表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/2

一度気になりだしてから、日増しに考える時間が増えている。授業中も、友達とお喋りしている時間も、バイト中も…。

「英語ばっかり!海外のサイトですか?」

「わっ!びっくりした。朱音ちゃんか…。」

図書館の貸出カウンターの下でスマホをいじっているのを朱音ちゃんに見つかって、大きな声出してしまった。いつから後ろにいたのかもわからなかった。慌てて辺りを見回して、ほとんど人がいないことを確認した。そんな私を見て、朱音ちゃんはくすくすと笑いながら、隣の椅子に座った。

「奈緒さん、驚き過ぎですよ。どうしたんですか?そんなに夢中になって。」

「ごめん、バイト中に。」

「別に、今日暇だし、良いんじゃないですか?皆、そのくらい余裕でやってますよ。で、何見てたんですか?春休みに、あのイケメン彼氏さんと海外旅行にでも行くんですか?」

「ううん、何か予定がはっきりある訳じゃないの。」

「ふーん、これまで奈緒さんがバイト中にスマホいじるなんて見たことなかったから、よっぽど何かあるのかと思いました。でも、安心しました。」

「安心?」

「んー、いつも真面目な奈緒さんもそういうことするんだなーって。っていうか、最近、少し雰囲気変わりましたよね?前よりメイクするようになりました?でも、それだけじゃないような…。」

「確かに前よりも自由にメイクしてるけど…。あとは、心境の変化が顔に出てるのかな。」

「え、どういうことですか?」

「朱音ちゃんが言ってた、自己肯定感、わかってきたかも。」

「へぇ!何かあったんですか?きっかけとか。」

答えるよりも先に、朱音ちゃん越しに掛け時計が目に飛び込んできて、慌てて立ち上がった。

「いけない、もうこんな時間!ごめん、私、今日はもう上がるんだ。」

「え、今日ってラストまでじゃないんですか?」

「うん、用事があって変えてもらったの。じゃあ、朱音ちゃん、またね!お疲れ様!」

時計は、出たかった時間を五分ほど過ぎていた。「お疲れ様でーす!」という朱音ちゃんの声を背中に受けながら、早足で図書館を後にした。


今日は、出版社の会議室で行う、簡単な撮影に呼んでもらっていた。指定の会議室で順番を待ち、指差しのポーズやオッケーのポーズを撮影してもらった後、事前に編集部から送られてきたコスメの使用感についてのアンケートに答えた。ほとんど終わりかけた頃、桐谷くんからメッセージが届いた。

「桐谷くん!」

エレベーターを降りてエントランスに向かうと、既に桐谷くんの姿があった。名前を呼ばれて振り返る桐谷くんを見ながら、撮影を介さずに会うことが不思議な感じだと思った。

「倉田さん、撮影お疲れ様です。すみません。わかりにくい方のエントランス指定しちゃって。迷いませんでした?」

「大丈夫。私、初めてここに呼んでもらったとき、なぜかメインエントランスに辿り着けなくて、こっちのエントランスから入っちゃったから、何となく覚えてた。」

「それはまた、珍しい迷い方しましたね…。じゃあ、行きましょうか。」


出版社の隣にあるカフェに入って、カウンターでカフェラテを注文した。丸テーブルに向かい合って座って辺りを見渡すと、この前行ったフレンチトーストのお店とは違って、テイクアウトして慌ただしく去っていく人や、テーブルにノートPCを広げて仕事をしている人が多く、社会に出た大人の忙しなさを垣間見たような気がした。

「落ち着かないですか?」

「ううん、そんなことない。ただ、私が住んでいるのって学生街だから、こんなに社会人の人が多くいるカフェが新鮮だと思って。難しそうな顔してる人が多いね。」

「そうですね。高橋さんが言ってたんですけど、僕たち学生って、課題の内容がいきなり変わることって、まずないじゃないですか。でも、社会に出ると、取引先の都合とか世の中の変化とかで、それまで進めていたことが急に変わることが多くて、モチベーション下げずにそれに対応していくのが大変だって。試験みたいに絶対的な回答があるわけでもないですし。」

「そっか。やっぱり私たち学生って、甘くて優しい世界にいるんだね。」

「でも、イレギュラーが起きたり、一見失敗したように感じることが起きても、上手くいくための布石だったりするから、思うようにならないからって、自分を責めたり傷つけたりしない方が良いって。そんなことで人の価値は変わらないって。」

「それは?」

「兄の受け売りです。」

「やっぱり桐谷くんのお兄さんって良いこというよね。」

桐谷くんは、柔らかい笑みを浮かべると、テーブルの上に綺麗に畳まれたハンカチを置いた。

「忘れないうちに。ありがとうございました。」

「ううん。あれ?これ、もしかしてアイロンかけてくれた?」

「一応ね。アイロン使ったの初めてだったから、義姉さんに見守られながら。」

「そっか。なんか贅沢なハンカチになった気がするね。あの、こっちこそ傘ありがとう。助かりました。」

「役に立ったなら良かったです。」

お互いに借りていたものを返して、今日の用事はこれで終わり。なんとなくカップについたスリーブをいじっていると、桐谷くんが続けた。

「今日のメイクってセルフですか?」

「うん。この前、萌さんにしてもらったメイク真似しちゃった。」

「良いと思います。すごい似合ってます。」

「ふふっ、ありがとう。でも、今日、桐谷くんがバイト入ってて良かった!早く傘返したかったんだけど、次、いつ高橋さんの撮影に呼んでもらえるかわからなかったから。」

「平日はほとんどいますよ。結構稼がせてもらってます。」

「そうなんだ。撮影じゃない時ってどんなことしてるの?」

「そうですね、事務作業とかお使いとか雑用全般ですね。学生なんで、そんな大したことはしていないですよ。あ、そう言えばこれ、兄が渡してくれって。」

 そう言って、桐谷くんは、白い封筒を差し出した。

―To.ちゃんなお

「ちゃんなお?」

封筒の宛名には、タークブルーのインクで、恐らく私の愛称だと思われるものが書かれていた。

「それね、なんかこの前、藍兄がふざけて倉田さんのことそう呼び出して。あの人、人懐っこくてすぐに人にあだ名つけるんですよ。義姉さんのことも、付き合う前はなんか変な呼び方してたな。なんだったか忘れたけど。えっと、嫌じゃなかったら付き合ってやってください。義姉さんも便乗して『ちゃんなおちゃん』とか言って、なんでまた『ちゃん』を付けるんだよって…。」

「あ、桐谷くん、お兄さんのこと藍兄って呼んでるんだ。」

「ああ、昔からの癖で…。」

「なんか良いね。かわいい感じ。うん、私、ちゃんなおって呼ばれるの、全然嫌じゃないよ。こんな風にあだ名を付けられたのが初めてだから、寧ろ嬉しい!これ、中見て良い?」

桐谷くんの笑顔に促されて封を開けると、入っていたのは、この前データでもらった花の写真だった。一瞬、時が止まるような感覚。PCの画面で見たときもそういう感覚に落ちたけど、焼き上がった写真を手に取って、改めてその花の在る世界観に引き込まれた。こういう時、「綺麗」とか、「素敵」とか単純な表現しかできない自分の語彙力を恨めしく思う。でももしかしたら、強く心を揺さぶるものって、結局シンプルな表現に行きついてしまうのかもしれない。

「藍兄に『ちゃんなおは、喜んでくれたみたいだ』って伝えておきます。」

「うん…ありがとう。すごい嬉しい。お礼、宜しくお願いします。」

「ああ、そう言えば、花繋がりって訳じゃないけど、来週からこのカフェ、期間限定でさくらラテを出すらしいんだけど、それが毎年美味しいって…」

「あの、桐谷くん!」

「うん?」

思いの外大きな声になってしまい、自分で驚いた。でも、桐谷くんはいつもの感じで、それが私を安心させた。

「あのね、実家で犬を飼っているの。」

「へぇ!何犬ですか?」

「ポメラニアン。でね、名前がハナって言うの。私が付けたんだけど、でももしかしたら私がハナだったかもしれないの。」

「えっと、犬がハナで倉田さんもハナ?どういうことですか?」

「あ、ごめん。えっと、私が生まれたとき、名前を『奈緒』にするか『花』にするかで迷った結果、『奈緒』になったんだって。それを聞いてから暫く、お花を見る度に『もしかしたら、こんなに綺麗で、こんなに人に好かれるお花と同じ名前だったかもしれないんだ。もし、私も花だったら、私ももっと…。』って思ってて。ハナがうちに来たとき、私の分までたくさん愛されてほしいと思って、名前は『ハナ』にしたいって親に言ったの。ずっと忘れてたんだけど、そんなことを思い出した。」

「思い出して、で、今もそう思っているんですか?」

「今は思わないよ。前よりだけど。今は、『奈緒』も気に入っているしね。桐谷くんや萌さんのおかげで、条件で私の価値は変わらないって少しずつ信じられるようになってきたから。」

もう一度、視線を写真に落とすと、気持ちに拍車がかかるのを感じた。これまで意識していなかった心臓が動いているのがはっきりとわかる。

「あのね、私、お兄さんに…藍さんに写真をもらってからずっと考えていたの。私、一日でも早く、お花で自分の内側を表現したい。だから、フラワーアレンジメントを学ぶために、ロンドンに留学しようと思っているの。」

これが初めてだった。初めて、心からやりたいことを口にした。これまでは、許されないことだと思っていたから。言う前よりも言った後の方が、心臓の音を大きく感じた。高揚感が治まらぬまま桐谷くんを見ると、時が止まったような反応をしていた。流石にロンドン留学は、唐突だったかもしれない。

「もちろん、学校どうするとか、言葉の問題とか、そもそもお金とか、問題は山積みなんだけど…。」

「え、あ、取り繕わなくて良いよ!良いと思う!ごめん、驚いちゃって。だって、ちょっと前まで彼氏のためにメイク落とす落とさないで悩んでた子の言うことだって思えなくて。」

「そうだよね。私も自分で言っててびっくり。でも、情けないな。」

「え、どうして?」

「誰に何を言われても実現するって決めたはずだったのに、桐谷くんが良く思ってくれないかもって思ったら、一瞬で弱腰になっちゃった。」

「それは、そういうものだよ。自分の内側で決めることが大事だってどんなに自覚していたって、体感があるのは外側の世界なんだから。」

桐谷くんの一言一言は、私を許してくれる言葉だった。これまで私が私にかけてきた言葉とは正反対の。改めて、カフェラテの入ったカップを両手で包み込むと、ほんのりと温かくてホッとした。

「取り敢えず、ロンドンに留学して経験を積んでフラワアーティストになるってことだけは決めたんだけど、次はその手前のこと決めていかないとね。でも、この前藍さんに写真送ってもらえて、本当に良かった。間違いなく、この写真が私を突き動かしてくれたから。」

「それは、写真家冥利に尽きると思うよ。」

「うん…。それと、桐谷くんありがとう、こんな、まだ何にもなっていない夢物語を笑わないで聞いてくれて。」

「笑わないよ。それに夢物語じゃないでしょう?立派な目標だよ!寧ろ応援する。」

「うん、じゃあ、私も桐谷くん応援するよ!桐谷くんは将来どういうことがしたいって、もう決まっているの?」

「朔」

「え…?」

「藍兄のこと藍さんって呼ぶなら、僕のことも朔って呼んで。」

「あ…えっと、朔…くん。」

「はい。」

桐谷くんの名前が自分の声で耳に響いて、すぐに桐谷くんから返事が返ってきて、それが無性に照れ臭かった。高橋さんも萌さんも他の読モの子も同じように呼んでいるのに。初めて会ったときに名前で呼び損なって、ずっと「桐谷くん」のままで良いと思っていたけど、それが今日のこの瞬間をこんな風に演出してくれるだなんて考えたこともなかった。

「えっと、僕は今、大学で写真を専門にしているんだけど、卒業したらフォトグラファーになるつもり。藍兄とは関係無しに。なんて言って、今藍兄の借りてる事務所兼スタジオを使わせてもらっている身なんだけどね。」

「ううん、そんなの全然良い!応援する。私、朔くんの撮った写真見てみたい。」

「うん。でも、藍兄の撮った写真が、こんなにちゃんなおを動かすなんて、なんか悔しいな。」

そう言うと、朔くんはそっとテーブルの上の、私の手首をそっと掴んた。蓮以外の人にこんなにはっきりと触れられたのは初めてだった。これまでずっと、蓮以外の人の体温を感じるのが苦手だったのに、嫌な気持ちはしなかった。心のガードが、それだけ下がっているのを感じた。

