6.穏やかすぎる森
(どう頑張っても、緩んでしまう……)
ユーリグゼナは、モフモフの白い毛に覆われたなんとも愛らしい生き物とともに、学校の森を進んでいた。
彼女は『魔獣生態学』を二学年で落とし、三学年で無事修得するも、『魔獣生態学2』を出席日数が足りずに落とした。どちらも、モフ教授が担当だ。
モフ教授というのは、当然本名ではない。彼の頭と胴体は完全合体し、白く柔らかい毛に覆われたモフモフの球体。そこに手足が申し訳程度に付いているという、奇妙な風貌の老教員である。何かの呪いか病気が原因だと思われるが、魔獣好きで観察研究が趣味な彼は、これほど森歩きに適した体は無いと喜んでいた。
森を進む足取り、いやポヨンポヨンと揺れる姿から、今日を楽しみにしていたことが分かる。
「赤茶くんの研究報告書が、とても面白かったんだよ。幻を見せる『望みの実』の能力は、実を獲物に食べさせ、発芽の際に必要な膨大な熱量を取り込むための戦術だったとは……。研究が進まない稀な魔植物に、新しい視点を与えた。彼は卒業してなお、研究を続けているんだね。素晴らしい。シキビルド王の側近なんて誰でもできる仕事はやめて、稀有な才能を研究に注いでほしいのだがなあ」
『赤茶くん』と呼ばれる人物がスリンケットで、赤茶色のくせ毛から命名されたと、簡単には気づけなかった。
モフ教授は名前に頓着しない。学生を、『君』かあだ名で呼んでいる。
「ワシは赤茶くんを、教授に推薦したいと思っている。眠り姫くんからも、研究のため学校に勤めるよう話してはくれんか」
返答に困り、ユーリグゼナは途方に暮れる。側人のサギリも口出しが難しいらしく、黙って側に控えているだけだった。モフ教授はそれを賛意と取り、ひゅんひゅんと細長い手を振り回す。
「やはり、もったいないと思うだろう。──眠り姫くんもそうだ。挨拶とは素晴らしいな。これほど森が、穏やかな顔を見せるとは。本当に君は森のことをよく理解している。こんなに話が盛り上がる学生は、赤茶くん以来だ。王女なんぞより、ワシの助手になってもらいたい」
ふおふお楽しそうにする教授には申し訳ないが、盛り上がっているのは彼一人である。ユーリグゼナは思い切って話を切り出した。
「……森の、どこに向かっているのですか」
「ふふふ。なんと魔獣ボルカトリンが定住している場所を見つけてな。そこでワシの説を証明したいと思っている。君には四年前に否定されたなあ。一緒に確認しようではないか」
前に繫殖期の生態について、意見したことがある。確かに四年も経っていた……。
◇
森の奥に、不思議な場所があった。森が一部ひらけて、日の光が降り注いでいる。そこに古い建物が建っている。周辺で寛いでいたボルカトリンたちが、一斉にユーリグゼナたちに目を向ける。そのうち一頭がぽてぽてと近寄ってきて、彼女に大きな頭をすり寄せた。
(この子、ミネラン捕縛のときに『望みの実』を吐き出した子だ)
元気そうな様子に、笑顔がこぼれる。
モフ教授は羨ましそうに、つぶらな瞳を向けている。ユーリグゼナは魔獣を撫でながら、疑問点を潰していく。
「ミネランに連れられたボルカトリンたちは、ここに全員いるのですか」
「そうじゃ。調査後は扱いに困って、学校長が森に戻せと仰られてな」
「……戻した? ここに元々生息していたのですか?」
「そうらしい。観察した結果、全個体とも、餌を取りに出ても必ずここに戻ってくる。……奇妙なことだが、はぐれ個体はいない。森じゅうのボルカトリンが一つの群れになっている。シキビルドの森も調査してみたいがのう。聖城区では、ワシの説が正しいと言えるのではないか」
教授はふおふおとモフモフの体を揺らす。ユーリグゼナは別のことが気になっていた。
(捕まえたボルカトリンは、同じ個体かと思うほどそっくりで、同じ年齢だった)
捕縛時にアナトーリーも気づき、調停者アルクセウスに進言している。彼女は一匹ずつ確認する。こちらにいる三十頭ほどすべても、不自然なまでにそっくりだ。しかも……
「雌しかいません」
「な、なんと!」
そもそも繁殖期だというのに、群れの落ち着きようはなんだろう。穏やかすぎる。
