肉を斬らせて骨を断つ
巨大な火球が赤焔竜から放たれた。遠目から見ても大きかったのに、だんだん近づくにつれて大きさが増しているようにも思える。
アリスを飲み込もうとする焔。全てを焼き尽くしそうな灼炎の球体。
「そうはさせるかっての」
痛みを押し殺し、全身で風を受けながら走る。抜刀し、魔力を妖気へと変換、ムラサメの刀身に妖気を纏わせた。
アリスと火球との距離はあと僅かだ。それまでに、あの焔を斬る。
唐突に、竜が喧しい咆哮を上げた。勝ち誇ったかのような叫び、一人の女性を焼き尽くさんとしている叫びだ。
ひどく耳障りだった。
「五月蠅い」
右手に握ったムラサメを斬り上げて、赤と黒の入り混じった斬撃を飛ばすと共に納刀し、アリスの元へと駆け寄る。
「ありがとな、アリス」
倒れそうな彼女の体を抱き寄せる。脇腹の傷に気をつけて、そっとだ。
すると彼女はこちらを見上げた。涙をぽろぽろと零して、しゃくり上げている。
「やくも、さんっ……!」
俺を信じて時間を稼いでくれたことが嬉しかった。信頼に足る存在になれた、そう思うだけで頬が緩んだ。
だから優しく笑いかけて、アリスの頭に手を置いた。
「ごめんな、痛かっただろ?」
脇腹からは流血し、頬や足には裂傷ができている。アリスは横に首を振って否定するが、それが嘘だということはすぐにわかった。
痛みは慣れるようなものじゃない。たとえ何度も同じ痛みを味わったとしても、だ。それは俺が一番よくわかっている。
痛みは脳が出す危険信号だ。痛覚があるからこそ人は危険を避けようとするのだから。痛覚がなければ、人はすぐ死ぬだろう。
「あとは任せとけ」
それだけ言うと、アリスは安心したように目を閉じ、顔を俺の胸にうずめて身を預けた。
「本当に、ごめん……」
声が震える。申し訳なさよりも、自分への怒りの方が強い。
「お前、そこから動くなよ」
赤焔竜を睥睨し、アリスをしっかりと抱きかかえる。
彼女の傷を早く癒してあげたい。早く怪我を治して、痛みも消してやりたい。
数十個の足場を一気に作り上げ、それを蹴って竜王の元へ向かう。
背後からの魔力の飛来を感知、即座に球体状の聖壁を作り上げ、相殺する。一枚の聖壁でダメなら、形状を変えればいい。
竜王の傍には、アクアとイーナ、リアと村長さんがいた。さらにその奥には村民全員が集まっている。
「竜王。水をくれ」
「わかっておる」
竜王から瓢箪を受け取り、アリスに呼びかける。
「アリス、これを」
腕の中に抱いた彼女の口元へと瓢箪を持っていき、少しずつ飲ませていく。
「ありすだいじょーぶ?」
「ああ、大丈夫だ。心配するな」
アクアは心配そうな顔つきでアリスを見ていた。
「……なかなか治らないね」
「そうだな」
イーナの言う通り、回復が遅い。きっと、一度に飲む量が少ないからだろう。
「冷たいかもしれないな。許してくれ」
そう言って、瓢箪の水をアリスの脇腹にゆっくりと掛ける。冷たさか、それとも苦痛か、アリスは一瞬表情を変えたが、すぐに穏やかな表情に戻った。
見れば、脇腹の傷は癒えている。これならもう大丈夫だろう。
瓢箪の水を一気に呷る。当然、痛みが引いて傷もあらかた癒えた。
「竜王、後は頼む」
「わかっておるよ」
アリスを竜王に預け、振り返る。太陽と錯覚するほどの大きな火球を形成して、赤焔竜は俺を待ち構えていた。
「じゃあ、行ってくる」
「……気をつけるんじゃぞ」
返事代わりにと、右手をひらひらと振る。……気をつけろ、か。
「無理せずとも逃げればよいのじゃ」とか言ってくれた方がありがたかったよ、全く。アイツを倒すことを前提として話しやがって。
『なんで笑ってるの?』
「——ん? 俺、笑ってたか?」
顔を触ってみると、確かに口角が吊り上がっている。どうやら俺は笑っていたらしい。
