上
―お母さん、お父さん、奈緒が何もできなくても好きでいてくれる?
―あー、意識戻っちゃた…。えっと、起きたらお湯沸かして、蓮の紅茶淹れて、今日は水曜日だから授業は三限までだけど、そろそろ来週提出のレポート手をつけないと。でも夕方から東京行くから…。
周囲の明るさをぼんやりと感じながらも、まだ目が開けられない。まだ起きたくない。でも眠りから半分覚醒したと同時に本日のタスクをなぞってしまう、悲しい習性。ぎりぎりまでぐっすり寝ていたいのに。そんなことを考えているうちに、朝の冷え込みで冷たくなった鼻先が気になって、そっと目を開けた。今日も寒い一日になりそうだ。枕元のスマホを見ると、アラームの鳴る丁度五分前だった。目が覚めたとは言え、とても寒くて布団から出られないので、布団の中からエアコンのリモコンに手を伸ばすと、「う~ん…」と軽く唸って、隣で寝ていた蓮が抱き着いてきた。顔を覗き込むと、トロンとした目と目が合った。
「ごめん、起こしちゃった?」
「いや、大丈夫…。八時四十五分になったら起こして…。」
「ん、わかった。それならあと、十五分くらい…。」
会話の途中で早々に夢の世界へUターンしてしまった蓮の軽く頭を撫で、抱き着かれた腕をそっと剥がしてベッドから出た。パジャマのまま廊下兼キッチンに立つ。エアコンをつけたとはいえ、キッチンまで暖まるには時間がかかる。床にはキッチンマットを敷いているものの、足先がすぐに冷たくなってしまう。空気を軽く吸い込むと、鼻の奥がツンとした。まだ暖かくて気持ちの良い世界にいる蓮を若干うらやましく思いながら、やかんに水を入れ、ガスコンロに火を点けてお湯を沸かした。蓮が学校に持っていく水筒に入れる紅茶を毎朝作るのが、蓮と半同棲を始めてからの日課だ。同じ学部の友達にこのことを話したら、「よくやるわ…。」と呆れた口調で言われたけど、朝ご飯やお弁当をリクエストされるよりよっぽど楽なので、別に大したことはしていないと思っている。やかんの中から、ゴボっという音が聞こえて、カタカタと小刻みに震えだした。火を止めて、ティーバッグを入れた水筒に熱いお湯を注いでやや濃い目に紅茶を淹れる。寒い空気の中に立ち昇る湯気にいつも見とれてしまう。ちょっと頭がトリップする。半分意識が別世界に行ってしまいつつも、「そろそろ、蓮を起こさないと…。」と思ったその時、「奈緒」と名前を呼ばれ、現実に引き戻された。振り返ると、まだ眠たそうな顔をした蓮が立っていた。
「蓮!起きたの?私、今起こそうと思ってて。」
「うん、なんか自然に目が覚めた。奈緒、おはよう。」
そう言って蓮は、私を優しく抱きしめた。蓮の暖かさを感じながら、私も「おはよう。」と腕の中で返した。
付き合い始めて約八か月、半同棲し始めて約五か月。いちいち友達に話すようなことじゃない。でも、これまた日課となった朝の甘いやりとりが、寝覚めの憂鬱を緩和してくれた。蓮の腕の中で思う。
―私は蓮に愛されて幸せだ。蓮みたいに格好良くて、頭が良くて、優しくて、しっかりしていて、将来有望な人に好かれて、私は幸せだ。って。
「奈緒…。もう少しこうしていたいけど、紅茶冷めちゃう…。」
「うん、そうだね、蓋開けっぱなしにしてた…。」
お湯を入れてそのままになっていた水筒を一瞥して、蓮の背中に回していた腕を解くと、
「ん…。俺もそろそろ顔洗う…。」
と言って、蓮は私の頭を軽くポンポンと叩いた。そして、一つ大きなあくびをすると、体を離して洗面所へ向かった。
テレビを時計代わりに、二人並んで身支度を整えた。蓮は、情報番組の星占いのコーナーで必ず手が止まる。毎朝の運試しらしい。今日、蓮のてんびん座は運勢が良いらしく、蓮の顔が綻ぶのを横目で捉えた。私は、鎖骨まで伸びた髪にヘアオイルを伸ばしながら蓮に声をかけた。
「ねぇ蓮、私今日夕方から東京行くんだけど、覚えてる?」
「あー、今日って言ってたっけ?currentの撮影。夜何時くらいに帰ってくるの?駅まで車で迎えに行こうか?」
「多分、七時くらいに戻ってこれると思う。迎えに来てくれるの?」
「うん。まぁ夜暇だし。いいよ。」
「ありがとう。じゃあ、そのまま、夕飯の買い物行こうか。」
「夕飯か…。今日寒いから鍋が良いな。ねぇ、奈緒、今日のニット、この前一緒に買い物に行ったときに買ったやつ?」
蓮が、袖を通したばかりのニットに目ざとく気が付いた。
「うん、そう。下ろしちゃった。少しでもお洒落したくて。」
「やっぱりネイビーにして良かったんじゃない?知的な感じする。すごい奈緒に似合ってる!最初に店員さんがピンクのを奈緒に勧めてたけど、あれは形もフワっとしてて子供っぽ過ぎたよ。」
「うん、そうだね。私も、こっちにして良かったと思う。」
「あ、奈緒のうお座、今日のラッキーカラーはネイビーだって!ほら、俺の言った通りにして正解だね!」
普段は占いなんてなんとなく順位を確認するだけで、中身なんて数秒後には頭に残っていない癖に、手柄を上げたような無邪気な蓮の笑顔は一瞬、実家の犬を連想させた。もしも尻尾があったら、きっと元気に揺れているんだろう。
「じゃあ、今夜時間はっきりわかったら連絡するね。」
「はいよ。待ってる。あ、奈緒、メイクは落としてから帰ってきてね。」
いつもの釘刺し。体の中の浅い部分がちょっと硬直するのを感じた。思わずコートを羽織る振りをして、蓮に背を向けた。
「もう、わかってるって。ちゃんとクレンジング持ったから。ほら、そろそろ出る時間でしょ?水筒キッチンに置いたままだよ。持って行くの忘れないで。」
「そうだね。そろそろ行こうか。」
今朝の冷え込みは相当だったみたいだ。外に出るとマンションのエントランスの植え込みに霜が降りていて、駐輪場に停めた自転車のサドルも冷たくなっていた。いつもの道を蓮と並んで自転車を走らせながら、「今度の休みに手袋を買いに行こう。」とか「お昼は学食でカレーうどんが食べたい。」とか、他愛もない会話を交わした。分かれ道で手を振ってから、出かけ際の自分を脳内リピートした。笑顔に不自然さはなかっただろうか?蓮の言葉に傷ついてしまったことに気づかれなかっただろうか?こんな些細なことで傷つくだなんて、なんて私は面倒な女なんだろう。赤くなった指先にフーっと息を吹きかけて、またペダルを漕ぎ始めた。
半年前から、私は美容雑誌「current」で読者モデルをしている。読者モデルと言っても、何誌もかけもったり、SNSのフォロワーが何万人もいたりするプロ読モじゃない。たまたま編集部が「小慣れてるような読モだけじゃなくてさ、これからは初々しい感じの子も増やそうよ!」となったときに縁があって声をかけてもらえた。ありがたいことに、今のところ、一か月に一回くらいのペースで撮影に呼んでもらっている。一応関東圏とは言え、やや辺鄙な場所にある地方の大学で読者モデルをやっている学生は珍しく、初めて雑誌に載った直後は、ほんの少し周りがざわついた。友達に「すごいね!」って言われたり、知らない人に廊下で声をかけられたりしたけど、すれ違いざまに「なんだ、普通じゃん」と言われたこともあった。「ほんのちょっとでも目立つようなことをすると、良いことも悪いことも起きるんだな。」と思っていると、ある日蓮が言った。
「奈緒、俺の前ではメイクしないでね。奈緒はすっぴんが一番かわいいんだから。奈緒がコスメ好きで、毎日お手入れやメイクを頑張っているの、知ってるよ。読者モデルになったのもすごいと思う。でも俺は奈緒のすっぴんが好きだから。」
それは「かわいい彼女を他の男に見せたくない!」とか言う部類のやきもちとは違った。その少し前、初めてスタジオに呼ばれた撮影で、プロのヘアメイクさんに目が大きく見えるメイクを施してもらった。企画タイトルは「理想の私になる!自分至上最高アイメイク」。撮影の帰り道、いつもよりも華やかな顔立ちになった私は嬉しくて、「蓮は褒めてくれるかな?」なんて考えながら上機嫌でいた。それなのに、蓮は帰宅した私の顔を見るなり、言葉をまくし立てた。
「何その顔!全然奈緒っぽくない!いつもの方がいいよ!」
いつもの落ち着いた蓮の口調からは想像できない語気に気圧された。とにかくこの場を治めるための、正解の言葉を脳内で探した。
「あ、でもほら、いつもより目がぱっちりしているように見えない?そのおかげでちょっと顔も小さく見えるっていうか…。私は気に入ってるんだけど…。」
「俺は嫌だよ。俺は奈緒の目が大きくなってほしいだなんて思ったこと一度もない。いつもの奈緒の方が良い。それなのに、奈緒は俺の好きな奈緒の顔を変えようとするんだね。」
取り付く島もないような言い方に、反論する元気を奪われた。折角、初めてプロの人にメイクしてもらったのに、折角さっきまですごく幸せな気持ちでいたのに。それまでの幸せな気持ちとの落差もあった。普段、悲しいとき、怒りたいときほど笑うようにしていたのに、思わず落胆した気持ちが顔にそのまま出てしまった。私の顔を見て、蓮はバツが悪そうに顔を背けた。もう言葉が出てこなかった。私の頭と経験では、正解の言葉を導き出すことはできなかった。それ以来、蓮に少しずつメイクに対して嫌な気持ちが芽生えたようで、リップはキスするときに付くから嫌とか、アイシャドウは目の上をキラキラさせる意味がわからないとか、徐々に蓮のメイクに対する取り締まりが厳しくなり、ついには日焼け止めとリップクリームのみの使用しか許されなくなった。私はすっぴんでいるよりも、トーンアップした肌やくっきりとした目元でいられるメイク後の顔の方が好きなんだけど、「俺の好きな奈緒でいて。俺は奈緒のすっぴんが一番好きだから。」と言われると、私はその言葉を受け入れて、従うしかなかった。蓮は私よりずっと頭が良い。そんな蓮の主張を、蓮の気分を害することなく切り返して、私の主張を通すだなんて、到底無理な話だった。そもそも「すっぴんが好きだ」なんて惚気だと言われればそれまでかもしれない。でもそう言われる度になぜか傷ついてしまう自分がいる。どうしてかわからない。好きだって言われているのに。そのままの私を肯定してくれているのに。だから言葉にならない傷ついた気持ちは、心の奥にそっとしまって、見なかったことにする。こんなことで傷つくだなんておかしいって、私の勘違いだって、そう思うようにしている。行方を失った気持ちを仕舞っておける貯蔵庫の要領は、どのくらいだろう。気持ちに、賞味期限や大きさや重さや匂いがあったら、もう少し大事にできるんだろうか。
東京は人がいっぱいだ。月並みな感想だけど、いつもそう思ってしまうし、全然慣れない。うちの最寄り駅よりもずっと短い間隔で電車が来るのに、ホームに人が全くいなくならないし、どの電車もすごく混んでいる。地下鉄の換気の悪い生ぬるい空気も苦手だ。指定されたスタジオの最寄り駅に着くころには、すっかり人に酔ってしまった。いつものことだ。駅のトイレでメイクをしながら、「東京は素敵だけど、住むのは大変そうだな。」と思った。仕上げに蓮の前ではとても付けられないクリアレッドのグロスを塗って、改めて自分の顔を見直した。この方が、私は良いと思うんだけどな…。地上に出て、冷たい風に吹かれたら少し頭がすっきりした。そして、一歩、また一歩とスタジオに近づくにつれて緊張感と高揚感が立ち昇ってくるのを感じた。スマホのナビが示したのはここだ。ちょっと熱くなった手でスタジオのドアを開けた。
カシャ!ピピピ…
シャッターを切る音がスタジオに響いていた。ポーズを取った女の子が真っ白なホリゾントの前に立っているのを見て、より一層ドキドキが高まった。
「こんにちは!十六時にお約束している倉田奈緒です!」
入口近くにいた何人かが振り返って、その中にいた高橋さんがこちらに駆け寄ってきた。
「あー!奈緒ちゃん!来てくれてありがとね。今ね、前の子たちの撮影が押しててちょっと待たせちゃいそうなんだ。もしよかったら、座ってケータリング食べててくれるかな?スタイリストさんとメイクさんには来たこと伝えておくね。手空いたら声かけてくれると思うから。」
「わかりました。大丈夫です。待たせてもらいますね。」
