皆殺しの呪文
いよいよ本格的に寒くなってきたある日の夜中、二人は急に止まった馬車の衝撃で目を覚ました。
「おい、金目の物を置いてどこかへ行きな!」
野太い男の声。原因はアレだ。賊だ。
どうやらこのあたりを根城にしているらしい賊が馬車を取り囲んでいる。ジョシュアとエンプライが馬車から顔を出すと、賊の頭目らしきひときわガタイのいい男が前に出てきた。
「この峠は俺らのナワバリでな。通るにはちょいと高い金が必要になるんだよ」
「ディガンマ」
対話の意思はない。落雷は賊にそう告げているかのようだった。決まりきった脅迫は、しかしエンプライには一切通用しない。
「あっぶねえな!? なんだお前、いきなり……!」
すんでのところで回避した頭目の男は、開口一番に物騒な魔法を放ったエンプライを怒鳴りつける。本気で怒らせてしまったらしい。
「死にてえのか!? この状況で勝てると思ってんのか!?」
アレだけされてもまだエンプライを見くびっていられるのは、ある種才能と言えるのかもしれない。彼は彼我の戦力さを認識できていないようだ。
「チッ、外したか……おいジョッシュ」
苛立った声。その苛立ちがこちらに向けられていたらと思うと、ぞっとする。
「はい」
「やれ」
徹頭徹尾対話する気のないエンプライは、頭目をあごで指し示すとけだるげに頭をかいてあくびをする。
「ええ……危ないですよ……」
彼女より幾分かは冷静なジョシュア。確かに勝てる相手だとは思うが、ひとりでこの数が相手ではこちらも無傷では済まないだろう。
その間にも頭目のストレスは見る見る溜まっていく。
「何をブツブツ話してやがる。さっさと出すもん出して立ち去りな。でないと……こうだ!」
頭目が手を上げると、馬車の後ろで爆発音。衝撃に揺れた馬車がギシギシと音を立てる。爆発の前に一瞬だけ風を切る音がした――爆裂矢だ。
そうそう市場に出回るものではない。連中、賊にしてはなかなかの手練だ。が、それがエンプライの逆鱗に触れた。
一瞬、時間さえも止まったような気がした。
「お前……私の馬車に何やってんだぁ……?」
底冷えのするような、いつにも増して機嫌の悪い声。
寝起きでボサボサの髪をかきあげ、ネグリジェのまま馬車から飛び降りる。月明かりに照らされた純白のネグリジェがわずかに透け、ジョシュアの目に黒いショーツが飛び込んできた。賊に見せてやるのもなぜか無性に腹が立つので、屈折魔法で隠してやる。
「フンッ、やるかクソアマが。身の程ってやつをたっぷり叩き込んでやる!」
この期に及んで無謀を知らない頭目は手斧を振り上げ、エンプライに振り下ろす。
だが、それよりも疾く――
「現世と常世と現の境。死神の鎌がその身を切り裂く。闇夜に撒け、キル・ゼム・オール!」
――エンプライの魔法が頭目の身を砕く!
彼女ですら滅多に使わない魔法。彼女のこれほど強い怒りをジョシュアは見たことがなかった。
雰囲気が違う。
一撃を皮切りに、賊は一斉にエンプライへと襲い掛かった。あるものは剣を抜き、またあるものは矢を放ち――無謀なものだ。その一切合切は無駄に終わる。
あの魔法は、ひとりを対象とするものではない。
さっきまで賊だったモノは、肉片となって辺り一面に転がっていた。
血の生臭さで息が苦しい。
愉悦とも優越ともとれない笑みを浮かべるエンプライの姿は、まさに死神そのものに見えた。
ジョシュアがなにか失敗をしても、彼女がここまで激しい怒りを見せることはない。
今回やられたことといえば、馬車を攻撃されただけだ。そのなにが彼女をそこまで駆り立てるのか、今のジョシュアには理解できなかった。
「ヒエッ!」
と、岩陰から悲鳴が聞こえた。見ればそこには、弱そうな賊が一人隠れていた。魔法の対象は、彼女の敵視する存在――認識の外にいる相手には通用しない。
「撃ち漏らしたか……」
一瞬で表情を険しくしたエンプライが賊を睨みつけると、彼は悲鳴を上げて一目散に逃げ出す。
「親方に! 親方に報告しないと!」
親方に報告――それは先程の頭目がトップでないことを示していた。つまり、賊はまだ居るということだ。
「親方だと? それにあの鎧……」
それを聞いたエンプライは腕を組み、ジョシュアの方へと振り返る。
「おい、明日はコソ泥退治だ。使い魔を貸すから、お前は連中のアジトを突き止めろ」
彼女が手を上げると、どこからともなくシロガラスが現れジョシュアの肩へとまった。自分でやらないのは、先程の魔法の反動があるからだろう。逃げた賊を追うよう指示すると、シロガラスはすぐに飛び立つ。
「一人残らずブチ殺して、私に目をつけたことを後悔させてやる」
どうやら火がついてしまったらしいエンプライは、興奮気味に空を見上げた。
「覚悟しろよ無能。お前の部下はお前の判断ミスのせいで一人残らず無残な死を迎える。地獄で後悔し続けろ」
その姿を見ていると、他人のことであるにも関わらずジョシュアの背筋に冷たいものが走る。
もしかすると彼女は悪魔なのではないか。
そう思ったのはこれが三度目だったが、しかし今までの疑惑などすべて吹き飛ばすかのような恐ろしい光景だった。
用語解説:キル・ゼム・オール
禁呪候補としてよく議論の対象とされている災厄魔法。人間を殺すためだけに編み出された魔法であり、使いこなすには莫大な魔力が必要とされる。
反動が精製魔法と同等かそれ以上にあるので、エンプライですらもあまり使いたがらない。
代償もあってかその威力は折り紙付きで、小国ひとつを滅ぼしたとする伝承すら存在している。