萌芽
「そろそろ行かないと南條が怒るぞ?」
「…………」
「アリスさん? そろそろ行かないと──」
「──わかってますし。ていうかうるさいです」
「……ひどくない?」
げんなりとした表情で八雲が尋ねるもアリスからの返事はない。
どれくらいそうしていただろうか。長いような気もするし、短いような気もする。アリスはずっと、八雲にしがみついて泣いていた。
中庭に向かわないといけないことはわかっているが、それでもアリスは泣き顔を見せたくないがために離れようとしない。
八雲には見えていないが、アリスの目許はこすれて赤くなっているし、鼻の頭もすっかり赤くなっている。八雲の服を濡らした涙はアリスの頬に線状の跡を作っていた。
とてもではないが、今の情けなく緩み切った顔は見せられたものではない。
──緩み切っている?
ふとアリスは自身の頬に手を当てた。
少し前まで強張っていた頬はだらしなく緩んでいる。触れた手から伝わるのはいつもよりも熱い顔の温度。おかしい。
「ちょっ、くすぐったいんだけど……」
「…………」
「また無視かよ……」
八雲には見向きもせず──見てはいるのだが胸元である──アリスは自身の顔全体をマッサージするようにこねくり回した。
やはり緩み切っている。いつものように真面目な表情を作ろうとしても、うまく筋肉が働かなくてまただらしなく緩んでしまう。
笑顔だ。
いつも見せていた、どこか嘘の気配を感じさせる笑顔とは違う、幸福感に満ち溢れた自然な笑顔をアリスは知らずのうちに浮かべていた。
それに気がついて、どうしてだろう、と考えを巡らせようとしたとき、
「アリス?」
ぱちっ、と音が聞こえた。
八雲に名前を呼ばれた瞬間、アリスの胸中でその響きが甘美な刺激をもたらしながら弾けた気がした。
突然の感覚に驚いたのち、アリスは落ち着こうと思って深く息を吸い込んだ。
するとどうだろう。なぜだかアリスは気恥ずかしくなってしまった。ただ息を吸っただけ、深呼吸をしただけなのに、アリスの頬は羞恥に染め上げられた。
「どうしたんだ? アリス?」
囁きがアリスの裡を巡って、ぱちっと音を奏でながら弾ける。
返事をしないアリスに、八雲は怪訝な目を向ける。が、アリスは八雲の視線には気づかない。
──あれ?
アリスの中で確かに何かの種が萌芽した。それは甘く、刺激的で、アリスに絡みつくような何かだった。
胸中に湧き起こる何か。顔が熱くなる。どうしたんだろう。今までも恥ずかしくて顔が熱くなることはあったけれど、こんな風に熱くなるのは初めてだ。
分からないままに、アリスは火照った顔を隠すようにして八雲の胸に埋めた。
すると、もっと顔が熱を帯びた。むずがゆいような、もどかしいような、よくわからない感覚。
わからない。わからないけれど、アリスは知っている。愛華と麗華の話をこっそり盗み聞きして知った、言い表すには難しすぎて、行動で示すには簡単すぎる感情だ。
「離れたりしないからさ、離れろって……」
「……今の顔は見られたくないので。ていうか意味わかんないです」
「俺たちはお前の傍を離れたりしないから密着するのを止めろってこと。なんで不機嫌になってんだよ……俺の方が恥ずかしいし……いろいろと不味いし……」
「私の方が恥ずかしいですし。十九にもなって大泣きして……子供みたいです」
自らの頬が緩み切っていることを自覚しているため、アリスは離れたくなかった。
恥ずかしい。ふるふると身体が無意識のうちに震えている。
一向に離れる素振りのないアリスに見かねたのか、八雲は溜息を吐いて穏やかな調子で告げた。
「泣いたっていいだろ。今泣かなかったら後悔するかもしれないからな。泣けるときに泣いとけばいい」
アリスはハッとして八雲の顔を見上げた。穏やかな微笑を湛えて、八雲はアリスの瞳を見つめていた。
柔らかな視線を受けて、もっと顔が熱くなった。火が出てしまいそうなくらい。やっぱりこれは、愛華や麗華が言っていたものなのだ。