今日の企画を担当している高橋さんは、何度か撮影でお世話になっていて、すっかり顔見知りになったcurrentのライターさんだ。気さくで優しくて、お姉さん的な存在で読モの間でも人気がある。そして高橋さんが担当の企画に呼ばれた読モは、他のライターさんの企画の撮影のときよりも気合が入っているように見える。いや、実際入っている。
「ねぇ、何してるの?こっちで一緒にお喋りしようよ!」
姿を見るまでもなく、女の子の甘えたかわいらしい声が、彼がいることを教えてくれた。思わず、声の先に視線を向けた。
「お喋りしたいんですけどねー、僕仕事中なんですよ。皆さんが綺麗に撮ってもらえるように頑張ってるんですから。っていうか、そろそろ撮影の順番来ると思いますよ。確認してくるんで、ちょっと待っててください。」
軽やかな女の子あしらいに長い手足、端正な顔立ち。出版社のアルバイトで主に高橋さんのサポートをしている桐谷朔くんは、本人こそプロのモデルなんじゃないかと思う格好良さで、読モに大人気だった。外気で少し乾いてしまった唇を潤そうと、スタジオの隅に置かれた椅子に座って鞄からポーチを取り出していると、横からサッとコーヒーが出てきた。
「倉田さん、お疲れ様です。コーヒーどうぞ。」
差し出されたカップを受け取ろうと手を伸ばすと、スッと高く持ち上げられて、空振りしてしまった。
「えっ…。くれないの?」
「あげますよ。熱いのに、倉田さんカップの下の方持ちそうだったから。はい、気を付けて。ちゃんと上の方持ってください。」
確かに手渡されたコーヒーは湯気が立っていて、かなり熱そうだった。
「なんだ、親切だったんだ。意地悪されたのかと思った。」
「半分意地悪です。じゃあ、もうすぐスタイリストさんの手が空きそうなんで呼んできますね。あと、メイクさんもそんなに時間かからずに前の子終わると思います。」
「そう…えっと、待ってます。ありがとう。」
「あ、いつも通り、甘目にしておきました!」
桐谷くんはそう言うと、メイクルームの方へ歩いて行った。桐谷くんは、本当に出来た人で、誰と話していても、どこにいても全体をよく見てくれて、皆のことを気にかけてくれる。そして、出してもらったコーヒーにはお砂糖とミルクが多めに入っている。初めて会ったときに私が、コーヒーは甘目が好きだって話したことを覚えてくれていて、それ以来、撮影で会ったときは、いつも私の好きな甘さのコーヒーを出してくれる。そんな人の不意ないたずらは、やけに心に残る。
「おいしい…。そうだ、桐谷くん意地悪だった…。」
今日の企画は、「骨格矯正メイク」だった。事前に「骨っぽくて女らしくない頬や輪郭が嫌だ」と伝えていたので、メイクさんがコンプレックスを解消するテクニックを解説しながら、丁寧にメイクをしてくれた。
「はい、これで頬が女の子らしくまあるく見えるでしょ?でもこれ以上やりすぎちゃダメよ。個性がなくなっちゃうから。私から言わせると、倉田さんの骨格って外国人モデルみたいに綺麗なんだから。」
「うーん、でも骨格だけ外国人モデルでも、目鼻立ちは間違いなく日本人なんですよ。なんかアンバランスだなって。それに骨格はっきりしてると、性格きつそう見えませんか?」
「きつい?意志が強そうで良いじゃない。私、気の強い女の子好きよ。」
「私は、もっと柔らかそうに思われたいんです…。」
「イメージをセルフコントロールするのも良いけど、自分以外の人にはなれないんだから、まずは自分の良いところ、自分で認めてあげないと、自分が可哀そうだよ。自分とは一生付き合っていくんだから。それとも誰かに言われちゃった?」
「そういうわけじゃないけど、柔らかそうな女の子って愛されそうなイメージだから…。」
「そうだねぇ、まぁ、元々の魅力を引き出すのと同じくらい、無いものねだりを叶えるのも、私たちのお仕事だから、大いに望みを持ってくれて良いんだけど…。でも、コンプレックスなんて、自分が造った幻想なことがほとんどよ。」
―自分が造った幻想…。私は初対面であまり親しみをもたれないし、普通にしていても怒っているのかと思ったって言われることもあるから、自分で造った幻想っていうよりは、周りも同じように認識している事実なんじゃないのかな。
「ああ、よくわからないって顔してる。ね、よくわからないよね。そういうものだよ。取り敢えず大丈夫、可愛く仕上げるから。」
仕上げに髪の毛をセットしてもらいながら、メイクさんの言葉の意味を改めて考えたけど、いくら頭の中で咀嚼しても、上手く消化できそうになかった。それよりも、自分ではとてもできないような、絶妙にゆるく巻かれたヘアアレンジが完成して、そっちの方に気が行ってしまった。仕上げのスプレーを振ってもらっていると、メイクルームに桐谷くんが顔を出した。
「倉田さん、準備できました?できたらそろそろ撮影の方、お願いします!」
桐谷くんが来るなり、メイクさんもスタイリストさんもちょっと顔が綻ぶのが鏡越しに見えた。この人は、元々持って生まれた資質で周りの人を幸せにできる特別な人だというのがよくわかる。もちろん、「格好良くて人当たりが良い」とか、「気が使えて優しい」とか、言葉にできる理由は色々あると思うけど、そういうこと以前に、いるだけで喜ばれる存在なんだと直感的に思った。
「はい、行けます!」
やけにはっきりとした声が出た。メイクさんとスタイリストさんがちょっと驚いて私を見たのがわかった。こういうところも、きつそうに見える要因なんだと思う。咄嗟に出てしまう言葉は、いつも自戒の対象だ。きまり悪く顔を上げると、桐谷くんは全く意に介していないようだった。「じゃあ、行きましょうか。」と、いつもと変わらない笑顔を浮かべている。そういう所も、好かれる要素の一つなんだろう。気持ちを切り替えて、「これから撮影なんだ。しっかりしないと。」と意気込みながらも、ホリゾントの近くまでエスコートしてくれる桐谷君の背中を見ると、眩しいものを見たときのような気持ちになった。私とは全然違う。私だって、本当は生まれ持ったもので愛されたい。
でもそんな劣等感は、あっという間に溢れたアドレナリンが吹き飛ばしてくれた。プロのモデルじゃなくても、ホリゾントの前に立つと私なりのスイッチが入る。スタジオの中の視線の多くが注がれているのを感じる。
「宜しくお願いします!」
撮影中は、いつもあっという間のような、終わりのない長い時間のような、変な気持ちになる。撮影が終わって帰り支度をしている頃には、さっきまで夢の中にいたんじゃないかとさえ思う。そんなふわふわした頭で高橋さんやスタッフさんに挨拶をしてスタジオの外の廊下に出ると、丁度外から戻ってきた桐谷くんと鉢合わせた。
「倉田さん、撮影終わっちゃったんですか?僕、倉田さんの撮影が始まったとき丁度電話かかってきちゃって。見たかったなぁ。」
「読モの撮影なんて、桐谷くん見慣れてるでしょ?読モだけじゃなくて、プロのモデルさんの撮影にも立ち会うことあるって前に言ってたじゃない。」
「まぁ、そういうこともありますけど。プロはプロの良さがあって、読モさんには読モさんの良さがあるって言うか…特に倉田さん、カメラの前に立つとちょっと雰囲気変わるんで、なんか見たくなるんですよ。」
容姿端麗な男の子にこういう言葉をかけられて、勘違いする女の子は多いと思う。しかも、こんな照明の落とされた暗がりの廊下でなんて、ズルいと思う。これ以上会話を続けるのが恥ずかしくなって、「じゃあ、また。」と別れようとしたとき、
「またすぐにメイク落としちゃうんですか?」
と、心のどこかで懸念していた言葉が飛んできた。そう言われて、反射的に目を伏せた。すぐに返す言葉が出てこない自分を情けなく思った。クレンジングの入った鞄を持つ手に力が入る。取り敢えず何か返事をしようと口を開きかけたとき、桐谷くんが意外な言葉を重ねてきた。
「まつげが…。」
「え…?」
「倉田さん、まつげ長いから、下を向くと頬にまつげの影が落ちちゃうんですね。今日のメイク、マスカラしっかり目だから、余計にはっきりわかります。」
まずいことを言っちゃったから取り繕おうとか、その場を誤魔化すような言い方ではなかった。今、そう思ったから言っただけ。そんな軽い物言いが、私の心までちょっと軽くしてくれた。
「嘘だよ。そんなの、こんな暗いところで見えるわけないじゃない。桐谷くん、今日も女の子から連絡先渡されてたよね。そういうこと言うから、女の子が期待しちゃうんだよ。」
顔を上げると、桐谷くんとしっかり目が合った。何でも見透かすような目だと思った。堂々としていて、落ち着きがあって、軸があるのを感じる。きっと桐谷くんは、変えられるものは変えて、変えられないものは冷静に受け入れていける人なんだろう。私は、何が変えられるもので、何が変えられないものなのかすらかわからない。どうやったらそうなれるんだろう。
「わかりますよ。多少、外の明かりが入っているんで、ちゃんと見えましたよ。僕、目良いんで。じゃあ、はい、これ。こんな寒い日に申し訳ないんですけど。」
そう言って差し出されたのは、缶のミルクティーだった。
「これは…?」
「僕用に買ったやつだけど、あげます。僕は温かいのを買い直すので。」
「あ、ありがとう…。これ、私も好きなやつ…。って、えっ、これ熱っ…!」
冷たいだと思って受け取ったミルクティーは温かいの方で、想定外の温度に一瞬パニックになって、思わず缶を落としてしまった。笑いながら缶を拾う桐谷くんを恨めし気な視線で追ったけど、あまりに無邪気に笑うから、こっちまで吹き出してしまった。
「もう!桐谷くん、わざと冷たいの方だって思い込ませたよね?」
「ああ、ごめんなさい。でもちょっと元気出ました?」
「あ、うん…なんか笑っちゃった。」
「はい、ちょっと凹んじゃったけど。…倉田さんって、確か遠くから来ているんですよね?寒いから、気をつけて帰ってください。お疲れ様。」
「うん、お疲れ様でした…。」
ドアの向こうに見えなくなる桐谷くんの背中を見送った。手渡されたミルクティーが温かかくて、指先同士が触れた感覚が、この温かさで溶けて無くなってしまえば良いと思った。
前回の撮影のときだった。私は、撮影を終えて、スタジオとは別のフロアのトイレでメイクを落としてすっぴんになった。誰にも会いたくなくて、目線を下に落としてそそくさと歩いていると、曲がり角で出合頭に人とぶつかってしまった。
「あ、ごめんなさい!」
顔を上げると、ぶつかった相手は桐谷くんだった。
「いや、こっちこそ、すみません!あれ?倉田さん、もう帰ったと思っていたのに。こんなところでどうしたんですか?」
「あ、ちょっとお手洗い借りてて。ウロウロしてごめんなさい。もう帰るから。」
顔を背けて、「気付かないで!」と咄嗟に願ったけど、遅かった。
「倉田さん…メイク取っちゃったんですね。似合ってたのに。」
そう言われて、プロにしてもらったメイクをぞんざいにしてしまったという申し訳なさと、すっぴんを見られた恥ずかしさが相まった。メイクを落としたときに、わずかに濡れてしまった顔周りの髪の毛が肌に触れて気持ち悪い。
「あ、桐谷くん…あの、ごめんなさい…。彼氏!彼氏が私のメイクした顔が嫌いで、だから落として帰らないといけなくて…。ごめんなさい、こんな、折角綺麗にメイクしてもらったのに。」
声がほんの少し上ずって、早口になった。情けなくって、とにかく早くこの場から立ち去りたいと思った。さぞかし、男のご機嫌をとってばかりのバカな女だと思われているだろう。私自身が、自分のことをそうやって思っているんだから。足元に落とした視線を上げられないでいると、頭の上から優しい声がした。
「安心してください。折角してもらったプロのメイクをすぐに落とすなんてプロに対する冒とくだなんで思いませんし、誰にも言いませんから。」
「うん…。」
顔を上げようとすると、頭の上に何かが当たった。桐谷くんが、私の頭の上でずっとファイルを構えていたようだった。呆気にとられる私の顔を見て、桐谷くんは屈託なく笑った。
「倉田さんって真面目ですよね。『こうしなくちゃ愛されない』って思って、一生懸命自分を自分の思う理想の型に嵌めていそうな感じしますもん。僕はもっと無条件に愛されて良いと思いますけどね。」
「え…。」
