4.補習の活用
遅くなりました。。
「良くできている。この部分の裏付けが、何のどの資料から取れたか追記すれば完璧だ。あとこちらの課題は……」
アルクセウスは細々とした、けれど重要な添削を入れる。調停者として相当忙しいはずの彼に、ユーリグゼナはたくさん時間をもらっていた。さすがに申し訳なく思う。
彼はユーリグゼナの頭をトンと、つつく。
「集中力が切れたな。また明日にしよう」
修正の入った書付けを、洗練された手の動きで彼女に返却する。ユーリグゼナは受け取りながら、まだ迷っていた。
課題の題材は、先日のミネラン捕縛の件ばかりだ。実際に関わった事件を元にするのは、興味が尽きないし本当に勉強になる。実際に政に関わったときも、必ず役に立つだろう。
ただ、アルクセウスに求められる完成度が、異常に高い。忙しいなか、劣等生のユーリグゼナの補習にそこまで力を注ぐだろうか。
「私の提出した課題…………。何かに使っていますか?」
アルクセウスは真顔で、しばし固まる。
「…………使っている」
目の前に銀髪がさらりとすべり落ちる。深く頭を下げられていた。
「申し訳なかった。少し手を加えたものを、今回の調書に使っている」
初めて目にする、形の良い頭のてっぺん。ユーリグゼナは動揺した。
「頭を上げてください! せ、せっかくでしたら、完璧に添削して提出したら、無駄がないと思ってですね……」
「其方。自分の補習を利用されて、怒っているのではないのか?」
そんな怒る怒らないの話を、アルクセウスにするわけがない。なんだか痴話喧嘩のような物言いに、ちょっと気が抜けた。
「怒ってはいませんが、説明してもらえたら良かったと思います。知っていたら、最初からそのつもりで書きましたから」
アルクセウスはしばらくの間、長い指で両目を覆っていた。
「思った以上によく書けていたから、欲が出た。補習は学ぶためのもの。儂が完全に間違っている。…………そもそも、学生に実務をやらせてはならない決まりだ」
「そんな決まりがあったのですか」
「そうだ。それを認めると、金に困った学生たちを安い金で不当にこき使ったり、仕事を強要したりする者がでる」
彼の端正な顔立ちに、影が差していた。
今回、国の最上位の人間が罪人となったため、重要な書類はアルクセウスしか作成出来なくなっているらしい。おそらく、膨大な仕事量。補習なんかやっている場合ではない。
「私に手助けはできませんか」
「よいのか? ……手伝ってもらえるなら、とても助かる。其方は王女だ。ミネランと同位扱いだから、今回の調書を作成出来る地位にある。──学生の身で携わせる責任は儂がとろう」
「決まりを学校長自ら破って、その……大丈夫ですか?」
アルクセウスは小さく笑う。
「決まりを破る価値がある、と判断した。実はなりふり構っていられぬほど、まいっているのだ。──ミネランの罪状は多岐にわたり、調書も多い。裁判は時間との戦いだ。時間をかけ過ぎれば、真実は次第にぼやけ歪んでいく。重要な案件が多いときほど、次々に明らかにしなければならない。──そうだ。為政者の授業に法を破る条件に関する事項があったな。今回のミネランがなぜ、法を破ったかについての調書も書いてもらおう」
アルクセウスの話は熱がこもっているが、顔色は冴えない。それは今日だけではなく、ミネランの供述で会った時からずっとだ。
「お疲れ、ですね」
彼はふっと笑って、頬杖をつく。
「……其方に分かるようでは、皆に知られているやもしれぬ」
暗に鈍いと言われ、ユーリグゼナは鼻にしわを寄せる。
「……私の補習のせいですね」
「違うな。──今年から補習は、たくさんの学生が受けている。通常の授業は、習得を優先する。聞きたいことがあっても、言い出せない学生は意外と多いと、ようやく儂は気づいた」
ユーリグゼナが落とした授業は多く、その教授たちもかなりの人数だ。せっかくだから、と他の希望者を募ったところ、予想以上の参加があった。
「今回は、参加した全学生から補習授業代を取る。それは教授たちの臨時収入になる。学生たちも真剣に取り組んでいるし、少人数のため深く掘り下げた授業内容になっている。たとえ忙しかろうとも、やりがいの方が大きい」
アルクセウスの黒い目は、僅かに緑が交じる。その目を伏せ静かに言う。
「疲れているのは、忙しさのせいではない。……儂は多分、気が抜けているのだ」
「……え」
アルクセウスらしからぬ表情に、ユーリグゼナはぷぷっと吹き出しそうになった。
「笑ったな?」
「……すみません」
「よい。……其方の両親から焚き付けられて、神々に会い、ここまできた。処刑した前調停者は実の父。『親殺し』と呼ばれながら、旧体制を壊してきた。ミネランは、父の息のかかった最後の人物──もう世界の膿は出し切ったであろう……」