「僕の写真、今度見せるよ。でも、それと…今度ちゃんなおの写真撮らせて?」

「私?なんか改めて言われると照れちゃうね。読モなんてやってるくせにね。でも朔くん、萌さんとか周りに素敵な被写体いるのに。」

「義姉さんは…綺麗だと思う。でも、こうやって、どんどん変わっていくちゃんなおも綺麗だと思ったから、だから、撮りたいって思った。」

「朔くん、じゃあ、私がロンドンに行くときに撮って。そうしたら、その先何か大変なことが起こったとき、その写真見て頑張るから。」

「わかった。外、陽が落ちてきたね。じゃあ、あんまり遅くなっても心配だから、そろそろ出ようか?今日、メイクは?」

「このまま帰る。もう大丈夫だから。」

「うん、そんな気がしてた。」


帰りの電車の中でお母さんに向けてメッセージを送った。

―来週末、帰ります。

約一年振りの帰省。不安はある。でも、何て言われるかわからないけど、何て言われても良いんだ思えた。


蓮の部屋に帰って、いつも通り夕飯を作った。いつも通り、こたつで並んで食べて、片付けをした後、蓮に留学を考えていることを打ち明けた。蓮は、晴天の霹靂だというような顔をした。

「奈緒、それ本気で言ってる?」

「うん、週末実家に帰って親にも話す。正直、今留学する程お金はないから、借りるしかないんだ。ダメだって言われたら、バイトして自分で稼いで留学しようと思ってるけど。」

「いやいや、大学はどうするの?まだあと二年あるだろ?退学するの?そんなのまともな親だったら許すわけがない。無謀だよ。考えればわかるだろ?」

考える…。これまでたくさんのことを考えてきた。どうしたら、私以外の誰かが喜んでくれるかって。

「今まで『私が』ってどのくらい言えてきたんだろう。」

「何を言ってるの?」

「前に喧嘩したときに言ったよね。これからは、自分の感覚を大事にしたいって。具体的にどういうことから始めようってずっと考えてた。私が、留学して花を学びたいの。大学を辞めなきゃいけないっていうのは、その次に出てくる話なの。」

露骨に嫌な顔をされた。蓮は少し遠くを見つめた後、私に視線を戻した。

「埒が明かないから質問を変える。俺のことは考えなかった?別れたい?それとも、ロンドンと日本で遠距離頑張る?」

「私、蓮のこと好きだよ。だから別れたくない。遠距離恋愛になっても繋がっていたい。でも、人と付き合うってことは、私だけの気持ちじゃできないから。蓮はどうしたい?」

蓮は大きくため息をついた。少し前までそれは、私を最も緊張させる仕草だった。でもどうしてだろう。現実に起こっていることなのに、映画でも見ているような気分で蓮を見てしまう。靡かない私に、蓮は段々苛立ってきたみたいだった。語気が熱を帯びるのを感じる。

「俺だって奈緒と別れたくないよ!ねぇ、何でロンドン?花を勉強したいなら、日本だって、花の学校もあるし、働き口だってあるだろ?わざわざ今海外に行かなくたっていくらでもやりようはあるのに、何で!」

「何の前触れもなく、こんなこと話したから、思いつきみたいに聞こえるかもしれないけど、私、遊びとか興味本位で花を学びたいって言ってるんじゃないよ。本気だから、フラワーアレンジメントが本場のロンドンで学びたいの。」

蓮の表情を見る限り、私の言葉は焼け石に水のようだった。理解を示してくれる気配を感じなかった。火に油を注ぐことになりかねないリスクを感じながら、部屋の隅に置いていた鞄から手帳を取り出した。間に挟んでいた封筒から写真を取り出して蓮に見せると、怪訝そうな顔つきで受け取った。

「これは?」

「これは、ロンドンのフラワーアーティストが作った作品。素敵でしょ?これを見たとき、私もこういう表現ができるようになりたいって思ったの。」

「何で奈緒がこんなものを持ってるの?」

「もらったの。この写真を撮ったのは、桐谷藍。桐谷朔くんのお兄さん。」

「何それ?桐谷藍って聞いたことあるよ。確かカメラマンだろ?何でそんな人が奈緒にこんな写真くれるの?時系列おかしくない?俺は今初めて聞いたのに、桐谷くんは前から奈緒が花をやりたいって知ってたってこと?」

「つい最近だけど、花が好きなことを思い出したってことは話した。それを藍さんが聞いて写真をくれたの。だから…」

「奈緒、桐谷くんと浮気してた?」

「なんでそうなるの?浮気なんかしてない。勝手なこと言うのは止めてよ。」

「じゃあ、奈緒が好きになってたってこと?正直、わからないよ。何でこんな大事なこと、俺より早く他の男に言おうと思ったんだよ!」

写真を持つ蓮の手に力が込められたのを見て、自分が握りつぶされたような気持ちになった。お願いだから、その写真をこれ以上くしゃくしゃにしないでほしい。

「桐谷くんといると、楽な気持ちになる。桐谷くんは、私は、私のやりたいこととか好きなことを自由に選んで良いって言ってくれて、それが嬉しかった。だから、桐谷くんには、理性で考えてから出す言葉じゃなくて、無防備な言葉で自分のことを話してみたくなったの。」

「そんなの…俺には好きだって言っているようにしか聞こえない。」

「男の子として好きなわけじゃない。」

「信じられないよ。俺のことちゃんと好きだったら、将来のこと少しでも考えているなら、どんな理由があっても、大事なことは俺に一番に話すもんじゃないの?奈緒、不誠実だよ!」

「不誠実な私は×で、誠実な私は〇?」

「何言ってるんだよ。」

「私には、不誠実な面があると思う。でも、同じくらい誠実な一面もあると思う。今までは不誠実な私が×で誠実な私が〇だと思ってた。×な私を無くしたかった。でも、〇しか持たないなんてきっとできない。どんな紙にも裏と表があるように、〇と同時に×が生まれるんだから。」

「やめろよ。」

「私、ずっと蓮に〇とか×をつけられているような気がしてた。蓮からの〇が欲しかった。蓮のこと好きだから。私のこと、好きでいて欲しかったから。でも本当に欲しかったのは〇じゃない。欲しかったのは、どっちを選んでも良いんだっていう覚悟だった。それを私にあげられるのは、私しかいないってやっと気が付いた。だから私、もう蓮に求めないよ。その上で、これからも付き合っていきたい。」

「もう良いよ!奈緒、俺、奈緒の言いたいことわからないよ。なんだよ、〇とか×とか。だったらこれまで上手くやってきたのって、何だったんだよ。ごめん、もう奈緒がわからない。無理だ。別れよう。」

全く予想していなかった訳じゃない。それでも、頭の中が真っ白になる感覚。蓮の手が写真から離れて、音を立てずに床に落ちた。その瞬間、ホッとした。


鞄に詰められるだけの荷物を詰めて、久しぶりに自分の部屋に戻った。ドアを開けると、生活感のない、冷たい空気が肌に纏わりついた。ソファに座ってぼんやりとした頭のまま顔を上げると、そこにあったのは、壁にかけられたボード一面に貼られた、付き合い始めたばかりの頃の二人の写真。蓮と確実に付き合い続けるためじゃなくて、自分らしくいるために自分の思いを正直に言った。結果は残念だったけど、これで良かった。

―これで良かったのに、やっぱり寂しいよ、蓮…。

一つ一つ写真のピンを外して、藍さんの写真を貼ると、涙が溢れた。今夜だけ、今夜だけは、蓮との写真を抱いて眠りたい。


東京駅の高速バス乗り場から名古屋駅行きの深夜バスに乗り込んだ。帰省シーズンでもないのに車内はほぼ満席で、私も含め、皆多かれ少なかれ窮屈さを感じているようだった。あれ以来、蓮からの連絡はない。私からもしない。別れるって、そういうことだ。少しでも早く眠りに落ちてしまおうと窓に頭を預けると、カーテン越しに窓の冷たさが伝わってきて、慌てて頭を離した。カーテンの隙間から見える、幾多の明かり。お兄ちゃんが東京の大学に入学したての頃、お母さんと都内に遊びに来たことがあった。買い物を楽しんだり、ご飯を食べたりして存分に東京を満喫し、それでは帰ろうかという時、ビルの明かりばかりでほとんど見えない空に向かって「やっぱり東京の夜景は違うわね。お兄ちゃんはこんなにすごいところに住んでいるのね。」と放ったお母さんの声が頭の中でリフレインした。そんなたわいのない言葉にも感じてしまう、お兄ちゃんと私の差。思考の悪循環を断ち切りたくて、そっと窓に頭を戻した。蓮と別れてから、気持ちに波ができていることは気づいていた。これからは自分の感覚を信じて選択をしていくと決めたとき、心から清々しかったのに、気が付いたら、悲しかった思いをした出来事を引っ張り出してきて浸っている自分がいる。まるで自分で自分を傷つけるように。

―他人に認めてもらうんじゃなくて、自分で自分を認めたい。そうじゃないと、自分の感覚なんて信じられない。

それなのに、元の私に戻ろうとしている私がいる。胃がぎゅっとなって痛かった。すがるように、鞄の中から藍さんの花の写真を取り出した。やっぱり何度見ても綺麗だと思った。もし、この花を見て、何も感じないという人や、こんなの好みじゃないって言う人がいたとしても、私はその人たちのことを否定しない。否定しない代わりに私は綺麗だと、好きだと思い続けると思う。自分のこともそういう風に思えたら良いのに。ぼうっと眺めていると、強張っていた体の力が抜けていくのを感じた。絞られていた胃も解放されたように楽になった。トランキライザーという精神安定剤の名前を思い出す。同時にやってきた眠気に身を任せた。微睡の中で、こんな素敵なものを精神安定剤代わりにするなんてどうかと思った。でも、まだ未熟で不安定な私はこうして救われてしまうんだから、もういっそ甘えてしまおうとも思う。不安を感じたまま放っておくよりずっと良い。この先きっと、少しずつ強くなるから、それまでは。


ふっと意識が戻って目を覚ますと、バスは高速道路を下りたばかりみたいだった。カーテンを少し捲ると空は曇天で、夜が明けても彩度の低い街並みは、さっきまで見ていた夢の続きのようだと思った。どんな夢だったかは、起きた瞬間に忘れてしまったけど。カーテンを開けて、寝ぼけた頭で窓の外を眺めていると、段々見覚えのある景色になってきた。降りるバス停の名前が呼ばれて、慌ててブザーを押した。

バスから降りると、風が強く吹いて、髪が頬を叩いた。まるで、私に喝を入れているみたいだと思いながら、歩いて家に向かった。辺りはまだ静かで、自分の足音が妙に響く。それでも、思っていたより足取りは重くならなかった。最後の曲がり角。あの角を曲がると見慣れた門が見える。いざ前に立つと、懐かしさと居たたまれなさが同居したような気持ちになった。門に手をかけながら、「もう起きているかな。まだ早いから、近くのカフェでモーニングでも食べて時間を潰そうか。」と思案していると、玄関のドアが開いて、中からリードを付けられたハナとお母さんが出てきた。お母さんは一瞬驚いた顔をした後、硬い表情で私の目をじっと見つめた。言葉がすぐに出てこなかった。お互いに牽制するものがあった。ただの帰省ではないことを、お母さんも察している。ハナは私に気が付くと、一目散に駆け寄ってきた。張り詰めた空気を無邪気に壊すハナが愛しくて、すぐに門を開け、屈んで抱き上げた。久しぶりのハナの感触。そして、ハナも私を確かめているようだった。

「相変わらず、ハナは奈緒のことが大好きね。ご飯のときでも、こんなにはならないのに。」

頭の上からした声は、私の想像の中よりもずっと優しかった。見上げると、お母さんは、さっきよりもずっと和らいだ表情を浮かべていた。

「奈緒、お帰りなさい。」

「うん、ただいま。」

「それにしても、随分早い時間に帰ってきたのね。」

「うん…深夜バスで来たから。」

「深夜バス?ヤダ、新幹線代くらい、言ってくれたら振り込んだのに。」

「いいの、お金が無かったんじゃなくて、節約したかっただけだから。お母さんこそ、土曜日なのに早いね。ハナの散歩?」

「目が覚めちゃったのよ。水でも飲もうと思って一階に下りたら、ハナも起きてて、外に行きたそうにしてたから、じゃあ連れて行こうかと思って。奈緒、朝ご飯は?食べるなら、ハナのお散歩終わってから何か…」

お母さんがそう言いかけたところで、ハナを抱いている手に濡れるものを感じた。空を見上げると、細かい雨粒がパラパラと落ちてきた。

「お散歩は止めた方が良さそうね。昨日の予報じゃ、雨は昼頃からって言っていたのに。濡れるから、奈緒も早く入りなさい。」

「はい…。」

お母さんに続いて、中に入った。


お母さんが手早く作ってくれた朝食が食卓に並んだ。二種類のホットサンドとたこと玉ねぎのマリネ、デザートのイチゴ。私の好きなものばかり。一口、口の中に入れると懐かしい味が広がった。お母さんはまだやることがあるらしく、キッチンから離れる気配がなかった。忙しなく動きながら、ダイニングにいる私に声をかけてきた。

