81.安らかな眠り
久しぶりの鍵盤楽器の演奏に、ユーリグゼナの指は悲鳴をあげた。
(あ……。どうしてこんなに、練習をサボってしまったのだろう)
音楽なしに彼女の人生は成り立たない。シノとの遭遇を恐れて練習しないとか、よく考えたらあり得ない。猛省しながら、必死に指を動かす。弾き始めればたどたどしくとも、多少は指が動いてくれる。反応の良い養子院の子どもたちのおかげで、楽しく演奏を終えた。
子どもたちは、夕食の準備と集まりがあるのだと、名残惜しそうに五角堂を出て行った。ユーリグゼナは、傍らに残った従弟ユキタリスに訊く。
「今日は一人? 家に送っていこうか?」
「ううん。フィンが迎えに来るから大丈夫」
「フィン?! ずっと会えてないや。一緒に待とうかな」
子どもたちを連れて行ったナンストリウスが、戻ってきて告げる。
「ユキ。お兄さんが迎えに来たそうです」
「分かりました。代表。ありがとうございました。さようなら」
「ええ。さようなら」
ユキと一緒に出て行こうとするユーリグゼナの前に、ナンストリウスが立ちはだかった。
「君は鍵盤楽器の練習して行ったら? ひどかったよ。さっきの演奏」
「は……はい。そうさせていただきます」
◇
ここで、夜になるまで気づかない、なんてわけにはいかない。ユーリグゼナは、時間になったら知らせる魔法陣を準備してきた。寝袋は最悪の事態を想定しただけで、使うつもりはない。
無事暗くなる前に練習を終え、五角堂内を片付ける。扉を開け、ちょうどこちらに向かってくる影に気づき、硬直した。
シノは灯りの器具を抱えたまま、彼女を凝視する。すぐに五角堂に入室してきた彼は、緊張した面持ちで言う。
「ご無沙汰しています」
綺麗に切り揃えられた青紫色の髪がふわりと揺れる。美しい目鼻立ちに見とれる彼女だったが、シノがきつい顔をするので俯いてしまう。
ユーリグゼナは鞄から手早く、小さな包みを取り出した。出会ってしまったら、渡そうと用意していた。
「シノ。これを……」
シノへと伸ばす手の上に、ひょこっと小さな魔獣が現れた。小さな羽を羽ばたかせ、嬉しそうに一回転してみせる。
(あれ? 夜道の護衛を頼んでいた子……もしかして、魔石がもらえると思っている?)
魔石はもう無い。どうしようかと彼女が慌てているうちに、シノは笑顔で懐から菓子を出した。魔獣はすぐに飛びつき受け取ると、くるくる回転して、ぱっと消えてしまう。
ユーリグゼナは突然の小さな訪問者に、顔が緩んだ。
「可愛い……。懐きましたね」
シノの菓子があれば、もう魔石はいらないようだ。魔獣も夢中のシノの菓子。彼女だって食べたい。もうずっと口にしていない。
向き直ると、シノが硬い表情で見ていた。ユーリグゼナは緊張しながら、もう一度包みを差し出す。シノは包みを解くと贈り物を見つめたまま、黙り込んだ。
また失敗したのか、とユーリグゼナは悲しくなった。
「……お守りです。ライドフェーズ様にご用意いただいた石に、身に着けやすいよう紐を付けました。でも…………魔獣が懐いているのなら、不用でしたね」
「必要に決まってるでしょう?! どうしてあなたはそう……」
シノは弱りきったような声を出す。
「すみません……………………。欲しくてたまらないので、どうかください」
シノの顔が赤い。自然に彼女の顔も熱を帯びる。
「はっ、はい。もちろん。どうぞ」
「この紐の色は、私の髪と目の色に合わせたのでしょうか」
「……そうです」
今さらながら、微妙なことをしてしまったと気づく。自分の体の一部の色を合わせたものなんて、贈られて気持ち悪くないだろうか。でもシノはそれを顔に出してくれる人ではない。
「着けていいですか」
「はい。──この丸い小球を、小さな輪っかに通してください。一度通すと反対方向には外れなくなります」
シノは紐を慎重に首にかけ、輪に通そうとするが小球は入らない。失敗の予感に気が気でない彼女は、シノの首に手を伸ばす。察したシノは屈んでくれた。彼女がやっても確かに上手く通らない。
