女神の嘲笑
アリーナの家からに三軒の離れていない、紫煙漂う裏路地を足早に掛け行こうとしたアリーナは、きつい香水の匂いを嗅ぐ。
「アリーナ」
アリーナに呼びかける声がある。
家屋の影に隠れるように立っていた、小奇麗な服を着崩し、緩く煙管を持った黒髪の女だ。
名をロザリア。
アリーナは立ち止まる。
「ロザリア姉さん」
「アリーナ。あんた、ここの所無理して無いかい? アンナさんが亡くなってから、元気ないだろ? もう一ヶ月になる。元気が戻らないのなら、あたしのところに来ても良いんだよ? とりあえず毎日のメシには困らずに済むと思うんだけどね」
なんだかんだ言いつつも、結局のところアリーナは世話になっているばかりなのだ。これ以上頼りにするわけにはいかなかった。
「いえ、ロザリア姉さん。あたい、まだ一人でやれるんで」
アリーナはロザリアの提案を蹴る。
「そうかい? あんたならあのガストルンの黒百合にも負けずとも劣らない、と思っているんだよ、あたしは」
「冗談はよしてください、姉さん」
ロザリアは煙管を口から外し、アリーナに向き直る。
「じゃあ、これ以上は何も言わないでおくから。無茶するんじゃないよ?」
「ありがとう姉さん」
この礼を述べる心は本物だ。
「なぁに、あたいらにとってお前さんは可愛がりげのある妹みたいなもんだからさ?」
「うん、ありがとう! あたい、もう行くね!」
駆け行くアリーナを見て、ロザリアは一言漏らす。
「本当に無茶しないと良いんだけどね」
紫煙は空に溶けた。
◇
鐘が一つ鳴る頃、アリーナは予想外の金を手にしていた。綻ぶ口元が笑みを抑え切れない。
交易金貨百五十二枚。
大漁どころではない。アリーナはとりあえず目的も無しにぶらりと歩くことにした。
だが、もう職業病だろうか、その目は次の目標を追っている。
アリーナは影に気づかれないように、するりと歩いてゆく。
相手が尾行者に気づいた様子は全く無い。
それどころか自分で裏路地に入ってくれた。
アリーナは追う。足音を消して忍び寄るも、肝心の獲物、影が消えている。気配一つ無いのだ。
失敗か、と断念し大通りに戻ろうとすると、正面を短槍と輪鎧で武装した衛視二人に塞がれた。
驚くアリーナはとっさに裏路地の奥に逃げようと身を翻す。ところが、振り向いた先に先ほど追っていた影が剣を抜いて威嚇してくるではないか。
影は追っていたときの影ではない。存在感が違う。追っていたときは木陰で春風を身に受けているような心地よさであったのに対し、今では針が全身に刺さるような圧倒的な力の差を感じる。数の少ないほうへ逃げれば良いのだろうが、影を突破する自信が無い。
「"透明な"アリーナだな? 詰め所に来てもらおうか。容疑はもちろん、スリだ」
アリーナは下唇をかみ締める。
「投降しろ! 抵抗するな!」
槍二本で威嚇しながらアリーナとの距離を詰める衛視たち。
アリーナは両手を挙げる。
「逮捕だ」
影がそうアリーナに伝えた。
◇ ◇ ◇
「手を杭で打て!」
「……」
もはやアリーナは、反抗する意思も無く手の甲に白木の杭を打たれても僅かに顔を顰めるだけ。
彼女は今、十字架に縫いとめられ、磔刑に処せられようとしていた。
手からは赤い血が溢れ出る。
アリーナは手の平に食い込んだ白木の杭のもたらす引き裂けるほどの痛みに呻きつつ、玉の汗を流しては力無くうなだれ、後ろに縛っていた銀の髪は白い喉元に絡みつき、胸に流れている。
死刑執行を行う刑吏は長槍を持った二人組みである。
街の刑場にはどこで聞きつけたのか、この見世物を一目見ようと、そして罪人の血、髪などをお守り代わりに持ち帰ろうとするやからで溢れている。
「今から罪人、"透明な"アリーナこと、アリーナ=ボルトの処刑を行う! 罪状はスリ。その常習犯だ!」
役人が罪状を読み上げるや、集った民衆が卑猥な言葉を並べつつ、日ごろの鬱憤を晴らすかのようにアリーナに石を投げ始めた。
そのうち一つがアリーナの額に当たり、新たな血が流れ出す。
「止めないかお前達! お前達も傷害の現行犯で引っ張るぞ!」
一瞬のざわめきの後、投石は無くなったものの今度は老若男女問わず、アリーナに対する罵詈雑言が飛ぶ。場の熱気は収まるどころか逆に燃え上がるかに見えた。
「刑吏ども、さっさと終わらせろ」
役人の指示に従い、鋭く尖った槍を持つ刑吏が高く掲げられたアリーナの下まで来る。
うつむいたアリーナが目を瞑ると、それを合図にしたように刑吏が槍を──。