姫さま、オオカミになる
――これはとある小さな国でのお話。
深き雪がふりつもるその国の名前はルプルス王国。戦争もない平和な、それはとても平和な国です。その国には一人のお姫さまがいました。
彼女の名前はパトリシア。雪のように真っ白な髪を持ち、その小顔はすべらか柔肌でぷにりとした頬が桜色に色づいています。くるりとした目には黄金に輝く琥珀の瞳。その容姿はまるで伝えられる精霊のように美しく、誰もが可愛らしいとほめたたえる国の宝とも言える姫でした。
そんなお姫さまは生まれた時より周りから優しく見守られながら育ち、今日も王宮の自室にいます。
「……そうね、庭園でティータイムをしたいわ」
窓の外を眺めてそんな事を呟いたのは、国一番の美しい少女。着ている宝石のちりばめられた豪奢なドレスも彼女の美しさの前ではかすんでしまうほどです。
「し、しかし……」
側に控えたメイドが困ったように言いました。窓の外は一面真っ白です。この時期にしては早い雪がふり、王宮の庭を白く塗っていました。
「パトリシア様、今日は雪がつもっています。それにとても寒いです。外でお茶をするのはおやめに……」
庭園でティータイムをするにはまずあの邪魔な雪を退かさなければなりません。そして今日は雪がふるくらいですから寒く、こんな日に外に出てしまえば風邪を引いてしまうでしょう。
「……それが何? わたしは庭でティータイムをしたいのよ。分かったら今すぐ準備をなさい」
しかし、この国の姫さまであるパトリシアには知ったことではありません。美しい顔が不満そうに眉をひそめてメイドをにらみました。
「りょ、了解いたしました!」
メイドは慌てて返事をすると、姫さまの要望を叶えるために部屋の外に行きます。
「まったく……使えないメイドね」
パトリシアは出て行ったメイドの背を見つめつつ、そうつぶやきました。
雪がチラつく曇り空の下、春ならば色とりどりの花を咲かせ見るものを楽しませるだろう王宮の庭園。いつもより早く雪が降り積もり、一面真っ白い庭園と化しています。置かれた石像の頭にも雪が乗っていました。
そんな庭園で、城の兵士たちがふりつもった雪を退かしていきます。肌を指すほどに寒い中ですからとても大変な仕事でしょう。ですが、彼らの頑張りによって作業が終わったころには、庭園の一角は雪を退かされティータイムができる場所ができあがりました。
「邪魔よ、さっさと退きなさい!」
今まで庭園で作業をしていた兵士たちに向かってそんな声があびせられました。現れたのは他でもないパトリシアです。兵士たちが命令通りに立ち去っていきますが、寒さに震えながらもパトリシアのために働いた兵士たちに彼女は礼の一つもいいません。
兵士たちが立ち去ると彼女のそばに控えていたメイド達が、テーブルなどを運び出しお茶の準備をしていきました。
「どいつもこいつも役立たずね。準備ができるまでここまでかかるなんて……」
パトリシアは用意されたイスに座るなり不満たっぷりにそう言いました。もう少し早く準備ができなかったのだろうか。雪がふりつもっていたからなど関係ないのです。彼女が庭園でお茶をしたいと言えばそれを待たせることなく迅速に準備するのが彼らの役目のはずでしょう。だというのに、彼女を不愉快にさせるほどに時間がかかりました。
パトリシアにとって周りの人間とはそうあるべきだと思っています。王国の姫である高貴な、特別な身分である自分の命令をなんでも聞き、言われた通り完璧に従うのが彼ら平民の役目なのです。
「…………本当に使えないわね」
椅子に座り、紅茶を飲もうとしたパトリシアはそう呟いて一人のメイドを睨みました。
「あの……えっと……」
睨まれたメイドは紅茶を用意した者でした。パトリシアがこちら睨むものだから顔を真っ青にさせて震えています。
「紅茶が冷めているわ。どうして冷めてしまったのかしら?」
「えっ……それはこの寒さですし」
パトリシアの手に持ったティーカップにいれられた紅茶はすでに湯気も出ていません。メイドの言うとおり今日はとても寒く、今いる場所は屋外です。いくら熱いお湯を持ってきてもすぐに冷めてしまうでしょう。