「奈緒がうちを出てから、久しぶりに朝食にパン出したわ。」

「うん、お父さんご飯派だもんね。でも、お母さんはパン好きなんだから、たまには出しても良いと思うけど。」

「そんなこと、できないわよ。」

できない。お母さんは、「できない」の反対側に「できる」があると想像できないんだろうか。前は、私も想像できなかった。でも今不思議と、私にはあるように思える。お母さんにも伝えたいけど、上手く伝える自信がなくて、適当に話題を繋ぐことしかできなかった。

「そう…。お父さんは、まだ寝ているの?」

「そうね、お父さん、昨日、会合で夜遅かったのよ。でも、昼前に出かけるって言ってたから、もう少ししたら起きてくるんじゃない?そろそろお味噌汁を温めておかないと。ねぇ、奈緒、普段は自炊してるの?」

「うん、それなりに。こんなに美味しくは作れないけど。」

「このくらい当たり前よ、専業主婦なんだから。上達したいなら、味にうるさい人に食べてもらうのが一番だけど。」

その時、階段をゆっくりと下りてくる音が聞こえた。パジャマ姿のお父さんがダイニングに姿を現した。

「ああ、奈緒、早いな。もう帰っていたのか。どうりでハナがいつもより元気そうに鳴いてると思った。あ、お母さん!」

「お味噌汁なら、もう出来るので、ちょっと待っててください。」

お父さんは、新聞を片手にダイニングテーブルの向かいの席に座った。お母さんを見たときも思ったけど、お父さんも少し年を取った。皺も深くなったし、頭に白いものが増えたように感じる。お母さんが温め終わったお味噌汁をテーブルに運んでくると、何も言わずに一口啜った。

「ただいま。」

「ああ、随分、急に帰る気になったんだな。年末年始にも顔を見せなかったのに。」

「うん、お正月は短期のバイトしてたから。ごめんなさい。」

「なんで急に帰る気になったんだ?気まぐれに帰ってきたって訳じゃないんだろう?」

「うん。お父さんとお母さんにお願いがあって、帰ってきたの。」

お父さんは、そのくらいわかっているとでも言いたげな顔でまじまじと私を見つめた。自然に私の目にも力が入った。

「そうか…。そんな目をするな。気圧されそうだよ。悪いけど、これから出かけるんだ。話は夜にしよう。今日は泊まっていくんだろう?」

「それは…話の結果次第。もし突っぱねられたら、泊まれない。」

「交渉はもう始まっているのか?」

「そんなつもりなかったけど、お父さんがそう感じたなら、そういうことだと思う。」

「奈緒!いい加減にしなさい!さっきから、お父さんに向かってそんな言い方…。ねぇ、お願いって何?欲しいものでもあるの?夜だなんて言わないで、今話したらどう?」

急に会話に割ってきたお母さんにカチンとくるものを感じた。何か面倒を起こすと思われているのが明白だった。ざらりとした思考が広がって、頬張っていた朝食の味がしなくなった。

「お父さん、夜の方がゆっくり話せるんでしょ?じゃあ、夜が良い。お母さん、急に口を挟まないでよ。」

つい必要以上に尖った声が出てしまい、「しまった!」と思った。視界に入ったお母さんの手がビクッと震えるのを捉えた。表情は見るまでもない。お父さんは、顔色も声色も変えずに続けた。

「ああ、夜にしよう。なるべく早く帰るよ。」


レースのカーテンの奥から陽が射して、部屋が明るくなったのを感じた。使い終わった食器を持って、洗い物をするお母さんの横に並んだ。

「雨、止んだね。晴れてきたみたい。この時期って予報当たらないよね。」

それまで忙しなく動いていたお母さんの手が一瞬止まって、また動き始めた。

「残りは私がやるよ。だからお母さん、テレビでも見て…。」

「罪滅ぼしのつもり?」

「え…そんなんじゃないよ。」

「ねぇ、やっぱり、お父さんにさっきみたいな口の利き方はないわ。お母さんのことは気遣わなくて良いから、お父さんが帰ってきたら、まずはちゃんと謝って頂戴。」

「それって本心?お母さんって、お父さんを傷つけることに敏感だよね。」

「何よ…。家族なんだから、傷つけられたら嫌な気持ちになるのは当たり前じゃない。」

「ねぇ、お母さん、さっきは嫌な言い方をしてごめんなさい。でも、お母さんの言うことを聞いていると、お父さんを傷つけてはいけないけど、お母さんが傷つけられるのは我慢すべきことって聞こえる。自己犠牲っていうの?」

「あなたたちが成人した今では、私にはもう、お父さんを立てることしか役割がないから。」

お父さんにとって、居心地の良い存在であろうとするお母さんの姿が、少し前の自分に重なった。手際良く洗い物を進めるお母さんの手に、いくつものあかぎれがあることに気が付いた。お父さんは、あのお味噌汁もこういうことがある上で作られていることに気が付いているんだろうか?

「そんなことないよ。お母さんが心からお父さんを立てることを望むなら口は出さないけど、そうじゃないなら、そんな風に自分を限定するのは、もったいないよ。」

「高望みしていないだけよ。奈緒も立場をわきまえなさい。」

「お母さん、それ、お兄ちゃんにも同じこと言う?」

お母さんの目が一瞬泳いだ。水道を止める手の動きが硬かった。正直な人だと思った。そういう素直で実直なところが好きだと思っていた。でも今は、それが私の感情の引き金を引いた。

「そうだよね。私落ちこぼれだもんね。私が…医者にもなれない落ちこぼれが、出しゃばるなって、そういうことだよね?お母さんにとって、私も傷つけられて当然で、我慢すべき存在なんだよね?」

こんな風にまくし立てたのは初めてだった。お母さんは、驚いた表情をした後、唇を固く結んだ。次第に眉が下がって悲しい顔になった。さっき謝ったばかりなのに、さっきよりも嫌な言い方をしてしまっている。頭ではわかっているのに、止めたくても、一度出てしまったものは止められない。これまで抑え込んできた鬱屈とした思いが、うねって暴れているようだった。

「私、医学部を諦めてからずっと、お母さんにこの家の恥だと思われているのが悲しかった。国公立大に受かって、ギリギリ面子保てたかと思っていたけど、やっぱりギリギリアウトの方だよね。それより前は、叔母さんたちの前で、お母さんが恥ずかしくならないようにって考えながら振舞うのが辛かった。どうして、この家の指標で優秀とか優秀じゃないとかって言われなきゃいけないの?この家にとって価値があるかどうかじゃなくて、もっとそのままの存在を認めてほしかった。それができないなら、私がお母さんの悩みの種になるくらいなら、いっそ私のことなんて忘れて、お兄ちゃんのことだけで頭をいっぱいにしてほしいと思ったこともあったよ。」

「奈緒…。」

「でも、もう良いの。お母さんとか周りの人にどう思われるかじゃなくて、私がどう思うかが大事ってわかったから。私は私の好きなものを好きって、ちゃんと感じれることが一番大事だってわかったから。だから、もう周りの人の目を気にするのは止める。そういう気持ちになれたから、帰って来れたの。」

ハナが不穏な空気を察知して、足元にまとわり付き始めた。私とお母さんの顔を交互にチラチラと見上げている。その姿が、幾分か私を落ち着かせた。

「生意気言ってごめん。ちょっとハナの散歩行って頭冷やしてくるよ。」


玄関でリードをハナの首輪に括りつけた。これだけで普段は大はしゃぎするのに、どこか不安そうにしている姿を見て、何度も頭や体を撫でた。それでも外に出て、風に当たったり雑草と遊んだりしているうちにハナも元気になってきたみたいだった。ひとしきり近所を歩いて、実家に住んでいた時によくハナと行っていた、公園の東屋に落ち着いた。ハナは歩き疲れたのか、しきりに抱っこをせがんでくる。その仕草があまりにも愛らしくて、抱き上げずにはいられなかった。体を撫でると、ハナは気持ちよさそうに目を細めた。懐かしいふわふわの感触。

「君は良いなぁ。甘えたいときに素直に甘えて、可愛がられて。どうして人は意地を張ったり駆け引きをしたり、先のことを頭に巡らせて動けなくなっちゃったりするんだろうね。…あんまり帰って来なくてごめんね。」

ハナを撫でていると、お兄ちゃんが大学受験をしている頃の記憶が蘇ってきた。


あの頃お兄ちゃんは、朝から晩まで、誰かがが後ろから近づいても気づかないんじゃないかと思うくらいの集中力で勉強していた。そして、その努力はしっかりと実を結んだ。二月半ばを過ぎると、幾つかの私立大学からお兄ちゃん宛に合格通知が届いた。封を切る度にお兄ちゃんとお母さんは大喜びしていた。普段そこまで感情を出さないお兄ちゃんが顔をくしゃくしゃに笑うのを久しぶりに見たと思った。それなのに私は、お兄ちゃんが大学に合格して、私だってお祝いしたいのに、これでお兄ちゃんと私の差が決定的になってしまったと思うと、胃がキリキリした。合格通知が届く度、どんどんハナの散歩の時間が長くなっていき、ほとんど毎日この東屋に来て、随分長い時間ハナに弱音を聞いてもらった。

「ねぇ、ハナ。お兄ちゃんが大学受かったんだ。本当にお医者さんになるんだね。お兄ちゃん頭良いし、ずっと勉強頑張ってたから、そりゃあ受かるよね。すごいなぁ。でね、次は私の番なんだけどさ、できるかな?再来年、受験する頃には、血を見ても平気になってるかな?成績は上がっているかな?もし、もしダメだったら、お母さんはどう思うかな?」

私の声や、ハナを撫でる私の手から不安が伝わってしまうせいか、この時ばかりはお転婆なハナも腕の中でじっとして、静かに私を見つめていた。私を心配する目。心配をかけている申し訳なさと、心配してもらえている安堵感が交錯した。私は、昔からこっそりお兄ちゃんの成績を見ては、自分の成績と比べるのを習慣にしていた。お兄ちゃんのテストや通知表にはいつも私よりも優秀な数字が並んでいた。そして、そこから私の二年後の立ち位置を予測していた。予測の精度は高かった。私がどれだけ勉強を頑張っても、予測よりも良い結果が出ることはなかった。私はお兄ちゃんのように優秀じゃないから、お母さんを悩ませてしまう、お父さんには興味を持ってもらえない。それは、物が高いところから低いところへ落ちるのと同じくらい、動かしようのない真理のように感じた。そして、私の未来は過去の統計に基づく。つまり、私の受験は、お兄ちゃんのように上手くはいかない。お父さんとお母さんに許してもらえる妥協案を考えておかないといけない。こうやって、私は私に制限をかける。奇跡に賭けて、やっぱり駄目だったときの心的ダメージを少しでも緩和するために。

「過去にも未来にも思考を飛ばさないで、今だけに集中できたら、『ハナ暖かい』とか、『ハナ、ふわふわで気持ち良い』とか、そういう幸せな気持ちをもっと純粋に感じれるのかな。ハナ、ごめんね。大好きなのに、こうして一緒にいる時間が辛いだなんて。」

こうして、私は予測通り、医学部に入れなかった。


「あの頃って、辛かった。私以外の外側の人の意見で私の評価が決まると思っていたから。倉田家にとって、医者になれない私は価値の低い子だってずっと思ってたけど、こうやって新しい考え方に行きつくために医学の道を諦めたと思うと、全然悪くないって思えるの。私、自分に価値を感じてくれないお父さんとお母さんが嫌いだった。子供として愛してくれていても、どこか見下されているって。でもきっと、私が一番私を無価値だと思っていたんだよね。早いうちに気が付けて良かった。独り相撲だったんだ。」

ハナは、昔と同じように私の話を最後までじっと聞いてくれた。昔と違ったのは、ハナの目に心配の色がなかったこと。今はただただ、私に優しく寄り添ってくれている。

「ハナ、そろそろセラピーは終わりにするよ。付き合ってくれて、ありがとう。じゃあ、折角公園に来たんだから、遊ぼうか。」

ハナを降ろして持ってきたボールを投げようとしたとき、ハナが急に尻尾を振りながら、「ワン」と鳴いた。次の瞬間、後ろから「奈緒」と呼ばれた。振り返ると、お兄ちゃんが立っていた。

