ライトノベルとロマーンス/ライトノベルは韻文と散文の融合体?
前回のあとがきで言ったな、また違う題材でやるかもしれないと。
今回はあらすじにある通りライトノベル関連の変遷を少しばかり考えてみたいので書いてみた私的なメモエッセイです。さぁ今回も筆者と駄文に付き合ってもらう!
私は読み専として「小説家になろう」で色々な作品を読んでたり、また書店で並ぶライトノベルを読んでいて最近思うことがあった。なんというか、ラノベも黎明期に比べて変わってきている点がかつてのヨーロッパ文学や近・現代期の日本文学に近い変化の仕方をしているのだな……と。
このエッセイを書くつい数時間前まで読んでいたクリストファー・パオリーニ氏のドラゴンライダーシリーズ等とも比較するとなおさらそういう思いがこみ上げてくるのだ。
「それって一体どういうこっちゃ?」と思う人もいるだろう。筆者がまたロクでもない事を考えた証としてここでエッセイという形を通じてまとめてみようと思う。
まずは小説を語る上でちょっとだけ歴史的な事に触れておきたい。
小説を英語にするとnovelである。この単語自体は中学校英語で習うものだし、殆どの人が「そない当たり前なこと知っとるわい!」とツッコミをすること間違いないレベルの基本ワードだ。だが、このnovelという単語にはもうちょっと深い起源があるのだ。というのも、これは基が英語のそれではなくイタリア語等のnovelleやnouvelleであり、今のような小説一般を指すものではない。区別する為にノヴェレと呼称するが、ノヴェレは「新奇」な事実、あるいはそれを土台に表現した小規模な物語の事を言う。ここでいう小規模とは大作である長編小説や戯曲に対しての小規模であり、それなりの文量のものまで含まれている。今とは文章規模が違うので同一に考えるものではないがざっくりとした括りで短編・中編あたりは普通に範囲内と思えばいい。そして「新奇」な事実、つまるところその当時においてホットなニュースを題材にしている物語と言い換えることができる。今っぽくすると時事ネタ小説のようなものであろうか。
このようなテーマの下で事件(物語)を追って登場人物の心理的過程を描くことを目的とした1ジャンルであったというわけだ。一種の写実主義に近いとも言える。
そんな性質を持つノヴェレであるが、これはあるものに対する対抗馬として生まれていった面がある。それは何か、と言えば子供の頃から人間が大好きであったロマーンスである。ロマーンスとは美の芸術大国フランスで12世紀頃に成立したヨーロッパ南部系の言語群で作られた物語を言う。内容はどんなものかといえば所謂ところのおとぎ話で子供の読み物としてのそれであった。民謡などと合わせて子供が憧れ慣れ親しんだのはロマーンスなのは自分たちの生活を見てもまぁわかるところだ。 で、このロマーンスは13世紀になってからは高尚なものではない娯楽一般の物語作品全体を指すように変わる。この事でそれ以前一般的だった隣接ジャンルを包括する形で規模を拡大し、大規模な世界観を持つロマンチックファンタジーである(今で言うところの)ロマンスになる。 読者が聞いて思うファンタジーと言えばまさしくこれなわけである。中世ファンタジーや剣と魔法の世界といった概念が小説ジャンルとして生まれたのは、小説としての総合的地位を確立したこの時であると言われている。実際にこの頃の作品を紐解くとドラゴンが出て来る王道物語から魔法生物昔話に長い長い王国興亡物語など今でも見かけるような至極普通な作品が見られる。小説が長編主流になっていた頃でもあるこれらの作品はなぜそうなったのかと言えば、ドラゴンや魔法神話など大きな世界観を持つ作品を書こうとしたらどうやったって文字数が嵩んで長編になってしまうという事情もああった。そういうどうしようもない事情から開き直ったかのように精緻に描いたりすることで設定や伝説が作品の中に色濃く作られていったことを考えればなるべくして超大作小説が生まれ出たとも表現できそうだ。ちなみにディズニーも専らこっち側の住人であるのは映画を見てても間違いないと思う。ウォルト・ディズニーは子供の夢を叶えるというか子供の夢そのまんまだったよ。
時間的な面では、このロマンスが確立されて大流行した後にノヴェレが生まれることとなる。この間の出来事として大航海時代以後に写実主義が表に出て来る。これとノヴェレが結びついて現代的な小説へと向かっていくのだがそれは後の話となるので、ロマンスというテーゼに対するアンチテーゼとして完成したのがノヴェレであると理解しておけばここは十分だと筆者は思う。
