20.手にあるすべて2
「無難な選択が、アルクセウス様?! どうしてそうなる……」
ライドフェーズの口は、ぽかんと開いたままだ。
いち早く立ち直ったシノは、美しい所作で立ち上がる。
「お待たせしては、いけません。向かいましょう」
扉の前でくるりと、ユーリグゼナを振り返った。シノと目があった彼女は、彼の方へ足が引き寄せられていく。ライドフェーズの瞬きが多くなった。
「一緒に行くつもりか?」
シノは優雅に首を傾けた。王弟君と呼ばれるに相応しい気品が溢れ出す。
「はい。アレクセウス様との待ち合わせ場所まで、ご一緒いたします。私のような者でも噂になれば、多少でもエスコートの意味が薄れるでしょう」
ユーリグゼナの背後に、ぴたりとサギリが寄り添った。
「サギリ……ここは遠慮して二人きりに……しないのだな。分かった。護衛を頼む」
ライドフェーズの弱気な言葉を背中で聞く。ユーリグゼナはシノとサギリとともに部屋を出た。
「よろしければ……」
シノが差し出す腕に、彼女は手を伸ばした。彼は穏やかに微笑み、その手を自分の腕に添えた。
妖精界の服はひだが多い。裾がひらひらして、ひどく歩きにくそうだ。それが彼の美しい足さばきによって、さらりさらりと風に舞うように動く。
シノはたくさんの視線をそよ風のように受け流しながら、軽やかに彼女をリードする。
◇
アルクセウスとの待ち合わせは、森の中。
人目がなくなっても、シノは自然に彼女の手を引いて歩いている。ユーリグゼナの心は、ふわふわとどこかに飛んでいきそうだった。
「シノは本当に綺麗…………な所作ですね。誰に教わったのですか?」
シノは声を抑えて答えた。
「ペルテノーラ前王女グラディアス様です。テルとともに……恐れながらセルディーナ様のご教育の傍ら、学ばせていただきました」
前女王は『生まれで人生が決まる? 馬鹿な。そんな国に私はしないぞ』と、三人にどこに出しても恥ずかしくない所作と教養を身に着けさせた、という。
「幸せは自分で掴め。平民であることを、できない理由にするな。そう雄々しく鼓舞してくださる、素敵な女王でした」
ライドフェーズの母は、想像するよりずっと、たくましい女性のようだ。
「でも──国のため、身をすり潰すように生きられ、早くに亡くなられました」
きっとシノは知らない。グラディアスの命がセルディーナに使われていることを。
なんとなく、グラディアスは知っていたのではないかと思った。分かっていて、残されるライドフェーズのため、三人を教育したのではないだろうか。本人から訊かない限り、確かめる術はないが。
「……お会いしたかった、です」
「そうですか。会えたらきっと、グラディアス様は……あなたを可愛がったことでしょうね」
シノの顔は優しく、それでいて寂しげだ。
森の中はとても静かだった。
サギリはぴったり彼女にくっついていたが、完全に気配を消している。
シノはサギリを意識することなく、自然にユーリグゼナと話していた。
しかし彼は目を逸らしてばかりだった。
「そんなに……気に入りました?」
「ヘっ??」
「ずっと、目をそらさない……ので」
指摘されて初めて、じっとシノを見つめていたことに気づく。ぶわっと顔に血が上る。
シノは目を伏せたまま言う。
「いっそこのまま、妖精の王子に、なりましょうか」
「それは……嫌です。会えなくなってしまいそうです。人として側にいて欲しいです」
シノの顔が真っ赤に染まっていく。恥ずかしそうに、手で顔を押さえた。
「……すみません。冗談のつもりでした。……やはり、私の冗談は、伝わりませんね」
シノの声が落ち込むと同時に、先ほどまでピンと伸びていた背が、前屈みになる。ユーリグゼナは、腕に掴まっているのが難しくなった。
「……すみません」
シノは慌てて体勢を整える。ユーリグゼナはおずおずと、伝えたかった言葉を口にする。
「……あの。シノ。髪飾りをご用意いただき、本当にありがとうございます」
ひと目見て気に入ったのに、お礼を言えていなかった。
「とても美しくて、手にするのが怖いくらいです。妖精たちが作るものは繊細で、糸のグラデーションが魔法のように揃っていますね」
シノは少し笑う。
「そうですね。教えてもらっても、全然言われた通りにできなくて、自分の不器用さと物覚えの悪さに泣きました」
「えっ……シノが作ったのですか?!」
「はい。あなたが作ったお守りのお返しですから、手作りしたかった……」
シノが立ち止まり、ユーリグゼナの足も止まる。彼が首元からたぐり寄せる紐に、見覚えがある。彼女はごくりと唾を飲んだ。
「着けていらしたのですか?」
「はい。いつも着けています」
久しぶりに見た魔法陣入りの守り石。ユーリグゼナは驚きと嬉しさで、変な顔になっていた。
シノはわずかに緑色が混じる灰色の目を、彼女に向ける。
「──今日の私の姿は所詮、偽物。本当の私には、何の力もありません。それでも……あなたを喜ばせたかった」
シノは彼女の髪に伸ばした手を、触れないまま握りしめ、自分の胸に押し当てる。
「この小さな髪飾りが、私にできるすべてです。受け取ってもらえるだけで、充分だと思っていましたが……。あなたの黒髪を、特別なお祝いの日に飾ることができた。この場に来て、目にする幸運を得た私は、世界で一番恵まれた人間です」