「お兄ちゃん…。お兄ちゃんも戻ってきたんだ。」

「先週、お母さんから連絡もらったんだ。珍しく奈緒が帰ってくるから、帰って来ないかって。それなのに、家に着いたらお前いないから。」

「そう。お母さん、お兄ちゃんに連絡入れたんだ。私が急に帰るだなんて言い出したから、何なんだろうって心配になったのかな。」

「心配って…。奈緒が心配かけるようなことばかりするからだろ。普段からお母さんたちに全然連絡入れないし、俺にもよこさないし、正月も帰って来ないし。」

相変わらずの落ち着いた喋り方。淀みなく穏やかに言葉を紡ぎ、家族を思いやった考え方ができるお兄ちゃんは、いつだってお母さんの癒しだった。お兄ちゃんは、東屋に入って隣に腰を下ろすと、首元のマフラーを少し緩めた。

「お兄ちゃん、医学部の勉強楽しい?」

「何だよ、唐突に。そんなの、楽しいとか楽しくないとかじゃない。もう入ったら医者になるためにやるしかない。それだけだよ。」

「うん、私ね、お父さんもお母さんもそういう、お医者さんになる過程の話が聞きたいんだろうって思ってた。でも私にはできないから。だからずっと帰るの、気が重たかった。私の姿を見たり、私の大学の話を聞いたりする度、『医学部に入れなかった娘なんだ』って思われたくなくて。学生のうちは帰りづらくても、せめて有名な会社に就職して、大きな仕事とか社会に役立つ仕事ができたら、少しは汚名返上できるかもしれない。そうしたら、帰りやすくなるかもしれない。だからそれまでは息を潜めようと思っていたの。」

「お前…気にしすぎだよ。もっと適当に考えて良いんだよ。確かに奈緒が医学部に入れなくて、お父さんもお母さんも残念に思ったと思うけど、だからって奈緒を遠ざけたいと思った訳じゃない。」

「うん、私最近、その適当の意味が色々な人のおかげでやっとわかってきたよ。医学部に入れなかったことを自分で随分長い間責めていたけど、でも本当は、自分の意志で医者になりたいなんて思ったことなかった。だからこれで良かった。堂々とやりたいことをやって良かったんだって思えたの。」

「…そのやりたいことが見つかったんだな。」

「うん…。私、出かけ際、お母さんに言いたい放題言っちゃった。お母さん、どんな感じだった?」

「まぁ、何かあったんだなっていうのはわかったけど、特に何も言ってなかったよ。」

「そう…。お母さんには悪いけど、すっきりしちゃった。でも、どんな理由でもお母さんを傷つけるような言い方しちゃったから、帰ったらそれは謝るよ。」

その時、強い風が吹いて、思わず目を瞑った。冷たいけど、少し水分を含んだ風。空を見上げると、いつの間にか雲が厚くかかっていた。

「また、雨が降り出しそうだな。寒いし、そろそろ帰るぞ。」

「まだ、ハナ遊ばせてないよ。」

「じゃあ、十五分だけ遊んで帰るぞ。」

「お兄ちゃん。」

「なんだよ。」

「ありがとう。」

少しだけ遊ぶつもりが、気が付いたら私もお兄ちゃんも汗だくになっていた。お兄ちゃんに対して、何のわだかまりもなくいられるのは、どれくらい振りだろう?久しぶりに思い切り笑って、凄く軽い気持ちになった。


家に帰ってからお母さんに声をかけると、「忙しいから後にしてほしい」と言われた。もう少し時間をおこうとリビングでハナと遊んでいると、雨音に混じって、外から車のエンジン音が聞こえてきた。一瞬硬直してしまった顔をハナは見逃すことなく、心配そうな視線を送ってきた。玄関のドアを開ける音、廊下を歩く音、リビングの扉を引く音のするの全てがいつもよりも大きく聞こえた。

「ただいま。」

「おかえりなさい。」

「奈緒はずっとうちにいたのか?」

「うん。ハナの散歩には行ったけど。」

「そうか。孝昭は?」

「部屋にいるよ。あの、お父さん…。」

「わかっているよ。話だろ?お母さん、コーヒー淹れてくれるか?この前買った豆で頼む。」

キッチンにいたお母さんは「はい。」と返事をすると、それまでしていた夕飯の支度の手を止めて、コーヒーの準備をしだした。コーヒーミルの音が響く。

「先に着替えてくる。コーヒーができたら飲みながら話そう。」

程なくして、コーヒーの良い香りが広がった。改めてダイニングテーブルでお父さんと向き合った。

「そんなに砂糖もミルクも入れて。もう奈緒のコーヒーは、豆の風味なんかわからないだろう。」

「ブラックのまま飲むと、お腹壊しちゃうんだよね。」

「それで、話って言うのは?あ、お母さんもこっちに来て、一緒に聞きなさい。」

そう言われたお母さんは、怪訝そうに私の顔を一瞥すると、ゆっくりとした動作でお父さんの隣に座った。

「うん…。あの、単刀直入に言うね。お金を貸してください。」

「金?今の仕送りじゃ足りないのか?一体、何に使うんだ?」

「私、大学を辞めて、ロンドンに留学したいの。だから、後二年分払ってもらう予定だった大学の授業料と生活費を借りて、その資金にしたいの。絶対に返すから。」

少し間が生まれた。お父さんの表情は変わらず、お母さんの表情は、明らかに動揺が走っているようだった。対照的な二人。

「何かとんでもないことを言いに来たんだろうと思ってはいたが、想像の遥か上を行っていたよ。お前、本気で言っているのか?」

「本気じゃなきゃ、こんなこと言わないよ。」

「大学を辞めて、ロンドンで何をしたいんだ?」

「花の勉強がしたい。フラワーアレンジメントの勉強をして、将来はフラワーアーティストになりたいの。」

「奈緒、いい加減にしなさい!そんな馬鹿なこと言わないで。あなた、もう子供じゃないんだから、もっと現実的に考えなさい。」

不穏な空気に耐えられなくなったお母さんが慌てて口を挟んできた。そんなお母さんに、ついまた苛々してしまいそうになる。

「お母さん、落ち着きなさい。奈緒、理由はどうあれ、大学を辞めることは許さない。一度始めたことを最後までやりきらない人間に、そんな大金は貸せない。例え、娘であっても、目的が何であってもだ。これ以上議論の余地はない。話は以上だ。」

お父さんがテーブルの上にマグカップを置いた。やけに強く響いて、いつか海外ドラマで見た、閉廷の合図を彷彿させた。

「どうしても?何を言っても駄目なの?」

「ああ、答えは変わらない。」

「わかった。じゃあ、帰るよ。」

「夕飯はどうするんだ?」

滑稽だ。清水の舞台から飛び降りる思いで挑んだのに、もう夕飯の心配をされている。

「ごめんなさい。食べないで帰る。」

「そうか。好きにしなさい。」

「そうだね。好きにする…。好きにするよ。」

「奈緒…!」

ダイニングテーブルから立ち上がると、お母さんに呼び止められた。言葉を選んでいるのがわかる。唇がわずかに動いた時、その先をお父さんが手で制止した。

「お母さん、昼間はごめんなさい。でも、本当にお母さんの役割ってお父さんを立てることだけなのかな?私は、お母さんはお母さんでいてくれるだけで十分だよ。じゃあ、またね。」

 荷物をまとめて玄関に落ちると、見送りに来たのはハナだけだった。なるべく長くハナの感触を覚えていられるように、全身の神経を研ぎ澄ませるようにして抱きしめた。


七時間以上かけて帰ってきたのに、目的のために使えた時間は、十五分にも満たなかった。それでも、不思議と悲しさとか絶望は無かった。お願いが叶えられても叶えられなくても、ロンドンに留学する、フラワーアーティストになって、お花で沢山の人の心を豊かにするような作品を作る。そうやって、今日のお願いの先を決めておいたことが、私を安心させていた。

―お父さんとお母さんにお願いする以外の手段で良いんだ。他の手段を探せば良いんだ。

そんなことを考えながらバス停でバスを待っていると、お兄ちゃんがキャリーケースを引きながら追いかけてきた。少し息が切れているようだった。

「奈緒、このバス停に名古屋駅行きのバスは来ないだろ。お前、高速バスで帰るのか?」

「うん、来るときもバスで来たから。その荷物…お兄ちゃんも帰るの?」

「まぁ、俺は元々お前の様子見に来ただけだし。それより、お金は俺が出すから、新幹線で帰るぞ。ほら、駅までタクシー拾って…。」

「いいよ、そんな、気を遣わないでよ。お兄ちゃんだけ新幹線で帰りなよ。私は大丈夫だから。」

「今からバスで帰ったら、東京に着くのなんか深夜だろ。それから奈緒はまだかかるんだし、それにお前の話聞くから、だから一緒に帰ろう。」

そこまで言い終わると、お兄ちゃんは私の返事を待たずに、車道に身を乗り出してタクシーを探しだした。

「お父さんとお母さんに何か言われた?」

「そんなんじゃない。俺は、お前の兄だからだ。」


東京行きの新幹線は、ほとんど満席で、それでも、深夜バスのシートより圧倒的に広くて座り心地が良かった。名古屋駅を出て少しした後、お兄ちゃんが買ってくれた缶の檸檬サワーで乾杯した。兄妹で一緒にお酒を飲むのは、これが初めてだった。お兄ちゃんは、喉を鳴らしながら檸檬サワーを流し込むと、フーっと息を吐いて静かに話し始めた。

「話、聞いたよ。お母さん視点だけど。」

「そう…。」

「俺は、奈緒がやりたいことあるなら、それに反対するつもりはないけど…。俺が思うに、お父さんが中退を許してくれないのはさ、お父さんは、医学部に入ってからずっと医学の道以外の脇道の無い世界で生きてきた人だからだよ。だから、色んな選択肢がある奈緒のことが理解できないんだよ。」

「お父さんは脇道が無いっていう世界を選択したんでしょ。選択肢が無かったとは違うよ。」

「それはそうだけどさ…。正直、話を切り出すタイミングも悪かったよ。奈緒のせいじゃないけど。」

「どういうこと?」

「お父さんさ、昼間出掛けてただろ?その…一緒にいた人って言うのが、奈緒にとって運が悪かったって言うか…。その人の娘って、離婚歴があるらしいんだけど、離婚時、鬱だったらしくて、親権を旦那に取られたんだって。そのことで、すごく娘が傷ついたのを目の当たりにしたらしくて、『人生の選択は安易にするもんじゃない』って言うのが口癖なんだよ。だから、一度入った大学を途中で辞めようとした奈緒にカチンときたんだよ。」

「選択が大事だってことはわかるよ…。でも、お兄ちゃん、私は留学を諦められない。だから、何を言われても大学は辞める。バイトして、お金貯めて留学しようと思う。」

「何でそこまで捨て身になろうとするんだよ。そんなの、大学を卒業してからもう一度、お金借りれないか頼んだり、社会人やりながらお金貯めて留学したら良いだろ?大卒って保険かけとかないと、花を諦めた時、それこそリカバリー効かなくなるぞ。」

「諦めるって前提でモノを言わないでよ。」

「いや、それは…悪かったよ。でも、今大学を辞めることが最良の一択だと思うなよ。選択肢なんていくらでもあるし、本当の意味で目標を決めれられれば、どれを選んだって辿り着くことに変わりはないんだ。奈緒、お父さんに反対されて、いつの間にか、留学よりも退学することの方が上位に来ている風に見えるぞ。」

そう言われて、ハッとした。とても素敵な目標を見つけたと思って打ち明けたのに、けんもほろろにされて、いつの間にかムキになってしまっていたことに気が付いた。自分の幼さを痛感する。このまま突っ走ってしまったら、報われなかった惨めな心を原動力に進むことになったかもしれない。目標を見つけたと思ったときは、あんなに軽くてキラキラした気持ちになれたのに。

「それは、嫌だね。」

「そうだろ。まずは落ち着いて、本気だってところ見せてみな。どうするのか、俺にはわからないけど。」

「うん、お兄ちゃん、ありがとう。」

「良いんだ、兄だから。東京まであと三十分か。ちょっと寝るわ。」

お兄ちゃんは、少しリクライニングを倒して目を閉じた。何分もしないうちに、寝息が聞こえ始めた。私は、昨日の夜からまともに寝ていないにも関わらず、全然眠くなる気配が無かった。暇つぶしにスマホでニュースサイトをチェックすると、トップに息を飲むような文字が表示されていた。