「それが何? あなたの役目はわたしにおいしい紅茶を飲ませることでしょう? だというのにこんな冷めた紅茶をわたしに出すなんて……」
パトリシアは立て続けに起こったことに我慢ならないと言った様子で椅子から立ち上がると、手に紅茶を持ったままメイドの方を向きます。
「さっさと入れ直しなさいよ! この役立たず!」
「姫さまお許しを……キャアア!?」
手に持った紅茶が、ティーカップが、メイドにめがけて勢い良く飛んでいきました。
しばらくして硬い何かと何かがぶつかる音と何かが割れる甲高い音が辺りに響き渡ります。
「あぁ、そんな……なんてことを!!」
そして、誰かが恐れを抱いたような声でそう言いました。
パトリシアの投げたティーカップ。それはメイドに当たることはありませんでした。メイドが直前で避けたからです。
――しかし、代わりにとある『もの』に当たってしまいました。
それは――石像です。四足で猫のような犬のような形をした精霊を象った石像でした……。
「パトリシア!! お前はなんてことをしたんだ!!」
パトリシアの自室にやってきたルプルス国王が部屋に入るなりそう言いました。
「偉大なる精霊様の像にティーカップを叩きつけるとは……なんと罰当たりな!」
国王は普段は温厚で滅多に怒ることはありません。とくにパトリシアのことは目に入れても痛くないほどに溺愛しており、彼女に対して怒ることなど今までありませんでした。
「そ、それがなんだって言うのよ……ただ庭にあった像に当たっただけじゃない」
ここまで怒る国王に訳が分からずパトリシアは戸惑いつつもそう言います。たかが像にティーカップをぶつけただけ。たったそれだけのことになぜここまで怒るのか分かりません。
「精霊様! 精霊様の像だ! かつてこの国を救いし精霊様の像だぞ!」
精霊様と言われてパトリシアはやっと気が付きました。精霊様とはこのルプルス王国に伝わる伝説の存在です。ひどい雪の嵐がこの国を襲った時、どこからともなく現れてルプルス王国を救ったと言い伝えられています。そのためこの国の人々は精霊様に感謝し、精霊様を信じているのです。
「それが何よ? 精霊様だがなんだか知らないけど……そんなの伝承の存在。現実にはいない存在よ?」
しかし、パトリシアはこの国の姫でありながらその精霊の存在を信じていませんでした。
「……なっ!? パトリシア!! 以前から何度も言っているだろう! 精霊様は我らの側に常にいらっしゃり、我らのことを見守っていてくださっている。私たちが、このルプルスの国が平和なのも精霊様のおかげで――」
「精霊様がやったなんて証拠はないでしょ? なのに精霊様を信じるなんてバカみたいだわ」
「そんなことを言うとは!? 我が娘ながらまさかそこまで不信心だとは思わなかったぞ!」
パトリシアとしても分かりません。どうしてそこまで精霊様を信じるのかを。姿を見せたことのない言い伝えの存在にどうしてそこまで信仰するのか理解できないのです。
「…………もうよい! 精霊様に対して謝るまでこの部屋からは絶対に出てはならん!!」
国王はそれだけ言い残すと部屋から出て行きました。
「もう、なんなのよ! わたしが悪いっていうの!? たかが像じゃないの!! だいたいあなたが避けるから後ろにあった像に当たったんじゃない!」
パトリシアはあのメイドをキッと睨みつけます。元を辿ればこのメイドの失態のせい。このメイドが冷めたお茶を出したからパトリシアはカップを投げたのです。
「……も、申し訳けございません!!」
メイドは頭を下げました。しかし誰もが思います。悪いのはこのメイドではないでしょう。
悪いのはこのワガママなお姫さまだと、誰もが思いました。ですがそれを誰も言いません。だってパトリシアはお姫さま、この国の王女なのですから……。
その日の夜。ルプルス王国をひどい寒さと吹雪が襲いました。
ガタガタと軋む窓からは月明かりなど差し込まずとても暗い部屋で、パトリシアは大きなベッドの上で毛布に包まりながら寝ています。
不意にパトリシアは目を開きました。何かの気配を感じ取ったかのように、あるいは目を覚まされたのでしょう……。