『死ぬかもしれないのに、よく笑っていられるねー主人は。怖くないの?』
「ふふっ、ムラサメ、お前……面白いこと言うなぁ!」
ムラサメの問いが可笑しく感じられて、不覚にも吹き出してしまった。
『なんで笑うの!?』
「だって可笑しいじゃないか。そんなのは愚問だ。俺にとっての答えは一つしかない」
『可笑しくなんてないよ! でも、主人の答えって何? 喜んでるの?』
ああ、本当に可笑しい。喜ぶわけがない。だって俺は何回も“死”の恐怖を体感しているんだから。
「怖いさ。途轍もなく怖い」
だけどさ、と言いかけて、口を噤んだ。少しの気恥ずかしさがあったからだった。
しかしムラサメは、『だけど、なに? なんなの?』と興奮気味に訊いてくる。……恥ずかしいけど、ムラサメになら言ってもいいか。
「……死ぬのは怖いけどさ、失望されるのはもっと怖い。アリスや竜王、イーナやアクア、それにムラサメ。お前らから信頼されなくなるのはさ、すごく怖いんだよ」
きっと俺は、彼女らに依存しきっているのだろう。彼女たちがいなくなったら、俺の居場所は消える。死んで居場所がなくなるよりも、ずっと寂しいし、悲しいし、怖い。
「だから俺は逃げない。いや、逃げられない、って言った方が俺らしいかもな」
自嘲気味に笑いながら話す。ムラサメはどうやら俺の態度にカチンときたらしく、声を荒げた。
『主人さ、それ本気で言ってるわけ? だとしたら、本当に馬鹿だよ!』
「どうして俺が馬鹿なんだよ。戦闘でも役に立たなかったら、俺は不必要だろう?」
『その考えが既に馬鹿なの! そんなふうに思ってるわけないじゃん!』
いやいや、と言いかけて、その言葉を飲み込んだ。
目の前から太陽の如き火球が迫ってきていたからだ。
「話の途中だ。邪魔するな」
左手を翳し、聖域を発動。
四つの黄金の魔法陣を箱型に展開し、火球を閉じ込める。
「“潰せ”」
言い放ち、左手を握りしめた。
俺の言葉と動作に呼応して聖域が火球を圧縮し、破裂させた。聖域には傷もついていない。完璧な仕上がりだろう。
最初からこれができていればアリスは戦わなくて済んだのに。
「ああ、苛々する。こんな自分が大っ嫌いだ」
俺がもっと早ければ、アリスは傷つくこともなかったはずなのに。
胸中に苛立ちが募っていく。思考はひどく冷静なのに、全身が煮えたぎるように熱い。
彼女に時間稼ぎなんて役目を与えたのは俺だ。俺が彼女を傷つけた。
自分が許せない。
「本当に、大嫌いだ」
ナイフを左手で、ムラサメを右手で構える。
この状態はもって五分。それ以上は、文字通り体を壊しながらになる。まぁ、そんなことはどうでもいい。
「痛覚を消せればいいのに」
脳による危険信号なんていらない。“危険察知”があれば少なくとも即死は避けられる。
そんなことを思った瞬間だった。
「——ッ!」
灼けるような熱さ、茹るような血流が右目に集中し、痛みをもたらした。
激痛、眩暈、視界が揺れる、歪む、平衡感覚が失われそうになる。
「——なんなんだよこれっ!」
奥歯を食いしばって耐える。まだ揺れる視界に黒い物体が映り、次の瞬間には俺の体を衝撃と斬撃が襲った。
俺の思考を置き去りにする勢いで体は吹き飛び、皮膚は切り裂かれた。
「痛覚さえなければ!」
そう叫んだ瞬間、まるで嘘だったかのように激痛は治まった。痛みも熱もなくなった。何も感じない。
気味が悪い。どうして何も感じない? いや、感覚はある。腕を触ればしっかりとした感触が伝わる。しかし、痛みは感じない。
謎が渦を巻き始めた。ぐるぐる、ぐるぐると、思考の渦が俺を飲み込みかけていた。
『次が来るよ!』
ムラサメの声に呼び戻されて、意識がハッキリと覚醒する。
——そうだ、今はなんだっていい。痛覚が機能していないなんて、かえって好都合だろうが!
