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独白

 


 黒いもやもやが喉に(つか)えていた。

 言いたくて、でも、言ったら彼に嫌われてしまうような気がして、言えなかった。


 母や姉とはほとんど会話したことがない。父は話しかけてくることもあったが、そのすべてが自分を突き放すようだった。

 歳が十を超えた頃、自分が『勇者』であることを告げられた。同時に、十五になったら旅に出ることになるとも教えられた。


 政治上の道具として、いわば虜囚となっていた幼少期は、ずっと孤独に打ち震えていた。

 物心ついたころ、両親や姉の視線にある種の畏怖が存在していることを知った。初めはどうしてこんな目を向けられているのかがわからなかった。


 十歳になったとき、ようやく気づいた。


 ──ああ、私は娘じゃないんだ、と。



    ♢   ♦   ♢   ♦



 冷たい大理石の廊下を、風が遊ぶように吹き抜けていく。窓の外で揺らめく青い灯火は神秘的な雰囲気を漂わせている。真黒な暗闇が陽の落ち切った空を占めている。真綿のようなちぎれ雲が、欠けた月を覆い隠していた。

 

 物憂げな蒼い瞳。ほのかに赤い頬。僅かに潤んだ唇。

 今にも泣き出しそうな表情が、アリスの美しさをいっそう際立たせていた。


 カツ、カツと、靴底と大理石とが打ち合う音が無機質な廊下に響く。少し気だるげな、けれども決意に満ち溢れた、独特なリズム。

 足音がだんだんと近づいてきて──


「──アリス」


 夜の闇とは対照的な少し長めの白髪。深淵のような漆黒の左目と、希望を映し出すような黄金色の右目。青みがかった黒の装備一式を身にまとい、堂々と宵闇の中を歩いている。

 アリスが待っていた人物──八雲だった。

 

 待っていたのにも拘らず、八雲はアリスが今一番会いたくない相手でもあった。

 しかし無視するわけにはいかない。アリスは苦い気持ちのまま笑顔を取り繕った。


「はい、アリスです。どうかしましたか?」

「やっぱり──いや、なんでもない。行こう」


 顔を伏せて発言を悔やむように唇を薄く噛むと、八雲は歩き出した。眉根を寄せて、アリスも八雲に続く。


「八雲さんは後悔してますか?」

「なにを?」

「この世界に召喚されたことです」


 至って真剣なアリスに、八雲は困ったように頬を掻いた。


「えっとな……最初はむしろワクワクしたんだ。小さい頃、剣と魔法の世界には憧れてたし、これから俺たちの冒険が始まるんだって思うと胸が躍ったよ」

「憧れ……ですか?」

「ああ。元の世界はなんていうか、退屈だったんだと思う。学校に通って勉強して、そんなことを繰り返す毎日だったからな。月並みな表現だけど、色がなかった」


 八雲は時折アリスに視線を遣ったりして朗らかに笑った。しかしアリスには八雲が笑顔になる理由がわからない。

 戦場に身を置かなくてもいい世界はどれだけ幸せなのだろう。死と隣り合わせの日常に胸を躍らせるなんて、そんなのはおかしい。学校に通って、友達と談笑して、勉強して、そんな日常が当たり前ならば、どれだけの人が死なずに幸せな生活を送ることができるのだろう。

 アリスにはわからない。今まで死と隣り合わせの日常にしか身を置いたことのないアリスには、理解できそうもないことだ。


 アリスは八雲を注視した。もともと髪も瞳も黒かったというが、今の八雲にそんな影はない。

 この世界にきたせいで何度も何度も苦痛を味わって、それでも笑顔でいられる理由が、アリスにはまったくもって分からない。


 視線に気づいたのか、感慨深げに外を眺めていた八雲がアリスの方を向いて困ったように苦笑した。


「でもさ、こっちの世界に来てから気づいたんだ。そういう日常こそが、一番の幸せで、大切なものだった、って。気づくのが遅すぎたけどな」

「……すみません」

「気にすんなって」


 八雲は俯くアリスの肩をポンと叩いた。しかしアリスは罪悪感に苛まれた。

 いつも慰められたり励まされたりするばかりで、自分は八雲の力になれていないと以前から思っていたが、今回はそれが顕著になった。八雲は優しく接してくれるが、自分はどちらかといえば暴力的な気がする。