「余計なことまで言ってすみません。ああ、髪の毛、雫ついていますよ。今、貸せるハンカチなくて申し訳ないんですけど。」
「あ、うん、大丈夫。私、タオル持ってるから…。ありがとう。」
「僕、何もしていませんよ。じゃあ、気を付けて。」
桐谷くんが私の横を通り過ぎるときに動いた空気をやけにはっきり感じた。ぼやけていた感覚が自分の中に戻ってきたようだった。
―無条件に愛されるってどういうこと…?それは、桐谷くんみたいな星の元に生まれた、元から何でも持っている人の特権でしょう?私は、私が嫌い。だから、私は努力して蓮の「いいね」を集めないと不安でいっぱいなの。あとどれだけ集めたら良い?どれだけ集めることができたら、これからもずっと大切にしてもらえる?楽しい時間だって確かにあるのに、そんな暗い考えがいつも隣にいる。こんな私がやっぱり嫌い。
「帰ろう…。」
桐谷くん、魅力的で人に好かれるのわかるけど、話していると、自分のハリボテ感をひしひしと感じて自己嫌悪になる。
帰り道、電車に揺られていると、どんどん蓮と顔を合わせるのが憂鬱になってきた。あと二駅のところで堪らなくなって、蓮に「急遽、友達のうちで泊まりでレポートをすることになった」と嘘のメッセージを書いて、久しぶりに自分の部屋に帰った。部屋の明かりをつけてスマホを見てみると、蓮から急な予定変更でご機嫌斜めになっているニュアンスのメッセージが届いていたので、謝り文句と、明日の朝一番に蓮の家に向かう旨を返信した。それ以上もう今日は何もしたくなかったし、何も考えたくなかった。上着だけ脱いで布団に潜り込むと、すぐに沈み込むような感覚になって、あっという間に意識が飛んだ。何の夢も見なかった。
そんなことを思い出していると、いつも長く感じる電車もあっという間だった。駅に着いて出口を抜けると、すぐに蓮の車が目に飛び込んできた。
―大丈夫。変に考えることなんかない。ただ、楽しく過ごせばいいだけ。
そう思いながら助手席のドアに手をかけて、するりと乗り込んだ。
「奈緒、お帰り!思ったより早かったね。」
「ただいま、蓮。寒いのに迎えに来てくれて、ありがとう!車の中あったかいね!」
「でしょ?奈緒が寒くないように温度高めにしといた!」
「蓮は優しいね。ありがとう!」
―大丈夫。いつもの楽しい会話だから、大丈夫。
そう思ってシートベルトに手をかけると、
「ちゃんとメイク落としてるね!えらいえらい!じゃあ、スーパー行こうか。」
蓮の言葉に引っ掛かりを覚えずにはいられない。ホッとした気持ちに水が差された。蓮にとって、約束通りメイクを落として帰ってくる私は○で、もしも約束を破ってメイクしたまま帰ってきたら、私は×らしい。どっちも私は私なのに。私は条件付きじゃないと、〇をもらい続けられない。やるせない思いを紛らわすように、寒さで白くなった窓に目をやった。今日はとにかく寒い。コートのポケットに入れたミルクティーもすっかり冷え切ってしまった。こんな日はあったかいご飯を食べてあったかいお風呂に入って、あったかいお布団で何も考えずに眠りたい。
夕飯は約束通り鍋にした。野菜を切ってお肉と煮るだけ。鍋は簡単で美味しい。そして美味しいものは人を元気にしてくれる。
「美味しい!ただ煮るだけでこんなに野菜もお肉も美味しく食べられるって、鍋つゆは企業努力の結晶だね!」
「確かに鍋つゆは企業努力の結晶だけどね、ここまで鍋つゆの美味しさを引き出せるのは、奈緒の野菜セレクトのセンスと絶妙な火加減の賜物だと思うよ。」
なんて会話をしながら鍋をつついていると、幸せな気分になる。足元はこたつでぬくぬくだし、明日の授業は午後からだし、こういうのが良い、こういう気持ちが続けば良いのにと思いながら箸を進めていると、
「今日の撮影って、桐谷くんはいたの?」
と、蓮が話を振ってきた。
「桐谷くん?ああ、うん。今日は、高橋さんの担当企画だったからね。今日も読モたちにモテモテだったよ。」
「ふーん。奈緒はさ、桐谷くんのこといいなーとか思わないの?相当、格好良いんでしょ?」
「まぁ、格好良いとは思うよ。でも、男の人としてどうとは思わないかな。私にとっては、別世界の人だなーって感じ。」
「そんなに格好良いの?別世界って思う程?」
「いや、別世界っていうのは、格好良さだけじゃなくて、考え方とか、そもそもの存在とか?上手く言えないけど、生まれながらに人に愛される要素をふんだんに持っている人ってこんな感じなのかなー、私とは違うなーって思う。」
「奈緒は俺に愛されてるよ!」
「え!あ、うん、ありがとう。それは私もそうだし、わかってるんだけど、何ていうかな…。もっと何もしなくても愛されるっていうか…。っていうか、蓮、桐谷くんのこと心配してるの?」
「別に。ただ、奈緒が格好良いって思う男が奈緒の近くにいるのが面白くないなって思っただけ。」
「そんな、いくら格好良くても、桐谷くんのこと好きになるなんて思ってないよ。それに私は、蓮の方が格好良いと思ってるよ。」
「別にそういうことを言ってほしいんじゃない。」
そう言って顔を赤くした蓮がとても可愛くて、私はまた傷ついた気持ちを心の奥に押し込んだ。いつまでも蓮の言ったことを気にしている私は×。こうやって楽しく笑って、蓮を大好きだと思う私は○。
「あ、お肉、今取ったので最後だったみたい。これ、蓮にあげるね。」
と蓮の取り皿にお肉をよそうと、蓮は子供のように拗ねた顔をした後、クシャっと笑った。良かった。きっと今の私は◎。今日はもうちょっと遅くまで起きていたい。
蓮との出会いは大学の図書館だった。私は受付や本の管理をするアルバイトをしていて、蓮はときどき館内で見かける、格好良い男の子だった。テスト前になると、よく蓮は、滅多に人が入らない、奥の半個室になっている自習スペースで勉強をしていた。蓮が本を借りることは無かったから接点もなく、このままずっとお互いに学部も学年もわからないまま、別々の時間が過ぎていくのだろう思っていた。でも、私が蓮をこっそり「いいな」と思っているように、蓮も誰かを「いい」と思っていて、私の気づかないどこかで誰かが私のことも「いい」と思ってくれていたら嬉しい、だなんて想像して楽しんでいた。
そんなある日、蓮と大学内のエレベーターで乗り合わせた。閉まりかけた扉に向かって、ダメ元で走っていると、閉まりきる直前で扉が開き、中から蓮が顔を出した。奇跡だと思った。思いがけず二人きりのシチュエーションが訪れたのに私は、話しかけて気持ち悪がられたらどうしようと思って、何も言えなかった。いつだって、ここぞというとき、チャレンジを邪魔するのは他でもない私だ。恒常性維持機能というものが、私には人並み以上に備わっているのかもしれない。こうやって、私は今を動かすチャンスを何度見送ってきただろうか。そして、これからもそのほとんどを見送り続けるんだろうな、だなんて思考の世界に片足を突っ込んで現を抜かしていくと、フッとエレベーターの電気が消えた。ビクッと身が縮むと同時にガタンと音が鳴って、ほんのわずかに落下したのがわかった。怖い!頭が真っ白になって、思わず目を強く瞑った。長い、長い一瞬…。
「あの、もう大丈夫そうですよ。大丈夫ですか?」
そう言われてハッと目を開けた。エレベーターは誤作動を起こした後、すぐに安全装置が働いて、最寄りのフロアで停止したようだった。ドアも空いている。ほっとして、声の方を向くと、すぐ近くに蓮の顔があった。私は咄嗟に蓮の腕にしがみついたらしい。
「わ!ごめんなさい!びっくりしちゃって、腕掴んじゃって…。痛くなかったですか?」
慌てて離れたけど、無我夢中だったとは言え、すごいことをしてしまったと恥ずかしく思った。
「いや、俺は大丈夫。取り敢えず、出ましょうか。」
「そう…ですね。あの、痛いような掴み方しなくて良かったです。本当、すみませんでした。」
「…」
「…」
エレベーターを降りると会話が途切れた。他に話すようなことも思い浮かばなくて、この場を離れようとしたとき、蓮が話しかけてくれた。
「あの、図書館でバイトしてる人ですよね?俺、勉強するときよく行くんで、見たことあると思って。えっと、もし、この後時間あるんだったら、飲み物でも飲んで少し話しませんか?すぐそこ学食だし。」
その言葉で、これまで同じ図書館の中にいてもバラバラに流れていると思っていた時間が、実はちゃんと重なり合っていたことを知った。ただ、流れていくばかりだと思っていた時間を蓮が掬ってくれて、胸がいっぱいになった。
夕方の学食は人もまばらで、大きな窓から差し込む夕日が暖かくて眩しかった。オレンジ色に染まった席でお互いの自己紹介をした。学部のこと、出身地のこと、家族のこと。知りたいこと、知ってほしいことが次から次に浮かんだ。それから連絡先を交換して、食事をしたり映画を見に行ったりするようになって、何回目かのデートの帰り道で蓮が告白をしてくれた。
付き合い始めてから、蓮も以前から私のことを図書館で気にかけてくれていたことを聞いた。蓮が「いい」と思っている誰かが私で、どこかで私のことを「いい」と思ってくれている誰かが蓮だったことが嬉しくて、心の中に花が咲いたような気持ちになった。
昼過ぎの講義は、催眠術にかかったように眠たくなる。なんとか眠らずに耐えた後、バイトのために図書館に向かう道すがらスマホを見ると、メールが一通届いていた。current編集部からだった。本文を読むと、無意識に言葉が漏れた。
「え、本当…?」
今までcurrent編集部から来たメールで心躍らなかったことは一度もない。それでも、この日に届いたメールは格別だった。バイト中、気を抜くと顔がにやけてしまいそうなくらいだった。遠くに蓮の姿を見つけたとき、かけよって報告したい衝動を抑えるのが大変だった。閉館間際、貸出受付のデスクに座っていると、蓮が近づいてきた。
「奈緒、もうすぐ閉館だけど、奈緒も帰るでしょ?外で待ってるから一緒に帰ろう。」
「うん、あと二十分くらいかかるけど、平気?」
「二十分か…。いいよ。今日厚着してるから、大丈夫。」
「ありがとう。なるべく急ぐから。」
「ん、じゃあ後で。」
「あ、待って蓮!」
「え、何?」
「これ、気休め程度かもしれないけど。」
そう言ってポケットに入れていたホッカイロを渡すと、蓮は軽く微笑んで出入口の方に歩いて行った。
「奈緒さんの彼氏、格好良い人ですよね~!しかもこの寒いのに待っててくれるって、すっごい優しいですよね。羨ましいです!」
いつの間にかバイト仲間で後輩の朱音ちゃんが、後ろに立っていた。全く気が付いていなかったので、蓮との一部始終を見られていたと思うと、顔が赤くなるのを感じた。
「いや~、私にはもったいない彼氏だよね。」
「奈緒さん、それ本気で言ってます?好き合って対等に付き合っているのに、もったいないなんてことあるわけないじゃないですか。」
「でも、蓮の方が頭良いし、格好良いし、しっかりしてるし…。私、付いていくのが精いっぱいだなっていつも思ってるよ。」
「奈緒さん、固いな~。でも私、そういう所、嫌いじゃないですよ。それこそもったいないとは思うけど。」
「朱音ちゃんって、本当に後輩なの?なんでそんなに余裕綽々なの?」
「後輩ですよ。あと、余裕っていうか、自己肯定感強めなだけです。そういえば、今月のcurrentに載ってるの見ましたよ。すごい綺麗でした。普段からメイクすれば良いのに。」
「メイクは好きだし、普段もしたいんだけどね。」
「あ、もしかして、彼氏さんに言われてるんですか?『可愛いところ他の男に見せるな』的な?」
「ううん、単純にメイクが嫌いみたい。」
「ふーん。私は、奈緒さんがしたいなら、しても良いと思いますけど…。まぁ、悩みどころではありますよね。自分がしたいと思うことと、彼氏に可愛いと思ってもらうことのどっちを取るかって。」
自分と彼氏を同じ選択肢にできる朱音ちゃんを羨ましく思った。私は、いつも一択しかないと思っていたから。
蓮と帰る途中に買ったお弁当をこたつの上に広げた。遅い時間になってしまったので、すっかりお腹が減ってしまった。
「汁物ほしいよね。お味噌汁作るね。」
「うん、具、何にする?」
「えっと、何が残ってたかな?ちょっと待ってね。」
