番外編:フレアさん美女になる。その2
『おお、ミント! やっぱりお前はもふもふで可愛いなぁ』
ミント、というのは俺の飼っている黒猫である。黒猫が不吉の象徴? 馬鹿を言うな。俺が黒猫を見たときには、車に轢かれかけたり、階段から転げ落ちたり、廊下で滑って転んだことしかない。これは不幸のうちには入らないはずだ。よって黒猫は不幸をもたらす象徴ではない。俺は黒猫……つまりはミントを愛している。
ということで、今、そのミントが俺の首をチロチロと舐めている。小さな舌で首筋を舐められるとゾクッとするが、ミントがそうしたいのなら俺は喜んで受け入れよう。
『でも、なにか忘れているような気が……』
思い出した。俺がこの世界にいるはずはない。俺はこの世界に吐き出され、いや、あの世界に飲み込まれたのだから。俺がミントと遊ぶことはあり得ない。これは、夢の中なんだ。いつか覚めてしまう夢。終わりの来る世界。
俺の膝に乗って指を舐めているミントも、将棋を指そうと笑っているじいちゃんも、熱いお茶を持ってきてくれたばあちゃんも、いなくなってしまうのだろう。それはやはり、寂しくて、切なくて、苦しい。
でも、少しだけ安心した。だって、じいちゃんもばあちゃんも、俺がいなくなって悲しむことはないんだから。あの世界で、じいちゃんもばあちゃんも、俺を忘れて、今も笑顔で過ごせているんだろうから。
瞼を熱くし、睫毛を濡らして、一滴の涙が頬を伝っていった。
もう、涙は流したくない。悲しみなんて、苦しみなんて、切なさなんて、一生感じたくない。みんなが笑って過ごせるような日常を、俺は手に入れたい。いや……俺はみんなと、そんな日常を共有したい。
そのためにはまず、あの世界のことよりもこの世界だ。戦争を終わらせて、俺は道を探すんだ。あの世界へと通ずる道を見つけ、切り拓いて進まなければならない。
ならば、この瞬間を楽しもう。今しか味わえないこの時間を。
俺の意識が覚醒する前に。いつか、俺の記憶が完全に失われる前に————
♢ ♦ ♢ ♦
「ん……可愛いなぁ」
「にゃぁ」
ミントは本当に俺を舐めるのが好きらしい。俺が猫じゃらしを差し出しても反応せずに、ずっと俺の首筋や指を舐め続けていた。俺は意外と美味しいのかもしれない。ということは、俺は怪物に食べられそうになっても、「ぼ、ぼくは美味しくないよ!」と言えないじゃないか。
「なで心地も最高だし、ずっともふもふしていたいよ……」
「ふにゃあ……」
というか……あれ? なんで俺は目を瞑っているんだ? 真っ暗なんですが……。そして手に伝わるこの感触は一体? ミントと同じ感触だけど、ミントじゃないよね明らかに。だってミントよりも大きいみたいだし。
どうやら俺は夢から覚めたらしい。そして、俺のベッドには謎の生物が入り込んでいるようだ。もしかしたら、レナのペットかもしれない。
よし、一気に捕まえてやる。
いち、にの……
「さんっ!」
俺の胸あたりに添えられていた手のようなものを掴み、組み伏せ、シーツで謎の生物をくるむ。「にゃっ!?」という声を出したのも束の間、俺によって謎の生物は拘束されたのだ。今の俺、輝いてる。まるで伝説の傭兵だぜ。
「捕獲成功。これから標的の鑑別作業に入る」
気分は傭兵のままに、俺はシーツを剥ぎ取って押し倒した。これで相手は身動きを取れない。俺の動作が完璧すぎてヤバい。
「ん……ご主人様が望むのなら、私はいつでも……」
シーツを剥がしたさきに居たのは、美女でした……というか、黒い下着姿のフレアさんでした。彼女、なんて言いました? とんでもない発言が聞こえた気がするんですが。
「ここでなにしてるんだフレア?」
思わず棒読みになってしまう俺。だってしょうがないじゃない。俺が覆いかぶさっているのは艶めかしい美女ですし。無表情だけど息遣いが荒いし。そして俺は男ですし……。
「ご主人様の味見を……」
「えっ」
なに、カニバリズムでも流行ってんの? それとも性的な意味なの? でもこの子俺の首筋とか舐めてたよね。完全にカーニバルなリズムの方なんじゃない?