 アリスは唇を噛んで、自分の不甲斐なさを痛感した。


「それでも……私の国が歪んでしまっていたから……」

「でも、そのおかげで俺はお前たちに会えたんだ。アリスは、俺と出会ったことを後悔してるか?」

「そんなことっ! あるはず……ない、です……」

「なら、気にすんなよ。俺ももう気にしてないからさ」

 

 八雲は笑った。が、アリスは八雲の笑顔に嘘の気配を見つけた。

 明るく振る舞ってはいるが、八雲の瞳には切ない光が宿っている。快活な笑顔の裏に乾いた悲しみがあるのだ。


 居たたまれなくなって、アリスは目を伏せた。

 八雲がこの世界に無理矢理召喚され、しかも拷問や改造などの非人道的な扱いを受けたことを、アリスは本人の口から聞いている。アリスの父も非道な人物ではあったが、まさか後世になって王国がさらに酷くなるとは思わなかったのだ。

 それに、八雲たち召喚された勇者はみな、元の世界から存在を抹消されている。戻る方法は不明で、そもそも戻ることができるのかもわからないのが現状だ。


 アリスは自身の掌を見つめて歯噛みする。


 アリスが国民に真実を伝えられれば、八雲たちが召喚されることもなかっただろう。それこそ、父に謁見する前に行動しておけば、今回の戦争に発展するまでもなくカルマとアルスは双方の平和に向けて手を取り合った可能性だってあったのだ。

 ただ、八雲に出会うこともなくなってしまうのかと思うと、アリスの胸中に複雑な思いが起こった。

 

「……ありがとうございます」


 苦笑してアリスは軽く頭を下げた。八雲は照れくさそうに目を背ける。一瞬窓の外を見てから、八雲はアリスに向き直った。


「戦争、勝たないとな。アリスを裏切った国だしさ」 


 刹那、アリスの脳裏に追憶が訪れた。立ち止まって、アリスは天井を仰ぐ。シミひとつない真っ白な天井がスクリーンとなって、アリスの過去を映し出した。


 膝を地につけて涙を流しながら、まだ幼いアリスに向かって、期待を混ぜた虚ろな視線を浴びせる民衆。──我らをお救いください、魔族どもを蹴散らしてくださいませ。

 旅立ちの日、十五歳になったアリスに満面の笑みで手を振る子供たち。──かっこいいなぁ、がんばってください。


 そんな台詞には決まってある言葉が付きまとうのだ。

 『──勇者さま』。

 

「アリス?」

「……あ、はい。すみません」


 不思議そうに八雲はアリスの顔を覗き込む。アリスはたちまち恥ずかしくなって、早足で歩き出す。

 その間も、アリスは追憶の途上にいた。


 『──勇者さま』。それ以外の言葉で呼ばれたことなどなかった。父に名前を呼ばれたのは、王城の謁見の間において行われた勇者に命を任じる儀式の際のみだ。もっとも、父は『勇者アリス』と呼んだだけで、娘を可愛がるような素振りもなかった。

 

 確かに王国はアリスを裏切った。しかしアリスは、『勇者』を押し付けて安心しきっていた民衆のことを表面上恨んでなどいなかった。

 だって、仕方がなかったのだ。初めこそ理不尽だと自身の運命を呪ったが、自分が『勇者』であることで民衆が笑顔で過ごせるのならそれでもいいと、アリスの表面はそう言い聞かせていた。