「輪を小さくし過ぎたかもしれません。緩いと取れてしまうので、少しきつめにしたつもりが、入らないなんて……」
「もしかして、ユーリグゼナ様が自ら編んだのですか」
「は、はい。すみません」
手作り。なんて重い贈り物。なんでもっと無難なものにしなかったのか、と彼女は泣きたくなった。手が震えて、ますます球を通せない。
「なぜ、謝るのですか? 入らないなら、調整するだけでしょう?」
不快に思っていないようだった。
さっきから彼の顔が近くて落ち着かない。とにかく通すことに集中する。するりと球は輪をくぐってくれた。ホッとした瞬間だった。
(なに、これ)
何か身体のなかが搔き混ぜられたような、奇妙な感覚。
シノは身体を起こすと、目を細めて飾り紐に見入る。
「ありがとうございます。本当に、一度通すと抜けませんね」
「……はい。でも、球を反対に輪に通せば、外すことができて……」
くらくらする頭を押さえながら、説明しているうちに、段取りを一つ忘れていたことに気づいた。
「すみません。魔法陣を起動するのを忘れていました。今のままではお守りになりません。もう一度屈んでいただけますか?」
具合が悪くなりそうな予感だ。さっさと終わらそう。急いで守り石に触れ魔法陣を動かした。すると……
(気持ち悪い。ふわふわする)
全身の温度が一気に上昇した。未知の浮遊感に立っているのが難しくなった。異常に気付いたシノは、不安そうに彼女の顔を覗き込む。
「シノ。失敗かもしれません。あれほどライドフェーズ様に言われていたのに……。起動させてから渡すように。魔法陣を身に着けるときは、手を出してはいけないって」
「ユーリグゼナ様?!」
平衡感覚を失い、ふらふらする。シノが手を伸ばしかけたときだった。開きっぱなしだった扉を軽く叩いて、ナンストリウスが入ってくる。
「そろそろ片付け…………えっ?! 何やってんの!!」
のんびりと品のいい声が、途中から裏返る。彼はつかつかと近寄って、ユーリグゼナの頭に触れた。
「最悪。………シノは、子どもたちのところに戻ってくれる?」
シノは明らかにホッとした表情だった。
「はい。助かりました。ユーリグゼナ様をお願いいたします」
ナンストリウスは目を逸らし「あとで話そう……」と小声で呟いた。ユーリグゼナには厳しい目を向ける。
「君、意識はあるでしょう? がんばって部屋まで歩いて」
冷ややかな声に、彼女の身体の熱が少し冷める。ふらつきながら、ゆっくりと彼のあとをついて歩いた。
◇◇
客室に案内され、「とりあえず横になったら?」と長椅子を指さされる。ユーリグゼナはようやく休めそうだと、気を抜いた。反対にナンストリウスの表情は、ひどく張りつめていた。
「禁忌を破ることで、快楽を得る人間はいる。それは互いが望むなら自由の範囲内だろう。でもね、君は未成年だし、シノに許可を得ていないだろう? それにここは養子院。管理者である僕にとって、とても迷惑で虫酸が走る行為だよ」
いつも、のらりくらりと掴みどころのないナンストリウスが、見たこともないほど怒っている。
(本気で、何の話か分からない……)
何かとんでもないことをしたのだろう。分かっているのだが、こんな状況にも関わらず耐えられなくなっていた。
「責めは後ほど負います…………今は、寝たくて、たまりません」
彼の目はさらに厳しいものになる。
「君がそんなに破廉恥な人間だとはね。しばらくすれば落ち着くはずだから、我慢して。シノに失礼だ」
寝るとそんなに失礼だろうか。でももう、抗うことが難しい。ナンストリウスの声が耳障りだった。
「すみませんが、どうか静かに。心安らかに眠りたいのです」
「死んで償うってこと?」
「何のこと、でしょう………あの、ずっと眠れなかったのに、なぜか今、とても心地よく、寝れそうなんです。どうか一時でも静」
彼女はついに、かくんと首が落ちた。
次回「眠っているだけ」は4月11日頃掲載予定です。