何か具にできるものはないものかと冷蔵庫の中で探していると、蓮が後ろから一緒に覗き込んできた。
「あ、豆腐使っちゃおうよ。」
「そうだね、あと、ねぎも半端にあるから使おうかな。うん、じゃあすぐ作るから、ちょっと待っててね。」
そう言っても蓮は離れようとしなかった。そのまま、後ろから肩に顎を乗せてきた。
「もう、どいてくれないと作れないでしょ?」
「奈緒、今日ちょっと変じゃなかった?」
「ああ!やっぱり何か変だった?」
「うん、ソワソワしてるっぽかった。」
「挙動不審だったってこと?」
「ちょっとね。」
「そっか。うん。それは、ご飯を食べながら話すね。」
蓮にどいてもらってキッチンに立つと、お味噌汁を作る過程がいつもより楽しく感じられて、作りながら思わず鼻歌を歌ってしまった。蓮が、そんな私を少し訝しんでいるのを感じた。
「お待たせ!食べよう。」
出来立てのお味噌汁を並べて、こたつの中に入った。蓮は、よっぽどお腹が空いていたのか、いただきますもせずに、お弁当の蓋を開けて、お味噌汁に手を付け始めた。
「味噌汁、美味いね。温まる。」
「良かった!寒い中待たせちゃったから。」
「平気。待ちたくて待ってたし、カイロあったから。あ、帰り道、奈緒にカイロ返せば良かったな。ずっと俺が持ってた。」
「ううん、それは良いの。あのね、さっきの話だけど…。」
「ああ、何?」
「あのね、今日currentからメールが来てね、なんと来週、久住萌会えることになったの!久住萌が春の新作コスメでメイクしてくれる企画に呼ばれたの!」
「久住…萌…?」
「あ、そうか。男子はあんまり知らないかも。久住萌って美容家でね、毎回currentにもたくさん載ってるすごい綺麗な人なんだよ!えっと、確かシャンプーのCMにも出てたと思ったけど…。ちょっと待って、調べるから!」
「食べ終わってからで良いよ。美容家ね。美容家ってそもそも何?何かそういう資格でもあるの?」
「資格?資格は特に無いんじゃないかな?美容の知識とかテクニックはすごく豊富に持ってると思うけど。」
「ふーん、じゃあ、誰かから公式に認められてる訳じゃないんだ。何なら奈緒も自分で『美容家です』名乗ればすぐになれるってこと?」
ちょっと嫌な言い方だと思った。急に綱渡りの感覚になった。
「それは、自分で美容家だって言えばそうなると思うけど、ただ名乗るだけじゃ仕事は来ないよ。」
「それはそうだろうけど。まぁ、変なこと吹き込まれないようにね。で、何時頃行って、何時頃戻ってくるの?」
「えっと、一時に呼ばれてるから、多分三時か四時には終わると思う。」
「じゃあ、戻ってくるのは六時くらいってこと?じゃあ、帰ってきてから夕飯作れるね。俺、本当は買った弁当夕飯に食べるの嫌だから。今日は奈緒もバイト遅くまであって、大変だと思ったから我慢したけど、本当は嫌だから。撮影は奈緒が勝手に行くことなんだから、遅くなっても夕飯はちゃんと作ってよね。」
「蓮、なんでそんな言い方するの?変なことって何?それに、撮影あるから夕飯作らないなんて、私言ってないでしょう?」
お互い箸を止めて、沈黙になった。さっきまでさほど気にしていなかったテレビの音がやけに騒々しく聞こえるようになった。
「奈緒、どうせメイクしないんだから、新作コスメでメイクされたって意味ないよ。俺は奈緒の手料理が食べたいの。もし奈緒が、『帰り遅くなるから、夕飯は買って食べよう』なんて急に言ってきたら嫌だから、そうならないように釘刺しただけだよ。あ、もちろんメイクは…」
「私…メイクしないんじゃない!蓮が嫌だって言うから我慢してるだけだよ!」
あまりの蓮の言葉に流石にカチンときて、きつい声を出してしまった。こんな私、絶対×だってわかっているのに、私の中のなけなしの自尊心が久しぶりに機能したみたいだった。そんな私を見て、蓮は呆れたようにため息をついた。
「奈緒はやっぱり自分の顔を変えたいの?俺が好きっていうだけじゃダメなの?俺がメイクは嫌だって言ってるのに、奈緒は俺の嫌なことしたいの?」
「そうじゃないよ!蓮がすっぴんが好きだって言ってくれて嬉しいけど、私はメイクが好きだから…おしゃれしたいって思っちゃダメなの?なんですっぴんは良くてメイクした顔はダメなの?どっちも私なのに、なんで片方しか認めてくれないの?」
「奈緒、落ち着いてよ。感情的にならないで。奈緒がおしゃれしたって思っても、俺が変だと思ったら、それはおしゃれじゃないでしょ?いつも奈緒の顔を見ている俺がそう言うんだから、他の人もそう思ってるよ。」
正直、自分の審美眼が万人共通だなんて、なんてエゴイストなんだろうと思った。私は、蓮の指示で蓮好みを極めていきたいんじゃなくて、私の好きなことがしたいのに。これは変えられること?変えられないこと?やっぱり、それを見分ける賢さが私にはない。いや、仮に見分けられたとしても、変える勇気も受け入れる度胸も私にはない。これ以上吠えたって、自分の無力さを知って惨めになるだけだ。
「そうなのかな…。」
「そうだよ。奈緒の趣味を取り上げるつもりはないから、それは奈緒が自分で楽しめば良いと思うけど、俺はその話をされても良い反応はできないし、それで俺が何か我慢するのは嫌だって話。」
「うん、夕飯はちゃんと作るから…。」
本当は全然納得していなかった。蓮は声を荒げずに冷静に主張を伝えれば、相手に何を言っても良いと思っている節がある。私自身も私の好きなコスメやメイクも傷つける言葉を言われて、悲しかった。でも無力な私は一矢報いることもできず、ただ肩を落とすしかなかった。蓮にはその姿が、ようやく矛を下げたように見えたらしい。
「ほら奈緒、仲直りしよう。」
そう言って両腕を広げられたら、収まりに行くしかない。蓮の好きな私でいるために。いつだってそう。浮かれていると、いつも足元を掬われてしまう。蓮の腕の中で、文字通り、色々なことに目を瞑った。
久住萌との撮影の日は穏やかに晴れて、季節外れの暖かさだった。私は、いつものように電車に乗って、指定されたスタジオの指定されたフロアへ向かった。憧れの人に会えるのは嬉しい。でも、蓮とあんな言い合いをしなければ、もっと素直に今日を迎えられたのに。払拭しきれない思いを抱えながら、ドアの前に立って深く息を吐いた。
―私がここに来る前にどんなことを言われたって、撮影には関係ない。だから、今は嫌なことを忘れてこの時間を楽しもう。
そう思っているとドアが開いて、中から桐谷くんが顔を出した。
「あれ?倉田さん!なんか足音が聞こえて、急に止まったと思ったら。こんなところで立ち止まってどうしたんですか?入らないんですか?」
「あ、入る!今日、久住さんに会えると思ったら緊張しちゃって…。」
「ああ、それに今日、読モさんは倉田さんだけですしね。そんなの、緊張しますよね。」
桐谷くんはそう言って笑って、中に招き入れてくれた。
「どうぞ座ってください。今コーヒー淹れますね。あ、今日紅茶もありますけど、どうしますか?」
「えっと、じゃあ、紅茶お願いします。」
「砂糖とミルクは?」
「お願いします…。」
手際良く紅茶を淹れてくれる桐谷くんの背中を見ながら、この前ミルクティーをもらったことを思い出した。
「はい、お待たせしました。倉田さん、あのミルクティー好きだって言ってたから、甘目にしておきました。コーヒーもそうですけど、倉田さんって本当に甘党ですよね。」
「うん、ありがとう。甘いの好き。試験前に勉強してるときとか、チョコが手放せなくって。」
紅茶の入った紙カップを受け取って、一口飲むと、甘い香りが広がった。
「あ…美味しい…。」
「なら良かった。えっと、今、高橋さんと久住さん、ちょっと買い出しに行くって出て行っちゃって、すぐ戻ってくると思うんですけど…。お待たせしてすみません。」
「ううん、大丈夫。私も早めに来ちゃったから。」
「因みにカメラマンは渋滞に巻き込まれたらしくて、あと三十分くらいかかるそうです。スタイリストさんも前の撮影が押してそのくらい遅れるって。じゃあ、今僕にできることは終わったし、僕もちょっと座わせてもらいますね。」
「あ、もちろん!座って座って!」
普段忙しそうに何人もの読モの段取りを調整したり、色々なスタッフさんの指示を受けている桐谷くんが私の目の前に腰を下ろして、のんびり紅茶を飲んでいるのが新鮮で、穏やかでなんだか心地良い時間だと思った。コンプレックスを刺激する相手なのに。
「そう言えば、桐谷くんは、久住さんに会ったことあるの?」
「ああ、まぁ、ありますよ。」
「やっぱり、すごく綺麗だよね?」
「ああ、綺麗な人ですよ。」
「どんな人?雑誌のイメージ通り?」
「どんな…?そうですね…。」
「あー、奈緒ちゃん!やっぱり来ちゃってた!ごめんね、待たせちゃって。」
ドアが開いて、ビニール袋とラテのカップを持った高橋さんが元気よくスタジオに入ってきた。続いて、高橋さんの後ろから透き通った綺麗な声が聞こえた。
「今日のモデルさん?」
そう言って顔を出した女の人は、雪のように肌が白くて、すらりとした体形の、驚くような美人だった。久住萌だって理解はしているけど、なんだか眩くて言葉が出てこなかった。これがオーラなのかと思った。
「奈緒ちゃん、久住さんが綺麗過ぎて固まっちゃった?わかる!私も初めてお会いしたときそうなったもん!」
「高橋ちゃん、もう止めてよ。初めまして、久住萌です。」
「あ、倉田奈緒です!今日は宜しくお願いします。」
「こちらこそ。」
にっこりと微笑まれて、つられて頬が緩んだけど、照れと恐縮が混ざった変な笑顔になって、恥ずかしいと思った。
高橋さんと久住萌も椅子に座って、机の上に広げられた私の写真と実際の私の顔を見比べながら、打ち合わせが始まった。
「倉田さんのメイクは、いつもこんな感じ?」
「えっと、そうですね。他のメイクを試す勇気がなくて…。」
小さく嘘をついた。いつもはメイクなんかしていない。currentの撮影の前に慌ててするだけだ。それに、あまりメイクをする機会がないのに、バリエーション豊富にコスメを持てる程、下宿中の大学生の懐は豊かじゃない。だから必然的にメイク方法は決まってしまう。少し侘しいような、もしくは、こんなんでよく読モなんてやっているな、と自嘲するような気持ちが浮かんだけど、隣に座った久住萌の綺麗な顔に見つめられて、おまけに良い匂いもして、ぼうっとしてしまいそうになった。
「大学生でコスメ雑誌の読者モデルさんやっているって珍しいよね。ほとんどお勤めの方とか主婦をされている方だから。コスメ好きなの?」
「あ、はい!高校生のとき、私、肌がニキビだらけで、そういう時期だから仕方ないって諦めてたんですけど、同じクラスにすごい肌の綺麗な子がいたんです。あんまり話したことない子だったんですけど、たまたま実験でその子とペアになったときに『どうして、そんなに肌が綺麗なの?』って聞いたら『基本は洗顔と化粧水だ』って教えてくれて。それで、その通りにお手入れしていったら、どんどん肌が綺麗になって、すごく嬉しかったんです。それ以来、コスメってすごいなって。」
「うん、うん!そうだよね。私もコスメってすごいと思う。綺麗になろうとする女の子のこと全力で応援してくれてるって感じ。」
「すみません!遅くなりました!」
大きな鞄を持った男の人とキャリーを引いた女の人が、慌ててスタジオに入ってきた。
「あ、カメラマンさん来たね。スタイリストさんも。オッケー。イメージ固まったから、早速beforeの写真撮ってもらおうか。その間に衣装を決めておきたいんだけど…。白が良いなぁ。スタイリストさん、白いふわっとした服持ってきてるかな。」
久住萌は、私から離れてスタイリストさんの方へ駆け寄っていった。急に意識がはっきりしてきて、久住萌を前にして、如何に浮足立っていたかがわかった。
久住萌とメイクルームに入ると、鏡の前には既にたくさんのコスメが広げられていた。何人かでいてもドキドキしたけど、二人きりになると、より鼓動が早くなった。
「じゃあ、始めるね。先に、衣装に着替えちゃおうか。はい、これ。」
手渡された衣装は、シフォン素材の白いブラウスだった。袖を通すと、柔らかくてふわっとした袖や裾が女の子らしくて、こんな服、初めてだと思った。
