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開戦.2

 

 白波が激しい音を立てて眼下の崖にぶつかり、潮の香りを上空に舞い上げている。


 緑嵐竜の町ウィンドラより少し東に進んだところに、軍の拠点が設営されていた。

 夜を明かすための白いテントが何百と張られ、その中でも一際大きく、蒼い剣が描かれているものが本部である。


 ウィンドラは、海に面しているもののルカのような漁港ではない。


 船を停泊させられる港を持つルカと違って、ウィンドラにはそのような港がない。というより、作れないのだ。

 ウィンドラはルカと違って海面との高度差がある、崖の上に建つ町だからだ。


 俺たちは昨夜この地に足を着けたばかりである。やはり多少なりとも時差があるため、太陽が顔を見せるのが早く、あまり熟睡することはできなかった。

 しかし体調が優れないとか、そういった問題は今のところ誰にも見られない。


 むしろ準備は万端、いつでも掛かってこいと言わんばかりに兵士たちは意気込んでいた。


「やぁ八雲。今日の決戦について、君はどう思う?」


 肩を叩かれて振り向くと、そこには俺が師と仰ぐ存在──アルカナがいた。

 薄紫色のショートヘアが、爽やかな海風になびいている。

 右眼が蒼、左目が紅のオッドアイであるアルカナは、中性的な顔立ちをしているため、男性なのかそれとも女性なのか判断できない。


 教えてくれないんだよな……。


「まぁ、あまり戦いたくはないけど」

「それは、敵が級友だからかい?」

「なわけあるかよ。ただ俺が動きたくないだけだ」

「まったく……困った魔王候補もいたものだね。魔王候補というのは、もしかすると君がリサーナと婚姻を結ぶ予兆なのかな?」


 唇に人差し指を当てて、アルカナが上目遣いにこちらを窺う。

 深海のごとく蒼い瞳と灼熱のように紅い瞳に見つめられた瞬間、どきりとして後ずさってしまう。

 ちなみにこれは恋ではない。たぶん。いや、絶対だ。


 というのも、アルカナの性別は不詳で、誰も知らないからである。一番付き合いの長いリサーナにも教えていないと言うのだから驚きだ。


 とは言え、男かもしれない奴にどきりとしてしまったのは癪である。それに、このまま答えないでいるというのは、アルカナに主導権を握らせるようなものだ。


「はは、そりゃあ美味い話だな。あんな美人と結婚できるなんて、国中の男が嫉妬するだろうよ」

「そうだろうね。リサーナは綺麗だし、優しいし、賢いし、実はすごく乙女なんだ。彼女はずっと、王子様を待ち続けているよ」


 アルカナは、愛しい娘を慈しむ母親のような、甘く優しい微笑を浮かべる。

 アルカナとリサーナは古くからの付き合いだ。と言っても、それが何年くらいになるのかは俺も聞いていない。


 しかし長いこと一緒に過ごしているのであれば、アルカナがリサーナを娘のように可愛がるのもおかしな話ではない。なにせリサーナはあんな性格だ。護ってあげたくなるのも当然だろう。


