21.終わりの合図
ユーリグゼナがサギリに伸ばした手は、届かない。急に引き離されて、心の持っていきようがなく、呆然と言う。
「そんなに……急ぐ必要、ありましたか?」
飛んできたのは武術館の控室のようだ。部屋の窓から、少し先の森が見える。
「すまぬ。……あの場から其方を引き離そうとした」
「なぜですか?」
アルクセウスは一度言い淀むが、ゆっくり口を開いた。
「それは」
「余計なことを言うなと、言うたであろう?」
いつの間にか妖精王が、アルクセウスの肩に乗っている。
「……ついてきたのですか」
アルクセウスから深いため息が吐かれる。
「おう。ユーリグゼナの侍女があまりに不憫でな。『代わりに余が行ってやる』と慰めたのじゃ」
ユーリグゼナはホッと胸を撫で下ろす。
「妖精王。ありがとうございます」
「よい。気の短い男のせいで、苦労するな」
アルクセウスに、気が短い印象は無い。何か理由があるように思えた。彼は眉間に寄ったシワを隠すように、長い指で顔を半分覆った。
「千年生きているあなたから見たら、誰もが気が短く思えるでしょう……」
妖精王の顔は緩んだ。なぜか、満更でもない顔だ。
「よせよせ、褒め過ぎじゃ。余はまだ五百年を生きたばかりだというに。千年の叡智が感じられるとな?」
若く間違えられて喜ぶ、中年女性のよう。いや、年上に間違えられて喜んでいるのだから、逆なのか。
ほくほく顔で、機嫌良く妖精王は言う。
「そちは気負いすぎなんじゃよ。まだ大きな歪みはないぞ」
「そちらはそうですが……」
アルクセウスは、いつもの厳かな雰囲気が薄れている。
「今の心配は、余か。先ほど空間を分け入った影響か」
「はい。無理に通られましたね? 神の関与を抑えるため、空間はきつく結んでありました。小さくですが亀裂が入りました」
「悪かったな。配慮が足りず。じゃが…………今回は、一度開放せぬか? せっかくの祝いの日。がんじがらめでは幸運も逃げてしまう。事の発端は少年神デイルであろう? 余から執り成そう」
「そこまでしてくださる、と……?! なぜ?」
アルクセウスは、緑がわずかに混じる黒い目を大きく見開いた。
妖精王の声は、落ち着いた音楽のようにじんわり響く。
「短き生き物よ。そちが調停者になってまだ六年。一人で何ができるというのじゃ。もう少し年長の者を頼れ。それに今日くらい……眠り姫のため、何も起こらぬ日にせよ。うたかたの恋くらい、許してやれ。いつかは目覚める眠り姫。ルリアンナが神をだまくらかそうとも、いつまでも眠らせておられまい」
妖精王はそう言って、姿を消す。
アルクセウスはすぐに魔法陣を出し、調整を始めた。無駄のない素早い指先の動きが、緊迫した状況を感じさせる。
ユーリグゼナは、じっとそれを見ていた。
(眠り姫って……)
黒曜石のような目をそっと閉じる。
◇
「待たせた」
予定時刻はだいぶ過ぎてるが、アルクセウスに慌てた様子はない。
「式の開始はかなり遅れる。参加者全員に課した安全確認に、予想以上に時間がかかった。今行けばちょうどよい頃合だろう」
時間があったのなら、なぜサギリとシノから急いで引き離した。ユーリグゼナの心はゆっくり冷えていく。きっと、彼女が知らないことがまだまだある。そして未だに蚊帳の外だ。
気持ちを切り換えるように、話題を変える。
「妖精王には、敬語ですね」
「……遥か昔からの存在じゃ。なんとなく、そうしている。……先ほどのように」
アルクセウスは、わずかに口元を緩ませる。
「妖精王は諭すように叱るから、少し嬉しいのだ。そんなふうに儂に接する者はおらぬ。……其方と神は、儂に厳しいし」
彼女は動揺する。
「わ、私ですか?」
「ああ二回ほど、本気で怒られた。勝手に耳を塞ぐな、と。儂は人以外の生き物を軽視している、と」
「あ……」
ミネランの事情聴取のとき聴覚を奪ったとき、ボルカトリンとセルディーナを貶めたと抗議したとき、のことだ。怒ったわけではなく、理解して改めて欲しかっただけだ。
