の前でぱたぱたと手を振られる。アルフレッドのさらっとした見事な金髪が目に映り、心が戻ってくる。
「アルフ。私……弾けない。どう演奏していいのか、分からなくなった」
アルフレッドの深緑の目は、大きく見開かれる。そして小さく息をついた。
「さっきまで、あんなにやる気だったのに」
「うっ……。ごめん」
「いや、いいんだ。俺もだ」
「え?」
ユーリグゼナが見上げると、彼は苦し気に笑っていた。
「学校最後だから、いい演奏をしないと、人を集めないと、って必死だったけど──違うよな。今日は、卒業生一人一人にとって大事な日。誰のために演奏しようとしてたんだ。俺は」
彼は客席に目を向ける。
「今年は会場を変更して、人数は半分以下で、検査の長い列を待って入場して……。異例なことばかりで、みんな戸惑っている。どう祝ったらいいのか、分からなくなっているのかもしれない。例年なら──閉校宣言のあと大騒ぎになるんだ……」
「大騒ぎ?」
今日の式からは想像もつかない。
アルフレッドは、遠くに視線を向けたまま答えた。
「ああ。うるさすぎて、隣の声が聞こえないくらい……」
退場路には、下級生たちが待ち構え、目当ての卒業生に声をかけ、その場でお祝いするらしい。
「進行担当の教授が『さっさと出て、外で騒げ!!』って追い立てるまで、学生は騒ぎ続ける」
黙って耳を傾けていたナータトミカは、深く息をつく。
「これだけ静かだと、声かけるのも引き留めるのも勇気がいる。今年はいないかもな。告白する猛者は」
「告白?!」
恋の告白を、こんな公衆の面前でするのだろうか? 昨年まで全学年の生徒と卒業生の家族、合わせて五万人くらいが参加していた。とてつもない勇気の持ち主だ。
アルフレッドは、痛ましげに言う。
「国に帰れば、他国の人とは簡単に会えなくなる。卒業式は最後の機会なんだ。周りにどう思われるかなんてかなぐり捨てて、想いを伝える学生が毎年いる。でも今年は……何も告げられず終わる恋が、あるかもしれない」
諦めるのはまだ早い。ユーリグゼナは自分にできることはないかと、考え始める。靴音がやたらと響く無機質な会場。音楽なら、少しは和らぐかもしれない。
「聞き流せるような、空気みたいな演奏できないかな」
アルフレッドの深緑の目がきらりと光る。考え深げに細められた。
「空気か……。聞き流せる音楽なら、雰囲気を壊さない。やるか? ユーリ」
ユーリグゼナは深く頷いた。
振り返ったアルフレッドに、ナータトミカが低い声で、揺るぎなく答えた。
「やろう。──食事会で演奏したことがある。音を抑えめにして、ゆっくり弾けば会話の邪魔にならなかった。『レンベル』は穏やかで温かい曲だ。音を抑えて、歩く速度のようにゆっくり、しっとり演奏すれば、馴染むように思う」
「しっとり?」
彼女は聞き返す。具体的にどう弾くのか。
アルフレッドの横顔が、引き締まる。
「最初はナータトミカと俺で弾くから、ユーリは様子を見て入ってくれ。反応をみて弾き方を変える。──退場終了まで時間がかかる。弾き続けるために、曲を繋いで調整しよう。あと……」
打ち合わせを終え、それぞれ演奏体勢に入った。
最初に鍵盤楽器に座ったときと違い、彼女に迷いはない。
それでも失敗は怖い。けれど、何もできないまま終えるのは絶対に嫌だ。
(みんなにとって良い日になりますように)
友人だけでなく、話したこともない学生にまで、本気でそう思っていた。
ユーリグゼナの学校生活は、良いことばかりではなかった。苦い思い出のほうが多い。なぜみんなが卒業式を、成人を祝うのか、分からない。
それでも、支えてもらった人たちに祝われたから、今日が特別な日になった。他の卒業生にとっても、それぞれ大事な何かなのかもしれない。ならば、それを守りたいと思った。
ナータトミカは地を這うような低い音で、大型弦楽器を奏で始めた。正確な拍は、ゆっくりと進む足音のよう。
とても落ち着く音だが、他の人には、低すぎて聞こえないかもしれない。
ティー ラー ティー トゥー
アルフレッドの美しい音色は、抑えられている。それでいて余韻が残り、空気がゆっくり潤っていく。
ユーリグゼナは音を減らし、小さな音で鍵盤楽器を合わせ始めた。
重なる音色が美しい『レンベル』は、ゆっくり弾くと味わい深い。そんなことに、今さら気づく。