久住萌 前夫と親権を巡りドロ沼裁判か


まさかと思った。でもさっき聞いたばかりの話に、嫌なくらい重なる。

「お兄ちゃん、お兄ちゃん起きて!」

お兄ちゃんの腕を叩いて起こすと、お兄ちゃんはうっすらと目を開けて、不機嫌そうな声を出した。

「何?俺今眠ったばかり…。」

「ごめん、どうしても気になることがあって…。」

「何…?」

「あの、さっき話してくれた、お父さんの知り合いって、何ていう人?名前知ってる?」

「えっと…何だったかな…。ちょっと待って…。」

「もしかしてだけど、久住って…。」

「ああ、そう。久住先生。お父さんの先輩って言ってたかな。お前、久住先生のこと知ってたっけ?」

「よくは知らないけど…。」

お兄ちゃんはよほど眠たかったのか、私の質問が終わると、反対側に頭を向けてまた眠りだした。熱いような冷たいような頭の中に、萌さんの笑顔が浮かんだ。ちょっと前にこのニュースを見ていたら、毎日流れてくるゴシップの一つだったかもしれない。でも、ちょっと会ったことあるからって、ちょっと義弟と仲が良いからって、迂闊に首を突っ込んではいけない領域であることは明らかだった。画面をクリックすれば、ニュースの詳細と共に書き込まれたたくさんのコメントが表示される。そして、そのコメントの多くは批判や嘲笑だろうと想像がつく。あの人は、この現実をどうやって受け止めるんだろう。少しでも早く、悲しみや苦しみが和らいで、また穏やかに笑ってほしいと思った。窓の外に映る明かりが多くなってきた。新幹線はもうすぐ東京に着く。品川駅を出たところで、朔くんからメッセージが届いた。


朔くんに指定されたお店は、高層ホテルの最上階のお店だった。入口に立つと、行燈で照らされた廊下が迷路のようになっているのが見えた。ここは、全部屋個室になっているようで、入口に出てきてくれた係の人に「桐谷です。」と告げると、そのうちの一つに案内された。緊張しながら戸を引くと、朔くんと萌さんと、もう一人…藍さんが掘りごたつを囲んでいた。手前の朔くんの隣の席に座ると、藍さんが口を開いた。

「ちゃんなお、初めまして!ごめんね、こんな遅い時間に来させちゃって。いつも朔がお世話になってます。兄の藍です。」

「あ、初めまして。倉田奈緒です。こちらこそお世話になっています。」

「まぁ、堅苦しい挨拶はこの辺にしようか。ちゃんなお、お酒飲めるよね?何か頼む?」

「えっと、じゃあウーロン杯お願いします。」

そう言うと、朔くんが何を言わずにタブレットを操作し始めて、少し恐縮した。

「電話でも話したし、朔と萌から話聞いてたから、初めて会ったって感じしないね。お腹空いてない?好きなものあったらどんどん頼んでよ。」

「はい。これで食べたいもの選んで。今日、藍兄のおごりだから。」

思ったよりも、藍さんと朔くんは平然としているし、萌さんの表情も明るかった。元気そうで良かったと思いながらも、タブレットを積極的に見る気分にはなれなかった。結局何もせずにタブレットを脇に置くと、萌さんが話しかけてきた。

「奈緒ちゃん、この前はどうもありがとう。なんか雰囲気変わったね。撮影のときも可愛かったけど、もっと可愛くなってる。元気そうで良かった。」

「萌さん、こちらこそこの前は、ありがとうございました。えっと…。」

「…ネットニュース見たんだよね?朔くんが心配してるって言ってた。ごめんね、気を遣わせて。」

「いえ、全然…。私、ニュースの見出ししか見てなくて、だから詳細は知らないんです。でも知りたくて来たって訳じゃなくて…。」

じゃあ、何しに来たんだと自分で思いながらも言葉を継げずにいると、藍さんが助け舟を出してくれた。

「ちゃんなお、萌はわかっているから、大丈夫だよ。萌が再婚だってことは公表してたけど、息子がいることはあまり知られていなかったし、裁判って言葉が萌のイメージと遠いものだから大げさに書かれてしまったけど、僕たちは大丈夫。」

「流石に反響には驚いたけどね。私、ネットニュースに載ったの初めてで。自分から進んで記事を見ることなくても、幾つかの否定的な言葉は入ってきた。『リア充転落』とか、『子供が可哀そう』とか。今、私に向けられている一つずつの言葉を鵜呑みにしたら自分が無くなっちゃいそう。」

「萌さん…。」

「でも、それってきっと、私が息子をかつて手放してしまった自分を許せていなかったり、息子に寂しい思いをさせているってわかっていながら対外的に笑顔を振りまいていたことへの呵責だったり、色々な想いを抱えていたから招いたことなのよね。」

「でも、萌さんがお子さんを引き取れなかったのって…。」

萌さんは一瞬目を伏せると、グラスに刺さったストローを回し始めた。そして、何度か氷がぶつかる音を立てた後、両手でグラスを包んだ。

「そうね…。どんな理由でも、私は私を許せていなかった。立ち直って、自分のこと少しずつ肯定できるようになって、藍に会って、穏やかな時間を過ごしているうちに蓋をしてしまっていた。でも、今回のことで、ちゃんと思い出せたから。息子のことと同じくらいちゃんと私を許せない私のこと大事にしようと思ったの。だから、もう大丈夫。」

「そもそも、藍兄も含めて皆が同意している話なんでしょ?」

「うん、そう。親権を移すのに必要な手順として裁判があるだけなのに、変な書かれ方しちゃった。」

「まぁ、そのうち落ち着くよ。萌は、悪いことをした訳じゃない。むやみに人に話すことじゃないけど、必要だったらありのままを話せば良い。ただ、明日は僕も萌も泊り仕事なのが悪いな、朔。」

「僕は別に。いつも通りだよ。」

「大して心配していないけど、家にいて何かあったら連絡すぐによこしな。じゃあ、僕と萌は明日早いから、今日はこの辺で帰らせてもらうよ。ちゃんなお、申し訳ないけど、朔のことよろしく。萌、行くよ。」

「あ、あの、藍さん!」

「ん?」

「お花の写真、ありがとうございました。ずっと直接お礼を言えないでいたので。」

「朔に聞いた。自分が撮った写真が強く誰かを動かすなんて、写真家として今までやってきて、一番嬉しい出来事だよ。こっちこそありがとう、こんな体験をさせてくれて。」

そう言って笑った藍さんは、愛そのものだと思った。萌さんが藍さんに惹かれた理由が良くわかる。そんな藍さんに続いて部屋から出ようとした萌さんは、何か気が付いたような顔で私のところに来ると、「奈緒ちゃん、唇、渇いてる。良かったらこれあげる。新品だから。」と言って、リップバームを手渡した。「またね。」と笑いかけてくれた笑顔は、前に会った時と変わらない、いや寧ろずっと綺麗な笑顔だった。


二人が帰ってしまうと、妙に緊張して沈黙を作ってしまった。静寂を破ったのは、朔くんだった。お酒のせいか、いつもよりも声が甘く聞こえた。

「電車、まだある?」

「うん、あと一時間くらい平気。」

「そっか、じゃあ、もう少し居て。もう少し話そう。」

お酒に弱い訳じゃないけど、とりわけ強くもない。寝不足が今更効いてきたのか、まだ普段だったら全然酔わない量しか飲んでいないのに、いつもよりも饒舌になってしまいそうだった。ただでさえこの人の前では無防備になってしまうのに。

「実家、帰ってたんでしょ?」

「うん、お父さんとお母さんに留学の相談しに。お金貸してほしいってお願いしたんだけど、断られちゃった。大学辞めるなんて中途半端なことするやつにお金は貸せないって。」

「そうか…。それでどうするの?」

「大学に通いながら、できる勉強をしようと思う。英語も勉強しないといけないし、留学先の学校のこともしっかり調べたいし。アルバイトも増やして、お金貯めるよ。目標金額決めて、貯まったら留学する。卒業してからなのか、途中で退学して留学するのかはわからないけど。」

「ロンドンか。寂しくなるな。」

「ありがと。」

「でも、花を反対されなくて良かったね。」

「お父さんは反対しないよ。医者以外は全部一緒だもん。でも、お母さんはどう思ったかな。私が大企業にでも就職すれば、少しは親戚にも顏が立ったかもしれないけど、全然違うこと言い出しちゃったから、がっかりしたと思う。良いけどね、結果出して認めてもらうから。そうしたら、親戚にも自慢できると思うよ。」

苦い笑顔を向けると、朔くんの手が私の頭を軽く叩いた。叩いて、そのまま髪をとかすように何度も髪をなぞった。規則的なリズムが心地良かった。

「バカだな、ちゃんなおは。まだそんなこと言ってるんだ。そう思うってことは、自分で自分のことをそう思っているからだよ。結果は出せるかもしれないし、出せないかもしれない。でも、どっちのちゃんなおも等しいんだよ。結果を出せるちゃんなおだけが自慢だなんてこと絶対に無い。結果が出せない体験があるから、結果を出せる体験を味わえるんだから。」

「朔くん、ずっと言い続けてくれたのにね。どんな自分も受け入れて良いって。なんで、忘れちゃってたんだろう。」

「それは、それだけお母さんを大事に思っているからだよ。藍兄と義姉さんがあんなに明るくて強いのは、多分それを徹底しているからなんだ。あの二人は、自分以外の人が何をしようが、何を言おうが、何て思われようが、気にしない。起きた出来事に対して、自分が何を感じるかを大事にしている。自分が何を考えているかにちゃんと耳を傾けて、それを全部受け入れているから自分を見失わないんだ。藍兄が言うにはね、そうやっていると、人生の舵を取っていけるようになるんだって。」

「そっか…。すごいね、藍さんも、萌さんも…。」

「うん。」

「あ、私萌さんにリップバームもらったんだ。使ってみようかな。」

リップバームを手に取って、クリスタルのようなカットが施された蓋を回すと、宝箱を開くような気持ちになった。朔くんが手元を覗き込んだ。

「ああ、それ義姉さん気に入ってるんだよな。うちに五個くらい常備してるよ。僕ももらったことある。」

「ふーん、あ、良い香り。なんかこう…ハチミツみたいな…。」

少し硬めで半透明のバームは、唇に乗せるとあっという間に溶けて、甘い香りが残った。顔を上げて朔くんを見上げた次の瞬間だった。キスをされた。一瞬だったけど、唇が触れた瞬間、体温が五度くらい上がったような気がした。朔くんからも別の甘い香りがしてクラクラする。

「忘れてた。そう言えば、無類のハチミツ好きだっけ?」

「うん…あと、ちゃんなおも自分の舵を取れるように、おまじない。」

「舵を取れるように…?変なの。舵を奪われたかと思った。」

うわ言のような会話を二言三言交わしてからのことは、よく覚えていない。


大学三年生になった。週二回、生花店でアルバイトを始めた。その他に週二回、都内のマンションに通うようになった。築十数年、十階建ての五階。南向きの角部屋。玄関とデスクの後ろにある出窓で、一日一回ずつお香が焚かれる。昼下がり、立ち昇る煙を見てぼうっとしていると、電話が鳴った。

「もしもし!あ…、Hello. This is Office Ai. Ah…sorry, he isn`t available. Can I take your message? …Okey. I`ll let him know about that. Bye.」

受話器を下ろすと、廊下の方から拍手が聞こえてきた。

「すごい、すごい!大分、英語慣れてきたね!」

「藍先生のおかげですよ。教えてもらうだけじゃなくて、実際にこうやって使わせてもらえているので。今の電話、来週のLAの撮影の件で確認したいことがあるから、折り返してほしいそうです。これ、担当者の名前と電話番号です。」

「ありがとう。でも本当、ちゃんなおが来てくれるようになって、助かっているよ。電話対応もそうだし、僕と朔しか出入りしてなかった頃は散らかりすぎて、どの資料がどこにあるのかわからなくなっていたから。遠いのにごめんね。」

「良いんです。今、取っている授業も少ないし。それに、ここにいる間、空いた時間は好きなだけ藍さんの写真見れるから、嬉しいんです。」

そう言うと、藍さんは少し複雑そうな顔をした。そのまま何も言わず、PCの前の椅子に座ると、マウスを動かし始めた。何度かクリックをすると手を止めて、静かに話し始めた。

「母さんもよくそう言ってくれた。まだ元気だった頃。その当時、僕は駆け出しで、技術的なことを言えば拙いものばかりだったけど、それでも、次はどこに行くの?何を撮るの?って言って、時間があれば僕の撮った写真を眺めていた。僕たちの両親のことは朔から聞いているよね?」

「はい…少しだけ…。」

「今でも僕の写真集はよく見たがるんだ。でも朔の…。」

藍さんが朔くんについて何かを言いかけた時、廊下からパタパタと足音が聞こえて、勢いよくドアが開いた。

「パパ!あ、奈緒ちゃんもいた!」

萌さんによく似た、愛くるしい颯太くんの笑顔がそこにあった。藍さんが屈んで両腕を広げると、元気いっぱいに走って胸に飛び込んだ。抱き合った瞬間、颯太くんの「キャー」っと言う歓声が上がった。

