月明かり
俺たちは応接間に通された。魔王の計らいで、俺たちは城に泊めてもらえることになっている。なかなかに親切な女性だ。しかも綺麗。完璧とはこのことかっ!
と、脳内一人コントをしているうちに、部屋を出ていった西條が二人の男女を連れてきた。もちろん北條と南條……なのか?
「久しぶりだな八雲!」
「ああ、久しぶりだな北條」
こっちはやはり北條だったらしい。いわゆる細マッチョである彼は背が伸びたようだ。俺より少し大きい。
「昔みたいに拓哉って呼んでいいんだぜ?」
「いや、それはやめとく。それより、そちらは?」
北條の後ろに控えている人たちに目を向ける。……ち、厨二病を患ってらっしゃる女性だ。
厨二病患者さんは、右目には黒い眼帯をつけ、左腕には包帯を巻いている。そして鋭そうな槍を背負っていた。もしかしたら末期かもしれない。痛々しい……。
「まぁ、麗華は変わりすぎたからな……」
「麗華……南條か!?」
「やっと気付いたのね。まぁ仕方ないわ。私の右目は周囲の人間からの認識を逸らしてしまうもの」
何言ってんだこいつ……本当に厨二病末期じゃねぇか。だが、ここは剣と魔法の世界だ。奇異の視線よりも、尊敬の眼差しの方が多い。だから余計タチが悪いのだ。
「厨二病患者だってことはわかった」
「私はそんな病を患ってなどいないわ! これが本当の私の姿よ!」
「説得力皆無だからドヤ顔すんな……」
思わず溜息が出る。呆れを通り越して尊敬しちゃうレベル。やだ、麗華さんってばかっこいい……わたし惚れちゃいそう! 誰が惚れるか。
まぁ、厨二病患者を尊敬したり惚れたりする可能性は微塵もないわけですけれどね。だって見てるこっちが恥ずかしくなるし。仕方ないね!
「麗華はお前の右眼に憧れてこの眼帯つけ始めたんだぜ?」
「にゃ、にゃにを言っているのかしら!? 私は前世の記憶を取り戻しただけよ! 憧れたとか、服部くんとお揃いだとか思っていないわ!」
当たり前だ。俺に憧れるはずがない。憧れるなら東條とか……。東條はどんな顔をしていただろう? まったく思い出せない。まぁ、いいか。気にすることでもない。
「ま、なんでもいいけどさ。南條はなるべくして厨二病になったんだよ」
「だから、厨二病ではないと言っているでしょう!」
「口調に設定はないのか?」
厨二病なら設定は行き届いているはずだ。もちろん、俺もそうだった。恥ずかしくて言えるようなものじゃないけれど。
「だから、私は厨二病ではないわ!」
「わかったわかった。ともかく、お前らが無事でよかったよ」
本当によかった。これで当初の目的は達成できたのだ。
「今は山籠もりしてるけど、蘭ちゃんたちもいるんだよ!」
「ラン? 誰のことだ?」
「クラスメイトの赤峰蘭ちゃんだよ~。八雲くんは冗談が上手だね」
いや、これは冗談なんかじゃない。本当に、記憶がないのだ。それどころか、クラスメイトの顔を覚えていない。名前だけなら一部は覚えているのだが、顔が出てこない。
「本当に分からないの?」
「……悪い」
俺の答えを聞いて、西條は寂しそうに笑った。
「仕方ねえよ、八雲も苦労したんだからさ」
「そうね、あなたが無事でよかったわ」
二人は微笑んでいた。……南條さん。素で喋ってるけど大丈夫ですか?