 アリスの裏には、嫉妬と羨望しかない。笑いあう親子を見て、楽しそうに遊ぶ同世代の子供たちを見て、幼いアリスはただ羨望するしかなかった。

 戦わずにいられる大人たちを何度もずるいと思ったし、親の愛情を真っ直ぐに注がれている子供たちは羨ましくて仕方なかった。 


 今でも、アリスはそう思うことがある。八雲とアクアがじゃれているのを見れば加わりたいとうずうずすることがある。

 まだアリスの中には幼い人格が残っているのだ。アクアやイーナと一緒に遊ぶのは大好きだし、美味しい食べ物も大好きだ。なにより、談笑することが一番好きだ。


 ──八雲さんはどう思っているんだろう。


 カツ、カツ、と二つの足音が廊下に響いている。

 そよ風が無邪気に踊ってアリスの髪をなびかせる。淡い灯火は魂のようにゆらゆらと揺らめいている。


「八雲さんはこの戦いに迷いはありませんか?」

「……ないな。俺は今いるこの居場所を護るためならなんだってするつもりだ。それこそ級友なんて関係ない」


 八雲は至極当然そうに言い捨てる。いつの間にか笑顔は消え去って、八雲の顔には決意が表れていた。

 そんな八雲の姿を見て、アリスはただ羨ましくなった。級友の記憶がないからきっと彼は躊躇することなく剣を振るえるのだ。


 ──何の葛藤もないなんて、そんなの、ずるい。

 醜い、身勝手な嫉妬だということはアリスにもわかっている。記憶がなくなるなんて、普通なら苦しみもがくような激痛に等しいだろう。生きてきた価値が消えていく、創りあげてきた道が雪のように融けてなくなっていく。記憶の損失とはそういうものなのだ。


 言ってしまえば嫌われてしまう気がして、ずっと言えずにいた。本当は勇敢な人間ではなく戦いに怯えるだけの普通の人間だなんて言ったら、父親のときのように失望される気がしていた。

 それでもアリスは、喉元の閊えを取り除きたくなった。


「私、勇者だったんです」

「ああ、知ってる。ていうか、お前が『初代勇者』だもんな」


 あくまで楽天的な態度に、アリスは不快感を隠せなかった。眉を寄せて、アリスは並び歩く八雲を睨んだ。

 アリスの置かれていた境遇も知らない八雲にとっては、『勇者』の肩書はそう重いものではないのだろう。しかしアリスは違う。


 背負わされた運命は、理不尽に定められた道程は、アリスに重くのしかかって苦しめてきた。

 人生の大部分を国という鳥かごで過ごしてきた。飛ぶための翼は生まれ落ちた瞬間にもがれてしまった。後はじっと、歌う小鳥のように鳥かごの内側で佇んでいればそれでよかった。


 アリスはほんの一瞬だけ身を硬直させると、八雲に気づかれないくらいゆっくりと脱力した。

 ──苛立ちはいらない。感情を消すのは慣れっこだもの。またあのときのように笑顔でいればいい。


「わたしは、ずっと『勇者』だったんですよ」

 

 アリスの言葉には有無を言わさぬ迫力があった。一切の感情を排したような声音で、アリスは淡々と告げた。


「わたしは『娘』じゃなくて『勇者』だったんです」


 息が詰まるような雰囲気に八雲は唇を結んで、口許に儚い微笑を湛えたアリスを見つめる。

 アリスの微笑は、自嘲を含んでいた。しかしその瞳には同情はいらないという強い意志が同居している。


 十一のころ、アリスは父に反抗したことがある。旅になんて出たくない、怖い、そう言い続けた結果、アリスは牢に入れられた。

 勇者が民に見せるのは笑顔だけでいい。お前は勇者の義務を果たせ。失意の籠った言葉を残して立ち去った父の背中を、アリスは今でも夢に見ることがある。


「生まれる前から、私は『勇者』だった。見えない神様のお告げによって『勇者』の役割を演じるように定められた。民衆に不安を与えないよう、ずっと笑顔でいることを強要させられた。ずっとずっと『独り』だった」


 一瞬だけ灯火の揺らめきが強くなった気がして、アリスは窓の外──中庭に浮かぶ蒼い炎を見つめた。

 平生と違う、アリスの無機質な微笑に、八雲が愕然と目を瞠る。


 アリスの独白は一見すると自嘲に感じられるが、その最奥には慄然とした寂寥感が存在している。

 幼いころから親の愛情を知らず、また、同年代の子供たちやその大人たちには畏敬の念を抱かれて育ったアリスの根底にあるのは、怒りや恥辱ではなく寂しさだ。

 

