56.君との幻3
アルフレッド視点。続き
ナータトミカの鼻息が……すみません。
部屋を出る前にアルフレッドを振り返った、ユーリグゼナの顔が忘れられない。泣き出す前のような潤んだ黒曜石の目は、自分がさせたのだと彼は悔いた。
(俺はまた、ユーリが苦しんでいる時に、何もできないのか。こんなに近くにいるのに……)
怒りはとっくにおさまっていた。心に広がるのは不安だ。手足が急速に冷えていく。二人一緒に進む未来が、音楽が、消え去ろうとしている。
ナータトミカが大きく息を吐いた。その風が顔に届いたような気がして、我に返る。
「俺はアルフレッドが怒るのは当然だと思う。なぜユーリグゼナは婚約者を頼らない。辛い時こそ相談すべきだろう?」
ナータトミカの言葉に、アルフレッドはのろのろと答えた。
「……俺がずっとイライラしているから、ユーリは言えなかったのだと思う」
心までよんでいたなら、なおさらだ。縮こまる彼女の小さな背中が目裏に映り、きゅっと胸が締め付けられる。
(怖かったよな。俺………心の中でシノのこと何度も死んでくれって……)
俯いた彼のさらっとした金髪が、深緑の目を覆う。
「アルフレッドはユーリグゼナを好きだろう? なぜ好きな相手にイライラする?」
「……上手くいってないからだよ」
ナータトミカがあわあわと身体を揺らす。椅子がキシキシと軋んだ。
「…………すまない。俺はどうも……勘が悪くてな。家に来てくれた時、二人は良き友人にも、何か絆があるようにも見えた。恋人同士でなくとも、仲が良いと思っていたんだ」
ナータトミカはよく見ていると彼は思う。散々、婚約者を羨む言葉をかけてきたのに、ペルテノーラで過ごしてからは全く言わなくなっていた。
「ユーリは……他に好きな奴がいるんだ」
「そう、なのか?」
「そいつを助けるために、ユーリは俺との結婚を選んだ」
「なんだそれは!!」
一気に立ち上がり、椅子が跳ねて飛んでいく。ナータトミカの引きつった顔が、化け物のように恐ろしい。すごい破壊力だな、と呆れながらもアルフレッドは暗い声色で続けた。
「俺はそれを承知でユーリと結婚するんだ。だけど──本当はそいつとの繋がりを消し去りたい。俺だけのものにしたい…………」
アルフレッドは不安にたえきれず、何度も彼女に触れた。くしゃり。抱き締めたとき、彼女から音がする。幻聴だとしても彼の耳には現実のように響き、苦しくさせる。
「アルフレッド……。事情があることは分かった。でも好きな人を自分だけにものにしたいのは、普通のことだ」
ナータミトカは顔を歪め、額にまでしわを寄せた。
「俺はアルフレッドが大好きだ。音楽の才に優れ、努力を惜しまない。特に指揮はすごい。腕前も性格もばらばらの五十人が、アルフレッドにかかれば音がピッタリ合うんだ。そのたびに、いつもしびれる」
彼なりに褒めていた。恋の話がなぜ音楽の話になるのかは分からないが。
「そんなすごいアルフレッドが、心を壊すほど欲しい女なんだろう?! 手に入れろよ!! 俺が味方になってやる」
ナータミトカは怖い顔つきが劇画のように陰影を増す。涙か汗か判別がつかないものを、手布で拭う。
アルフレッドは飛んでくる唾を避けながらも、心がほどけていく。どこか的外れな言葉。怖い泣き顔。でも何だか……。
「なんでアルフレッドが泣いてるんだ?」
「……いや、ナータトミカこそ」
ずっと否定され続けてきた。ユーリグゼナだけじゃない。周りにも利益を得るための結婚と言われ続ける。アルフレッドの心から彼女を想う気持ちは、行き場のないまま誰にも伝わらない。初めて、自分の気持ちを受けとめてもらえたように思った。
橙色の目から大粒の涙をこぼす大男を見て、なぜだか少し楽になった。そして心の奥にしまっていた思いが浮かんでくる。
(ユーリは、俺を断り過ぎだ)
好意だけでなく、物すらアルフレッドから受け取らない。
そのくせ、アナトーリーに贈られた銀に青い石のついた耳飾りは音声伝達相互システムとして常に身につけている。それとお揃いの意匠にしてテラントリーが贈った髪留めは、髪をまとめるときは必ず使う。
そして最近、耳装飾具の穴を耳に開けた。去年何度か着けていた赤の耳装飾具を贈ったのはスリンケットだ。勘づいても、どうして贈り物がされたのかは確認するのが怖くて、口にはできていない……。
(金属かぶれがあるから、貴金属は受け取れないって言ったよな?!)