「あ、いいね。イメージ通り。後は任せて。絶対綺麗にするから。ピンク似合うと思うんだよね。じゃあ、髪留めさせてね。」
そう言って、久住萌は手を動かし始めた。ブラシや細い指が顔に触れる度にドキドキして、時折、じっと顔を覗き込まれると、逸らさずにいるのが大変だった。
「肌綺麗だね。本当にニキビで悩んでいたの?」
「はい、結構ひどくて、もう顔中に。ここまで良くなったのは、お手入れ方法を教えてくれた友達とコスメのおかげです。」
「そうだね。それにしても、まだ二十歳でしょう?若いなー。もう将来やりたいこととか決まっているの?」
「いえ、実はまだはっきりとは…。就活始まるまでには何か決めないとって思っているんですけど。」
「そっか。じゃあ、ゆっくり考えて、今は大学生活を満喫すると良いよ。」
「あの、久住さんは…久住さんは、いつから美容の世界で生きていこうと思ったんですか?美容家として名乗って活動していくことは、怖くなかったんですか?」
「怖い…?なんでそう思うの?」
意外な切り返しだと思った。私は、怖いと思うのが普通の感覚だと思っていたから。
「えっと…それは、所謂会社に属さないで自分の力だけで身を立てるって私は怖いことだと思うんです。リスキーだし、自分で自分が何者かを名乗るって勇気がいるっていうか。それなのに、自分で堂々と美容家ですって言って、ちゃんと皆から支持されている久住さんって、どうやったらそうなれるんだろうって、考えてもわからなくて。」
「シッ…」
久住萌は、スッと人差し指を立てていたずらっぽく笑って、ピンクベージュのリップを取った筆でそっと私の唇をなぞった。
「はい、口軽く開けて…そう。はい、メイクは終わり。じゃあ、髪やっちゃおうか。」
初対面なのに、突っ込んだことを聞き過ぎたかと反省して視線を下に落としていると、久住萌は私の髪を巻きながら優しく続けた。
「属さないことが怖いかぁ。そうだよね、だから多くの人が大きくて有名な企業に就職したいって思ったり、資格を取って社会の中で役割がはっきりした職業を目指そうとしたりするんだよね。それは一つの考え方として有りだと思う。でも、そうだなぁ、私は自分を他の名前に極力置き換えたくなかったんだと思う。」
「え…?えっと、どういうことですか?」
「ああ、ごめんね。わかりづらいよね。私も昔からコスメが好きで、だから、もっとコスメを知って、コスメを通して幸せを伝えていきたいって思ったのね。それを自分で思った通りに自由にやりたいなって思ったときに、自然に『美容家・久住萌』を名乗ってたって感じかな。会社名や職業名であんまり呼ばれたくないなって思って。でも本当はね、美容家って名乗るのも違和感があるの。今は、初対面の人に私のやらんとしていることが一番伝わりやすいかと思って枕詞として付けているけど。だから、もっと私だけにしかできないことをちゃんと表現して、いつかは美容家という肩書すら取って、久住萌として美容のお仕事をしていきたいって思ってる。」
それは今まで私の中にない発想だった。私はこれまで将来何を生業としていくかを考えるとき、まるでカタログから服を選ぶように、世の中に数多ある仕事の中から、自分のやっていけそうなものを選ぼうとしていた。なるべく興味を持ってやっていけそうで、周りの人に見られても恥ずかしくなくて、しっかりお給料がもらえて、将来的にも安定していて…。なんとかその条件を満たす仕事の中から、総合的に一番幸せになれそうな最善の一個を探し出すことしか考えていなかったから、自分を自由に表現することだなんて頭にかすめたこともなかった。
「久住さん、私が雑誌を読んで想像してたよりもずっとすごいです。そんな自由になんて、私考えたこともなくて…。私には、自由にやっていける才能も能力もないからかもしれないですけど。」
「『才能』って便利な言葉だと思う。自分らしさを諦めるときに『才能が無かった』って言えば最もらしく聞こえるし、納得しやすいよね。倉田さんは、周りの人に認められたり、喜ばれたりすることに偏って考える癖ができちゃっているのかもね。他の人が心地よく思うだろうなってことを想像して、それになりきろうとしちゃうのね。」
「それはそうかもしれません。でも周りの人が喜んでくれれば、次もそのまた次も必要としてくれるって思うから、そうしてもらえた方が嬉しいから、つい…。」
「そうだね。必要とされたら嬉しいよね。でも、ありのままの倉田さんの方が必要とされると思う。そっちの方が魅力的だと思うし。」
「そんなこと…。」
「う~ん、例えばお友達とお喋りしていて、お友達を笑わせようとして渾身の台詞を言ったのに全然ウケなくて、何気なく言った自然体の言葉がすごくウケたことってなかった?」
「あっ!あります!」
「うん。多分、自分の中から自然に出てきた言葉を発したときの方が、倉田さん自身も心地よかったんじゃないかな?もちろん、周りの人のことをあれこれ考えて作り上げた倉田さんも、自然体の倉田さんもどっちも大事な倉田さんの一要素なんだよ。でも、これまでの倉田さんだって自然体の自由な表現のままで周りに受け入れられてきたって、ちょっとは実感できた?つまり無理しなくていいの。才能が無ければ、自由では受け入れられないなんて、倉田さんが勝手に思い込んでいるだけなんだよ。はい、どうかな?」
鏡を見ると、見たことのない私がいた。私のコンプレックスを変えようとするんじゃなくて、私がそのままの私であることを心から喜べるような、そんなメイクだと思った。
「あの、久住さん、ありがとうございます。なんか、今のお話がメイクに出てるって感じです。」
「うん、伝わって嬉しい。」
「あと、メイクだけじゃなくて、色々ありがとうございます。でも…周りを気にせず自由で良いだなんて、すぐには怖くてできない…。」
「うん。そういうものだよ。考え方を変えるって、知らない国に体一つで放り込まれるくらい怖いことだと思う。だから、少しずつ取り入れて、少しずつ実感していけば大丈夫。でもね、今、良い顔しているから、どう思ったって今日は良い写真撮れると思う。じゃあ、最後にネイル塗るね。」
久住萌は私の手を取って、キャンディのような透けるピンク色のマニキュアを塗った。私は、ほんのり染まっていく指先を尊いもののように見つめた。
「モデルさん、お待たせしましたー!お願いしまーす!」
久住萌と一緒にメイクルームを出ると、スタジオ内の皆の私を見る目が変わったのを感じた。
「奈緒ちゃん、すっごくかわいい!久住さん、今回も素敵です!」
「ああ、いいですね!beforeと大分雰囲気変わりましたね。なんかいい感じに力が抜けたって言うか。」
近くに来てくれた高橋さんとカメラマンさんの向こうで、桐谷くんが優しく微笑んでいるのが見えて、思わず合った視線をそっと外した。
「じゃあ、早速after撮りましょうか。高橋さん、今日、座りで撮るんですよね?」
「うん、座りでお願いします。満開の笑顔っていうよりは、ちょっとアンニュイな感じで撮ってもらえますか?」
「了解。ええっと、じゃあ、この位置に座ってもらえますか?」
指定された位置にペタッと座ってカメラを見据えた。そのまま、カメラマンさんの指示で表情やポーズを変えていく。
「首もうちょっと傾けて。はい、いいですよ。左手顔に添えてみて。もう少しだけ口角上げられますか?そう。次ふわっと力抜いた表情で…」
言われたことに対応するのに精一杯で、ポーズや表情を変化させながら、プロのモデルとの差を痛いほど感じる。これまでは楽しそうな笑顔を求められることばかりだったけど、今日は、いつもより大きく取り上げてもらえるカットのためか、指示が複雑で難しい。自分がちゃんと要求を満たすことができているか不安のまま、次次とシャッターが切られていった。久住萌と高橋さんが、撮られた写真が転送されるモニターを見ながら何を話しているかも気になった。そのとき、不意に久住萌がモニターの前から離れて、カメラマンさんに何かを耳打ちをした。二人で何度か頷き合った後、久住萌は、茶目っ気のある視線をこちらに向けた。そして、そのまま、ひらりとスカートの裾を翻して、モニターの前に戻ると同時に、カメラマンさんが口を開いた。
「倉田さん、ここからは自分の思うように動いてくれますか?」
「え…?」
ゴクッと唾を飲み込んで、両手をギュッと握りしめた。
―今までそんなことを言われたことない。自由にだなんて、動けない。どう動いて良いのかわからない。
「できない」と言いかけたときに浮かんだのは、さっきの久住萌の表情。もう一度両手を握りなおして、カメラを見つめた。
―もし、自然体で自由な私が魅力的だとしたら、私の思う視線、表情、手の動き、体の傾け方…指示についていくよりも、そっちの方が良いってことだと思う。怖いけど、さっきの久住萌の言葉を信じて乗っかってみよう。
ドキドキしながらも動き出すと、すぐに再びシャッターが切られ始めた。
「わぁっ、表情が…。久住さん、こんなに変わるんですね。」
「うん、自分で動いてもらった方がずっと良いね。プロのモデルさんみたい。」
高橋さんと久住萌からそんな声が漏れてきた。自分で動くことを決めてからは、シャッターの音が怖くなくなった。
「はい、オッケーです!お疲れ様でした!」
どれだけの時間が経ったかわからないくらい夢中になっている中、カメラマンさんにそう言われ、息を一筋吐いた。手が軽く汗ばんでいた。カメラマンさんにお礼を言い、立ち上がって、モニターの方に移動した。私も早く撮ってもらった写真を見たくて仕方がなかった。高橋さんと久住萌の後ろからモニターを覗き込んで目を疑った。こんなに嬉しそうで楽しそうで安心しきっている私を私は知らない。まだ、自分も他人も区別がつかない、生まれたことを純粋に喜んでいる赤ちゃんみたいだと思った。
「じゃあ、奈緒ちゃんは衣装を着替えてもらって、久住さんはインタビューを始めさせてもらって良いですか?」
高橋さんにそう促され、メイクルームに一人で戻ると、言葉にならない嬉しい気持ちでいっぱいになって、思わず自分で自分を抱きしめた。そんな自分が鏡に映っていることに気が付いて恥ずかしくなったけど、嫌な気持ちではなかった。
着替えてメイクルームを出ると、久住萌と高橋さんはケータリングを囲みながら、今回使ったコスメやなどについて話していた。屈託のない笑顔で楽しそうに話す久住萌の横顔は、やっぱり眩しかった。
「あ、奈緒ちゃん着替え終わった?こっち来てケータリング食べない?」
高橋さんに声をかけてもらって嬉しかったけど、胸がいっぱいで、ケータリングなんてとても喉を通りそうになかった。それでも、お言葉に甘えて久住萌の隣の椅子に座らせてもらうことにした。机の上にはおいしそうなサンドウィッチと、今日使ったコスメが一式並べられていた。
「久住さん、今回のメイクのポイントは何ですか?」
「保湿と下地かな。基本的に肌は綺麗でトラブルも無いんだけど、皮膚が薄くて乾燥しやすそうだったから、保湿はこのザクロの香りの化粧水をコットンでたっぷりつけて、同じシリーズの美容液とジェルで仕上げて、下地はこっちのピンクのにしたの。この下地、色補正もできるし、瑞々しくて本当おすすめ。」
「この下地、他にも色々なカラーがありますけど、なんでその中でもピンクを選んだんですか?」
「ああ、それは、倉田さんってぱっと見、キリっとしていてしっかり者みたいに見えるんだけど、本当はすごく柔らかそうだなと思ったからそういう雰囲気出したいなって。あとのメイクは元々持っている良さを少しずつ強調することを心掛けたかな。なるべくナチュラルにね。倉田さんの元のメイクって丁寧で、美容が好きなんだなっていうのが伝わる反面、『自分のこことここを変えたいんです!』って力入ってる感じだったから、なんか折角良いもの持っているのに、もったいないなぁって思ったんだよね。」
初対面の私にそんなことを感じて、そんな思いでメイクをしてくれたんだと、改めて具体的に出してもらった言葉を噛み締めた。綺麗な声で紡がれる久住萌の言葉は、一つ一つが優しくて、いつまでも聞いていたいと思った。そこへ、スタジオ内で忙しそうにしていた桐谷くんが割って入ってきた。