『こんばんはぁ、ルプルスのお姫さま?』
声が聞こえてきました。どこか頭に響くかのような不思議な声です。パトリシアの目の前に光り輝く何かがありました。それは人の形を成しているようなそうでないような形をしています。きっとこの光り輝く何かが声の主でしょう。
パトリシアは驚きながらただ黙ってその光を見ていました。いいえ、黙っているのではなく動けないのです。口も体も目さえも、彼女の意思では動かすことができません。
『どうして私がここにいると思いますか? それはもちろん、あなたが私にティーカップを投げつけたというのに謝らなかったからですよ?』
ティーカップとはあの昼間のことでしょうか? それを投げつけられたと言っています。投げつけたのは他でもないあの精霊様の像。まさかそんなわけがないと思いたいパトリシアでしたが、目の前にいる存在がどんな存在なのか思い当たりました。
『それから、あなたの日々の行動は目に余ります。ですから……あなたに罰を与えましょう』
ゆらゆらとゆれ動く光り輝く何かは冷たくパトリシアに言い放ちます。その声を遠くなっていく意識の中でパトリシアは聞いていました……。
王国をおそった雪の嵐は朝日が登ると共に徐々に収まっていきました。朝の清々しい日差しに当たった雪が溶けていきます。
(はっ……!?)
そんな朝を迎えた自室でパトリシアは目を覚ましました。しばらく動かずにベッドの上にいましたが昨晩の事を思い出します。
(あれは夢……そうよね、ありえないわ)
昨晩のあの光についてパトリシアは夢だと思い込みました。きっと昼間に国王に精霊の話を聞いたからあんな夢を見たのでしょう。
(まったくお父様のせいで変な夢を見たわ! あとで文句を言いに行きましょう!)
不機嫌になりつつもパトリシアは起きようと体を動かしましたが……
(……あ、あれ?)
体がうまく動きません。普段はしないうつ伏せの状態で寝ていたようです。そのせいかと思いましたがどうやら違います。しばらく体を動かしていると四つん這いでなら動けることに気が付きました。ですが立つことはできません。
(な、なによこれ!? とにかくメイドを呼ばなきゃ)
シーツから這い出ると隣の部屋に控えているだろうメイドを呼ぼうと声を出しました。
「ガウゥルルー」
自分はこんな声だったでしょうか? パトリシアの声はもっと高く澄んだ声だったはずです。こんなにも低く、まるで獣のうなり声のような声ではありませんでした。
(どうなっているの!?)
パトリシアはシーツから完全に出ました。普段ならば寒さであまりベッドからは出られません。しかし今日はベッドから出てもあまり寒いとは感じられず、その上何か匂いがいつにもまして鼻につく気がしました。
「ガゥガ! ガルルゥ!」
(もう! 何なのよ!)
パトリシアが訳の分からない現象に苛立ち、思わず声を上げます。
「パ、パトリシア様……? どうかされましたか?」
するといつにもまして聞こえの良い耳にどこからか声が聞こえて来ます。それと同時に扉が開く音。
「……えっ」
入ってきたのは一人のメイドでした。昨日からパトリシアの機嫌を損ねてばかりのあのメイドです。彼女はパトリシアを見るなり呆然と立ち尽くしました。
「ガウ! グルガァ!!」
(何をしていたの! 来るのが遅いわよ!!)
パトリシアが抗議の声を上げるもやはりうなり声にしかなりません。そしてその声を聞いた瞬間――
「キャアアアア!? オオカミよ! 姫さまの部屋にオオカミがああああ!!!!」
パトリシアを指差して、メイドは悲鳴を上げました。
(オオカミですって!? 一体何処に!)
パトリシアは慌てるメイドを他所に辺りを見渡します。すると姿見に映る一匹のオオカミが居ました。そのオオカミは外に降り積もる雪のように真っ白な毛を持っています。そしてその琥珀の獣の目がこちらを見つめていました。
その鏡に映るオオカミはパトリシアの動きに合わせて体が動きます。何故か動く耳に合わせて鏡に映るオオカミの耳も動きました。
(えっ……そんな! まさか!!)
その鏡に映るオオカミ――それはどうみてもパトリシアでした……。