でもそれ以上に、涙が込み上げてきた。瞳を閉じて、アリスはまた八雲の胸に顔を埋めた。泣き声が出ないように、アリスはきゅっと唇を結んだ。
やれやれ、といった風に八雲はアリスをなでる。
八雲がアリスに注いでいる視線は、泣きじゃくったアクアを宥めるときと同じような慈愛と困惑とを含んでいる。
それに気づかないながらも、アリスはなんだか快い心地になってしまって、つい唇の結び目をほどいてしまう。微かに漏れるアリスの泣き声と息遣いに、八雲の喉がごくりと音を鳴らした。
それから八雲はアリスの背に回していた左手をぎゅっと握りしめると、一気に脱力してだらんと腕を垂らした。
「それにしても、お前は俺に似てるな。居場所を失いたくない、ってのは俺も同じだ」
「似てませんっ……。わたし、八雲さんみたいに強くないですもん……こうやって弱音吐いちゃうんですもん……」
アリスがしゃくり上げながら、くぐもった声で否定する。
すると八雲はアリスを引きはがして、額を指でつついた。「あうっ……」と呻いてアリスが後ずさる。離れたことがなんだか寂しくなって、アリスはまた瞳を潤ませる。
「なにするんですかぁ……うぇぇ……」
「アホか。俺だって弱音吐いて竜王に慰められたわ」
「嘘だぁ……絶対嘘ですよ……」
「本当だっての。……そのあと一人で泣いたしな。誰にも言うなよ」
頬を掻いて、八雲は溜息を吐いた。しかし八雲が暗闇のなかで顔を赤らめている気がして、アリスは口許を綻ばせた。
どうして笑ってしまったのかはアリス自身にもわからない。わからないことだらけだ、と心中で呟きながらアリスは八雲を見据えた。
「恥ずかしい台詞言わせやがって……」
「ばかみたいですね……」
「……アホには言われたくなかったな。ほら、お前の涙で服がぬれちゃったよ……」
「ばーかばーか! ほんとにばかなんですからぁ!」
肩を竦める八雲に精一杯の罵声を浴びせて、アリスは廊下を駆け出した。アリスが見た限りでは、八雲の服が濡れたのは一部だけだ。
八雲の服は、涙を拭うことはできても羞恥心を拭い去ることだけはできないようで、むしろアリスの羞恥心を煽るばかりだ。
喉に閊えていた飴玉は消えてなくなっていた。吐き出したと言うより、飲み込んだと言った方が正しいだろう。
あの微笑が目蓋の裏に焼き付いている。思い出せば顔が熱くなって、息が乱れて動悸が早くなる。むずがゆさともどかしさが絡みついてくる。
「……恋、というものでしょうか……好き……?」
“好き”と口に出した瞬間、アリスの心臓が跳ね上がった。甘美な響きが弾けて、アリスの裡を満たしていく。
息が乱れる。心臓が熱く、激しく脈を打つ。ふらついて、アリスは転びかけた。
熱っぽい吐息がアリスの唇から漏れ出て、冷たい空気に触れた瞬間白く染まる。
冬の廊下を走る風は、火照ったアリスの頬を気持ちよくなでていく。
「大丈夫かー? そんなに急ぐと転ぶぞー」
「──転びませんしっ!」
八雲に向き直ったアリスは柳眉を逆立てて、それから再び泣きながら走り出した。
瞳から零れた涙が宙を舞って煌めき、プラチナブロンドの長髪は風に舞う。背負った長大な聖剣は硬質な金属音を立てている。ひらりと衣の裾が翻ってはパタパタと風音を生み出す。
「ほんと……ばかですっ」
アリスは袖で涙を拭いながら八雲を置き去りにしていく。肩越しに聞こえた八雲の忠告は無視した。
呼吸が荒くなる。心臓が激しく脈を打つ。蒼穹のごとき瞳から溢れる涙は、朧月のようにアリスの視界を霞ませた。
初めて気がついたこの気持ちに折り合いをつけられるのだろうか。彼は級友である愛華や麗華を助けようと鍛錬に励み、自分とともに旅をしてきた。けれども、彼がなにかをしてくるようなことはなかった。
気づくのが遅すぎたのだ。今頃になってアプローチしても、彼の周りには魅力的な女性が多すぎる。いつもからかわれている自分などは所詮路傍の石に過ぎないのだろう。
ちくり。
針で突いたような痛み。
穿たれてできた小さな穴は、瞬く間に広がってしまう。
彼への想いは増すばかりで、けれども切なさは消えてくれなくて────