なんで俺から贈ろうとするものは全部断るんだ!! と、アルフレッドはだんだん腹が立ってきた。結局、唯一素直に貰ってくれたのは、制服だけじゃないか。
「……なあ。このままじゃ駄目だろう。何とかした方がいい」
ナータトミカの鼻息が勢いよく、アルフレッドのさらっとした金髪を揺らした。彼の涙は完全に止まる。
「何とかって」
「いったん、結婚とか恋愛とかは脇に置いてだな」
「さっき応援するようなこと言わなかったか?」
ナータミトカは、うーんとうなり声を上げる。人とは思えない低音の振動に、机がビリビリと震えたように感じる。
「アルフレッドとユーリグゼナの最大の絆は音楽だろう? 今、お前たちは完全に失おうとしてる。ユーリグゼナが聴力を失っては……先は無い」
アルフレッドは深緑の目を大きく見開く。ナータミトカは足をドシンと床につき、部屋を揺らす。
「それに演奏会も二人で始めたものだろう? ナヤンが言う通り、仕上がりが悪すぎる」
彼の激しい息づかいで鼻から毛がチロリと覗き、揺れるのが見えてしまう。アルフレッドは顔が緩むのを我慢できなかった。そのまま鼻息荒くナータミトカの説得が続く。
「……そういうわけだから、何とか元の関係に戻れ。お前たちは音楽やってるときは最高なんだ。─────俺はユーリグゼナを呼んでくる。同席するから、ちゃんと話して、何とか仲直りしてくれ。いいな!!」
そう言いながら、彼は部屋から勢いよく飛び出していった。
アルフレッドは気が抜けて、ふうっと息をついた。ナータトミカの頭の中は、結局のところ音楽の心配が大半を占めているように思う。
(それでもナータトミカなりに俺の心配をして、理解しようとしてくれた。とても嬉しい……)
泣いてしまった分だけ毒気も流れていったようだ。彼はゆっくりと机に覆いかぶさった。
(ユーリとまともに話すの、久しぶりかも)
一緒にいてもあまり話さなくなった。彼女の口数が減った。でもそれは一番の原因ではない。彼が本当のことを知るのが怖くて、彼女の心を分かろうとしなくなったからだ。
前に「アルフ。本当は心が読めるでしょう?」と彼女が、黒曜石のような目を煌めかせながら真剣に聞いてきたことがあった。能力のないアルフレッドは、どう答えるか悩んだことを思い出す。
(遠い昔のことみたいだ)
思い出したことが切なく、苦い。あの時は卒業までに振り向かせようと必死で、その未来を夢見ていた。今と何が違う……。
シノがいなければ、と何十回いや何千回と思った。でもその前から彼女は、アルフレッドを男として見ていない。苦々しい事実に目を背け続けて、この様だ。
(ユーリ。大好きだ)
もう何度も思い続けた想いが、自然に浮かぶ。どうしても、ユーリグゼナが誰を想っても、決して変わらない。
ナータトミカは正しい。彼女との音楽を取り戻さなければならない。
今はユーリグゼナとの関係を元に戻そう。触れることのない、ふりだけの婚約者へ。彼女との永遠の約束が最優先。
(でも、いつかは俺を想って)
心はそのまま、胸の中にしまいこむ。
次回「終わって、はじまる」は12月27日までに掲載予定です。




