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時間を稼ぐために

 


「なんだか嫌な夢を見たような……」

 

 思い出せない。アリスは寝ぼけまなこを擦りながら呟いた。

 寝袋から出て立ち上がる。自分の服装を見て、彼女は目を細めた。


「このコート……」 


 いつもの服装——聖衣の上に一着の黒いコートを羽織っていたからだ。アリスはこのコートをよく視線で追いかけていた。だから、彼女はそのコートの持ち主が誰であるかをよく知っている。

 その人はアリスをここまで連れてきた人物と言っても過言ではない。

 

「本当に不器用ですね、八雲さんは」


 聖衣は踊り子のように露出度が少し高めの服だが、その外見的特徴とは裏腹に防寒性に優れている。寒冷地帯では体を温めるという不思議な機能を持っているからだ。 

 もちろん、八雲はそんな機能があることを知らない。だからこそ、アリスは彼に深い感謝の念を抱くと共に、この機能を八雲には教えないと決めた。

 

 脱いだコートを綺麗に畳みながら、アリスは頬を緩めた。八雲の純粋な優しさが彼女の心に沁みていくようだった。

 聖衣を着ているおかげで肌寒さは感じないし、むしろ少し温かい。しかし今の彼女にとっては、服の機能による温かさよりも、胸の内に生じた温かさの方がはるかに心地よく、嬉しかった。


「私はもう、一人じゃない」

 

 アリスは自身の口から漏れた呟きを噛みしめ、微笑した。

 一人旅をしていた頃の寂しさはもうない。彼女には大切な“家族”ができていた。



    ♢   ♦   ♢   ♦

 


 八雲の説明を聞きつつ、アリスは今朝のことを思い出していた。交戦中だというのに、八雲の隣に立っていたら何故か黒いコートが脳裏に浮かんだのだ。

 

「頼んだぞアリス」


 名前を呼ばれて、アリスは頬を緩めた。それは誰も気がつかないほどに小さいもの。けれど、アリスにとっては大きなものだった。


「任せてください!」


 大切に思える人の何気ない一言が、自分を信じて頼ってくれたことが、アリスには嬉しかった。

 だから、彼女はとびきりの笑顔を見せて元気よく宣言したのだ。


 八雲は一瞬微笑し、竜へと目を向ける。すでに微笑はなく、ただ敵を討たんとする真剣な表情が浮かんでいた。

 ——あの竜は八雲さんが何とかしてくれるんです。なら、私はそのための時間を稼がないと!

 

「行きます!」


 右足で思い切り踏み込み、次の瞬間アリスは宙を駆け出した。


 竜のわきを通り抜ける際に聖剣で斬りつけるものの、傷は浅い。鱗に少しばかりの傷をつけるだけだ。  

 その後もアリスは方向転換を繰り返しては、牽制の一太刀を食らわせていく。しかし竜は微動だにしない。それがかえってアリスを不安にさせた。


 ——どうして攻撃をしてこないんでしょうか?


 アリスは思考しながらも跳弾の如く空を駆け巡る。その間も、竜は視線でアリスを追うだけだった。


「それならっ!」


 数十秒の後、練り上げた魔力を高密度に圧縮してイメージを膨らませる。

 イメージが完成すると同時、高く跳躍したアリスは聖剣を納刀し、両手を竜へと翳した。 


「“聖光球”!」  


 詠唱と共に巨大な魔法陣がアリスの目の前に現れた。そこから射出された聖光球は、眩い光を放ちながら竜の巨躯を飲み込む勢いで迫っていく。


「これならどうですか!」

 

 確信を胸に、アリスは再度跳躍する。

 一応のために距離をとり、また、竜の動きを見逃さないようにするためだ。


 結果的に、竜は回避行動を取らなかった。不審に思いつつも、アリスは目を閉じた。

 そして、網膜を焼くほどの光の波が先に、少し遅れて耳を(つんざ)く轟音がアリスを襲った。それは聖光球が直撃したことによる光と爆音だ。


 光が収まったころにアリスは目を(しばたた)かせながら竜を見る。

 

「——え?」 


 思わず漏れた声。目の前の光景をアリスは信じられなかった、信じたくなかった。

 聖属性魔法は魔物に対して効果的だ。ましてやアリスの膨大な魔力を注ぎ込んだ聖光球ならば、鱗ごと焼けただれてもおかしくはない筈なのだ。

 