ユーリグゼナは、火照る顔をどうすることも出来ない。
「お、お礼をさせてください! こんな素敵なもの……そう、エスコートまでしていただいて、ええと、その」
話せば話すほど、頭がくらくらしてくる。シノはゆったりと呼びかける。
「私が欲しいものを望んでも、よろしいでしょうか」
「は、はい! なんでも」
「……では、焼菓子を」
「え? ……もしかして私が作る焼菓子のことですか?」
──木の実をたくさん入れ、バターと砂糖をふんだんに使って焼いた。サクサクとした食感とキャラメル感が特徴の焼菓子。
そういえば、最近焼いていない。味はともかく、見栄えが悪いので、王女からの贈り物としてはみすぼらしい。
「あの……。とてもシノにお見せできるようなものでは、ありません……。ですから、他の物ではいかがでしょうか」
シノが作る菓子は、美味しいだけではなく、見た目も芸術品のように整っている。
彼の整った鼻の上に、無数にしわができていた。
「……アナトーリー様から、よく作ってもらったと伺いました。ご家族、アルフレッド様、カミルシェーン様もいただいていたというのに、私には……」
先ほどの王侯貴族の雰囲気は、どこかへ飛んでいった。
「本当に欲しかったのですが……」
しょぼんと落ちていく肩を見て、ユーリグゼナは慌てて訂正した。
「あの! 精一杯作ります。どうか貰ってください。……せっかくですからたくさん作って、養子院に差し入れましょう。形がいびつだから、ブルーナあたりにからかわれそうですね……」
「文句を言う子にはあげませんよ。取り上げて、私が全部いただきます」
シノはあくまで真剣に答える。彼女の心はほどける。
◇◇
歩く先に、高い背丈の男の、長い銀色の髪が見えた。
「あの方がアルクセウス様です。私、行きますね」
「分かりました」
シノは返事をしながらも、彼女の手を離さない。綺麗な目で、彼女を見つめ続ける。
「ご卒業、心からお祝い申し上げます。思う通りにならず、苦しいことも多かったでしょう。それでも諦めず、成し遂げたあなたを心から尊敬しています」
教育係だった彼は、王女として至らない彼女のことを最も知っている。そんなふうに言ってもらえるとは、思っていなかった。
「シノのおかげです」
ずっと見守ってくれた。どんなにできなくても、彼はユーリグゼナを見放したりしなかった。
「シノに褒めてもらえるなんて、夢のようです。私、今日のことを一生忘れません」
彼女の黒曜石のような目は煌めき、シノをとらえる。大好きな人が努力を認めて、祝ってくれた。
(これ以上の幸せは、もう無いかもしれない……)
繋いだ手から、シノの体温が伝わってくる。しばし時を忘れた。
◇◇◇
「無粋で申し訳ないが、あの男が時間が無いとうるさいのじゃ。どうする? 蹴飛ばしてやろうか?」
小さな人型の妖精が、シノの肩に、腰に掛けている。固まっているユーリグゼナに、優雅に礼をした。
「お初にお目にかかる。余は妖精王じゃ」
整った顔立ちと長く美しい金髪が、セルディーナを思い起こさせる。ユーリグゼナは王女の所作で応える。
「初めまして。ユーリグゼナと申します。……妖精王はセルディーナ様のご家族の方でいらっしゃいますか?」
妖精王は赤い目を満足そうに細める。
「そう、兄じゃ。──礼を言おう。ユーリグゼナ。ペルテノーラの焦土の地を癒やし再生してくれたこと、心から感謝する。そちには大きな借りができた。なんでも願うがいい。叶えよう」
「式が終わってからにしてください」
よく通る聞き慣れた声がして、ユーリグゼナは振り返る。妖精王はフンと鼻を鳴らす。
「待てぬ男は何も得られぬぞ。調停者」
「妖精王がさらに引き延ばそうとしなければ、遮りませんでしたよ」
「ほほう。余だから邪魔したと」
「ええ。意図的に思われましたので。 ……それに」
アルクセウスがシノに目を向け言おうとした言葉は、妖精王によって止められる。
「余計なことを言うでない。祝いの場で語ることを禁ずる」
「……この場は妖精王に従いましょう。ユーリグゼナ。行こう」
「は、はい」
ユーリグゼナは慌てて返事をし、そっとシノを振り返る。ゆっくり頷いた彼へ、小さく頭を下げた。
急ぎ足で、アルクセウスに追いついた。
「遅くなり申し訳ございません。アルクセウス様。本日はエスコート、よろしくお願いいたします」
「ああ。謹んで務めよう」
人気がないことを優先した森の中で待ち合わせたため、会場の武術館から離れている。
「走りますか?」
「いや。飛ぶ」
「飛ぶ?! 空間を超えて、ですか?」
ユーリグゼナはペルテノーラ王カミルシェーンに飛ばされて以来、ずっと苦手に思っていた。
「ユーリグゼナ様!」
サギリの声に、彼女は後ろを振り返った。
「お供させていただきます」
サギリは、ユーリグゼナにぴったりと寄り添う。
「側人は式に参加できぬ」
「では、会場の外まで。どうかご一緒させてください」
アルクセウスは、サギリに冷たく言い放った。
「ならぬ。……ユーリグゼナ。つかまれ」
彼に肩を引き寄せられた途端、彼女の目の前から森の情景が消え去った。
次回「終わりの合図」は、8月25日に掲載予定です。