彼は冷めた目をしている。
アルクセウスがどう生きてきたのか、想像もつかない。
ただ、調停者としての仕事が山積みだということは分かる。調書以外にも、代表者を失ったウーメンハンの新しい体制が確立するまでの見守り。予想以上に広がっていたカンザルトルの上流階級での人身売買の関与。
学校長としても、閉校中の補習という新しい試みをやり遂げようとしている。
「少し休憩しては、駄目ですか?」
ユーリグゼナは、たいていやる気がないまま、勉強をしている。そんなときは必要に迫られても、全然はかどらない。一度休むに限る。
「休む……か。止められぬ案件ばかりで、どう休んだらよいのか」
「休養が必要と、診断されたというのはいかがでしよう。心の病ということで」
人生を休みまくっている彼女には、いくらでも思いつく。
「…………そのまま、調停者を辞める話になりそうだな」
第一線にいる人には、無理だ。きっと無気力に生きてきたユーリグゼナに、アルクセウスの気持ちは一生理解できない。
何を言ったらいいのかと、頭を悩ます彼女を見て、彼は楽しそうにクスクス笑い出す。
「本当にパートンハド家の者は、儂に賄賂を渡すのが上手いな。其方も」
「え?」
母と違い、ユーリグゼナは何も渡していない。むしろ補習の時間を大量にもらっている。
「有料で補習を受けさせ、それを調停者の仕事に利用するなど、やってはならぬことだ。手伝いを得て、気は楽になったが、弱味を握られたような気になっている」
「だったら、いっそ。広げてみてはどうでしょうか。堂々と手伝えるように」
「……また奇っ怪なことを言い始めたな。弱味をさらせということか?」
彼の綺麗な眉が、変な形に歪んでいる。
「条件が整えば、決まりは破っていいのですよね? アルクセウス様が倒れてしまっては、一大事です。仕事を振る間口を広げるため、身分や学生の縛りを公式に取り払いましょう。調停者の権限で」
「……権限の乱用は、儂の地位だけでなく世界も脅かす。前調停者の真似はしたくない」
乱用ではなく、活用くらいの可愛い悪知恵だ。誤魔化して学生を使うより、よほど健全な気がする。
ユーリグゼナは心配になっていた。アルクセウス自身に、いつもの優雅さがない。覇気もなく、切れも悪い。確かに疲れて切っているのだろう。どうすればいい……。
「それでは、ペルテノーラの王子二人にだけ、お手伝いをお願いしてはいかがでしょうか。そのくらいだったら、私に調書を書かせるリスクとあまり変わらないです」
劣等生のユーリグゼナが手伝うより、断然進む。それに為政者の授業としても、実際の事件で実務に携わるのは本当に勉強になる。アクロビスとナンシュリーも学びたいと思うのではないだろうか。
アルクセウスは深くため息をついた。しかし、次第にいつもの目の鋭さが戻ってくる。
「儂は、確かに疲れているようだ。これでは回らなくなるはずだ」
彼女は彼の物言いに少しホッとする。
「……其方賢いな」
「そ、そうですか? そういえば、たまに言われます」
スリンケットは呆れ気味に、たまに口にする。本当は賢いの? と疑問符付きだが。
めったに褒められないユーリグゼナは、照れくさそうに笑う。それを見た彼は表情が少し明るくなった。彼女の頭にぽんと手を置く。
彼女は、わずかに違和感を覚える。不用意に触られると、思い出してしまう。
ユーリグゼナは、ずっと言いたかったことを口にした。
「ミネランの供述のとき、聴力を奪われたのは、とても嫌でした」
彼はハッとしたように手を引く。
「せめて先に聞いて欲しかったです。……良かれと思ってくださったのは、分かります。実際、倒れるわけにはいかない局面でした。でも──強い眠気に襲われて、自由を奪われて、本当に嫌でした」
「……すまなかった」
アルクセウスの声に動揺を感じる。
「私、言い過ぎました。……すみません。不用意でした」
ユーリグゼナの心は、嵐のように荒れ狂っていた。否定的な思いを、家族以外にぶつけることは、ほとんどない。心の収まりどころがつかなくなる。徐々に深まる自己嫌悪に、頭は自然に下がっていった。
アルクセウスはゆるりと首をふる。
「いや。先に個人的な話を始めたのは儂だ。今後は気をつけよう」
落ち着かない様子の彼女を、どこか寂しげな表情で見る。もう一度伸ばしかけた手は、静かに膝の上に戻された。
「……大人になったのだな」
彼の長いまつげが、頬に影を落とす。
次回「婚姻の季節」は6月6日までに掲載予定です。
恋占い的な会話から、婚姻の契約魔法について。ユーリグゼナ視点で、ぺ王子二人と調書のお手伝いをする話。