「ぼ、ぼくは美味しくないよ」
「ご主人様を舐めるの好き」
「あんまり嬉しくない言葉だなそれ……」
舐めるのが好きって言葉、どこかエロティシズムを含んだ言いかたではある。しかし、そう聞こえるだけで、実際に言われると反応に困るな。いくら美女のフレアさんといっても、舐められるのは勘弁願いたい。ほら、あれだよ。うっかり理性のタガが外れるかもしれないからね。
「フレアさーん、どこにいるんですかー?」
「まったく、あの子はどこへ行ってしまったのかしら……。愛華、なにか分かった?」
「えっとね、黒い髪の女の子が八雲くんの部屋に入っていった、って精霊さんたちは言ってるよ」
廊下からアリスたち女性陣の声が聞こえる。
ふむ。このままだと不味いかもしれないな。俺が誤解されて女性の敵と認識されるのは避けたい。ベッドの上で男が美女に覆いかぶさっているんだから、勘違いされてもおかしくはない。
俺が説得する前に突撃してきそうだしなぁ。特にアリスはヤバいだろ。
「よし、逃げるぞフレア」
「分かった。逃げる」
下着姿で城内を歩かせるわけにはいかないので、とりあえず俺のコートを着せて、フレアと俺はベランダに出た。
早朝であるからか、外気は冷たく肌を刺してくる。コートを着ているといっても、彼女の脚は露わになっているので、少し寒いかもしれない。見れば、フレアの頬は寒さのためか少し紅潮している。
なにか穿くものが必要だな。今廊下に出るのは不味い。かといってアリスの部屋から出ていくとなると、イーナに見つかる可能性もある。アリスとイーナはなぜか結束力が強いから、黙っていてくれと言っても報告されるかもしれない。
「上はたしか、魔王の部屋だったな」
昨晩遊びに行ってそのまま寝てしまったアクアも魔王の部屋にいるはずだ。しかしアクアはこの時間はまだ寝ているはず。寝る子は育つ。育っても嫁には出さないけどな。
「ご主人様、今アクアのこと考えてた」
「い、いや、考えてないけど……」
「まぁいいけど。今は私がご主人様と一緒だから」
どうしてそこまで仲が悪いんだろうか。俺の取り合い? やはり俺がメインヒロインだったのか。それなら納得だな。納得だけども誰得? ていうか納得しないけどな。俺がメインヒロインとか気色悪いし。
「じゃ、掴まれ。上に跳ぶぞ」
「うん」
フレアの艶美な一部の感触を腕に受けながら、一気に“空歩”で跳びあがって上階のベランダへと降りた。
ドアの鍵は開いているようだ。窓は開いていないから、まだ起きていないのかもしれない。静かに入って静かに退出するとしよう。
「静かに行くぞ」
小声で言うと、フレアも頷いた。
まずはゆっくりとドアを開ける。ここで大切なのは慎重すぎてドアを開けるときに隙間風の通る音を鳴らさないようにすることだ。少しの隙間から風が漏れると甲高い音が出るから、そこに注意すれば安全である。
「第一関門突破。これより第二作戦に移行する」
第二作戦、それはつまり、ベッドわきを静かに通り抜けることだ。足元に注意しつつ、寝ている魔王たちの動きを見逃さないように進まねばならない。
「魔王がいない……? アクアと幼女しかいないな」
幼女というのはあれだ。魔王の姪っ子、たしか名前はエリゼと言ったか。二十歳の幼女だ。つまり今、ベッドで寝ているのは幼女二人であり、魔王はどこか別の場所にいるのだ。
この瞬間しかない。今この瞬間に部屋を抜け出すしかない!