「颯太、お帰り!保育園はどうだった?楽しかったか?」

「うん!今日、うさぎさんに葉っぱあげた!」

「颯太、パパにお土産あるんでしょう?」

颯太くんがお喋りを続けていると、颯太くんの帽子を手にした萌さんが部屋に入ってきた。

「あ、そうだ!今日、パパに折り紙作ったんだった。」

一時期、「これまでのイメージが壊れた」などとネガティブな声が増え、萌さんをメディアで見ることが少なくなってしまった。それでも萌さんは変わらず、無邪気にコスメの魅力を伝え続けたり、女の子をかわいくする方法を発信し続けたりした。楽しそうな久住萌の姿は、やっぱり綺麗だった。そして今、颯太くんと藍さんと三人で幸せそうに笑う萌さんは、より綺麗になったと思う。

「萌さん、currentで今月号から始まった連載のコラム、読みました。『綺麗の基準を造っているのは、世間じゃなくて自分』ってなんだか萌さんらしいなって思いました。」

「ありがとう。まさか私が文章を書く仕事をする日がくるなんて考えたこともなかったんだけど…お話もらったとき、こういう伝え方も有りかもって思えたんだ。そうそう!私も奈緒ちゃん載ってるの見たよ、ヘアチェンジ企画。ミディアムも似合ってたけど、結構思い切って切っちゃったんだね。」

「ありがとうございます。こんなに短くしたの、実は初めてで、首の後ろが涼しいのにまだ慣れないんです。」

萌さんは私の毛先をそっと一筋掴むと、じっと見つめた後、そっと離した。

「でも、ボブもよく似合ってる。実は、今度私、ヘアアイロンをプロデュースするんだ。短めの髪の子でも使いやすいようにしたいから、色々相談させて?」

「もちろん!私で良ければ!」

「そう言えば、来週currentの撮影あるんでしょ?」

「そうなんです。リップ特集なんですけど、私あんまりリップで冒険したことないから楽しみで。それまでちゃんとリップケアしておかないと。」

「うん、そう言えば前にあげたリップバーム、覚えてるかな?あれね、この前リップスティックタイプも発売されて、それもすごく良いよ。おすすめ。」

萌さんにもらったリップバームで、思い出してしまう。つい、笑顔がぎこちなくなってしまった。あの日以来、朔くんとはcurrentの撮影で会ったり、ここで藍さんがいるときに居合わせたりしたものの、二人きりでは話せていない。ハチミツの香りのリップバームは一度使ったきり、家の棚の奥にしまってある。私からは言わない。朔くんからも触れない。

「奈緒ちゃん、遊ぼう。」

可愛い声で現実に引き戻された。下を向くと、私に抱き着いて上目遣いを向ける颯太くんがいた。眩暈がした。天使かと思った。

「うん!良いよ!何して遊ぶ?」

「颯太、今日はもうおしまいだよ。もう帰ってご飯の時間だよ。」

「ヤダ!奈緒ちゃんと遊ぶ!」

「颯太、保育園出た時、お腹空いたって言ってたでしょ。奈緒ちゃんだって、そろそろおうちに帰る時間なんだから。」

「お腹空いてない!」

萌さんのことを思うと不謹慎なのはわかっているけど、こんなに可愛い喧嘩ならいつまでも聞いていたいと思ってしまう。

「颯太くん、今度もっと早い時間から遊ぼう。また来るから。」

「ごめんね、奈緒ちゃん。颯太、奈緒ちゃんのこと好きで、久しぶりに会えたから嬉しくなっちゃたみたい。」

「良いんです。私も颯太くんのこと好きなんで。」

「ありがとう。あのね、実は今日来たのは、奈緒ちゃんにお願いがあって…。」

「何ですか?良いですよ。私で良ければ。」

「あのね、来週、藍が海外じゃない?それで、私も朔くんも、どうしても水曜日だけ颯太のお迎えに行けなくて…。奈緒ちゃん行ってくれないかな?」

「ああ、そんなの良いですよ。颯太くんのお迎えだなんて、寧ろ楽しみです。ええと、確か駅の近くの保育園ですよね?実は、丁度水曜日がcurrentの撮影なんです。だから撮影の後…五時くらいには行けると思います。」

「本当?ありがとう!」

少し申し訳なさそうな顔をしていた萌さんが一気に笑顔になった。萌さんの脚にしがみついて、スカートを口にくわえていた颯太くんも状況を理解したらしく、「奈緒ちゃん、颯太のお迎え来てくれるの?」と、興奮気味に萌さんに言った。

「そうだよ、颯太。奈緒ちゃん来てくれるって。奈緒ちゃん、お迎えしてくれたらここで遊んでてもらって良いかな?八時には迎えに来れると思うの。」

「わかりました。私は大丈夫なので、安心してください。」

「あ、でもやっぱり一人で何時間も颯太の面倒みるの大変だよね。そう言えば朔くん、バイトが六時過ぎに終わるって言ってたから、その後ここに来てもらうようにお願いしようか。」

「あ、そうですね…。」

特に断る理由が無かった。それ以上何も言えないでいると、藍さんがデスクから立って、私と萌さんの輪に加わった。

「ちゃんなお、引き受けてくれてありがとう!助かるよ。もし良かったら、お礼じゃないけど、その日、朔にカード渡しておくから、萌に颯太渡した後、朔とご飯でも行っておいでよ。」

「そんな…良いんです。気にしないでください。」

「いいの、いいの。いつも薄給で頑張ってくれてるし、たまには労わせて。朔にも言っておくね。」

「えっと、ありがとございます。朔くんと相談してみます。あの、私そろそろ時間なんで、失礼させていただきますね。」

少し逃げるように外に出ると、初夏の匂いがした。それでもまだ冷たさの残る夜風が、少し頭を冷やしてくれた。藍さんと萌さんの目に、私と朔くんはどう映っているんだろう。家族ぐるみで親しくなった男の子は、朔くんが初めてで、必要以上に色々な考えを巡らせてしまう。普通にしていれば良いってわかっているけど。駅構内にあるバラエティーショップの入り口にハチミツのリップスティックが置いてあるのを見て、一瞬手を伸ばしたけど、すぐに背中を向けた。


ブルーベース冬。それが私のパーソナルカラーの名前らしい。これまで使ったことがないような青みがかった鮮やかなピンク色のリップを塗ってもらうと、顔色がパッと明るくなったのがわかった。これだから、コスメは止められない。撮影が終わって帰ろうとした時、朔くんが声をかけてきた。

「ちゃんなお、お疲れ様。これから颯太のお迎え行ってくれるんでしょ?」

「うん、多分ここからだと三十分くらいで着くよね?ちょっと急いだほうが良いかな?」

「いや、急がなくても大丈夫だと思うよ。」

「そっか。でも少しでも早く迎えに行ってあげたいから。」

「あのさ、聞いてると思うけど、僕もバイト終わったら事務所に行くから。それで…僕たち、あれから全然話せてないから、ちょっと二人で話そう。」

「うん、わかった。待ってるね。じゃあ、後で。」

朔くんの口から「あれから」とか「二人で」という言葉が出て、急に心拍が上がった。もう、あれから、二か月以上経っていた。その間、何度か連絡しようと、スマホを手に取ったけど、何て送ったら良いかわからなかったし、事務所で会ったときも、とりとめのない会話しかできていなかった。取るに足らない出来事にしたくない気持ちと、実際の行動が完全に乖離していた。あの日、近くで感じた柔らかい甘い香り。藍さんの事務所に通うようになって、この香りは事務所のお香だとわかった。そして今日は、それがやけにはっきりと香った。多分、私の顔赤い。なるべく周りに気づかれないように顔を伏せがちにして、スタジオを後にした。


恐る恐る園内に入ると、丁度お迎えのピークの時間のようで、沢山のお母さん達とすれ違った。お母さんと小さい子供が手を繋いで楽しそうに帰っていく様子に、心が和んだ。教室のプレートを確かめてからドアを開けると、教室の奥でブロック遊びをしていた颯太くんが、手を止めて走ってきた。

「奈緒ちゃん!迎えに来てくれた!」

「そうだよ!約束したでしょ?颯太くん帰る前にブロックお片付けしようか…。」

はしゃぐ颯太くんをなだめながらブロックを箱に戻していると、少し離れたところの会話が耳に入ってきた。

「ねぇ、今日は颯太くんのお迎え、颯太くんママじゃないのね。」

「本当ね。どうかしたのかしら?まだ何か揉めてるとか?」

聞こえるか聞こえないかの絶妙なボリュームで繰り広げられる嘲笑。背筋が冷たくなるのを感じた。出来ることなら、颯太くんの耳を両手で覆いたかった。さっき見かけたお母さんは、あんなに優しそうだったのに。声のする方を見られなかった。颯太くんに帽子をかぶせると、なるべく井戸端会議を迂回するようにして、保育園を出た。

颯太くんはいつも通り元気いっぱいで、それが私をホッとさせた。繋いだ小さな手は、温かかくて、颯太くんの好きなヒーローのお話をしているうちに、あっという間に藍さんの事務所に着いた。

「颯太くん、ママが来るまで何して遊ぶ?ホワイトボードにお絵描きする?」

「ううん。颯太、奈緒ちゃんにパパが撮ってくれた写真見せてあげる。」

そう言って、颯太くんが棚の隅から一冊のフォトブックを引っ張り出した。カーペットの上でページをめくると、全ての写真に颯太くんと萌さんの心から楽しそうな笑顔が溢れていた。どれも背景は部屋の中や近くの公園なのに、特別な時間を優しく切り取ったような写真だった。この家族のどこに問題があるように見えるんだろう。そう見えてしまうのは、きっと歪んだフィルターの持ち主。

「どの写真も、颯太くん、すごく楽しそうに映ってるね。颯太くんは、ママのこと大好きなんだね。」

「うん!ママ大好き!あとパパと朔ちゃんと前のパパも好き!」

「そっか。皆もきっと颯太くんのことが大好きだよ。」

颯太くんの真っ直ぐな言葉が眩しかった。颯太くんは歪んだフィルターを持っていない。だから、そういう人の言葉は入って来ない。歪んだフィルターを持っているのは私だ。大分マシになったとは言え、ついお父さんとお母さんのことになると穿った目で見て、喧嘩腰になってしまう。そんなセルフ反省会をしていると、颯太くんがパッと立ち上がって、藍さんのデスクの引き出しを開け始めた。

「颯太くん、そこは開けちゃダメだよ。パパのお仕事の物が入ってるんだから、触ったらパパ、困っちゃうんじゃないかな?」

「奈緒ちゃん!これ昔のパパ!」

颯太くんが取り出したのは、少し表紙が日焼けした厚いアルバムだった。中には、中学生くらいの藍さんとお母さん、お父さんが写っていた。初めて見る、朔くんのお母さんとお父さんの顔。藍さんと朔くんはよく似ているけど、藍さんは少しお母さん似で、朔くんは少しお父さん似だと思った。好奇心に動かされて数ページめくると、すぐにおかしいことに気が付いた。次第にページをめくる速度が上がる。最後のページを開くと、思わず唾を飲み込んでしまった。

「ああ、そのアルバム、藍兄が持ってたんだ。」

顔を上げると、朔くんがいた。私は、ポーカーフェイスを持ち合わせていない。多分、私の顔には動揺が広がっている。

「颯太、ほら、ママから車のおもちゃ預かってきたよ。」

「あ、颯太のパトカー!」

「ちゃんなお、ごめんね。これ、スタジオで渡そうと思ってたんだけど、忘れちゃって。」

「あ、ううん。いいの。大丈夫。」

颯太くんは、パトカーを受け取るなり、夢中で部屋中を走らせ始めた。朔くんも、慣れた様子で颯太くんと遊び始めた。二人に気づかれないように、そっとアルバムを引き出しに仕舞った。

 萌さんが迎えに来る頃には、颯太くんはすっかり遊び疲れて眠ってしまっていた。眠たそうな颯太くんを、なだめながら手を引いて帰る萌さんを見送ろうと玄関に出ると、雨が降っていた。天気予報を見ると、雨はこれから本格的になるらしく、ピザのデリバリーを頼むことにした。


キッチンのカウンターに届きたてのピザを広げると、美味しそうな香りがした。

「熱っ!」

「ちゃんなお、猫舌なんだね。熱がるの、もう二回目。」

「いや、そんなこと…。でもこのチーズ、中がトロっとしてて熱くない?なんで、朔くん平気なの?」

火傷してしまった舌先の痛みを感じながら、少し涙目になった。笑う朔くんと不意に目が合って、考えた。逸らすべきか、逸らさぬべきか。

「ちゃんなおの考えてること当てるよ。あの、アルバムのこと気になっているんでしょ?」

「朔くん…。アルバム、勝手に見てごめんなさい。言いたくないなら聞かない。言わなくて良いよ。でも、あの時朔くん、悲しそうな顔してたから、それだけ大丈夫かなって気にしてる。」