「高橋さん、片付け終わりました。」
「ありがとう。桐谷くんもお疲れ様。あ、あれ?プロダクションから電話かかってきちゃった!すみません、ちょっと外します!桐谷くん今日はもう上がって良いから。奈緒ちゃんもお疲れ様。久住さんはちょっと別件でご相談があるので残ってもらっても良いですか?」
高橋さんはそう言い残して、震えるスマホを片手にバタバタと出て行った。名残惜しいけど、撮影が終わった以上、私は他にやることが無い。最後にきちんと挨拶をしようと思って、改めて久住萌と向き合った。
「久住さん、今日はありがとうございました。お会いできて、すごく良かったです。お話しもいっぱいしていただいて…。じゃあ私は、これで失礼させてもらいますね。」
「うん、こちらこそ、来てくれてありがとう。気を付けて帰ってね。」
久住萌に手を振られて、私もためらいがちながら、軽く手を挙げた。
「久住さん、申し訳ないのですが、今日は僕もお先に失礼します。高橋はすぐに戻ってくると思うので。」
「うん、大丈夫。朔くんも気を付けて。またね。」
「倉田さん、この後時間ありませんか?どこかにお茶でも飲みに行きませんか?」
スタジオを出て、長い廊下を桐谷くんと並んで歩いた。なかなか「化粧室に寄る」と言い出せないでいると、先に桐谷くんから提案があった。思いもよらぬ申し出だった。
「えっと、誘ってもらえて嬉しいけど、男の子と二人でいると、彼氏に悪いから…。桐谷くんにそんな気ないってわかっているんだけど…ごめんなさい。」
「彼氏さん、そういうの気にする人ですか?僕はそんなに気にしないっていうか、それよりも倉田さんはもう少し今のままでいたいんじゃないかと思って。だから僕とお茶でもして、少しでも長く今のままでいて、その後メイクは落とせば良いんじゃないかって思ったんですよ。だって、そのメイク気に入ってるでしょ?そのまま街に出たくないですか?」
そんなの、答えは一択だった。どうしてこの人は、自然体でこういうことができるんだろう。
「それは…出たいです…!」
「じゃあ、行きましょう!まだ四時ですよ。ちょっとくらい寄り道しても大丈夫ですよ!」
桐谷くんの気遣いが、満面の笑みが嬉しくて、背中に羽が生えたような軽い足取りでスタジオを後にした。
桐谷くんが連れて行ってくれたのは、坂の途中にある、打ちっぱなしのコンクリートでできたカフェだった。私たちは窓際のカウンターの席に案内された。
「すみません、結構歩かせちゃいましたね。でもここ、編集部の人がフレンチトーストが美味しいって言ってて、いつか来てみたいと思っていたんですよ。」
「へぇ、さすが東京だね。すごいお洒落なお店。」
普段生活している範囲にはないお洒落な空間に若干気後れした。店内は華やかな女の子のグループが多く、綺麗に盛り付けられたフレンチトーストの写真を取ったり、何人かで取り分けて食べたりと、楽しそうな笑い声で溢れていた。キョロキョロと店内を見まわしていると桐谷くんがメニューを見せてくれた。
「どれにします?マスカルポーネと蜂蜜のが人気らしいんですけど、何か他に気になるものありますか?」
そう言われて見せてもらったメニューには、美味しそうな写真がたくさん載っていて、思わずうっとりとしてしまった。
「う~ん、迷うなぁ…。でもやっぱりマスカルポーネのやつかな。でも夕飯前に全部食べて平気かな。」
「半分こしましょうよ。ここ結構、量あるんで。」
「あ、うん。そうだね…。あのさ、桐谷くんも結構甘党だよね。」
「僕は蜂蜜に目がないんです。だから、倉田さんがこれを選んでくれて良かった。じゃあ、注文しましょうか。あ、すみません、注文良いですか?」
桐谷くんに呼び止められた、私と同い年くらいの女の子の店員さんが、注文を受けながら少しはにかんでいるのを感じた。私たちが席についてからずっと、桐谷くん側の、隣の席の二人組の女の子は、桐谷くんをチラチラと見ながら何か話している。
「桐谷くんはすごいね。このお店の中の女の子が何人も桐谷くんのこと、意識してる。撮影のときだっていつもそう。自然と人が桐谷くんに寄っていくよね。女の人だけじゃなくて、男の人も。」
「そうですか?そう言ってもらえるのは嬉しいんですけど、倉田さんもその要素は持っていると思いますよ。」
「そんなことないよ。だって私、知っている人が一人もいない環境にポンって放り込まれたら、自分から周りに話しかけないと、誰も話しかけてくれないもん。」
それは入学式やクラス替えのときにいつも感じていたことだった。その度に、誰も惹きつけることのできない、自分の魅力のなさを痛感してきた。
「前から思っていたんだけど、桐谷くん、私のことちょっと買い被り過ぎだって。」
「買い被り過ぎですか?僕から言わせれば、倉田さんはそのままの自分を受け入れなさ過ぎですよ。義姉も同じようなこと言っていましたけど。」
「え…義姉?義姉って…?」
「久住萌ですよ。久住萌は、僕の兄の奥さんです。」
言葉の意味はわかっても、あまりに唐突で理解が追い付かなかった。さっきまで一緒にいた久住萌の顔が頭の中を埋め尽くした。
「え、本当?あ、待って、ちょっとお水飲む…。」
冷たい水を一口流し込んでも、心は落ち着かず、頭を抱えた。それでも久住萌のプロフィールを思い出していると、桐谷くんに縁がありそうな名前が浮かんできた。
「そうか…!そう言えば確か久住萌の旦那さんって、フォトグラファーの桐谷藍…。」
「はい、桐谷藍は僕の兄です。十一離れているんで、兄というより保護者に近いですけど。」
「桐谷藍って、よく芸能人の写真集撮っていたり、世界中のすごい景色の写真集を出していたりするよね?」
「ああ、まぁそういう仕事もしているみたいですね。」
次から次へと繰り広げられる展開に、目が回りそうだった。田舎でしか暮らしたことのない私には、作り話のように現実感のない話だった。一旦オーバーヒートした頭の中を再起動しようと奮闘していると、熱々のスキレットに乗せられたフレンチトーストと、ポットに入った紅茶が二つ運ばれてきた。桐谷くんが取り皿にフレンチトーストを取り分けてくれた。私は紅茶をカップに注いで、その上からミルクを落として、一口飲み込んだ。
「びっくりした。お兄さんもお義姉さんもそんな著名な方なんて。そうだよね、どこかにはそういう人もいるんだよね。でもすごいね、お兄さんは実力や才能を世間に認められているし、桐谷くん自身もこんなに魅力的だなんて、きっと二人ともご両親自慢の息子なんだろうね。」
桐谷くんに感じていた自分との違いが、そもそも生まれの格の違いだとわかってホッとした。でもその反面、
―やっぱり元から恵まれている人には、秀でたもののない庶民の気持ちなんてわからないよ。
と反発めいた気持ちも生まれた。そんな自分を卑しく思う。
「父や母が僕を自慢の息子だと思っているかはわかりません。」
「そんなことないよ。桐谷くん、こんなに素敵なのに。」
桐谷くんは一口フレンチトーストを頬張ると、空中をちょっと見つめてから、私の目を見て、淡々とした口調で言った。
「父は僕が小学生のころ事故で亡くなりました。母はそれが原因で鬱病になってしまって、今施設にいるんです。僕は今、兄夫婦と住んでいて。」
背筋が凍った。さっきまでしていた話から打って変わる、想像もできないくらい悲しい話。数秒前の自分が恥ずかしかった。桐谷くんのことをよく知りもしないうちに、パッと入ってきた情報で判断して、勝手に妬んで嫉んで。
「そ、そうなんだ…。ごめんなさい、無神経なこと言って。」
それでも桐谷くんは顔色も声色も変えず、ただただ優しいトーンで続けた。
「無神経?倉田さんはこのことを知らなかったんだから、仕方ないじゃないですか。」
「でも、傷つけるようなこと言ったから…。」
「僕は別に傷つかなかったですよ。だから良いんです。寧ろ聞かせることで負担をかけてすみません。えっと、それでもなんでこの話を打ち明けたかっていうと…僕もだからなんです。」
「え…?」
「僕も自分をまるっと受け入れられるようになったのは、つい最近のことです。それまでは、常に他人に…まぁ大部分は母に認めてもらえるようになるために、自分磨きに必死でした。テストで良い成績を取ったり、部活でレギュラーの座を獲得したり、色々頑張っていたんですけど、でも、どれだけの結果を出しても満たされるのは一瞬だったし、僕のしたことで母が笑ってくれたことは一度も無かった。常に自分には、何かが欠けているような気がして、それを埋めなきゃ認めてもらえないって躍起になって、ずっと苦しかった。あの日、倉田さんが彼氏さんのためにメイクを落としていることを知って、なんだか認められるために一生懸命だったころの自分みたいだなって思って。それからずっと気になっていたんです。」
頬が紅潮するのを感じた。それを店内のオレンジ色の照明が、上手く隠してくれることを願った。桐谷くんは、いつもの軽やかなトーンに少し熱っぽさを加えて続けた。
「僕が倉田さんにかける言葉のほとんどは、僕に兄夫婦がかけてくれた言葉です。僕は、そのおかげですごく楽になれたから。だからって倉田さんに無理強いしたいって訳でもないんですけど、でもやっぱり放っておけなくて。誰かのためにじゃなくて、自分の好きなこととかやりたいことをもっと選んでほしいって思ったんです。」
フォークとナイフをテーブルの上に置いた。ほとんど食べ進められていないフレンチトーストは、マスカルポーネが溶けかけてドロドロになっていた。カップに付いたリップが目についた。
「桐谷くん…そんな風に気にかけてくれて、ありがとう。でも私なんて、桐谷くんに比べたらお気楽なものだよ。確かに、これまで私も常に自分のダメなところをを探して、その穴を埋めようとすることばかりしてた。次の穴を埋めれば、もっと認めてもらえるんじゃないかって。…うん、そうやって終わりの見えないことをずっとやってきたからかな。私、家族もいて、彼氏も友達もいて、読者モデルなんてやらせてもらえて、多分すごく恵まれていると思うけど、なんでだかずっと孤独が付きまとってた。」
孤独と発した瞬間、涙が出るかと思って、慌てて言葉を継ぎ足した。
「あ、違うの。家族も彼氏も友達も好きなの。大切なの。ごめん、意味わからないよね。私が勝手にこじらせてるだけで、きっと本当は大したことじゃないの。」
「悩んでいることに大きいも小さいもないですよ。何を以って深刻かなんて、人によって基準も感覚も違うし、深刻な事態を抱えているから偉いってことでもないですし。僕が言いたいのは、倉田さん、ちゃんとそのままで素敵な女の子なんで、早くその事実に気が付いて、理想の自分になるために頑張るだなんて、すぐに諦めた方が良いですよってことです。」
「でも、私、少しでも頑張らないと、誰も認めてなんか…。今まで、ずっとダメだったから。桐谷くんにそう言ってもらえて嬉しいし、久住さんにも同じこと言ってもらったけど、信じるには根拠が足りなくて…。」
「根拠、根拠か…。うん、信じられなくても良いです。でも、自分を責め続ける人生って長いし辛いと思うんですよ。だから、もし信じたくなったら、信じられるまで何度でも今の話をするんで、いつでも連絡ください。」
「うん、ありがとう。今はまだ信じきれないけど、言ってくれたことは、すごく嬉しかった。でも、このまま間に受けちゃうと、浮かれちゃいそうで…。」
「なんで?なんで浮かれちゃいけないんですか?そういう思い込み、一つずつ外していくと、楽になれると思いますよ。」
その時、テーブルの上に出していたスマホが震えた。表示された蓮の名前を見て、現実に引き戻された。桐谷くんも、私の顔色が変わったことに気が付いたようだった。
「そろそろ出ましょうか。倉田さん、もしここでメイク落として行くなら、先に僕は出ますけど。」
「ううん、今日はいい。このまま帰る。このまま帰ってみようと思う。」
一瞬迷った。迷ったけど、ここで「蓮に嫌な顔をされるから」と言ってメイクを落としてしまうことは、今日、久住萌や桐谷くんにもらった嬉しい言葉を全部否定してしまうことになるような気がした。正直、蓮のことを思うと気が重い。多分、ひと悶着起きてしまう。でも何より、これまでのやり方が自分の心を傷つけるものだとしたら、変えたいって思った。前を歩く桐谷くんの背中に向かって、心の中で何度も「ありがとう」と繰り返した。