「聞こえるかフレア。これより第二作戦を開始する。心してかかれ」
「了解。任務遂行に尽力する」
なぜフレアに軍隊ネタが通じるのかは知らん。通じたことも驚きだが、この状況を楽しんでいる俺自身にも驚いている。冒険のワクワク感というやつを味わっているのかもしれない。
だとすれば、やるべきことは一つなのではないだろうか。すなわち、女性の部屋でお宝さがしである。
……いやいや、そんなことしちゃいけないだろ。さすがの俺でもそれは引くわ。さすがってなんだよ。俺は健全だろうに。
興味がないわけではないが、罪悪感には負ける。だってさ、もしも恋愛小説とかあったらどうするよ。彼氏いない歴が五百年以上の魔王さまが甘ったるい恋愛小説を愛読してたらどうするよ。
可哀想だろ。いや、むしろ可愛いとも思えてくるかもしれない。五百年以上も王子様を待ち続けてたりするのかと思うとあれだな。魔王さまマジ健気。リサーナさんマジ健気っすわ。
童話に出てくるお姫様なんて大抵すぐに王子様が迎えに来てくれるのに、どうして私のところへは来てくれないのかしら……とか思ってるかもしれん。
「隊長。早くここを脱出しないと」
「お、おう。悪い」
心なしか、フレアは楽しそうだ。相変わらず無表情だが、なんとなく瞳の奥が燃え上っているような気がする。まぁフレアが楽しいのであれば、俺も嬉しい。
ここ最近はあまり遊べていなかったので、もしかすると彼女もフラストレーションが溜まっていたのかもしれない。
「また今度、一緒に遊ぼうか。といっても、お前も大きくなっちゃったしなぁ」
「夜伽は遊びのうちに入りますか隊長」
ピキッと俺の中で何かが凍ったような音がした。
「夜伽って……なかなか古風な言い回しですね。でもフレアさんは大和撫子って感じがするのでその雰囲気に合っていると思いますよ。でも、破壊力が高すぎるのであまり多用してほしくない言葉です。それにもしも他人に対してその発言をしてしまえば、きっとフレアさんはその男性に連れていかれてしまいますから、絶対に使ってはいけませんよ?」
つい敬語になってしまった……。突き放すような言いかたになってしまったが、これは別にフレアを嫌悪したとかそういうことではなく、本当に心配しているからだ。少しだけ動揺してしまったからでもある。
「ご主人様、心配してくれてる?」
「当たり前だろうが。俺がお前を心配しないはずがない。お前は家族の一員だからな」
一つ息を吐いて、フレアをなでた。アクアたちを起こさないように小声で話す。
「家族の心配をしない人間がどこにいる。俺はアリスや竜王たちを家族だと思っているし、きっと彼女たちもお互いをそう思っている。そこにフレアが入っていないなんて、絶対にあり得ない。俺たちは仲間であり、友達であり、家族なんだ。お前は俺の家族だ」
俺にとってはみんなが大事なんだ。ともに過ごしてきた家族なのだから。今の俺にとっての唯一の拠り所であり、帰るべき場所なのだから。
「これは……プロポーズ?」
「違いますけどね!? 俺結構いいこと言ってたのにさ、台無しですよ!」
「しー。静かに」
指を俺の唇に当てて、フレアは呟いた。俺の声が大きくなったのは君のせいですけどね。ちょっとアリスの気持ちが分かった。これからは優しくいじってあげよう。
「声を荒げて悪かった」
「許す。じゃあ、いこ?」
頷くと、フレアはゆっくりと歩き出した。俺もそれに倣って、足音を立てないように静かについて行く。
「ごしゅじん~。えへへ……」
アクア! と叫びそうになる口を手で抑えて、衝動をこらえる。ごめん、ごめんよアクア……今、俺は返事ができないんだ。
そう思いながらベッドに視線を遣る。アクアさん、エリゼさんを抱きしめて熟睡なう。なにそのポジション羨ましい。俺も泊まっておけばっ……!