「そういうお前はどうなんだ? 実を言うと好きな男がいるんじゃないのか?」

「ふふ、八雲はボクが女の子かどうか知りたいのかな?」


 何度俺が訊いてもアルカナは煙に巻いて、答えるという選択肢から逃げていた。

 もしかすると、ようやく教えてくれる気になったのかもしれない。一応師弟の仲だし。


「……まぁ、な」

「へぇ……知りたいんだぁ」


 俺が頬を掻くと、アルカナは妙に艶かしく舌舐めずりをした。アルカナの唇が唾液で潤って光沢を帯びる。

 その妖艶な様に思わず、ごくり、と生唾を飲みこんでしまった。

 ──男かもしれないのに。いや、男だったら最悪だ……。


「んー、どうしよっかなぁ〜」


 アルカナはちらちらとこちらに目を遣り、俺の様子を楽しむようにして窺っている。

 平静を装っているが、その実、俺の心臓が脈を打つペースは速まってきている。悟られないようにしなければなるまい。


「いやあれだぞ? 教えたくなかったら教えなくてもいいんだぞ?」

「ふふ、いいんだよ? 未知を既知に変えたいという欲求は人間なら誰しも持っているものだからね……でも、そっかぁ……知りたいのかぁ……」


 馬鹿なことを言うようだが、俺にはアルカナが本当に性別の垣根を越えているようにも思える。

 可愛らしい仕草を見せるさまは、確かに女性のそれだ。しかしアルカナは、物事をハッキリと言う、男らしい一面も持ちあわせている。

 だから俺は、アルカナが男でも女でも納得してしまうだろう。でも女でいてほしいな……目を惹かれたのが男だったなんて悲しい。


 俺が心中で結論を出していると、アルカナはこちらに目を遣る。そしてアルカナは、唐突に口許を綻ばせた。


「やっぱり教えなーい!」

「……まぁ、そうくると思ってたよ。でも、なんで教えてくれないんだ?」


 不思議だった。どうしてアルカナはここまで性別を隠しているのだろうか。

 よくよく考えてみると、アルカナは自身のことを一切語ることがなかった。

 唯一俺が知っているのは、こいつが魔力の扱いに長けていて、さまざまな魔法を使役できるということくらいだ。


 アルカナはその場で一回転すると、俺の左胸に拳を当てる。

 こういうところが可愛らしいから困る。なんだこの甘そうな展開。砂糖吐くぞこの野郎。はたしてアルカナが野郎なのか女郎なのかは知らないのだが。


「謎というものは、女性を美しくするスパイスなんだよ」

「その言い様だとお前は結局女ということになるが……」

「ふふ、どうだろうね? 君が女の子だと思えばボクは女の子だし、それは反対でも同じことさ」


 哲学的な言動に、俺は少し困惑した。

 アルカナの理論は、俺が正しいと思えば正しいし、間違いだと思えば間違いである。


 言わばこの理論は、他者がいることによって成り立つのだ。


 自身のカードを伏せることによって、相手はそのカードに興味を持つ。が、相手にはカードの内容が分からない。


 そこへ俺がある種の仕草をしたり、巧みな話術を仕掛けることによって、相手にカードの内容を考えさせるのだ。

 するとどうだろう。相手は半ば疑念を抱きつつも、俺の仕草や話術から得た情報を組み立てて、予測を作り上げるのだ。


 しかしそれは相手の予測にしかすぎず、真の情報とは限らない。が、相手は予測を立てて動くほかに選択肢がない。

 つまり、自分の立てた予測こそがすべての情報となりうるのだ。


 アルカナが言っているのは、男だと思い込めば俺の中のアルカナは男になり、逆に女だと思い込めば俺の中のアルカナは女になる、ということである。


 一見難しいようだが、実に単純な理論だ。しかし捻くれている、意地の悪い理論と言わざるを得ないだろう。


「なんだよそれ……」

「ますます謎が深まっただろう? そして君はボクをもっと知りたくなる。謎というのは刺激的で甘美なものだからね。それこそが、人が人を惹きつける香りになるのさ」


 そう言うと、アルカナは髪をかきあげる仕草をする。まるで自分が女性であると言いふらしているかのようだ。

 しかしそれは、真実ではないかもしれないし、真実であるかもしれない。謎だ。


「そりゃまたすごい香水だ。是非俺にも使わせてほしいもんだよ」

「ふふ、君も謎を持っているよ? 君の知らない謎は、君の奥深くに眠っているんだ。それはもしかすると、血肉を求める猛獣であるかもしれないね」


 どきりと、心臓が跳ね、体全体が汗ばむ。心なしか、腰に差したムラサメがかちゃりと揺れた気がした。


「…………」

「あるいは、殻を破りかけている雛だったりして」


 あどけなくはにかんだアルカナは、手のひらに殻を被ったひよこの形をした、青い魔力を可視化させた。