外に出ると、陽はすっかり落ちて、更に小雨が降っていた。桐谷くんは「義姉に今朝持たされたんです。あの人、お天気チェック厳しくて。」と言って、黒い折り畳み傘を開いた。一つ傘の下で、駅までの道を並んで歩いた。時折、肩と腕がぶつかるような、いつもよりもずっと近い距離で交わす会話が恥ずかしくて、それでも居心地の良さを感じずにはいられなかった。。
「僕の家、駅から濡れずに帰れるんで、傘使ってください。」
駅のホームで、桐谷くんは畳んだ傘を差し出してくれた。
「えっと、私は助かるけど、本当に借りちゃって良いの?桐谷くん、本当に濡れないで帰れる?」
「大丈夫ですよ。駅からうちのマンションまで、アーケードが続いているんです。倉田さんは?」
「うちは…駅から自転車で十五分くらいかな…。」
「なら、使ってください。折角傘あるのに、倉田さんが雨に濡れながら帰るだなんて、そんなの嫌ですよ。何なら返さなくても良いので。はい。」
差し出された傘を受け取ろうとすると、桐谷くんのコートの袖口がやけに濡れていることに気が付いた。よく見ると、右肩から腕にかけても、かなり雨で濡れていた。
「じゃあ、借りるね。ありがとう。ちゃんと返すから。あの、これ、代わりと言ってはなんだけど。」
そう言って、コートのポケットからハンカチを取り出した。
「拭くのに使って。右側、大分濡れちゃってる。私の方に傘寄せてくれてたからだよね。ありがとう。風邪、引かないでね。」
「ああ、良いんですよ。でも、これは遠慮なく借りますね。」
お互いに差し出した傘とハンカチを交換すると、自然に笑みがこぼれた。
「桐谷くん、私ね、今日着せてもらったみたいな、女の子らしい服大好きなの。でも、彼氏がそういう服、媚びてるみたいでバカっぽいって言って、好きじゃなくて。そもそもお母さんもそういう服好きじゃなくて、昔からどっちかっていうとシンプルな格好をしていたの。だから、私には縁のないものだって思ってたから、SNSとか雑誌でもそういう服が自然と目に入らなくなってきて、好きなことすっかり忘れてた。でも今日、久住さんと桐谷くんと話して、少しずつ、自分の好きなものちゃんと思い出していきたいって思ったよ。」
「似合ってましたよ、服。うん、似合ってた。そうだな…もし、倉田さんが好きなものや好きなことを選ぶようになって、誰かがそれを咎めたとしたら、倉田さんが心のどこかでまだ自分を出すことを躊躇していて、無意識に咎められることを望んでいるからですよ。そういうものです。だから誰に何を言われても、自分の深層心理の答え合わせくらいに思っていれば良いんです。」
「そういうものなの?」
「そういうものです。って、これも兄夫婦の受け売りです。でも僕も、本気でそう思っています。」
アナウンスが流れて、私の乗る電車がホームに入ってきた。風が舞って、髪の毛とスカートの裾が揺れた。
「じゃあ、ハンカチ、ありがとう。気を付けて。」
電車の中に入って、ドア越しに桐谷くんに手を振った後、何度も胸の前で傘を握りしめた。今日の出来事が、一つでも多く長く心に残るように。不意に顔を上げると、本の広告が目に入ってきた。
「自分を輝かせるA to Z」 著者:久住萌
広告には文字通り、輝く笑顔の久住萌が写っていた。
玄関の前に立って何度も鍵を差し込もうとして、もう優に十分は経った。ドアの奥にいるであろう蓮の反応を考えると、どうしても躊躇してしまう。桐谷くんや久住萌の言葉を何度反芻して気持ちを固めても、それさえ蓮に論破されてしまったら、と思うと強気になれない自分が居た。ため息をついて下を見ると、買い物袋が目に入って、ひき肉を買ったことを思い出した。咄嗟に「早く冷蔵庫に入れないと!」と思って鍵を回すことにした。「ありのままの自分でいられる生き方とは」だなんて壮大なことを考えていたくせに、目の前のちょっとした現実に行動を後押しされる自分を滑稽だと思った。
「ただいま。」と言って中に入ると明かりは消えていて、蓮はいないようだった。手探りで電気のスイッチを押すと、キッチンの作業台の上に置かれた花束が目に入った。黄色を基調としたかわいらしい花束は、そこにあるだけで、場の空気を華やかなものにしていた。一人暮らしを始めてから、花なんてほとんど見ていなかったことに気づかされる。
「綺麗…。」
手に持って鼻を近づけると、甘くて優しい匂いがして、思わず胸いっぱいに吸い込んだ。一瞬で広がる多幸感に身を任せていると、後ろからドアの空く音がして、それと共に冷たい空気が流れ込んできた。
「あれ、奈緒、帰ってたんだ。俺、一旦学校から帰ってきたんだけど、教室に水筒置いてきちゃったのに気が付いて、今取りに行っていたんだ。」
「あ、私も今帰ってきたところ。このお花かわいいね。どうしたの?」
どぎまぎしながら蓮の方に顔を向けると、案の定、蓮は目が合うなり、露骨に嫌な顔をした。その顔一つで、早速怯む私がいる。
「母さんが明日誕生日なこと思い出して、プレゼント何が良いかって聞いたら花が欲しいって言うから買ったんだ。明日、土曜日だし、朝出れば夕方には戻って来れるから、車で届けに行こうと思って。」
「そっか。お母さん、きっと喜ぶね。本当、こんなかわいいお花もらったら…。」
蓮は私の前に立つと、私の手からそっと花束を取り上げた。
「ねぇ、奈緒。なんで化粧したまま帰ってきたの?メイクは落としてから帰ってくるって約束だよね?」
「あのね、今日のメイクは特別なの!久住さんが私のコンプレックスを変えるんじゃなくて、私の元々の顔を活かしてくれるメイクをしてくれてね、蓮もこういうメイクなら良いって言ってくれるんじゃないかと思って…。」
「俺は、似合っているとか似合っていないとか以前に、『メイクは落としてから帰ってくる』っていう約束をしたつもりだった。だから今は、約束を破られたって、それだけしか思えない。」
静かではあったけど、苦々しさが十分伝わる口調だった。
「約束を守らなかったのは、ごめんなさい。でも今日久住さんに会って、私は私のままでいて良いんだって、そういうメイクをしてもらえてすごく嬉しかったの。」
「約束は約束だろ。俺、間違ってる?」
「間違ってないよ…。それは間違ってないけど、私だって間違ってない!これからは私が好きだとか楽しいって思うことを選んでいきたい。蓮が良しとすることじゃなくて。私、普段からもっとメイクしたい。」
「俺、今まで奈緒とはお互いに納得した上で色んな約束をしてきたつもりだったけど。そうじゃなかったの?俺が一方的だったって言いたいの?」
「私、今まで蓮に対しても、他の誰に対しても、その人にとっての正解でいなくちゃいけないって思ってた。見た目も、交わす言葉も。そうじゃなきゃ、私なんか好きになってもらえないって思っていたから。でも正解だなんて、人によっても違うし、同じ人でも気分によって変わるし、探せば探すほどわからなくて、いつも不安だった。でも良しとされる自分を他の人に決めてほしいって、責任も投げていたの。でももう、他人の感覚にすがっていたくない、自分の感覚を大事にしたいの。」
「奈緒、何吹き込まれた?」
「え…?」
「急にそんなこと言い出すなんて、今日何か吹き込まれてきたとしか考えられない。えっと、久住萌だっけ?ねぇ、じゃあ奈緒がやりたいことが、俺の嫌なことだったらどうするの?奈緒は、もう俺の好きな奈緒でいてくれないの?」
「私、蓮に嫌な思いをさせたいんじゃないよ。ただ…。」
「他人あっての自分だろう?他人のことを考えないで自分の感覚だなんてバカみたいだ。なんで奈緒までそんなこと言い出すんだよ…。そんな、母さんみたいなこと…。」
そう言って、蓮は花束をギュッと抱きしめて、涙を流した。蓮が私の前で泣いたのは、これが初めてだった。咄嗟にしゃがみこんだ蓮を抱きしめた。そのまま私の胸に顔をうずめて泣く蓮を、小さな子供のようだと思った。
「蓮、蓮、どうしたの?大丈夫?…うん、大丈夫、大丈夫。」
背中に回した手で、蓮を規則的に叩きながら、本来の自分に戻ることを躊躇させる自分の心の内を探った。
「はい、どうぞ。」
半同棲を始めた当初に揃いで買ったマグカップに紅茶を淹れた。お砂糖と牛乳をいつもより多めに落とした。差し出すと、蓮はこちらを見ずに黙って受け取った。大分落ち着いてきたらしい。私が蓮と同じように、ベッドを背もたれにして並んで座ると、蓮は紅茶に口を付けた。
「甘いな…。」
「そう?」
「あのさ、奈緒…ごめん、俺…。」
話し始めた蓮は鼻声で、まだ目も赤かった。ティッシュの箱を取って渡すと、黙って鼻をかんで、小さくため息をついた。
「取り乱してごめん。俺、無様だよな。」
「無様?私、無様だなんで思わなかったよ。」
「本当?」
「本当。子供みたいだって思った。」
「それ、無様ってことだろ。」
「違うよ。自分の無力さがじれったいって、そんな歯がゆさをどうにもできないって、駄々こねているみたいだった。」
「それが無様なんだよ。俺、奈緒の前では、格好良い彼氏でいたかった。」
「なんで私がそんなことを感じたと思う?私もそうだから、そういう気持ちがあるからだよ。つまり、一緒だねってこと。私はもう自分のことを無様だなんて思わない。だから蓮も無様だなんて思わないよ。ねぇ、じゃあ聞くけど、蓮の格好良い彼氏ってどんなことを言うの?」
「それは…いつも堂々としていて、奈緒が悩んでいたとしたら、引っ張れるような、そんな彼氏かな。」
「蓮、そう思ってくれるのは嬉しいし、蓮は私にとって頼りがいのある彼氏だよ。もし蓮が今の自分を無様だと思ったとしても、蓮にそういう一面があるから格好良い一面もあるんだと思う、きっと。それに、私は万年格好良い蓮よりも、さっきみたいな表情も見せてくれる蓮の方が魅力的だなって思ったよ。」
「本当に?よくわからないな。でもなんか、気が抜けた。」
蓮がおもむろに私の肩に頭を乗せて寄りかかってきて、鼻先に私の髪と同じシャンプーの匂いを感じた。これも半同棲を始めてすぐの時期に、ドラッグストアの香りサンプルを散々嗅ぎまわって、二人で気に入って選んだ。それ以来、ずっと同じものを使っている。蓮は暫く目を閉じた後、徐に口を開いた。
「昔、母さん不倫してたんだ。」
「え?」
反射的に、体がビクッと震えた。我に返って、私の振動が蓮を傷つけていないことを祈った。
「あ、うん…。」
「昔って言ってもそれほど前じゃないけど、俺が高二のとき。やたら母さんが綺麗になった時期があったんだ。それまで化粧っ気なんて全然なかったのに急に洒落込みだして、着る服も華やかになってさ。その頃は、姉ちゃんが大学卒業してうちを出て行ったし、父さんが昇進して忙しくはなったけど、給料は大分上がったみたいだったから、経済的にも精神的にもゆとりができたんだろうって思ってた。でも…どうしても眠れない夜があって。布団の中でゴロゴロしてたら空が白んできたから、その辺でも走ってこようかと思って、窓の外を見たんだ。そうしたら、家の前に見たことない車が止まって、中から母さんが降りてきた。笑顔で手を振って、車が行った後を愛しそうに見る母さんを見て、俺は心臓が破裂するんじゃないかって思った。その関係は、暫くして自然に終わったみたいだったけど、終わったからって…。」
突然の告白に返す言葉がなかった。蓮に言葉をかけるには、私はまだ人生経験が浅くて、若かった。その代わり、一言一句残さず蓮の言葉を聞こうと思って、左側に蓮の体温を感じながら、ただ耳を傾けた。
「今までこんなこと、誰にも言えなかった。言ったら家族がバラバラになると思ったから。情けなくもあった。母さんにとって自分は、いざとなったら捨てても良い息子なのかもしれないって、そう思ったら、無条件に自分の存在を全否定されたような気がした。だからなるべく母さんにとって居心地の良い息子になろうと思ったけど、それってどうやったらなれるんだろうな。」
「どうしたら、良いんだろうね。私もそれはわからないけど、でも、愛を自分からあげられる人になりたいね。」