 それなのに、竜に目立った外傷はない。それは明確な異常だった。

 竜を取り巻いていた魔力はすっかり消えていた。竜はその魔力で身を守ったのだ。しかし、アリスはそれに気づくことができない。


「どうして、効かないんですかっ!」


 その異常性に、アリスは思わず叫んだ。そうすることしか出来なかった。

 竜はアリスの問いに応えない。ただ静かに、冷静に、ルビーのような双眸でアリスを見つめていた。

 

 焦りがアリスの胸中に広がっていく。

 気づいたときには、アリスは走り出していた。


 呼吸は荒くなり、髪は汗で濡れている。

 全身が倦怠感に包まれていた。魔力が枯渇しかけている際の症状だ。 


「まだ大丈夫っ!」


 アリスの接近に呼応するかのように、竜の翼が風を起こした。風ではなく斬撃と言った方が正しいかもしれない。

 普通は視認することのできない風が漆黒の魔力を纏ったことで鋭さを増し、一筋の斬撃となっていた。


「なんですかこれっ!」


 アリスは漆黒の魔力を纏った風の連撃を避け、また、聖剣で受ける。風の斬撃はまるで戦士の一撃のように重く、鋭い。

 次々に迫る風を冷静に対処していくも、段々とアリスの額には汗が滲み始めた。

 

 ——押し切られるわけにはいかないんですっ!


「“聖壁”!」  


 即座に聖壁を展開。そしてアリスは竜から距離をとった後、再び竜へ向かって駆け出す。最小限の動きで風を回避し、速度を上げて竜に迫っていく。

 竜もまた、動き出していた。自らの尾をアリスに向けて薙ぎ、翼で斬撃を繰り出していく。

 

 アリスはそれらの攻撃を躱しつつ、さらに速度を上げる。全身の骨が軋むほどの負荷。歯を食いしばって耐え、アリスは聖剣を構える。


「あともう少しっ!」


 竜に肉薄してから、アリスは自分の失敗に気づいた。

 ——こっちを見ていない? 

 深紅の瞳が向かう先には、瞑目している八雲の姿。彼の周囲は集まった魔素のせいか、空間が揺らめいている。


 徐に、赤焔竜は大きく口を開けた。口腔内から発せられる火の粉で形成されていく火球。それは人を飲み込むには充分すぎる大きさだ。


「させません!」 


 竜の意図に気づいたアリスは咄嗟にポケットから紙飛行機を取り出して投げ、風魔法を駆使して素早く竜の顎の下へと潜り込ませた。

 彼女は向かう先に魔力で空気を固めた二つの足場を作りだした。抑えきれない速度のままに一つ目の足場を蹴り、二つ目の足場を蹴って、三角跳びの要領で方向転換、八雲の元へと向かう。

 

「“重圧”!」


 アリスが唱えると同時、紙飛行機が塵となる。そして、塵が幾何学模様の陣を空に描き出した。魔法陣は紫色の光を放出し、次の瞬間、竜の体躯が前のめりになり、火球は竜の口で爆発した。

 その隙に、アリスは竜と八雲の間に立った。


 不完全燃焼に終わった灰色の煙が、まるで反撃の狼煙のように空へと昇っていく。


「成功、しました……」 

 

 安堵するのも束の間、煙の中から斬撃が飛来。アリスはその一撃を、身を捻って躱す。

 が、すぐさま二撃目が来ていることに、彼女は気づかなかった。


 二撃目の斬撃は脇腹を掠めたかと思うと、纏っていた漆黒の魔力を霧散させ、さらにアリスの体を切りつけた。それはさながら刃の嵐。小規模な竜巻とも言えよう。


「——っ!」


 斬撃が掠っただけだというのに、脇腹には深い傷ができ、そこからは鮮血が流れだしている。

 魔力による攻撃は微々たるものであったが、それでも聖衣の所々を裂き、全身には切り傷を作る威力を持っていた。


 アリスは無数の裂傷による激痛に耐え、歯を食いしばって声を絞り出す。


「八雲さんの準備が終わるまでの時間を、稼ぐんですっ……!」


 決意に満ちた声には力がない。

 アリスの残存魔力が残り少ない状態だったからだ。魔力が枯渇しかけていることにより、アリスの意識が朦朧とする。

 しかし、それでもアリスは倒れない。倒れてはいけないと自分の体に鞭を打っていた。自身の後ろに、守るべき人がいるからだった。


 突如として、竜が咆哮した。

 大気が振動し、アリスの鼓膜をビリビリと痺れさせる。と同時に、膨大な魔力が背後に集まっているのをアリスは肌で感じた。


 ——これは紛れもなく八雲さんのものですね。

 昨日も手合せをした相手の魔力、半年間を共に過ごしてきた彼の魔力。アリスがその魔力を間違えるわけもなかった。

 