「ちゃんなおは、優しいね。アルバムを見たことは、謝らなくて良いよ。颯太が出したんだろうし。あれ、どうやって見つけたんだろうね?子供って妙に勘が良いところあるから、そういうことなのかな?…僕は寧ろ、颯太のおかげで、ちゃんと話すきっかけができて良かったって思ったよ。」

「私に?」

「前に、フレンチトーストを食べに行ったときから、ずっと聞いてもらいたいと思ってたんだ。あれ以上に重たいけど、良い?」

アルバムには、ところどころ剥がされた跡があった。写真が貼られて、しばらく時間が経った後に無理矢理剥がされたような跡だった。そして、最後のページには、剥がそうとした時に出来たと思われる皺のついた写真が貼ってあった。そこには、朔くんのお母さんと赤ちゃんが写っていた。

「僕、小学生のころ、地元のサッカークラブに入っていて、土日はそれこそ一日中練習やら試合やらで、毎回、父や母の車でグラウンドまで送り迎えしてもらっていたんだ。その日は練習が終わった後、父が迎えにきてくれて。いつも通りの帰り道だって信じて疑わなかった。確かに陽が沈むか沈まないかのちょっと見通しの悪い時間帯だったけど、何回も通ったことのある交差点だった。それなのに、いきなり信号無視のトラックに突っ込まれて、ああ、日常って何の前触れもなく壊れるんだなって。僕は運よく骨折で済んだんだけど、父は即死だった。」

息を飲んだ。朔くんも軽く息を吐くとお茶を口に含んだ。

「幸い、父は技術者でいくつか特許を取っていたから、そのお金のおかげで僕たちが路頭に迷うことは無かった。でも問題は、そういうことじゃなくて。『僕がいつまでも友達と喋っていないでさっさと帰っていたら』、『帰りにどこか寄り道することをねだっていたら』、『そもそもサッカーなんかやっていなかったら』って、常にたらればに頭を占められた。夢にだって見た。勿論、僕だけじゃなくて藍兄もすごく落ち込んでいたけど、母はとにかく父のことが大好きだったから、精神的にきてしまって。他のことで笑顔を見せているときでも、僕の顔見ると泣き出すようになったんだ。僕を迎えに行ったときに事故にあってしまったからなのか、僕が父に似ているからなのか…多分両方。あのアルバムは母が、僕と藍兄が学校に行っている間にやったんだ。あのアルバムだけじゃない。他のアルバムも全部、僕の写っている写真を剥がしては破いて、剥がしては破いて。最後の一枚を剥がそうとした時に藍兄がアルバムを取り上げてくれて、その後、どうしたのか忘れていたんだけど、こんな風に再会するなんて、思いもしなかった。」

どちらかともなく繋いだ手に力が入るのを感じた。

「破かれた写真を見たときは、流石に堪えたよ。落ち込んだって言うよりも怖かった。なんとか挽回して母に笑ってもらえないと、自分なんか生きている価値がないって思った。でも、何をやってもダメで。母に認められたいと思えば思う程ダメで、自暴自棄になりかけたときに、先に家を出て、義姉さんと同棲していた藍兄に『一緒に住まないか?』って誘われたんだ。」

「そこで、藍さんと萌さんに救われたんだね。」

「うん、本当、あの二人には感謝してもしきれない。ごめんね、こんな話。」

「ううん、あのね、驚いた部分もあるよ。でも、こんなこというと不謹慎かもしれないけど…話を聞く前と後で、私の中の朔くんは全然変わらなかった。多分、それは私の中で朔くんは、過去にどんな経験をしていてもこれから何をしようと変わらず大事な人ってことだからだと思う。だって、私に『そのままで良い』って初めて言ってくれた人だもん。そんな人、これからもずっと変わらず大事に思うよ。」

お互いに笑顔を見せ合うと、自然に顔の距離が近づいた。二回目のキス。

「今日は、ハチミツ味じゃないよ。」

「うん、知ってる。何味だって良い。」

「そう…。」

「ちゃんなおを昔の自分みたいだって思ったって言ったけど、一言で自分に自信がなくて、他人に認められることが行動の基準になっているって言える人は、大勢いると思う。それなのに、ちゃんなおに惹かれた決め手はわからない。わからないけど、好きだよ。だから、聞いて欲しかった。」

言葉の持つ世界に引き込まれて、時が止まる。あの花の写真を見た時の感覚と一緒だった。どうやら私は琴線に触れると、こうなるらしい。でも…。

「私もすごく朔くんに惹かれてる。会って、話をすればするほど…。でも、今は…。」

「わかってる。ロンドンに行くことを大事にしたいって。」

「私、いつになるか分からないけど、フラワーアーティストとしてご飯を食べていけるようになったら、朔くんに気持ちを伝えに行く。その時、お互いがどんな気持ちでいるかわからないけど。こんな…子供みたいな約束しかできなくてごめんなさい。」

「いや、良いんだ。ちゃんなおの見つけた目標が、僕のせいでどうこうなったら、後悔すると思うから。」

朔くんは、細い指を私の頬に添えて、親指でそっと唇に触れた。

「言いそびれてたことがある。今日のリップ似合ってた。綺麗だと思った。」

「本当?」

「うん、つい見とれて…だからおもちゃを渡しそびれたんだ。」

二人で軽く笑って、また唇を重ねた。


深い時間になるに連れ、外の雨はどんどん強くなっていった。天気予報によると、雨は明け方まで断続的に降り続くらしい。大きな大きな雨の音。鞄の中に入れていたスマホに何件もの着信とメッセージが届いていたことに気が付いたのは、日付を跨ぐ直前だった。

「ちゃんなお?もしもう電車ないなら、仮眠用の布団あるから今日はここに…。どうしたの?何かあった?顔色悪いよ。」

スマホを開いた時、頭の中が真っ白になるかと思った。朔くんの声が遠く感じる。呼吸が急に浅くなる。朔くん越しに、ついさっき点けたばかりのお香の煙が目に入って、思わず頭を振った。

「大丈夫?落ち着いて…。」

「朔くん…。お母さんが心臓発作で倒れた。」

やっとの思いでそれだけの言葉を絞り出すと、力が抜けてその場に座り込んでしまった。

「あ…お父さんに電話しないと…。」

手が震えた。いつも当たり前にやっている動作が、酷く難しかった。朔くんがそっとスマホを取り上げて、操作すると、まだ震えが止まらない手にスマホを戻してくれた。結局お父さんには繋がらなかった。お兄ちゃんに電話をかけると、お兄ちゃんは最終の新幹線で名古屋駅に着いたばかりだった。これからタクシーで病院に向かうらしい。詳しいことがわかったら、また連絡すると言って、電話が切れた。受話器の向こう側からも雨音が聞こえた。

「私、明日、始発の新幹線で名古屋に行く。」

「うん。ここからなら、東京駅まで三十分くらいだよ。あ、確か始発って、品川の方が良いのかな?どっちにしても、朝、駅までバイクで送るよ。」

「バイク…?」

「藍兄と兼用だけど、持っているんだ。ちゃんと安全運転で行くから、安心して。それより喉、乾かない?この紅茶、義姉さんが好きなんだ。甘いフレーバーが付いていて、落ち着くって言って、いつも飲んでいて。美味しいと思うよ。」

朔くんが、淹れたての紅茶の入ったマグカップを渡してくれた。確かに、気が付くと喉はカラカラになっていた。一口飲もうとカップに顔を近づけると、温かい湯気が顔に当たって、涙がこぼれた。

「心臓発作って、ストレスも一つの原因なんだよね。どうしてだと思う?どうして、お兄ちゃんは今日のうちに名古屋に向かえたのに、私は出来なかったんだと思う?これまでもずっとそうだった。お兄ちゃんばっかりきちんとした行動がとれる。それなのに、私はいつも下手を打ってばかり。いつも私がお母さんにストレスをかける。」

「ちゃんなお…。」

「私が、大学を辞めて花をやりたいだなんて言ったから、お母さん、ストレスを溜めたのかもしれない。そんなこと言わなければ、お母さんは倒れなかったかもしれない。私のせいで…!」

自分でも何を言っているのかわからなかった。ただ、どこからかこみ上げてくる言葉を外に出し続けないと、自分がおかしくなりそうだった。嫌なイメージが次から次へ湧いてくる。次の瞬間、朔くんが両手で私の顔を包んだ。

「いい加減にしなよ。それ以上、自分の好きなものを貶めるようなことを言ったら、絶対に後で後悔する。ちゃんなおがストレスでお母さんが倒れただなんて、ただのちゃんなおの思い込みだよ。その思い込み力は、もっと別のことに使った方が良い。それとも、『ちゃんなおのせいじゃないよ』って慰めてほしい?」

涙ながらに首を横に振ると、朔くんはそのまま優しく抱きしめてくれた。

「お母さんが倒れてしまったことは、変えられないよ。もう起きてしまったことだから。それは、辛くても受け入れよう。でも、この先どうしていきたいかは、幾らでも選べるんだ。仮にちゃんなおが、今、最悪の未来を想像してしまったとしても、まだ変えられる。だから、良いことを想像しよう?…ねぇ、教えて。お母さんが元気になったら、お母さんと何がしたい?」

お母さんとしたいこと。その言葉を思い浮かべるだけで、満面の笑みのお母さんが心に広がった。もう長い間、そんな顔見ていないのに。

「わ、私…お母さんと好きなものについて話したい…。お母さんの好きなもの、教えてもらいたい。」

「じゃあ、そうできるって思い込もう。思い込み力は、自分のやりたいことのために使うものだよ。」

そのまま、朔くんにしがみ付きながら、小さな子供のように声を上げて泣いた。私は、お母さんの好きなものを何も知らない。これまでお母さんは、勉強以外の指標で私を見てくれないと寂しく思っていたけど、私だってお母さんのことを見ようとしていなかった。お母さん、お母さん、ごめんなさい。朔くんは、ずっと優しく頭を撫でてくれた。


明け方、お兄ちゃんから、お母さんの容態は安定したという連絡が入った。少し気が抜けると、泣きはらした瞼がほんのり熱くなっているのを感じた。少し頭痛もした。品川駅に送ってもらう道中、初めてバイクに乗って感じた風は、これまでの感情の高ぶりを沈めてくれるようだった。あっという間に到着すると、早朝にも関わらず、駅の周りは多くの人で溢れていて、ヘルメットを外すと思った以上に大きな喧噪が聞こえてきた。

「送ってくれてありがとう。」

「ううん、良いんだ。放っておけなかったし。」

「あと、紅茶美味しかった。朔くんってそういう気遣いできるの、すごいよね。」

「ああ、それは、バイトの賜物かな。最初はモデルさんに何の気遣いもできなくて、よく怒られてたから。じゃあ、気を付けて行ってきて。」

「うん。行ってきます。また、連絡するね。」

繋いだ手を離して、改札口に向かおうとすると、すぐに後ろから手首を掴まれた。

「待って…!あの…僕も行こうと思う。母のところに。昨日のちゃんなおを見て思ったんだ。僕も母の好きなものを知らない。僕は、自分を認められるようになって、それで十分だと思っていたけど、母のことになると、僕はまだ向き合い切れていない自分がいるような気がした。どこかでまだ母に認められたいって、一方通行になっている自分に気が付けたんだ。でも、認めてもらいたいなら、まずは僕が認めなきゃな。今、すごく母が何を好きで何を考えているのか、知りたい。」

「うん。私、朔くんがいてくれて良かった。でも、私も何か朔くんに出来ていたんだって思うと嬉しい。朔くんのお母さんの話、聞かせてね。じゃあ、また今度。」

軽く手を振ってから少し歩いて振り返ると、まだ朔くんはそこに居てくれた。まだ乾ききっていない路面が朝日に照らされてキラキラと眩しくて、現実の世界じゃないような気がした。もう一度手を振って、歩みを進めた。


お母さんの入院した病院は、お父さんが勤めている病院だった。ここに来たのは、お兄ちゃんが小さい頃、喘息で入院したとき以来だった。異物を全て排除するような独特の消毒液のような匂い。緊張感を纏った大勢の大人たち。「ここは、私の好きな場所じゃない」と本能で察したのを覚えている。皮肉なもので、好きじゃない場所なのに、至る所に見覚えがあるのを感じた。教えてもらった病室のドアを少し開けると、中から話し声が聞こえてきた。

「迷惑かけて、すみません。子供たちにも心配かけて。」

「いや、とにかく助かって良かった。たまたま仕事から早く帰れた日だったから、お母さんが倒れてからすぐに気が付けたけど、もしも遅く帰っていたらと思うと、ゾっとするよ。」