それから俺たちは、他愛もない話をし続けた。今までの旅のこと、魔王城に至った経緯、何を目的として旅を続けてきたのか、それに加えて昔話もした。
みんなが笑顔で話していたのは嬉しかったし、俺もそれに合わせて笑った。話を合わせることしか、俺にはできなかった。
「いつか、戦争が起きる」
そう言ったのは北條だった。突然切り出されたことに驚き、俺の口からは言葉が出なかった。
どうして、と訊く前に北條は説明を始めた。
「王国側は戦争をしかける気だ。みんな、ガルムって男に騙されてる」
「ガルム……」
白衣の男の、恍惚とした表情が、愉悦に浸っている顔が、脳裏に浮かぶ。肉を裂き、骨を刻むナイフが呼び起される。
「————」
声が耳に入ってこない。
膝が震えている。手も震えている。悪寒が背筋を走る。戦慄が脊髄をなぞる。知らず、俺は自身の体を抱きかかえるようにしてうずくまっていた。
「大丈夫、大丈夫ですよ」
優しい声と共に、俺の体は温かいものに包まれた。そうだ。大丈夫だ。ここにアイツはいない。
大丈夫、大丈夫、と、アリスは俺を抱きしめながら繰り返していた。そのうちに震えが収まり、自然と恐怖も和らいだ。
「ありがとう……」
「私はそばにいますから。大丈夫ですよ」
そう言うアリスの口調は、まるで幼子をあやす母親のようで。その語りを聞くだけで安心感が湧いてくる。彼女はあのときから、俺がこうなったときに対処してくれていた。いつも俺を安心させてくれた。また俺は彼女に依存してしまっている。
「悪かったな北條。話を続けてもらってもいいか?」
「いや、これ以上は特筆して話すようなことはねえよ。ただ、覚悟はしておいてくれ」
「……わかった」
場が静寂に包まれる。この機会に聞いてみようか。さいわい、この場には西條たちもいる。
ずっと抱いていた疑問があった。それは、元の世界に帰る方法があるのか、ということだ。
俺たちがこの世界に召喚されたとき、王は『魔王が所持している魔法具がある』と言った。しかしそれは信じるに値しない言葉だ。
「魔王。聞きたいことがあるんだが、いいか?」
「む? どうしたのじゃ? いきなり目つきを変えおって」
「単刀直入に聞く。俺たちを元の世界に返す方法はあるのか?」
訊くと、魔王は黙り込んだ。西條たちは俯いていた。それを見て、最悪の答えが脳裏をよぎる。
「ない……のか?」
「うむ。すまんが、そのような魔法具は持っておらん」
「……そうか。西條たちの家族も悲しむだろうな。でも、きっと方法はあるさ」
俺がそう言った瞬間、西條は手で顔を覆った。思わず、あ、と声が漏れる。
「悪い、配慮が足りなかった」
「違うの、そうじゃないの……」
「服部くん。私たちの家族はもういないの」
南條の言葉を咀嚼するのに数秒を要した。しかしそれでも意味が理解できなかった。理解したくなかったからなのかもしれない。
「どういうことだ……?」
掠れた問いに答えたのは魔王だった。
「この世界に召喚されたとき、お主らの存在は消えたのじゃ。あちらの世界に、お主たちの生きた証はないのじゃよ」
生きた証、それは俺たちに関する記憶。存在とはすなわち、周囲に認められることであり、周囲の人間の心にとどまることだ。だが、俺たちはその証をなくしたと魔王は言う。
「つまり、俺たちが元々生まれてないことになってるってことか……?」
魔王が静かに首肯した。
♢ ♦ ♢ ♦
魔王城の二階、俺とアクアに充てられた部屋。風に揺れるカーテン、ぼんやりと灯った蝋燭。導かれるように、俺はベランダに出て手すりに体重を預けた。
静寂と暗闇が空を覆っていた。少し欠けた月が浮かんでいた。視線を下へ移すと、そこには造られた池があった。
食事は味がなかったように感じられた。久々に入った風呂も、温かさを感じることがなかった。
俺はあの世界から、消失した。家族に会うことはもうない。確実に、絶対に、会うことはない。
家族から忘れられた。いや、すべてが無に還った。元々俺はいなかったのだ。だから、俺の家族はもういない。
——なら俺は、どうしてここにいる?
それは生まれたからだ。
——どこで?
あの世界、地球という唯一無二の世界で。
だけど、あの世界は俺たちを吐き出したのだ。
違う。この世界に、俺たちは飲み込まれたのだ。一方通行の召喚陣に呼び出されたのだ。召喚されたその瞬間から、俺たちの後ろに道はなくなったのだ。
奪われた世界と奪った世界。
奪われた人間と奪った人間。
カツカツと、人の歩く音がした。
「八雲さん」
隣の部屋を充てられた彼女の声だった。
「……アリスか」
「なかなか眠れなくて……」
月光に照らされて、彼女の髪が艶やかに輝いた。風に揺らされて、彼女のネグリジェが踊った。
不覚にも、その姿に見惚れてしまった。そして俺の視線に気づいたのか、彼女は少し顔を赤らめた。
「そういえばさ、アリスっていつも敬語だよな。どうしてだ?」
「敬語は癖なんです。小さいころから敬語を使っていたからですよ」
「家族にも、か?」
ええ、と言って彼女は笑った。悲しげな笑みだった。
違う。俺はこんな笑顔を見たかったわけじゃない。もっと明るく笑ってほしい。いつものように、楽しげに笑ってほしい。