 成長するにつれて周囲に期待の眼差しを注がれ、それを裏切ってはならないと父に教え込まれ、ときには独房に入れられてアリスは生活してきた。たった独り。

 同情する者など誰一人としていなかった。城内では第二王女として家族に愛される姫君を演じたし、地方では民衆を魔物から護る力強い勇者を演じてきた。それが普通だと思っていたから不満を抱いていたわけではない。しかしそこにアリスという個人はいなかった。

 

「魔王討伐なんて行きたくなかった。死ぬんじゃないか、って。誰にも看取られずに死ぬんじゃないか、って。不安で仕方がなかった」


 アリスの肩が小刻みに震えている。失望されるかもしれない恐怖に歯の根が合わなくなる。


 出立の日に駆けつけた民衆の声援は勇者としては嬉しかったが、アリスとしては寂しくなった。魔物を討ち滅ぼしてくれると信じきった民衆の視線に、勇者は手を振って笑顔で応えた。

 その晩アリスは物思いに沈んだ。勇者などという偶像にすがり、崇拝し、妄信していた民衆たちの目に映ったアリスは少女ではなく勇者でしかなかった。


 だから、今もアリスは怖い。自分に向けられている視線に込められた思いは期待だが、その期待は果たして勇者に向けられているものなのか、それともアリスに向けられているものなのか、判別できなかったからだ。

 もしも勇者としての実力への期待だったならば、アリスは弱音を吐くこともできず、再び役を演じることしか出来なくなって孤独になる。そこでもし失敗すれば、注がれる視線はアリスにとって恐怖でしかなくなる。


 失望と侮蔑の入り混じった、父親のような視線を八雲にも向けられるのかと思うと、アリスは背筋が凍った。 

 しかし、止められない。


「わたしは『アリス』でいられなかった。『勇者』として振る舞わなければならなかった。王国各地に回って、民衆から不安を取り除かないといけなかった」


 アリスは不安定だ。

 いつだって、失望されるのではないのかと怯えて過ごしている。折角できた居場所から追放されるかもしれない恐怖に脅かされている。


 平伏した民衆の姿がアリスの脳裏に過る。そしていつも最後には、父が出てくるのだ。──お前がやらねば、この貧民どもはみな死ぬ。そう告げて冷酷な視線を投げかけてくる国王の姿がアリスの記憶から離れないのだ。

 

 私のせいでみんなが死ぬ。私のせいで死ぬ。私のせいでみんなが。私のせい。私のせい。私のせい。私のせい。私のせい。私のせい。私のせい。私のせい。私のせい。私のせい。私の────

 そうして、アリスには戦う以外の選択肢がなくなった。

 

 独りを選ぶしかなかった。使命感なんてものは元より存在せず、強迫観念めいた、自身を追い詰める感情しかなかった。


「わたしはずっと『独り』でいるしかなかった。父も母も姉も、私を『勇者』としてしか見ていな──」

「──ごめん」


 時計が針を止めた気がした。

 八雲は半ば強引に、アリスを抱き寄せていた。八雲の胸に埋まったアリスに伝わる、激しく脈打つ心臓の音。


「……ずっと、誰にも言えなかったんだな。悪い、気づかなかった」


 ──気づこうともしなかったくせに……。


 アリスは初め、どうしようもない苛立ちに襲われた。八雲のわかりきったような、見透かしたような態度が気に食わなかった。

 でも、離れることはできなかった。八雲の力が強い訳ではない。アリスの体がどんどん脱力していったからだ。

 

 意思に従わないアリスの身体が彼女の苛立ちをさらに煽った。離れたいと願っているのに、身体は意思を裏切ってどうしても離れようとはしない。むしろ、八雲に身体を預けている。


「俺たちはアリスを必要としてるんだ」


 アリスの目が見開かれた。八雲は子供を落ち着かせるようにアリスを優しくなでている。


 訪れた追憶。王国にいたころではなく、王国を離れた後の記憶がアリスの脳裏によみがえる。

 