ただ、興味津々で確認しようとボルカトリンに近寄るモフ教授には、敵意を剥き出しにする。何度も試みるが、そのたびに威嚇され、しょぼんと白い毛が萎れる。
「なぜじゃ。雄がいないのに、どうやって繁殖できるのじゃ!!」
ばたばた飛び回ると、白いモフモフが跳ねているようにしか見えない。
どこかほんわかした情景に、ほんの少し救われたような気持ちになるも、すぐにユーリグゼナの心は沈んでいった。ひどく眩暈がした。サギリが、そっと声をかけた。
「お顔の色が、真っ青でございます。今日のところは戻りましょう」
「……うん」
帰り道、憶測と推測が彼女の頭を襲う。思考を止めたくとも止まらず、冴えた頭は脳と心を冷やしていく。
無性に、シノの淹れたお茶と菓子が恋しくなった。
◇◇
補習授業と調書の作成が一区切りつき、開校の時期となった。
例年通り、開校式の前日にシキビルドから学生たちが移動してくる。
「アルフ!!」
学校側の時空抜道で、彼を待ちわびていたユーリグゼナは、弾けるような笑顔で駆け寄った。アルフレッドは自分の口元を押さえる。
「ユーリ」
そのまま言葉が続かない。ユーリグゼナは、嬉しくてたまらない気持ちを抑えられない。
「今すぐ一緒に弾きたい! もちろん疲れてなければ、だけど」
「疲れていない。すぐ行く。特別室か?」
「うん。今日は誰も使わないから、長時間使えそう」
ユーリグゼナは一人で演奏するのに飽きていた。もうみんなで音楽を作る方が、断然楽しい。
二人が連れ立って歩くと、自然に周りの目が集まる。「うそ? お揃い?」囁く声が彼女の耳に入り、みんな目ざといものなんだな、と感心する。
今年の新調した制服は黒。希望色を訊かれても、ユーリグゼナは黒以外選べなかった。
(悲しんだらいけないと、そう思ってきた)
ずっと前に進むしかなかった。死なないように生きるには。
ミネランが捕まって、これまでの罪状が明らかになって。
新しい朝が始まる。人々は、より良いものにしようと、それぞれの立場で力を尽くすだろう。
だとしても、ユーリグゼナはとらわれ続ける。眩しい朝までたどり着けなかった人々に。最も冷え込む夜明けを駆け抜け、雄々しく逝った最愛の家族に。
その犠牲の上に立つ自分が、どう生きればいいのか、ユーリグゼナにはまだ分からない。確かにあるのは、悼みたいという気持ち。今の明るい世界なら、自分一人くらい後ろを向いても、きっと許される。
「黒色、これから流行るかもしれない」
アルフレッドの言葉に、首を傾げる。
「えっ、そうかな」
制服は濃い色をベースにするよう、定められている。黒は、最も手間なく出せる濃色。下位の特権階級が仕方なく使用する、安っぽい印象が定着していた。
アルフレッドは、ふんわり微笑みながら深緑の目を細めた。
「ユーリ。とても似合ってる。黒髪黒目だからかな。綺麗さに凄みが増して、厳かなんだ。こんなふうに黒を着こなす人を、俺は見たことがない」
「……褒めすぎだけど、有難く受け取っておく。──アルフこそ、金髪深緑目の貴公子が、周りの色を吸い込むような深い黒を着てるなんて。見た人が卒倒するほどの、破壊力だよ」
「褒めてるつもりだろうけど、破壊力って……」
雑談しながら颯爽と歩く二人は、ずっと人目を引いている。特別室に入り、ゆっくり扉を閉めた。アルフレッドはさらっとした見事な金髪を揺らしながら、彼女に向き直る。
「で、本当は何の相談?」
相変わらず察しが良すぎて、彼女の方が狼狽えてしまう。
「本当にアルフと演奏したい。今は」
「それも、分かってる」
話しながら、二人とも弦楽器を準備する手は止めない。
「……アルフにお願いしたいのは、開校式が終わったあとのこと。音声伝達相互システムで、アルクセウス様に会う約束を取り付けて欲しい。秘密裏に」
アルフレッドの表情に、しゅっと緊張が走った。
彼女の音声伝達相互システムは、砕けたままで使えない。頼むならアルフレッドだと、開校日を待っていた。
「本当のことを知りたいだけ。危ないことにはならない」
ユーリグゼナの揺るぎない声で、アルフレッドの心が定まったように見えた。
「俺も一緒に行く。いいか?」
ユーリグゼナは深く首を沈めた。
「うん。一緒がいい」
次話「等しくない重さ」は6月13日までに掲載予定です。