幾度の葛藤に立ち向かいながら、なんとか俺たちはベッドエリアを抜け出した。
「ストップ」
「どうしたんだフレア軍曹。敵か?」
「声が聞こえる。これは……歌」
耳を澄ませると、たしかに綺麗な歌声が聞こえてきた。身体中に染み渡っていくように清らかな、いや、この表現が正しいのかは分からない。しかし、本当にそうなのだ。
鼓膜を震わせる、というよりも全身を、心を震わせる、というのだろうか。
どこかから反響して伝わってくる、空気の微細な振動が、音を描いて言葉を紡ぎ、空間に歌を書き込んでいく。言葉の一つ一つが生きているかのように思わせる、そんな歌声。
気づけば俺たちは歌が流れてくる方へと歩を進めていた。言葉がより鮮明に聞こえる。その甘美な刺激が俺を満たしていた。
目の前には、一つのシルエット。白いカーテンに映る影は曲線美を描いている。そのとき、フレアが何かにつまずいた。
「だれじゃ!?」
驚愕の声とともにカーテンを開けたのは、魔王だった。カーテンで身を隠しているため身体が露見することはないが、少し開いたカーテンの隙間から覗かせた顔は上気していて、濡れた髪からは一滴、一滴と雫が落ちていく。
「……」
「なんで返事をしないんじゃ!」
恥ずかしいのだろう、魔王は蒼い瞳を涙で潤ませている。
なにこれ可愛い。めちゃくちゃ純情ですわリサーナさん。自分のこと妾とか言っちゃうのにこんなに純情なんだね、俺びっくり。
「ちょっとした絵画を見てる気分」
「なんかあれだな、神秘的だよな。さっきまで讃美歌聞いてた気分だわ。つか、聞いてたわ」
魔王が歌ってたのが讃美歌なのかは知らないが。
「歌まで聞いてたの!?」
「魔王さんや、口調が変わっていますよ」
「ちょっと、そういうのいいから! いつもは魔王らしく振る舞ってるだけだから!」
魔王のプライドってやつですねわかります。そりゃあ大陸を治める女王様ですもん、威厳を保つことは大事ですよ。
ヤバい。俺の中で魔王様の人気が急上昇だ。某検索サイトの検索ワードトップ10に入っちゃうレベル。
「魔王も案外大変」
「大変よ! 初めてアリスが来たときなんて緊張して仕方がなかったんだから! 大人の女性って言われてからはアリスの前で可愛い服も着れなくなっちゃったし……。魔王って呼ばれるのも嫌なんだから! 名前で呼んでよ!」
「あ、はい。分かりましたリサーナさん」
「敬語も無し!」
「うっす」
苦労してるなぁ。俺が魔王になったとしたら威厳なんてゴミ箱行きだよ。堅苦しい生活とか息がつまりそうだし。
「ていうか、いつまでここにいるのよ! 早く出ていってよ!」
「「ごめんなさい」」
怒った魔王によって、風呂場から締め出されてしまった。……そりゃそうか。
「ご主人様、どうする?」
「うむ。逃げるか」
こくりと頷くフレア。
次の作戦は決まった……!
「ここから脱出するぞ。廊下は危険だから細心の注意を払うように」
「了解」
急いで部屋から抜け出そうと、ドアを開けた。
「おはようございます八雲さん。いい天気で——「すみません部屋間違えてますよ」——こらぁ!」
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だって相手が強すぎるし。最初から難易度高すぎ。
「あら服部くん。どうしてそんなに必死なのかしら?」
「いやそれはアレです。アレがアレでこうなってるんですよ」
こいつら怖い。笑顔なのに力が強いんですが。どうしてこんなに力強いの? 後ろに般若が降臨してるけど大丈夫?
「八雲くんの後ろにいるのってさ、フレアちゃんだよね?」
「違う。服部焔。フレアじゃない」
いつの間にか籍を入れられてるんですが。しかも服部という苗字に合わせてフレアを焔に改名してるんですけど。この子日本人だったんじゃないの?
「二人はすでに結婚していた!?」
「式場は用意してある。ちなみに明日」
「きみ昨日人になったばかりだよね!? 展開早いよねそれ!?」
今流行りのスピード婚? いや流行ってるのかは知らないけども。
無表情で淡々と告げるあたり、フレアさんはだいぶ肝が据わってらっしゃる。
「ふふ、楽しそうですねお二人とも」
「さぁ、裁判を始めましょうか」
「俺はなにも悪くない。なにもしていないんだ!」
俺の叫びに応えたのは、アリスたち三人の冷たい視線だった。やだもう、そんな目で見られたらゾクゾクしちゃう!
……ほんと、うっかり殺されそうでゾクゾクしてるよ。
「どうしたんじゃ? そういえば、八雲はさっき妾の裸体を見てどう思ったんじゃろうか」
「リサーナ!?」
その呟きとともに、リサーナが風呂場から出てきた。裸体なんて俺見てませんけども。ありのままのリサーナさんは垣間見たけど、ありのままの姿は見てません。
「へぇ、お二人はそういう関係だったんですか……」
「容疑がまた一つ増えたわね。今の気分はいかが?」
俺には、溜息を吐くことしかできなかった。ここからはもう、逃げられないようだ。
しかし裁判について一つ異議を唱える。般若が裁判官っていうのはおかしいと思います。アクアに変更してください……。アクアに裁かれるのならそれもまた本望。
なぜなら俺は、アクア至上主義なのだから!
いや、本当に癒しが欲しい。アクア、もしくはイーナ……俺を癒してくれ……。この三人の般若から俺を救ってくれぇ……。