 その笑顔の裏で、アルカナはおそらく気づいているのだ。

 俺というものの裡に潜んだ仄暗い狂気の匂いや、赤々とした殺意の気配を察知しているに違いない。


 必死で抑え込み、無理に明るく振舞ってきたことは、はたして間違いだったのだろうか。

 決して思い起こさないようにしていたことは、間違いだったのだろうか。


 表に出さないようにしていた。明かしてしまえばどれだけ楽だったことだろう。

 けれどその安楽は、大きな代償を伴う可能性があった。


 嫌われたらどうしよう。見放されたらどうしよう。

 まるで両親の大事な品を壊してしまった子供のように、俺は毎晩そんなことを考えていた。


 そうして今までを生きてきた。これからもそうするべきだと思っている。いや、思っていた。

 なんとなく、わかっているのだ。おそらく俺はこの戦争中に、迸る狂気と殺意を抑えきれなくなってしまうのだろう。


「……そんな可愛いものが俺の謎だったら全米が驚くだろうな。開いた口が塞がらないどころじゃなく、顎がそのまま落ちちまいそうだ」

「いつまでも目を逸らしているようじゃ前には進めないよ? 元いた世界に転移したいということは、いつかこの世界の真理を知らなければならないんだからね」


 アルカナはいつの間にか、俺の瞳を見つめ返していた。その蒼と紅の双眸には、鎖につながれた獅子が映っているような気がして、俺は視線を逃した。


「……難しいことを言わないでくれ。頭の中が沸騰しそうだ」

「君は自分自身から逃げちゃいけないんだ。そうやって逃げ続けていると、いつか後悔するだろうね」


 歩き出す直前に振り返ったアルカナが見せた表情からは、甘い微笑が滑り落ちていて、そこに存在するのは軽蔑だけだった。


 どうして俺だけが責められなければならないんだ。なぜここまでアルカナは俺に固執する? どうして俺は逃げなければならないんだ?

 俺は別に強い人間じゃないのに。弱くて、脆くて、支えてくれる人がいなければ立てもしない、情けない奴なのに、どうして俺だけが責められるんだ。


 苛立ちがふつふつと煮えたぎるようだった。いつしか俺は、怒りを隠すこともなく叫んでいた。


「なにが……お前になにがわかるって言うんだ……! 俺のなにが……っ!」


 唇を噛んで、俺はアルカナの背に見苦しい言葉を叩きつけた。しかしアルカナが振り向くことはない。

 周囲の兵士たちが俺に好奇の視線を寄せている。土臭い風が吹いていた。


 けれど今の俺には、周囲を気にする余裕はなかった。見透かしたようなアルカナの態度が、俺はとにかく嫌になって、苛立った。


「くそ……っ! 間違ってるなら間違ってると、そう言ってくれよ……!」


 応えは返ってこない。

 アルカナの背はだんだん小さくなっていって、テントの中に消えた。


 後に残ったのは、蒸せ返るように熱い、残り香のような血の味だけだった。




 目の前に白銀の魔法陣が展開されたのは、それから十分と経たないときだった。

 出現した魔法陣は、魔法による攻撃用ではなく、転移用だった。


 俺と同じか、それ以上の齢の青年が現れたのだ。

 後ろになでつけた黒髪と、切れ長のシャープな瞳が、攻撃的な性格を表しているように思える。服の上からでもわかる、鍛え上げられた強靭な肉体は、ザイクにも劣らないだろう。


 何より特徴的なのは、右手に握られた細身の剣だ。持ち手の部分は有刺鉄線のごとく肉に食い込んでいる。剣に施された髑髏の装飾は禍々しく、鋭利そうな刃はまるで蛇のようにくねっていた。


「よォ。てめぇの目、面白えな。オッドアイってやつかァ?」

「いっぺん鏡見た方がいいぜ。最高に面白い顔が覗いてるだろうよ」


 俺が挑発的に返すと、男は苛立ちを隠しきれずに舌打ちして、


「今すぐブッ殺してやりてえところだが、俺の寛大な心に免じて許してやる。魔王ってのはどこにいやがる。そいつを教えれば見逃してやるよ」

「自分の言葉が矛盾してるのにも気づかねえなんて恥ずかしいやつだな」


 ピクリ、と男の頰が引き攣る。

 この男はリサーナを狙っているらしい。だが魔王の顔は知らないようだ。


 この男をここに食い止めるのは簡単である。

 ポケットに忍ばせていた丸薬を口に放り込み、一気に噛み砕く。無味の丸薬は、しかし鼻腔にツンとした香りを運ぶ。

 嚥下したのち、俺は口を開いた。


「その魔王さまってのは、俺のことらしい。なんの恨みがあるのか知らねえが、てめえらが仕掛けてきたんだ。容赦はしねえ」


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