さて、ここまでは小説に属するものに限って話をしてきた。筆者字数いまいくつー? あ、大体1800? 前よりはマシになったな作者、ジュースを奢ってやろう。そんなジョークを入れつつ、もうちょっと小説についての基本的情報を見てみたい。脱線しまくってるように思えるだろうが、ライトノベルの話題につながる部分であるためどうしても話しておきたい。筆者はおしゃべりだからしゃべらないと死んじゃうのでお付き合い願いたい。
上でロマーンスとノヴェレについての成立と比較を行ったが、そのロマーンスが生まれる前を無視することは出来ない。小説という散文が出来る前は何があっただろうか? 勘の良い人は私が散文と書いたところでお気付きであろう。そう、韻文である。
韻文は韻文でも、とりわけこの頃に物語として語られていたのは叙事詩。アニメの予告や宣伝でも「これは一大叙事詩である……」のような謳い文句を聞いたことはないだろうか? あの叙事詩のことだ。有名どころだと「ローランの歌」なんかが分かりやすいと思う。要するに、物語としての叙事詩とはなんぞやと言われたらズバリ「戦記物の英雄譚」である。自然発生的なものから作り流されたものまで色々あるのが叙事詩だが、大体において共通しているのはどれも熱烈で気分が高揚するヒロイックサーガな点だろうか。この頃の生活と言えば中世前期~中期を考えてもわかるように、時代的にも生活は牧歌的で慎ましく、素朴だった。遊びや娯楽、そんなものはない。だからこそ口伝で歌い継がれるような英雄物語を人々が求め、作り出していった。村々や人々で求めていたのが抒情詩だった。
ここから時代を下ることで文化や技術が発展して文字として書き残されるのが一般的になっていくと、叙事詩も謳うための韻文から、話して考えれる散文へと変わっていく。この過程で作り上げられたのが中世中期にあたる12世紀のロマーンスなのだ。とは言えまだ生まれたばかりで完全なものではないし、叙事詩の影響を色濃く残している。だからロマーンスは叙事詩の変形とも言えるし、叙事詩(韻文)と小説(散文)の過渡期にある中間的なものともなり得た。今からすればハイブリッドのように思えるが、変化途中だったから両方の性質を有するのが実態としては正しいのだろう。叙事詩のファクターとして残っているものは言うまでもないだろうが、ヒロイック性であり、これ物語として体系化される過程で世界観がより大きく洗練されて「中世ファンタジー」や「剣と魔法の世界」「騎士物語」として散文でも大人気になる。……まぁ抒情詩の時代からその手の話は人気だったよねっていうのは触れないでおこう。やっぱりいいもんだもん。私も好きですよそれ。
抒情詩を加えた時系列を整理すると
抒情詩(韻文 英雄譚、勇壮で観念的)
↓
ロマーンス(散文 小説過渡期 剣と魔法の壮大なロマンチックファンタジー)
↓
ノヴェレ(散文 小説として1つの完成 世相を使った写実主義的心理小説)
このような流れになっているというのがわかって頂けるだろう。
ここまでが小説を語る上での歴史的な展開である。これからメインディッシュのラノベ考察に移りたい。
筆者がラノベの変化に近いところを感じると思ったのは上記の時代変化の再現をしているところもあるというのが1つとしてあるが、同時に、逆行していっているのもまた1つではないか、という点である。それを考えるために日本文学を用いてみよう。日本文学を話し出すとキリがないからざっくりとしたものになるが、ライトノベルが日本の小説である以上は歴史上触れざるを得ない。なので敢えて大枠として話す。
日本近代文学が明治期に生まれたのは歴史的にも明らかだし、作品形態もそれまでと大きく変わったから分かりやすいだろう。だからここを改めて基礎から述べる必要はないから割愛する。知っておくべきとしたら、近代文学が日本国民に「自我の形成」を目的として国のバックアップを受けて奨励されていたことだと思う。国民文学や官営文学という言葉を耳にしたことがある人もいると思うが、芸術性を追求したものというよりかは国の意向で国民に教育をするために作られた教科書的な啓発モノだというのは西洋化を急いでいた当時の世知辛い事情も相まって日本近代文学を生み出すことになった重要な歴史が証明している。土台がまっさらな日本人に西洋の歴史的な経験や学問に基づく精神性を与えようとした所が重要なファクターだ。芸術はそういう要素の積み重ねから生まれるものなので、ここがない当時の日本人はそれを獲得しようと躍起になっていたのは無理からぬことであるが、芸術のレールから外れてしまうし、外れたレールをひた走って日本特有の「私小説」を生み出すこととなるのもまた趣深い。 日本の場合は文学がノヴェレから始まっていてアンチテーゼとなるロマーンスや前身となる抒情詩が存在しないからこそ先鋭化してノヴェレが極端な私小説に辿り着いてしまったという言い方もできる。