桐谷くん借りた傘をベランダで干した。今日も良く晴れて風が少し柔らかくて、冬の終わりを感じた。今朝、蓮は何度も目が腫れていないかを確認して、車に花束を積んで出かけた。私の淹れた紅茶を持って。
「お花、綺麗だったな…。」
蓮にとっては、複雑な思いの詰まった花かもしれない。それでもやっぱり花は綺麗だと思った。
「孝昭と奈緒は、将来お医者さんになるのよ。二人ともとっても頭が良いから、きっとお父さんみたいな良いお医者さんになれるわ。」
物心ついた頃から、お母さんがお兄ちゃんと私耳元で念仏のように唱えてきた言葉。だからとても言い出せなかった。
「お母さん、奈緒はお花屋さんになりたいの。奈緒はお花屋さんじゃダメなの?お医者さんにならないと、お母さんは奈緒のことを好きでいてくれないの?」
念仏が効いたのか、お兄ちゃんも私も賢い子供に育った。特にお兄ちゃんはご近所さんから、神童と呼ばれるくらいで、よく私の勉強も見てくれた。
―お兄ちゃんの背中を追っていれば、私もお医者さんになれる。お母さんに好きでいてもらえる。
そんなことばかり考えていた。一心不乱な願望が揺らぎを見せたのは、突然のことだった。小学四年生のとき、昼休みに一緒に遊んでいた友達のうちの一人が、ジャングルジムから落ちて頭から血を流した。苦しそうなうめき声、さっきまで元気いっぱいに遊んでいた友達の変わり果てた姿。頭では「先生を呼びに行かなくちゃ!」とわかっているのに、体の芯が冷たくなって、視界もどんどん狭くなっていった。
―自分の体じゃないみたい。
そんなことを思ったところで意識が途絶えた。気が付いたら保健室のベッドに寝かされていた。貧血だった。その時は、初めてそういう場に遭遇して、ショックが大きかっただけだと思った。でも、中学生になっても高校生になっても、時折保健の授業中や医療モノのテレビを見ている時に血が流れるようなシーンが出てくると、貧血を起こすようになってしまった。
―次は大丈夫、きっと次は落ち着いて見ていられる。だって私は、お父さんの子だから、絶対に克服できる。いちいち血を見て倒れてたら、お医者さんになれない。
倒れる度に、そうやって自分で自分を励ましてきた。でも、どんなに言葉を尽くしても、いつも土俵際にいるような気分は拭えなかった。とうとう土俵の外に出てしまったのは高三の夏。ひと月前に受けた模試が返ってきて結果を開くと、見事に志望校の合格判定欄にEが並んでいた。高三なんて、ここから伸びる。E判定からの大逆転劇なんて、ありふれている。そんなことわかっているのに、何かがプツンと切れた。その日の夜、学力もメンタルも医学部に入る相応のものを持っていないことをお父さんとお母さんに打ち明けると、お父さんは感情の読み取れない声で「奈緒の好きにしなさい。」と言った。その隣で、お母さんは黙って悲しそうな顔をしていた。少しでもお母さんの悲しさを和らげたくて、キッチンで洗い物をするお母さんの背中に話しかけた。
「お母さん、貧血のこと黙っててごめんなさい。模試も、三年生になってから、全然成績伸びなくて…。でも私なるべく良い大学に受かるように頑張るから。あのね、私、心理学を勉強できる大学に入って、カウンセラー目指そうと思って…。」
「なんで、奈緒にはできないの…?孝昭は医学部に受かったのに…。」
―お医者さんになれない私は、やっぱり愛してもらえない。
自分を焼き尽くしたくなるような悲しみ。こんなのまともに感じ続けてたら、頭がおかしくなりそう。蓋をして、感じない振りをしてやり過ごす以外の方法が思い浮かばない。お母さんも一族全員医者のお父さんの家に入って、肩身の狭い思いをしていたのかもしれない。だからどうにかお兄ちゃんも私も医者にしようと必死だったのかもしれない。でも、どれだけお母さんの気持ちを慮っても、小さい頃からの不安が顕在化してしまったことが、ただただ私を絶望させた。
―ねぇ、お母さん、私はお医者さんにはなれないけど、少しでも良い大学に入るから、少しでも有名で立派な企業に入るから、お母さんの自慢の娘になれるように頑張るから、お願いだから嫌いにならないで。
お母さんの背中を見つめながら、それまでのどんな願い事よりも強く強く願った。そんなの、本当の願いじゃないのに。
気が付くと涙が出ていた。あの時の私には、流せなかった涙。流せば流すほど、あの時の私が癒されていくような気がした。濡れた睫毛越しに太陽の光を見ると、睫毛に虹ができた。
―あの時は辛かったけど、あそこで方向転換できたから、今の私がいる。
そう思うと、少し元気が出てきた。そろそろ掃除機でもかけようかと思って部屋に戻ると、こたつの上に置きっぱなしにしていたスマホが震えた。画面を覗くと、桐谷くんの名前が表示されていた。
「もしもし。」
「あ、もしもし、倉田さん?」
電話の向こうから人通りの多そうなザワザワとした音が聞こえ、木々のざわめきまで聞こえるこちらとの環境の差を感じた。
「あの、急な連絡で申し訳ないんですけど、今夜って空いてませんか?」
「え、今夜?」
「実は、兄が一か月ぶりに海外から戻ってきて、今夜、兄夫婦と外で食事をするんです。もし良かったら倉田さんも来ませんか?ハンカチも返したいので。」
正直なところ、魅力的な誘いだと思った。久住萌にまた会えるだなんて思いもしていなかったし、桐谷くんのお兄さんにも会ってみたかった。それに桐谷くんに話したいこともあった。でも昨日の蓮の姿が頭を過る。
「えっと、ごめんなさい。今日は予定があって…。お兄さんたちにお会いしてみたかったんだけど。」
「いや、良いんです。今日の今日だったし。義姉が倉田さんのこと気に入ったらしくて。だから、また誘うと思います。」
「え、久住さんが?そっか、嬉しい。ありがとう。」
「じゃあ、また。」
「あ、待って!桐谷くん、あのね、私、早速好きなもの思い出したの!聞いてくれる?」
「え、嫌です。」
「へ?あっ、そっか…。ごめん、いきなり。じゃあ、今度会ったときに…。」
「嘘です。だって、今日来てくれないっていうから、ちょっと意地悪言いたくなって。」
「今日に限ってじゃないよ。桐谷くん、ちょこちょこ意地悪するよね。」
「ああ、なんか自然と倉田さんのことからかっちゃうんですよね。嫌でした?」
「嫌じゃないです。えっと…私ね、お花が好き。」
いざ言葉にすると、少し体温が上がったような気がした。
「何で忘れていたんだろうって思う。あんなに好きだったのに。」
「へぇ!花!良いですね。僕はあまり詳しくないけど、義姉がよく部屋に飾っていますよ。」
「うん、それでね、私将来お花に関することを仕事にしたいって思ったの。アレンジしたり飾りつけたり。お花ってそこにあるだけで優しい気持ちにしてくれるから、お花を通して私がどんなことができるのかって考えたいなって。」
「なんか、声、滅茶苦茶生き生きしてますね。うん…合ってると思います。漠然とですけど、倉田さんとお花ってちゃんとイメージ沸きます。」
「本当?桐谷くんにそう言ってもらえると、励みになる。」
「本気でそう思ってますよ。あ、ちょっと待って…!」
「もしもし。あー、すみません!お電話変わっちゃいました。初めまして、朔の兄の桐谷藍です。」
急に聞こえてきたのは、桐谷くんとそっくりな声。だけど何トーンか明るい話し方をする人だと思った。いきなりの登場で驚いたものの、嫌味のない親しみやすさのおかげで不思議と恐縮しなかった。
「今日来れないんだって?残念!急だったもんね。萌と朔から倉田さんの話を聞いて、会ってみたいなーって思ってたんだ。」
「あ、そうなんですか?久住さんと桐谷くんが…。今日は本当に残念です、私も。折角お誘いいただいたのに…。」
「いいよ、いいよ。また朔に連絡させるから。ねぇ、それより花好きなの?」
ノートPCに藍さんからメールが届いたのは、それから三十分くらい後だった。添付ファイルをクリックした瞬間、圧倒された。ずっと見ていたくなるような、気が付いたらその世界に引き込まれてしまうような花の写真。藍さんは一昨日までロンドンにいて、現地のフラワーアーティストと一緒に作品を撮っていたらしい。藍さんは、「食事はあんまり楽しめなかったけど、花を扱う技術は、流石フラワーアレンジメント発祥の地だと思った。」と言った。PCの検索窓に「ロンドン フラワーアレンジメント スクール」と打ち込んだところで、蓮が玄関のドアを開ける音が聞こえたので、そっと画面を閉じた。
「ただいま。」
「お帰りなさい。お母さん、お花喜んでくれた?」
「うん、喜んでた。なんで女の人って花が好きなんだろうな。すぐに枯れちゃうのに。」
「それはさ…。」
「それより、奈緒、今度いつcurrentに載るの?奈緒のこと話したら買うって。あと、今度会いたいってさ。」
「え、私のこと話したの?」
「まぁ、彼女がいるっていういのは薄々気が付いてたらしいんだけどね。実際にいるって言ったら写真見たいって言うから、currentって雑誌に出てるよって教えたんだ。そうしたら絶対買うって息巻いてた。」
「そう…。お母さんに見られるって思うと、ちょっと恥ずかしいね。えっと、確か今月の二十三日に発売されるのに載るはず。」
「わかった。伝えとく。」
蓮が、こたつに入ってスマホを操作するのを見て、言葉を足した。
「そんなに、大きく載らないから、あんまり期待しないでくださいとも伝えておいて。そろそろ、夕飯作るね。のんびりしてたら、遅くなっちゃった。カレーで良い?」
「あ、母さんがおかず持たせてくれたから、ご飯だけ炊いてこれ食べよう。」
蓮が差し出した紙袋の中身を取り出すと、おかずの入ったタッパーや、インスタントのお味噌汁が入っていた。どれも蓮の好きなおかずや、好きな具材のお味噌汁だった。昨日の話を聞かなければ、もっと素直に受け取れていたと思う。でも、やっぱりここに蓮のお母さんの愛を感じずにはいられない。思わず、一つ一つをまじまじと見てしまった。
「美味しそう…。じゃあ、机の上片付けないと。PC仕舞うから、ちょっと待ってね。」
ノートPCを持ち上げようとすると、蓮に手首を掴まれた。顔を見ると、目にほんの少し熱っぽさを感じた。
「奈緒!俺、昨日奈緒に話聞いてもらえて良かった。今日母さんの顔見て、どんな気持ちになるか不安だったんだけど、不思議とどうでも良いって思えたんだ。」
「どうでも?」
「あ、どうでも良いっていうのは、投げやりになったってことじゃなくて…。当時母さんがどんな気持ちだったとしても、俺の母親であることにはどうやっても変わりないんだ。だからもうその時のことで怒ったり、顔色を伺うようなことはもう止める。そんなことをしても終わりはないし、無意味だと思えた。時々発作みたいに嫌な気持ちを思い出すことはあるかもしれないけど。あと、もう少し気持ちが落ち着いたら、当時の母さんに言いたかったことをちゃんと思い出してみようとも思う。それは、母さんを裁くためじゃなくて…ただ向き合うことが、何になるのかわからないけど。」
蓮の言いたいことが、わかるような、全く同じようにはわからないような。掴まれた手をほどいて、お互いの指を絡ませた。完全に理解できるとか、できないとかじゃない。心に降りた言葉を素直に紡いだ。
「裁くか…。私たちに限らず、人ってすぐに良いか悪いかで裁いたり、裁かれたりするよね。周りを悪いって判断したら優越感に浸れるし、自分が良いって判断されたら安心するし。私は、一番自分で自分のことを裁いてきたかもしれない。『良い』っていう判断で自分をいっぱいにしたくて。でも、悪いところがあるから良いところがあるんだよね。萌さんに会ってそう思ったの。」
「難しいな。」
「うん、でももしかしたら簡単過ぎて難しいのかも。」
「わからん。取り敢えず、ご飯食べよう。」
「そうだね。」
電子レンジでおかずを温めると、美味しそうな匂いが部屋に広がった。蓮は、一つ一つ料理にまつわる思い出を楽しそうに話しながら箸を進めた。好きな人が心から楽しそうにしているのが、嬉しかった。これからは、こんな日を重ねていきたいと思った。
夢を見た。ストーリーも登場人物も何も無い夢。ただ、藍さんの送ってくれた花の写真が、私の夢のスクリーンいっぱいに鮮やかに投影され続けていた。