聞き流される音楽が誰にも聴かれないのは、当たり前のこと。
退場する学生の足は止まることなく、どんどん進む。しかし次第に私語が増え、多少騒がしくなってきた。
(私たちの演奏は、聴かれていないけれど……)
少しずつ、いつもの学校の雰囲気に近づいていく。学生たちの中に、ちらほら笑顔がこぼれる。ユーリグゼナも自然に微笑んでいた。
◇◇
大部分が会場から出て行くと、静かになった。
会場口の人の出入りはなくなる。
(少しは役目を果たせたかな)
大したことはできなかっただろう。会場内で大騒ぎになることはなかった。
席には、未だに千人以上が座っている。出ていかなかった人たちは、舞台の前方席に移動してきた。そして、式に参加していなかった五学年以下の下級生が、いつの間にか着席している。卒業式の後の演奏会を聴きに、わざわざ来てくれたのだろう。
(みんなが聴きたい音楽をつくれるだろうか)
自分が楽しむばかりでは、この場に立てないのだと、ようやく理解し始めていた。
ナータトミカの大型弦楽器の音は、徐々に高くなっていく。観客がその変化に気づき始めた。アルフレッドは鮮やかに旋律を奏でる。
ティンティラ ティンティラ
ティラティラ ティラリラ
鍵盤楽器で楽譜通り正確に、二つ弦を追いかける。
本来予定していた「レンベル」の演奏に移っていた。素朴で美しい原曲を楽譜のままに弾けば、情緒的な演奏方法を好まない年配者も、嫌悪感なく聴いてもらえるのではないか。そう三人で話しあっていた。
基礎がなおざりだったユーリグゼナにとって、この楽譜通り正確に、というのが困難だ。叔母レナトリアの基礎練習課題を繰り返し、アルフレッドとナータトミカに見てもらい、ようやく出来るようになったばかり。
正確に弾いて初めて、曲の凄さが分かる。三つの旋律は、濁ることなく透明な光を放つ。単純な音の並びは、実は計算し尽くされたものだった。
演奏を終えると、武術館は温かい拍手に包まれる。
アルフレッドとナータトミカに目が合うと、彼女の顔はほころんだ。一緒にこの場に立てて、本当に幸せに思う。
◇◇
途切れない拍手のなか、ユーリグゼナの指はゆっくりと鍵盤をたどる。少しずつ不穏な音を交え、初恋を題材にした曲へと繋いでいく。
──選曲のときのこと。
アルフレッドから、学生の恋の曲はないかと言われ、ユーリグゼナは、弱り切ってしまった。恋の曲は、ほとんど知らない。
しぶしぶ、昔、父ベルンがよく口ずさんでいた歌を曲にする。良い曲だが、恋の初々しさが、彼女にはどうにもむず痒い。
謝神祭で寮に学生とその家族が缶詰めになった日、臨時の演奏会が開かれ、この曲も演奏した。
年配の父兄たちの反応は激しいものだった。アルフレッドの切ない音色の虜になった彼らは、帰国後すぐ、シキビルド王ライドフェーズに再演を懇願したという……。
ユーリグゼナの前奏を受け、アルフレッドの弓が奏で出す。
トゥーラッ トゥーラ トゥン
さっきとはうって変わって、情緒的で華やかだ。それをナータトミカの大型弦楽器が、ぴったりと裏打ちしていく。
(アルフの音はナータトミカと演奏するとき、軽やかで、自由になる)
互いに上手いから、遠慮がいらないのだろう。ユーリグゼナとは格が違う。全く気づかず演奏していた昔が、恥ずかしい。
アルフレッドとナータトミカ。二人の音は、聴く者の心を動かす。本番では必ずと言っていいほど、成功させる。なぜそんなことができるのか。
(人が聴きたい音、分かるのかな)
そう思い始めている。どうしたら人に喜んでもらえるのか。何を望まれているのか。分からない彼女は、いつだって途方に暮れる。
闇雲に、ただ弾くのは、地図も櫂もなく大海原を漕ぎ出すようなものだ。上手くいくはずがない。
アルフレッドの弓は、滑らかに弦を震わせる。
ティッタ ティッタティ ティラリラリ ティーラリラ
ナータトミカは応え、ユーリグゼナは伴奏を激しく展開させる。聴く者を苦しくさせる、怒涛の音の波の渦。アルフレッドの弦楽器の音色が、鋭く胸をつく。
冷めやらぬ余韻のなか、ユーリグゼナは一人演奏の間奏に入る。
チャチャラチャン チャチャラ チャチャチャラ
チャラララララン
旋律を変化させ、おさまらない嵐のような心の内を表現していく。