一応、日本古来の観念的なものや芸術もあるにはあるが、文芸としては当時西洋化の煽りと官営文学の影響力も有ってほぼほぼ対抗要素にならなかったと考える方がよい。存在したけどドマイナーだったから影響なし、これに尽きる。この状態から戦後を経て、現代文学へと行き着く中で教科書や資料集とかに出てくるようなアレコレだの○○派だのがあって幅広い文学を得ていくことになるが、基本的に官営文学の時代で急激な西洋化によって国民観念としては先に触れた「ロマーンスや前身となる抒情詩」の部分がロストしているという背景もあり、新たに獲得し直したという形になる。途切れた歴史をたぐり直しているような状態で今の文学が成り立っているのであり、逆行するように取り戻していっているとも言える。大衆小説が生まれてからその趣が強い一因はこういう点にあると考えられそうだと筆者は思っている。
さて、日本の場合は大体こんなルートを辿っちゃって現代で色々と書いているのだから本質的に不釣り合いな成長を経てきたのは想像がつくだろうし、その歪さから変化の仕方が似てくるのもある意味では当然とも言えるかもしれない。
小説の話に戻せば、ライトノベルという名前もまた興味深い。だって英語で書いてしまえばLight novel、ライトノヴェレなのだから。実際にライトノベルの2000年台初期の作品なんかを読むと、世界観ではファンタジーとかを枠として使いながらもノヴェレの要素が強い作品のほうが多く感じる。だがそれから時間を置くと段々とノヴェレが薄れロマーンスの要素が強くなっていくという逆行性を示す作品がちらほら見られ、昨今の人気ラノベやなろう小説を見ると平均してみればノヴェレの要素は更に少なくなり、専らロマーンスが作品の比重を強く占めるようになっている。このあたりが成長の逆行性を感じてならないのだ。ただし。私が言いたいのは作品が悪化しているとかそういうことではない。根幹を担う要素が変わってきていると言いたいだけだなのだ。おそらく、そういった変化をもたらしているのはロマーンスに見られるような枠組みを固定・踏襲しているから特定のパターン化された要素を構築しやすいという小説としての容易さが1つにはあると思われる。人間の内面観察や描写というのは非常に難しく、ノヴェレはやろうと思うと結構に力がいるし、大変なのだから手が出しにくい側面もある。例えば村上春樹のアフターダークみたいなの書くか? と言われたら私は小説で書きたいとは思わない。物語内容の前に、ノヴェレ性の強い作品を書こうと思うと骨が折れるから嫌煙してしまうし、考察研究で読む分には良いが日頃の読み物として扱おうと思ったらそれこそ「ストレス発散するゲームでストレスが溜まる」」状態に陥る可能性のほうが高い。それと比較すればロマーンスはやっぱり「水戸黄門」ではないが、それまでの蓄積で安定しているのもあるし、潜在的にそういう要素が好きだったりするから物語にしやすい。なにより煩わしい人間考察がないからいい。もちろん人間描写はするが、写実主義のようなガチガチの心理分析をメインとするわけではない。ロマーンスで行われる人間心理描写も、大体は教養小説(人間が成長していく物語)としての心理描写がほとんどであるから、ロマーンスとして冒険活劇を書く最中での葛藤と結びついて自然と行える範囲のものだ。こういう面でもロマーンスに走るのは当然だと思える。
また別の要素としては、小説として求められる要素との合致が挙げられそうである。
早い話、小説の場合は長編だったら壮大な物語を組みやすいし、短編や掌編なら長編と違って世界観の発展を欠く代わりに箱庭で筋だった緊密な構成にしやすい。どちらもそういう枠物語としての性質があるし、同時にそれを求められやすい。そして、短編と長編を分類するなら長編はロマーンス、短編はノヴェレに分類ができそうである。
最近では長編のロマーンス(なろう小説に限る)はト書きの小説やセリフでの進行が主体なのを見かけるに、ロマーンスからさらに戻って戯曲(韻文ではなく散文なので抒情詩でなく戯曲)へと回帰している部分も感じられなくはない。
これらから、私はライトノベルよりもライトロマーンスとでも言った方が物語としては正しいのかなと最近は思ったりするのだ。いい作品も多いライトノベル。また、ノヴェレの側へと中心が移ってゆくのだろうか? 私はどちらも好きだから構わないが、いろんな作品を楽しく読めるのを今後も期待して今日も「小説家になろう」で新しい作品を探すことにしてこの話を結ぼう。
本文中で参考にしている書物としてルカーチの「小説の理論」を挙げておきます。この本を下敷きにこれまで読んできた経験でモノを言っているので合っていることも間違っていることもあると思いますが、あくまで私の感覚です。