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暗躍

 アルス王国中心地に位置する王城には、一般兵士の出入りが禁じられている地下室がある。

 いわゆる、拷問部屋というやつだった。約一年前にはここで一人の青年が非人道的な扱いを受けた。改造を施され『竜王の大穴』と呼ばれる大地の裂け目に落とされた彼の行方を知る者は、王国内に一人もいない。


 血にまみれた拷問部屋に独特の異臭が漂っている。常人ならば吐き気を催してその場で嘔吐してしまいそうなほどだ。

 しかしその香りを味わうように、一人の男が深く息を吸い込んではその度に満足げな表情を浮かばせていた。

 

 双眸に宿った鋭角的な眼光を隠すように、丸ぶちの眼鏡を掛けている。薄く開かれた、どこか無機質に思える唇は、見るものに不気味な三日月のごとき印象を与えるだろう。

 ところどころ血に染まった白衣は、グロテスクな雰囲気を纏わせると同時に彼の裡から満ち溢れんばかりの狂気をより苛烈なものへと演出していた。

 

「あぁ……素晴らしい……やはり勇者の身体は弄りがいがある……」

「ハハッ、改造は成功ですか?」

「ええ……東條聖也だけを集中して改造してよかった……」

「今の聖也にも勝てる気がしないってのに、保持していた魔力を全部注入したってんだからもう絶対勝てないですよ」


 白衣の男──ガルムの背後に現れたのは、穂先の鋭い槍を背負った精悍な顔立ちの青年だ。鍛え上げられた上半身としなやかに引き締まった下半身の筋肉からは、肉体の頑強さと強靭さを窺うことができる。

 彼が現アルス王国騎士団団長を務めている人物で、周囲の人間からは基本的にセルグと呼ばれている。

 歳に似合わない凄絶な笑みを浮かべているのは、彼がセルグの身体を奪っただけの存在であるからだろう。


 彼の本当の名はヴィアラ。境界島において、ザイクらを窮地に陥れた人物である彼は、半年以上も前の戦闘に際して副団長セルグの肉体を奪っている。

 ヴィアラはガルムの手下とも言える存在であり、事実彼はガルムのことを崇拝するように慕っている。


「東條聖也には。残りのすべての魔力を注ぎ込みました。それに、遮断も」

「外的変化はあるんですか?」

「いいえ。まったくありませんよ。服部八雲のような失敗作とは大違いの性能です……クフフフ」


 ガルムは自身の頬を両手で包みこむように挟み、愉悦に顔を歪ませた。

 しかし反対に、ヴィアラは真剣な面持ちになる。いつになく険しい表情だ。


「……その服部八雲ですが、どうやら生きているようです」

「……どういうことです?」


 ガルムが詰問するような目つきでヴィアラを睨んだ。


 冷酷さを増したガルムの言葉は、研いだナイフのような鋭い手触りをしている。

 ガルムの視線を受けたヴィアラは、飢えた猛獣に狙われた草食獣のように身をぶるりと震わせた。

 

「『悲哀』からの報告です。暗殺を命じましょうか?」

「いや、あれには違う命令を出しています。まずは回復源を断つべきですからね」

「しかし服部八雲はかなりの実力を持っているようです。……勇者で足りるでしょうか」

「殺せなくとも構わない。この戦争の目的は勝利じゃないのですから」


 冷淡に吐き捨てると、ガルムは地下牢の奥にある石畳を持ち上げた。


 ギギギ、という音を立てて現れたのは階段である。一瞬のためらいもなく平然と降りていくガルムにヴィアラも続いた。


「この戦争は魔力を集めるためのものです。服部八雲が脅威だと判明した場合は、即座に処置をします。『呪縛』でも使えばいいでしょう」

「……というと、封印ですか? しかしあの封印は体内の魔力量によって時間制限がある」

「忘れたのですか? 服部八雲は魔力量が多い。五年ほどは活動を停止するでしょう。その間にすべてを壊せばいい」

「……なるほど。『欺瞞』というのはやはり我々の頭脳ですね」

「それほどでも」


 フフフ、と笑いながらガルムは足を動かす。ヴィアラは尊敬の眼差しをガルムに注いでいた。


 階段を下りていくにつれて気温はだんだんと低くなっていき、また、拷問部屋独特の異臭は消えてその代わりに消毒液の嫌な臭いが漂い始めた。


 眼鏡の奥に潜めた双眸を鋭く光らせて、ガルムはヴィアラを肩越しに見遣った。


「で、陣は見つかりましたか? マグマが引いたから捜索は容易いはずです」

「はい、ありました。陣は封印されておらず、使用可能な状態にあります」

「ならば、そこから東條らの主力を送りなさい。中田たちはそのままウィンドラに向かわせるといい。東條聖也以外の人間は死んでも構いません。東條聖也の身が危うくなったときは即座に回収しなさい」

 

 ガルムが改造を加えたのは聖也だけだ。

 聖也と中田を除いた他の勇者たちには洗脳を施している。ガルムの意のままに操ることができる、というわけだ。


 聖也は麗華たちが死んだという思い込みと度重なる改造により精神がおかしくなっているため、洗脳にはかかっていない。また、中田に関しては元より狂人のようであったため、洗脳が効かなかったのだ。