「ええ、本当に運が良かったわ。こういうことって急に起こるのね。家に一人でいるときだったから…。」

「医者になったとき、将来、もしかしたら自分の家族の緊急事態に立ち会うことがあるかもしれないと思った。でもそんなことが起きても、自分は医者だし、冷静で最善の対処ができると思っていたんだ。それがまさか、こんなに動揺するなんて…。」

お父さんの声が震えていた。

「お父さん…。泣いているの?」

「結婚した当初、お母さんはいつも、『私は、医者じゃないから』って言っていたよな。俺の両親や親戚の前でいつも居づらそうにして。俺が何度も、『お前が好きだから結婚したんだ』って言っても、聞く耳を持ってくれなかった。」

「そうね。その言葉を信じて結婚したのに、いざ生活が始まると、自分が惨めで仕方なかった。情けないわね。」

「俺は、本当にお母さんのことが好きだったから、付き合っていた頃のように、堂々と自然体でいてほしかった。それなのに、俺なりに言葉を尽くしても、どんどん委縮していくお母さんを見て、自分の言葉は、お母さんにとって無意味なものなんだと思った。俺は、お母さんにとって取るに足らない男なんだって。でも孝昭と奈緒が生まれて、そんなことを考えることも無くなった。皆を養うのが俺の価値で、夫婦って、家庭ってこんなものだろうって。でも、お母さんが倒れて、頭がおかしくなるかと思ったよ。頼むから、これからも元気でいてほしい。他の人間がどう言おうと、俺にとって大事な奥さんであることは、この先も変わらないんだから。いい加減、それくらい認めてくれないか?」

「私、倉田の家に嫁いでから、愛想尽かされないように必死だったわ。お父さんにも、あなたのご両親にも。最初は、孝昭と奈緒に自分と同じ思いをさせないように『医者になりなさい』って言っていたつもりだったけど、いつの間にか、私の価値を保つための手段にすり替わっていた。たまたま、孝昭は自分でも医者になるって思ってくれたみたいだけど、奈緒には可哀そうなことしちゃったわ。」

「俺もだよ。孝昭も奈緒も生まれたときは、『この子たちが何を選択しても、ずっと俺たちの宝物だ』だなんて思ったのに、いつの間にか、二人とも医者になることを望んでいた。奈緒が医学部の受験を諦めた時は、正直落胆したよ。自分で自分の宝物にケチをつけるなんて滑稽だよな。でも、いつも孝昭の後を追いかけてばかりいた奈緒が、あんなに自分の意志を主張するようになるとはな。」

「目が覚めた時、思ったの。『奈緒がやりたいことを見つけられて良かった。』って。」

お父さんの声もお母さんの声も、今まで聞いたことのない優しい声だった。胸がいっぱいになった。いつ病室の中に入ろうか迷っていると、お兄ちゃんに後ろから肩を叩かれた。お兄ちゃんは私の顔を見ると、全てを察したような顔をして、私を置いて先に病室の中に入っていった。

「お母さん、もう起き上がれるの?」

「あら、孝昭、もう大丈夫よ。随分早く戻って来てくれたのね。」

「取り敢えず、歯ブラシとか着替えとか思いつくものだけ持ってきたよ。他にもいるものがあったら、また取りに帰るから、教えて。」

「ありがとう。ごめんなさいね。あなた、研修中なのに。今日は休んで平気なの?」

「学校には連絡入れたから、今日は大丈夫だよ。お母さん平気そうなら、今晩戻っちゃうけど。悪いね、薄情な真似して。」

「お母さんは平気よ。心配しないで、研修していらっしゃい。」

「じゃあ、俺はそろそろ仕事に向かうけど、孝昭、俺の仕事が終わるまで、お母さんに付いていてくれないか?」

「うん、行ってらっしゃい。そのつもりだから、安心して。」

お父さんの足音がこちらに近づいて、ドアが開かれた。

「奈緒、何やっているんだ?来たなら、中に入りなさい。」

そう言われて覗き込むと、窓の向こうから光が射して、お母さんを優しく包んでいた。お母さんの顔を眺めると、自然に涙が溢れてきた。

「お母さん、遅くなってごめんなさい…。無事で良かった…。」


病院の一階に入っていた花屋で小さなブーケと花瓶を買って、病室の中の洗面台を借りて水切りを済ませ、窓辺に飾った。お母さんは、横になったまま花に目を向けると、目を瞑って、深く息を吸った。

「甘い匂いがする。それは、何て言うお花?」

「フリージア。良い香りでしょ?私、好きなんだ。」

「そう…。奈緒がお花を持ってきたのを見て、一つ思い出したわ。」

「え…何?」

「あなた、昔からお花が好きだったわね。小学校に上がりたての頃、なかなか帰って来ないと思ったら、手を泥だらけにしてお花を摘んで帰ってきて。あの時、私怒ったのよ。『まっすぐに帰って来ないで、道草何かして』って。でも、今思えばあれは、奈緒が好きなものを一生懸命私に伝えようとしてくれていたのね。」

「そんなことあったっけ?全然覚えてない。」

「奈緒が覚えていてもいなくても、私、そうやって幾つも大切なことを見落としてきた気がするわ。ねぇ、奈緒、お父さんとお母さんの話、聞いていたでしょう?」

「お母さん、気づいてたんだ。」

「何となく、ドアの向こうにいるような気がしたの。私、ずっと倉田家にふさわしくない存在だと思ってた。お父さんは、すごく頭が良くて社会的にも成功しているけど、私には何も無いなって。でも、私には何も無いって思いながら、一生お父さんの妻でいるのはあまりに長いと思って、少しでも私に価値を感じてほしいって、ずっと思ってた。でもまさか、お父さんの方も同じようなことを思っていただなんてね。笑っちゃうわよね。」

そう言って笑うお母さんは、少女のようで、何だかとても可愛らしいと思った。窓から風が入って、カーテンがふわりと揺れた。

「奈緒、夏休みに入ったら、家に帰ってきなさい。一緒に宝塚を観に行きましょう。」

「え、宝塚?」

「ずっと好きだったの。お父さんが舞台とか好きじゃないから、結婚してから全然行ってなかったけど。」

「そうなんだ。うん、良いよ。二人で旅行がてら観に行こうか。」

「本当は学校にも入りたかった。でも、うちにはそんなお金無くて、専用のレッスンを受けることすらできなかった。だから、宝塚の舞台に立つ夢は諦めても、ずっと好きでいようって思ってたのに、いつの間にか忘れていたわ。昨日、急に胸が苦しくなって、もしかしたらここで死ぬかもしれないって思ったとき、もちろんあなたたちのことも考えたけど、『ああ、最期に宝塚が見たかった』って思った。こういう時に、忘れかけていた願望ってしっかり出てくるんだって、なんだか可笑しかった。」

そっとお母さんのベッドに座って、お母さんの手に自分の手を重ねた。お母さんは、もう片方の手も重ねてくれた。

「私もお母さんも『こうでなくちゃいけない』ってプレッシャーを自分に掛け過ぎていたのかな。」

「そうね。周りの全ての人に対して良かれと思ってやっていたのに、誰も幸せにしていなかったわ。」

「お母さん、私、お母さんのこと好きだよ。好きな人には、自由に穏やかに、心から笑っていて欲しい。」

お母さんの口角が上がるのがわかった。お母さんは、一度視線をフリージアの方へ向けると、真っ直ぐに私の目を見つめた。

「奈緒、あなたロンドンに行きなさい。お金はお母さんが出すから。」

「え、でも…。」

「あなたがいつか嫁ぐときのために、コツコツ貯めていたお金があるの。但し、あげるんじゃない、貸すのよ。どのくらいかかっても良いから、倍にして返すこと。それと、大学は卒業しなさい。今の大学に通うことで起こること全てが、この先の役立つと思って。あと、その間にしっかり留学先のことを調べて、準備しなさい。大事なことは、見切り発車してほしくないの。」

「本当に?協力してくれるの?」

「そうね。協力、応援、投資、贖罪…。どれもしっくり来ないわ。ただ、あなたが好きなことをやる姿が見たい、それだけよ。」

「うん、ありがとう。私…何て言ったら良いのか…。」

「これまで、せめて大学を卒業した後は、安定して、社会貢献度が高い仕事に就いてほしいと思ってた。それが、この家で奈緒が報われる唯一の道だと思っていたから。でもこれからは、奈緒を信用する。あなたは、どんな道を選んでも幸せになれるって。だから、自由に好きな生き方をしなさい。」

お母さんはたおやかに人差し指を立てた。そして、やけに抑揚の籠った口調で続けた。

「それともう一つ。宝塚の約束は、絶対よ。」

「うん、絶対に行こう。私、今から楽しみにしてる。」


 お昼を過ぎた辺りで、疲れが出たのか安心したのか、お母さんが寝息を立て始めた。規則的に上下する胸の動きを見て、改めて無事で良かったと噛み締めた。外にお昼ご飯を食べに行っていたお兄ちゃんが戻ってきて、「交代する」と言ってくれたので、そっと病室を出て、院内の庭のベンチで朔くんに電話をかけた。高くて濃いブルーの空と、綿菓子のように膨らんだ真っ白な雲と、少し強めの陽射しが心地良かった。

「お母さん、無事だったんだ。本当に良かったね。」

「うん、良かった。一週間くらいで退院できるみたい。」

「そっか、お母さんが入院中は、ずっとそっちにいるの?」

「ううん、明後日の夜に一旦戻るよ。でも、お母さんが退院する日は、また帰ろうと思って。バイトのシフトとか調整しないと。」

「何だか、嬉しそうな声してる。」

「うん、すごく嬉しい。もう何も負わなくても家に帰れるのが嬉しいの。あとね、ちゃんとお母さんと好きなこと、話せたよ。朔くん、色々してくれて、ありがとう。朔くんがいなかったら、私、こんな風になれなかった。」

「お礼を言うのは、僕の方だよ。ついさっき、母と会ってきた。五年振りくらいかな。」

「そっか。お母さん、どんな様子だった?」

「…驚いてた。久しぶりだったって言うのもあったし、今でも僕はトラウマのトリガーみたいで、最初はちょっと取り乱してた。落ち着いてからもあまり会話らしい会話はできなかったけど、帰り際、また来ても良いか聞いたら、頷いてくれたから、今の僕にはそれで十分。今度は、僕の撮った写真を持って行って見てもらうんだ。」

「うん、私、朔くんの写真、こっそり藍さんに見せてもらったことあるよ。」

「え、そうなの?」

「うん、ちょっと前にね。私は、写真のことは全然わからないけど、藍さんの写真は、鮮やかで印象的に瞬間を切り取る感じなんだけど、朔くんの写真は、柔らかくて優しい感じがした。どっちも好きだよ。お母さんにも伝わると良いね。」

「うん、とにかく、今日は会いに行って良かったよ。ちゃんなおがいなかったら、きっとまだ会いに行く覚悟ができていなかった。これからはこまめに通って、会っていなかった間の時間を少しずつ取り戻したいと思う。」

「うん…。朔くん、私も嬉しい。」


美味しいマフィンのお店を見つけた。自分でも時々焼くようになった。元々パン好きだったから、そこまで食べ物で苦労はしていないけど、やっぱり日本食が恋しくて、夜は日本から持ってきた食材を使った料理ばかり食べている。涼しい気候と突然の雨にも大分慣れてきた。週末は、フラワーマーケットや美術館によく足を運ぶ。ほぼ日課になったのは、お母さんとの短いやり取り。

「もしもし。お母さん?うん、元気だよ。うん、ハナが?お父さん、ハナのお散歩ほとんど行かないもんね。うん、うん、今日はヘッドドレス作るの。そう、これから出るところ。じゃあ、また連絡するね。はい、バイバイ。またね。」

花に囲まれる毎日。響きとは裏腹に、華やかなことばかりじゃない。頭の中のイメージと自分の技術のギャップに唖然とすることもある。それでも机の上に飾られた、藍さんの花の写真と、朔くんが空港で撮ってくれた私の写真が、いつも毎日を楽しむことを後押ししてくれる。

「誰かのために」を辞めたら、誰にも相手にされなくなると思っていた。でも、「自分のために」を始めたら、自然と色々なことが上手くいくようになった。日本では、花はつぼみから咲くまでが美しいとされていて、ロンドンでは、咲いてから散り際が美しいとされているらしい。今日も私は花を手に取って、「どっちも美しい」と思いながら作品を作っている。授業の合間に窓の外を見ると、久しぶりに晴れ間が見えた。日本に帰ったら、ブーケを届けたい大切な人の顔を思い浮かべながら、また一輪、花を取る。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