ユーリグゼナの思いは、いつも上手に伝わらない。失敗するたびに、気持ちのおさまりどころが見つからず、不完全で醜い感情ばかりが心の底に溜まっていく。
今は、人の力を借りて、どうにか人の輪の中にいる。この演奏だってそうだ。アルフレッドが編曲したものを、何度も何度も練習してようやく弾けるようになった。何一つ、彼女一人ではできやしないのだ。
彼女自身の悔しさと悲しみが入り混じった音の波は、激しく空気を震わせた。
間奏が終わる寸前、次の一人演奏を弾くアルフレッドを見る。彼は静かな表情をしていた。
トゥーラッ トゥーラ トゥン
どうして、こんなに優しい音が出せる。
寸前の怒涛の演奏を包み込むように、温かい音色が奏でられる。静まり返った会場に、優しく語りかけるような彼の一人演奏が響いていく。
それに応えるナータトミカの大型弦楽器は、力づけるように熱を帯びていた。
重なる音に、アルフレッドは華やかさを添える。
ユーリグゼナは、二人に合わせ、鍵盤楽器を鳴らす。二人に追いつきたい。けれど実らない。今は。
◇◇◇
演奏が終わり、大きな拍手が会場を包んだとき。
ゴロゴロゴロ
不穏な音ともに、屋根のない武術館の頭上から、生温い風が吹き降りてきた。
ユーリグゼナは顔色を失う。
「降ってくる! アルフ。ナータトミカ。楽器を守って!」
アルフレッドは、振り返って彼女を見た。
「いつ降る」
「今!!」
彼女の声とともに、上空から大粒の雨が落ちてくる。
ユーリグゼナは鍵盤楽器の鍵盤部分を覆う蓋を閉じた。しかしそれだけでは、楽器の中枢である内部に水が浸入してしまう。古くて貴重な楽器を、どう守ればいい。
「ユーリグゼナ様」
すぐ傍からテラントリーの声がして、我に戻る。
降り始めた雨は、鍵盤楽器を濡らしていなかった。見上げると、雨除けの魔法陣が、花のようにいくつも開いている。魔法陣自体は透明だが、雨が落ちるたびに光を放っている。
ユーリグゼナを守るように広げられた陣は、薄紅梅色。テラントリーの髪色を思わせた。
鍵盤楽器の守っている一際大きな陣は、薄茶色に灯っている。従弟フィンドルフは、頭上高く両手を広げ操作している。後方に声をかけた。
「リナーサ。助かりました。ありがとうございます」
「こちらこそ。フィンドルフのお陰よ。私の陣では小さかったもの」
リナーサはにっこり笑って応える。橙色の陣は鍵盤楽器の端部分を覆っていた。彼女の婚約者ナヤンは、リナーサが濡れないよう守っている。
ナータトミカの上には、彼の巨体を覆って余りあるほどの特大な魔法陣が銀色に光っていた。陣の下に、ペルテノーラの兄王子アクロビスの銀髪が見える。ナータトミカは感涙していた。
雨除けの魔法陣は増えていく。隙間を埋めるように、上へ上へと積みあげられていく。それぞれが雨に反応して、色とりどりに光っていた。
舞台の周りに、見知った学生たちが集まっている。
ポン ピッ パン キュ
魔法陣が起動するときの音は、人さまざまだ。陣に触れた雨は、音もなく他の場所へ転送される。土砂降りの雨は舞台に届かなくなった。たくさんの陣が、雨も雨音も鎮めていく。
「みんなに応えよう。ユーリ」
力強い声に、ユーリグゼナは振り返る。アルフレッドの上に積み重なった陣は、友人たちのものだろう。
観客席を見ると、叔父アナトーリーが叔母レナトリアにやんわり腕を取られていた。特別席では、シキビルド王ライドフェーズが不満げに、美しく微笑むシノと話している。
大人たちの介入は一切必要ない。学生の力だけで、続行可能だ。舞台を守るたくさんの陣は光を放ち続ける。
次の曲の演奏体勢に入ったナータトミカが、彼女の目に映る。
ユーリグゼナはアルフレッドに向き直り、強い意志で答えた。
「そうだね。アルフ」
次話「開くとき」は10日中に掲載予定。徐々にペースを戻すつもりです。
遅くなりましたが、演奏会のメモです。
楽器:演奏者
弦楽器(祖父ペンフォールド名義):アルフレッド
大型弦楽器(ペルテノーラ王国所有):ナータトミカ
鍵盤楽器(学校より借用):ユーリグゼナ
セットリスト
1 『レンベル』
主にBGMとして演奏。
2 『言えない恋の歌』
リクエスト曲。
初恋に胸を焦がす学生の歌を、三重奏に編曲。
3 『時の輪舞曲』
舞踏曲を取り入れた三重奏。