 孤独な旅の果て。カルマ大陸に渡って、どこの街にも寄り付かずに独りで旅を続けて、魔王城に着いたアリスを迎えたのがリサーナだった。リサーナとの出会いは、アリスが八雲に教えたような、生易しくて笑えるようなものではなく、もっと血みどろで荒んだ邂逅だった。


 城壁を魔法で壊し、アリスは城内に入り込んだ。そこで待っていたのがリサーナだ。アリスの強大な魔力を事前に感知して近隣住民たちを避難させ、リサーナは軍隊の精鋭たちを伴って待ち構えていたのだった。

 そのころのアリスはすでに、人の話を真っ向から聞けるような精神状態ではなかった。裡で増幅した強迫観念がアリスを乗っ取っていたと言ってもいいだろう。リサーナの制止を聞くこともなく、アリスはがむしゃらに聖剣を振るい、魔法を放ち、すべてを壊す勢いで戦った。

 

 驚くべきはリサーナだった。精鋭で囲む手法を取ることが最善であるにも拘らず、リサーナはアリスを一人で相手取った。魔法を魔法で相殺し、剣撃をレイピアで受け、リサーナはアリスの攻撃のことごとくを防いだ。

 むろん、リサーナの実力はアリスに及ばない。魔力量はアリスの半分程度で、動きはアリスほど速くない。


 しかしリサーナには卓越した魔法のセンスと観察眼がある。さらに、アリスの攻撃は飢えた獣のように直線的にして直情的。戦術など考えぬままに攻撃を仕掛けていたアリスは、リサーナにとって闘い易い相手だった。

 的確なタイミングで魔法を放って、アリスの魔法を逸らし、ときには魔法の核を突いて相殺する。全力で振るわれた聖剣をすんでのところで躱し、懐に潜り込む。

 約半日を戦闘に費やして、ようやく決着がついた。 

 

 リサーナの完封勝利だった。アリスの魔力が底をつきかけたところを、魔属性の結界でアリスの身動きを封じたのだ。

 そしてリサーナが笑顔でアリスに声を掛けた。──お疲れ様。今お茶を出すわね。

 

 それからはアリスが八雲に教えたとおりだ。


「俺たちがいるだろ?」


 アリスは覚醒して、顔を上げた。八雲は似つかわしくない不敵な笑みを浮かべている。


 ──そうだ。私は()、幸せな生活を送っている。


 リサーナたちに救われ、八雲と出会い、家族とも呼べる仲間たちとともに旅をしてきた。孤独な旅はもう終わったのだ。笑いあい、ときに喧嘩して──そんな日常をアリスは心から楽しみ、嬉しく想い、幸福を噛みしめている。

 今、アリスはそのままの自分をさらけ出している。勇者の役目はもう終わったのだ。


 目頭が熱くなる。

 溢れそうになる涙を、漏れ出そうな嗚咽を、アリスは必死にこらえた。


 しかし忘れられない。植え付けられた恐怖はまだアリスの奥底に根を張り巡らせている。


「……やっぱり怖い……忘れられなくて……消えてくれない……っ」

「……忘れる必要なんてねえよ。どうやったって、忘れられないもんだ。俺が言うのもおかしいけど」


 八雲はふてぶてしく笑うと、アリスの頬を両手で包み込んだ。

 アリスの視界に飛び込んだ、深淵のような漆黒の左目と希望を映し出すような黄金色の右目。


「まだまだ楽しいことはきっとあるはずだ。それこそ忘れられないくらいに」


 吸い込まれそうな気がして、アリスは八雲から離れようとしたが、彼はそれを許さない。

 アリスを抱きしめる力を強めると、八雲は穏やかな口調で諭すように呟いた。 


「お前はもう独りじゃないんだからさ」


 その言葉を聞いた瞬間、ずっと堪えていた涙が堰を切ったように溢れだした。


 泣きじゃくる彼女を宥めるように微風が優しく踊る。

 空を覆っていたちぎれ雲にできた隙間から欠けた月が顔を覗かせている。柔らかな月光が射し込んで、二人の影を映し出している。


 頬を伝う涙はしばらく止まりそうになかった。


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