「……駒の使い方が随分とあらいですね」


 ヴィアラが肩を竦めてみせると、ガルムはおどけるような調子で、


「捨て駒も立派な戦術でしょう?」


 するとヴィアラは口許を歪ませた。


「違いない」


 聖也の改造が上手くいったからか、ガルムはやけに上機嫌だ。


「『再生』と『増殖』を使いますから、おそらくあちらは一時的な混乱に陥るはずです」

「あれはあまり好きじゃないのですが……言葉を話せない魔物ごときがどうして眷属に……」

「仕方ありませんよ。使い勝手がよくて、多くの命を奪えるのですからね」

「そういうものですか……」

「ええ、そういうものです」


 そんな会話を続けているうちに、二人は最下層に行きついた。ガルムが率いる暗部とヴィアラだけしか知らない、秘密の研究部屋だ。

 怪しげな消毒液のにおいは二人を歓迎するかのように部屋中を包み込んでいる。怪しげな液体の入った試験管や、禍々しい漆黒の気体を入れたフラスコが、大きめなテーブルに乱雑に置かれていた。

 部屋の中心に置かれた巨大な円筒状の水槽には、膝を抱えたひとりの男が入れられている。

 

 いや、男の遺体が入れられている。

 王冠のように荘厳な雰囲気を持つ金髪。真っ白な肌にはいくつかの傷がついていた。歴戦を戦い抜いたその肉体は屈強さを露わにしており、日夜鍛錬に没頭しているヴィアラをして凄まじいと思わせるほどだ。


 目を開かずとも、言葉を発さずとも、男の遺体が放つ威圧感は尋常ではなく、ただ見つめているだけのヴィアラの額に汗が滲んだ。

 その姿を例えるならそう──英雄だろう。


 ガルムは水槽の前で跪く。それに倣ってヴィアラも片膝をついた。


「これが最強の男……ですか?」

「クフフ、そうですよ。貴方はあのときすでに死んでいましたから、わからないのも当然です。もっとも当時は、この男も記憶をすべて失いましたし、死んだようなものでしたがね」

「遮断の英雄リュート=エグゾダス……」 

「いいえ、英雄などではありませんよ。瞳を使いすぎて身を滅ぼした、馬鹿な男です」


 ガルムは恍惚とした笑みを浮かべると、偶像を妄信する信者のように両の指を組み合わせた。


「ああ、我が主よ……必ずや貴方様の復活にたり得る魔力を集めてみせましょう……」


 それだけ告げて立ち上がると、再びガルムは口許を三日月のように歪ませた。嗜虐的で獰猛な笑みが、開戦前夜の暗く不気味な研究室の中を紅く彩るようだった。



    ♢   ♦   ♢   ♦



 彼女は魔王城内の廊下をひたすらに走っていた。しかし、足音は聞こえてこない。

 彼女は泣きながら走っていた。彼女を追うものは誰一人として存在しない。


 彼女が遥か昔に愛した男性は、すでに死んでいる。“愛した”と言ってもそれは本当に愛であったのか、彼女には分からない。

 だって彼女は、『悲哀』であり『非愛』でもあるのだから。


 自分は道化を演じてきた。自分は操り人形なのだ。身体には糸が付いていて、きっと自分はそれを操られているのだ。

 命令を下されれば、彼女はそれを達しなければならない。しかしそれ以外の時間は、条件付きではあるものの彼女のものだ。


「リュート……」


 彼女は愛しい彼の姿を思い浮かべて、涙を零した。


 愛に非ず。

 だからきっと、これは愛ではないのだろう。作り物の愛を捧げた自分を、彼は心から愛してくれていた。


 しかしきっと、それも真実の愛ではないのだろう。自分がそういう風に造られているから、彼は自分を愛するようになってしまったのだろう。


 愛に非ず。

 そう思えば思うほど、彼女は悲しみを歌い、哀しみを奏でる。


 どうして私に心があるのだろう、どうして私に心を与えたのだろう、と彼女は悲しんだ。

 心があるのにどうして、私には愛することが許されないのだろう、と彼女は哀しんだ。


 彼女の姿は誰にも分からない。再び新しい肉体を与えられた彼女を知るものはいない。

 彼の父親も、彼女には気づかなかった。彼女は気づいているのに、自身の名前を告げることも許されない。


 彼女は涙を流しながら走った。


 そして彼女は、ようやく見つけた瓢箪を手に取って、魔属性の魔力を流し込んで組織を破壊し、割る。

 粉砕した木片の中から現れた、神聖水の源である核を彼女は叩き潰した。


 ごめんなさい。ごめんなさい。けれど、止められないの。私の意思では止められないの。ごめんなさい。ごめんなさい。


 彼女は涙を流しながら謝った。

 当然、応えるものはいない。


 彼女は演じ続けなければならない。彼女は道化であり、操り人形なのだから。


 他人の前では彼女は彼女でいることを許されず、真相を明かすような発言をすることもできない。

 記憶がなければ、と彼女は何度も願った。けれどその願いは叶わない。


 きっとこれは、彼を殺した私への罰だ。

 だからせめて、あの男には彼と同じ轍を踏ませてはいけない。


 役割が終わるとき──すなわち生命が尽きるそのときに、ようやく彼女は解放される。


 それまでに彼女は研究を完成させて、死の直前に彼のすべてを解放してあげるのだ。

 それが彼女の決めた、罪滅ぼしであった。


 彼女は核から水が湧き出ないことを確認すると、来た道を引き返して走った。


 あの魔法は封印に等しい。封印なのであれば、解除は可能なはずだ。

 彼女は研究を重ねている。すべては代償という名の封印を断ち切るためなのだ。




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