「そっか。ま、俺なんて誰にでも敬語だったけどな! 俺が底辺だったからだけどさ」
笑顔を作って明るく振る舞う。彼女はやはり、悲しげな微笑をたたえたままだった。
「無理、してませんか?」
「いいや、無理なんてしてないさ」
「やっぱり、言えませんか?」
「……何を」
その長い睫毛を濡らして、彼女は胸の前で両手を組み合わせた。絵画のように美しいその姿は、聖女のようにも見える。
「八雲さんの、本心……です」
一瞬、息が詰まった。
「……なんのことだ? 俺はいつだって本心をさらけ出してるぞ?」
「そう、ですか……」
それきり、彼女は口を閉じた。
彼女は俺の隣に立った。俺は空を、彼女は池を、ずっと眺めていた。言葉のない空間は、やけに心地よかった。
しばらくして、彼女がポツリと呟いた。
「私はずっと、離れませんから。絶対に、忘れたりしませんから」
俺は何も言わなかった。言えなかった。
口を開けば嗚咽が漏れそうだった。彼女の方を向いたら涙が零れそうだった。
「おやすみなさい、八雲さん」
俺は唇を結んだまま、黙っていた。
さっきまでの恐ろしさはすっかり消え去っていた。
月に雲がかかった。霞む月光が俺を照らした。
俺はやはり、彼女には敵わないし、届かない。こんな俺では、月を掴むことはできない。どこまでいっても雲が邪魔をするのだろう。でも、そんなことは関係ない。
彼女たちは今の俺の居場所なのだ。いつか帰る方法を見つけて、今度はみんなを俺の世界に招待しよう。そう思わないと、とてもじゃないがやっていけない。
部屋に戻ってベッドに入る。熟睡したアクアをなでて目を瞑ると、意識はすぐに沈んでいった。
♢ ♦ ♢ ♦
魔王の話を聞いてから、八雲の様子がおかしくなった。
アリスやアクアたちが話しかけても空返事ばかりで、ずっと上の空だった。
私たちに心配をかけないよう、彼は無理をして明るく振舞っていたのかもしれない。そう考えるだけで、アリスは胸が締め付けられるような感覚に襲われた。
夜の帳が下りたのち、アリスは八雲の隣室のベッドに寝ころんでいた。どうしても彼のことが気になって眠れない。
「綺麗……」
月光が、窓から差し込んでいた。手を引かれるようにして、アリスはベランダに出た。
そこには先客がいた。空を見上げている青年がいた。アリスは息を飲んだ。やはり自分たちのせいで無理をさせていたのかもしれない、そんな思考に囚われた。
「八雲さん」
知らず、アリスは話しかけていた。こちらに気づいて、八雲が振り向いた。
「……アリスか」
「なかなか眠れなくて」
そう言ってアリスは苦笑した。実際眠れなかったことが原因だが、今はもう違う。今はただ、八雲の本心を聞きたかった。
八雲がこちらを見つめた。彼に見つめられるだけで、アリスの頰は少しずつ赤くなった。恥ずかしくなって、一瞬気後れしたものの、すぐに気持ちを切り替える。
「無理、してませんか?」
「いいや、無理なんかしてないさ」
「やっぱり、言えませんか?」
「……何を」
八雲の本心が、アリスにはわからなかった。この世界に無理やり連れてこられて、家族を奪われて、彼は今、一体何を思っているのだろう。
「八雲さんの、本心……です」
八雲の目が一瞬だけ見開かれた。しかし、彼はすぐさまいつも通りの笑顔を浮かべた。
「……なんのことだ?俺はいつだって本心をさらけ出してるぞ?」
返答を聞いて、アリスは寂しくなった。切なくなった。自分では彼を支えることもできなければ、相談に乗ることもできない。戦闘でも役に立てない私は足手まといだ、とまで思った。
それからアリスは池に映る月を見ていた。月は少し欠けていた。周りでは星々が瞬いていた。
八雲さんが本心を話してくれるまで、私は待とう。いつまでだって、待ち続けよう。そうすることしか、私にはできないのだから。
池に反射した月は仮初の姿であって、本当の姿ではない。小石を投げ込めば水面は揺らぐし、魚が飛び跳ねれば月の姿は掻き消える。私が見ているのは表面にしか過ぎないのかもしれない、もしかしたらその表面でさえも虚構なのかもしれない。でも、それでも、私は待とう。信じて待つことしか、私にはできないのだから。いつだって明るく振る舞って、笑顔を見せよう。
池に映る月に大切な誰かを思い浮かべながら、アリスは決意した。
「私はずっと、離れませんから。絶対に、忘れたりしませんから」
声は潤いを含んでいた。熱っぽい吐息が空気に触れて白く凍る。
言葉は形にならない。だから、想いはきっと届かない。いや、届かせてはいけない。帰還を望む彼にとって、この想いは枷にしかならない。告げてはいけない。
八雲は返事をしなかった。彼はずっと空を見上げていた。彼の瞳から涙があふれ出そうになっていたことに、アリスは気づかない。
「おやすみなさい、八雲さん」
そう告げて、アリスは踵を返した。彼女の瞳に溜まった涙が月光に反射してキラキラと輝いていた。
自室に戻り、彼女はベッドに入った。窓の外を見ると、月は薄い雲に覆われていた。それでも切れ間から覗く月明かりが部屋を照らしている。ゆらゆら揺れる蝋燭の灯火を吹き消して、彼女は瞼を下ろした。