ユーリグゼナは、彼に伝えたいことがあった。今度こそ、ちゃんと伝えたい。
彼女は腰を落とし、跪いた。目線の先に、アルクセウスの服の裾がある。上質なもので、よく見ると布地の綾が黒光りしている。
「いかがした」
訝し気な声に、彼女は顔を上げ、きりっと答えた。
「申し上げたいことがあります」
「……聴こう」
「私は、アルクセウス様に感謝しています」
授業の面倒を最後まで見てもらった。他にもたくさんお礼をいいたいことはある。でも、もっと根本的なこと。
「前王に逆らった罪で家族を処刑された私を、当時、誰も助けませんでした。それでも学校は、私を他の学生と同じように入学させ、寮に部屋を与え、守ってくれました。……入学を許可してくださったアルクセウス様のおかげです」
どこにも居場所のなかったユーリグゼナにとって、命の不安なく気ままに過ごせる学校は、唯一の救いだった。
「弱い者にとって地獄だった世界を、たくさんの犠牲を支払って、今の世界にしてくださいました。アルクセウス様をはじめ、すべての大人たちに感謝します。……ずっと死ぬことばかり考えて生きてきました。でも今、とても幸せです。生きるのは、こんなに楽しいことだったのですね」
ユーリグゼナは、花がほころぶように笑った。
固まったままだったアルクセウスの端正な顔は、ようやく動き出す。
「……ユーリグゼナ」
「すみません。急ぎましょう」
「いや。そうではなく。何と申せばよいのか……」
アルクセウスの歯切れが悪い。今まで見たことがないほど、無防備で幼く見える。そういえば、彼はアナトーリーとあまり変わらない年齢のはずだ。
「……儂は調停者となってから、ずっと非難を浴び続けてきた。感謝されたのは初めてだ」
「まさか」
形の良い彼のまぶたは、何度か瞬きを繰り返す。
「本当だ。……調停者は各国に直接手出しすることはできぬ。結果として、シキビルドの子どもたちを見殺しにした。それなのに、救うことができなかった其方から、そんな言葉をもらおうとはな。……少しでも世界が変わったのであれば良かった。儂が務めたことに、意味はあったか……」
力なく語る声は、少し震えていた。でも彼はすぐ、何もなかったかのように微笑んで見せた。膝をついたままの彼女を起き上がらせる。
この人はこうやって、ずっと一人で生きていくのだろう。そう思うと、寂しい気がした。
「もう学校には来ることはありませんが、アルクセウス様が本当に困ったら、仰ってください。できる限りお役に立ちます」
たくさん助けてもらった。遠くにいても、恩返ししよう。そんなつもりで、彼女は明るく自分の胸を叩いた。
彼の長い睫毛が、下瞼に影を落とす。
ユーリグゼナの耳元から声が上がった。
「……アルクセウスも立つ瀬がないな」
彼女の肩に、妖精王がとまっている。
「私……また、何か失礼なことを言ってしまいましたか?!」
動揺する彼女の問いに答えないまま、妖精王は、にっと微笑む。
「神々に話をつけたぞ。今日一日、楽しんで来るがよい」
「……ありがとうございます」
ユーリグゼナのなかで、戸惑いは消えない。それでも安心して過ごせるように力を尽くしてくれた妖精王に、笑顔でお礼を伝える。
アルクセウスはたおやかな動きで、彼女に腕を近づける。彼女はおずおずと手を寄せ、彼に添い歩き出した。
「約束を果たしてくれたな」
何か約束をしていただろうか。何も思い当たらない。
「何の件でしょう」
「……儂とカミルシェーンに、其方の演奏を聴かせてくれると言っておったではないか」
ユーリグゼナの表情は固まる。確かに言った。カミルシェーンにはすでに演奏している。アルクセウスには一度も……ない!
「……約束を果たせそうで、良かったです」
「楽しみにしておる」
次回「終わりの合図2」は9月1日頃掲載予定です。