 アリスは、竜の目つきが変わったように感じた。赤焔竜は確実に背後の存在を警戒している、そうアリスが感じたのも当然と言えるだろう。

 そして竜が動き出した。再びの斬撃。迫る黒刃に、アリスは両手を翳して叫ぶ。


「絶対に通さないっ!」 

 

 聖壁の重複展開。

 幾重もの魔法陣が連なって、アリスの前に無数の盾が出来上がる。斬撃は勢い虚しく、三枚目を壊して消失。竜は唸った。その唸りは怒りか、それとも、焦燥感からくるものだったか。どちらにせよ、彼女には関係のないことだ。


 守る。

 その一心が、彼女を奮い立たせていた。

 ここで全力を出し切って力尽きても、後ろの青年がなんとかしてくれる。そんな、根拠のない安心感をアリスは感じていた。


「グルゥァァアア!」


 さらに竜は狂気の斬撃を繰り出した。黒刃が盾を、一枚、二枚と破っていく。


「八雲さんには届かせない!」


 アリスも残存魔力を駆使して盾を形成。

 果たして、斬撃はまだアリスの元には届かない。しかし彼女の言葉には、自身を守るという意味は含まれていなかった。 


 無数の斬撃の合間に、火球が混じり始めた。それらは、威力と勢いに任せて盾を砕き、光の残滓だけを後に残していく。

 止まらない猛攻に、聖壁は数をドンドン減らしていった。

 

「——あ、れ……?」 

 

 言いようのない脱力感。全身からフッと力が抜けていき、意識さえも白に染まっていく。

 操り人形の糸の末端を断ち切ったかのように、アリスは崩れ落ちそうになった。


 ——まだっ……まだですっ……! 


 アリスは唇を思いきり噛んだ。血の臭い、鉄の味が嗅覚と味覚とを刺激。さらに唇の痛みで、アリスは意識を何とか保ち、その場に踏みとどまった。

 それは一瞬のことだった。

 

 なのに、彼女の目の前には盾がなくなっていた。

 その一瞬を狙ったかのように、竜は全力で聖壁を消滅させていたのだ。


 竜の顔が、赤く大きな球体で覆われた。あまりの熱気に周囲の空間が揺らめく。

 今までで最大の火球。それは、アリスを焼き尽くすには充分すぎるほどだった。

 

「聖……壁!」


 苦悶に顔を歪めながら、アリスは詠唱した。

 現れたのはたった一枚の盾だ。しかも、魔力が不十分であったせいで、聖壁は自壊しかけている。


 火球が竜の口から離れて、聖壁を破壊して接近し、アリスの視界を燃え盛る炎の球が覆っていく。

  

 無論、回避だってできる。しかし彼女が避ければ、火球が八雲に当たるのは必然。

 

「そんなこと、できるわけないです」


 轟々と迫り来る火球を見据え、アリスは力なく聖剣を握りしめようと力を籠め————ガクンと体勢を崩した。


 思考に体が追いついていなかった。


 このままじゃ……! 

 

 その場に踏ん張ろうとするも、感覚がない。唇を噛んでも、噛み切るだけの力が入らない。

 脱力感は思考すらも侵蝕し、意識が白濁として、言いようのない浮遊感がアリスを包む。


 耳に届いたのは、勝利を確信した竜の咆哮。


 視界を覆うは、赤、赤、赤。

 ふらりと揺れたアリスの視界を埋め尽くす火球。勢いそのままに、火球はアリスを飲み込もうと迫る。 


 悔しくてたまらなかった。自分を頼ってくれたのに、それに報いることができない。

 歯噛みすることもできない。最後の力なんて、振り絞ることすらできない。何も、何もできない。


 後ろに倒れていく彼女の後に、数滴の涙が残る。

 悔しくて、虚しくて、仕方がない。そんな無力感の波に、彼女は搦めとられた。


 刹那、破裂音が響いた。


 

 


「ありがとな、アリス」





 一閃。


 届いた声と、視界に映る一筋の斬撃。そして、背に伝わる温かな感触。

 堰を切ったように、涙が、嗚咽が、止まらない。顔をくしゃくしゃにして、アリスは泣いた。


「やくも、さんっ……!」


 アリスを抱いて、八雲は優しく微笑んでいた。

 

 


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