「悪い。少し考え事をしてた」
ムラサメを握る手に力を籠めて走る。眼前に迫り来るは黒刃。それらを全て薙ぎ、裂き、斬っていく。
漠然と纏わせるイメージじゃダメだ。刀身をコーティングするように妖気を薄く、鋭く纏わせないといけない。
魔力の変換と共に、ムラサメに纏わせた妖気に意識を集中させる。キリキリと軋むような音が脳内で反響し、そして、カチリと嵌った。
ムラサメが魔力を変換する流れが伝わってくる。ムラサメの切先から柄頭の感覚、さらには刃に纏わせた妖気の微細な動きさえも伝わってくる。右腕を介して、ムラサメの感覚と俺の感覚が融合したという錯覚に陥った。
今なら何でも斬れる。どんなものでも両断できる。
「俺の怒りと苛立ち、全部お前が請け負ってくれよ。赤焔竜」
竜に肉薄し、ナイフとムラサメで交互に斬りつけていく。斬撃は鱗を、肉を裂き、鮮血を噴出させる。それを浴びても、熱さは感じない。ただ肉の焼ける音と不快な臭いがするだけだ。
激痛による竜の絶叫が耳に入る。
——五月蠅い。
黒刃が、火球が、尻尾が、刃翼が、牙が、俺を殺さんと迫る。
この攻撃がアリスを傷つけた。俺がアリスを傷つけた。許せない、許さない。殺す、殺してやりたい。斬って斬って、斬りつくしてやりたい。
憎悪、嫌悪、殺意。
前は抑え込もうとしていたが、今はもう抑える必要はないだろう。それが俺の動力源となるのなら。その中に沈むことでアリスを守れるのなら。
そうだ、殺せばいい。邪魔なものは殺せばいい。単純なことじゃないか。
得心して頷きながら、押し寄せる攻撃の波に飛び込んでいく。心臓の鼓動が速くなっていた。
黒刃を斬る。肌が切り裂けようが関係ない。早く殺したい。
火球を貫く。全身が焼けようが関係ない。早く殺さないと。
尻尾を断ち切る。翼を切り裂く。牙を砕く。
斬って、壊して、殺したい。
竜の首筋に刀を這わせようとしたとき、竜が一際大きい咆哮を上げた。
刹那、俺の左肩に衝撃が伝わる。左肩から黒い魔力の槍が突き出ていた。しかも、槍の先端はその形状を瞬時に変えた。黒い薔薇が咲いたかのような姿となった槍の先端は、しっかりと俺の左肩を固定していた。
「だからどうした?」
肩を無理矢理動かして、槍の束縛から抜け出す。左腕が上手く動かない。肉が抉れ、夥しい量の血が流れている。
だが関係ない。殺す。
空を蹴って跳び、竜の顔に接近する。
「元から深紅の瞳なら、次はもっと赤くなるのか?」
ナイフを持った左腕ごと竜の右目に突き刺す。ほとんど感覚のない腕を動かし、竜の頭蓋の裏をかき回す。気色悪い音だ。
「もういいかな」
呟いて、左腕を引き抜く。不快な音を鳴らしながら、俺の左腕は湯気を伴って現れた。肉は焼け焦げ、骨が見えている箇所もある。が、やはり痛みはない。
まぁいいか、そんなことどうでもいい。それより、あとは殺すだけだ。
「知ってるか? 俺の故郷には“肉を斬らせて骨を断つ”って言葉があるんだ」
言い放ち、その場を離れる。
「俺の場合、肉を焼かせて目を穿つ、ってところだけどな」
もちろん返事はない。竜は暴れ、のたうち回っていた。
それを見て、思わず笑い声が漏れる。いい気分だった。やっとコイツを殺せる。その喜びが脳髄を駆け巡った。
「最高だ」
思い切り踏み込み、縦横無尽に空を駆ける。方向転換を繰り返しながら、速度を上げていく。
加速。
視界が揺れ続ける。しかし竜の体躯は視界の中心に留めたまま。
加速。
風切り音が耳を劈く。竜の咆哮だけは耳に届いている。
加速。
全身が軋む。呼吸が荒くなる。殺意は治まらない。
加速。
音が消えた。耳から液体が流れる感覚がある。鼓膜が破れたのだろう。どうでもいい。
加速。
そろそろいいだろう。首を斬ってやる。
妖気のコーティングで、より鋭さを増したムラサメ。限界を超えたエネルギーで生み出した速度と力。
この三つの要素が合わされば何だって斬れるはずだ。
最大限の速度に達した瞬間、竜の首元へと一直線に駆ける。
憎悪と嫌悪、そして殺意を刀身に乗せて————
それはまさしく断末魔の叫びだったのだろう。音が耳に届くことはなかったが、きっと咆哮していたはずだ。
竜の首を刎ね、蹴り飛ばした後の気分は穏やかなものだった。しかし、疑念が残った。
俺はさっき、何を考えていたんだ?
記憶がなかった。いや、どんな風に殺しただとか、自分がどのような行動をしたか、というのは明確に覚えている。
だが、そのときの言動と感情が思い出せない。自分自身が許せなくなったことまでは覚えている。そのあとは全く覚えていない。
まぁいいか。ずっと考えていたって仕方ないしな。
ムラサメを納刀する。まだ痛みはない。戻って回復すれば大丈夫だろう。
村の入り口では竜王たちが待っていた。
アクアは笑顔だ。目の周りを真っ赤に腫らしているが、イーナもアリスも笑顔だった。アリスは起きていて大丈夫だろうか? 先ほどまで寝ていたはずなのに。
竜王に視線を移す。彼は愕然としていた。
「その右目に映る魔法陣……」
何か呟いたきり、彼は黙り込んだ。音が聞こえればよかったんだが。
ボロボロになった裾が引っ張られた。見ると、リアが俺に水を持ってきてくれていた。
ありがとう、と言って受け取ったつもりだったのだが、彼女はさも不思議そうな顔をした。
とりあえず、水を飲んで傷を癒す。
十分ほどで全身の傷は治った。
「ありがとう、リア」
「どういたしまして! その右目、かっこいいね!」
「右目……?」
右目がかっこいい? 金色だからか?
だとすると、昨日のうちに言われていてもおかしくはないはずだが……。
「どうして右目がかっこいいんだ? 金色だからか?」
訊くと、リアは首を横に振った。
「違うよ! 金色の目に黒いのが映ってるのがかっこいいの!」
「黒いの?」
「……魔法陣のことだよ。金の瞳に黒の魔法陣が映ってるの。それ、何の魔法?」
イーナの説明によれば、俺の右目に魔法陣が展開されているということだが……そんな魔法は知らない。
「あ、消えちゃった!」
リアが俺を指さして告げた瞬間、全身が切り裂かれたような痛みが生じた。次いで全身を覆う焦熱。
「なん…だよ、これっ……!」
腹部への衝撃。そして灼熱、左肩の激痛。左腕が焼けるように熱い。
「ぐっ……ぁぁあああ!」
全身の傷も左腕の火傷も全て治っているのにっ……どうしてこんなに痛むんだよっ!
「大丈夫!?」
「ごしゅじん!?」
全身の骨が悲鳴を上げた。圧縮されているかのような痛み。体が折れ曲がりそうなほどに痛い。
「ぁぁああああ————!」
両耳に激痛。喉を焼く痛み。そして、全ての痛みが最高潮に達した。
骨の一本一本を圧縮機で押しつぶすかのような苦痛。体を溶解させるのではないかと思われるほどの熱。ナイフで皮膚をくまなく削いでいくかのような激痛。
右腕にかかる重圧。捻じ曲げられる体。錯覚が襲ってくる。
嫌だ、もうこんな痛みは味わいたくない。あのときと同じだ。嫌だ。
「止めてくれ……止めてくれよっ…………」
嫌だ、止めてくれ、もう痛いのは嫌だっ……。
『ほらほら、腕が溶けてしまいますよ?』
白衣の男が俺の腕を焼く。
『まだ四本めですよ? あと十六本も指が残っているじゃないですか』
固定された指。爪に針を詰められ、ハンマーで叩き潰される。砕けた針が俺の爪の内側で踊る。
『わかりますかぁ? 今、肺を直接触っているんですよぉ。ふふふ、温かいですねぇ』
腹部に空けた穴から異物が侵入していた。体の内側が蹂躙され、臓物をなでまわされる。痛みと恐怖と吐き気が襲う。
『喉から直接ムカデを入れたらどうなるんでしょうねぇ?』
——嫌だ、もう嫌だ、止めて、止めてください
『私が止めるとお思いですか?』
——止めて、入れないで……声が、出ない……うぐっ……
「もう殺してくれ……もう、嫌だ……」
「八雲さんっ!」
嫌だ、怖い……怖い……痛い……
白衣の男が俺を揺らしている。
——拷問の時間は嫌だ
——もう殺してくれ
「八雲さん!」
「ごしゅじん!」
——温かい
「八雲!」
「お兄ちゃん!」
——知らない人たちの声がする……いや、どこかで聞いたことがあるような……
ああ、そうだった。
俺の知っている人たちだ。
もう、大丈夫だ…………
白濁した意識、体を包む浮遊感。
まっしろに、まっしろに染まっていく————




