狂気の孵化
さて、どうしたものか。
ムラサメの斬撃は通らないし、青の妖気も通用しない。なら一瞬の隙を作って、頸動脈を斬るか? 現状、一番効果的な戦略だろう。だが、それは困難だ。
でも、今ならできる気がする。……なんて、さっきまで苦戦してた奴の言葉じゃないよな。
苦笑が漏れる。けれど、どこか確信めいたものが胸の内に湧いていた。
脱力したまま目を閉じて、“魔力感知”を発動させる。下から接近してきている大きな魔力、そして、俺と同程度の魔力を有している隣の彼女。
それを感じて、なぜか安心した。先ほどまでの焦りが消えている。
迫り来る巨大な存在に対して、畏怖の念はあるが焦燥感はない。不思議な気分だった。
突き抜けるような風が下から吹いて、俺の前髪をふわりと揺らした。
重い瞼をあげて、眼下を見る。こちらへ向かってきている竜の瞳には狂気の色が窺えた。
「いきますっ!」
アリスが動いた。俊敏な動きで竜を翻弄しながら、聖剣で横っ腹を斬りつける。
うざったそうに竜が尻尾で殴りつけようとするが、アリスの速度には追いつかない。
蝶のように舞い、蜂のように刺す。
スピードで相手を翻弄しながら、隙を突いて一撃を加えていくそのスタイルはアリスの得意とするものだ。
「俺だってやるときはやるんだ」
加速してムラサメで斬る動作に入ると、竜がこちらに反応を示した。しかし、俺の意図はそこじゃない。
視界の奥に映るアリスと目が合う。すると、彼女は真剣な面持ちで頷いた。でも絶対俺の意図を汲んでないと思う。まぁそんなことはどうでもいい。
「ほら、こっちだ!」
指で自らの首をつつく。殺せるものなら殺してみろ、という俺なりの挑発だ。
果たしてこちらに意識を向けてくれるかどうか。一種の賭けだったが、竜は俺に狙いを定めてくれた。
俺を噛み砕こうと竜の牙が迫る。直角に方向転換し、右に飛んで牙を避けたのち、竜の頭上へと向かった。そして、片手を翳す。
「“聖炎”! “獄炎”!」
立て続けに聖炎と獄炎を放つ。
効くかどうか、いや、注意を引きつけられるか、ってとこだな。
聖炎でその鱗を溶解させ、獄炎でその皮膚を爆発させるという算段。そしてその隙にアリスが頸動脈を——と思ったのだが。
それはやはり無理だったらしい。爆発による煙の中から、凶暴な牙が俺を穿たんと現れた。
「やっぱり意味ねえか! クソッ!」
舌打ちしながら避ける。
ムラサメの妖気も通じないとなれば、残る選択肢も限られる。でも、竜魔法はまだ使えない。あれを使ったら数時間は動けなくなる。使うとしても、確実に勝てる場面じゃないとダメだ。リスクがでかすぎる。
「これでどうですかっ!」
音速を超えているようにも思える速さ。そんなアリスが一瞬だけ視界の端に映ったかと思うと、小さな唸り声と共に竜の体がくの字に曲がった。
アリスが腹部に蹴りをお見舞いしたらしい。めちゃくちゃ勢いをつけたライ〇ーキックみたいな感じだ。
俺の期待とは違う形の攻撃だが、それでも充分なダメージを与えられているようだ。
『八雲、アリス聞こえるかの? ヴォルはもう無理じゃ。思考がおかしくなっていて会話もできぬ。……殺してやってくれ』
頭の中に直接語りかけてくる声、竜王だ。これが念話というやつだろうか? そんなことを思いながら、竜王の言葉を咀嚼する。
戦友を殺す。
共に死線をくぐってきたであろう戦友を殺すという覚悟は、どれだけ重いのだろう。
いや、そんなことを考えている暇なんてない。殺そうとしてくる相手に憐憫の情を持ったって何の意味もない。こっちだって死に近い場所に立っているんだから。
「竜王の言ったとおりだ……殺すぞ」
「……え? あ、はい!」
一瞬、寂しげな表情を見せた彼女だったが、すぐに感情のスイッチを切り替えたらしい。その目はすでに竜を捉えている。
竜は再び翼を広げ、上昇した。巻き起こる熱風に、思わず袖で顔を覆う。
「こっちだ!」
俺が正面で注意を引きつける。竜は背後のアリスに気づいていない。
このまま竜の意識をこっちに集中させないとな。
「これでも喰らっとけ!」
顔に向けて放つ斬撃。刀が弾かれ、手には痺れが残った。手応えはなかったものの、竜の顔には小さな傷がある。
傷を負わせているのに、奴は痛がる素振りがない……? ダメージは蓄積されているけど、アイツは痛みを感じていない……?
生じた違和感を一旦飲み込み、視界の奥のアリスを見る。瞑目した彼女が何かをつぶやくと、水色の魔法陣が彼女の頭上に展開された。
その魔法陣から線状に放出された水が、まるで蛇のように聖剣に絡みつく。魔法の応用だ。
目を開いたアリスが竜に攻撃を仕掛ける。白銀の聖剣に水を纏わせ、彼女は赤焔の竜へ剣を振るった————はずだった。
次の瞬間、竜の強靭な尻尾によって彼女はあっけなく吹き飛ばされた。遠目でも、その攻撃の威力が強かったことがわかる。
「アリスッ!」
彼女の安全は俺の最重要事項だ、決して死なせやしない。
アリスの元へ急ごうとした俺の前に、巨大な体躯に似合わぬ俊敏な動きで竜が現れた。あくまでも俺を向かわせないってことか。冗談じゃない。
「邪魔なんだよ!」
緊急停止して、竜を見据える。
竜は再び咆哮を轟かせた。眼前に迫る火球は、俺の身丈の三倍ほどあるだろう。その焔を前にしてムラサメを構える。魔力を送ったムラサメから赤黒い妖気が放出されていく。
一閃。
ムラサメで縦二つに分断した火球は俺の両脇を掠めていった。
熱風を肌で感じながらも前を向く。そこにはまたもや火球。あまりのしつこさに苛立ちが募り、声を荒げて叫んだ。
「邪魔だって言ってんだろ!」
振り下ろした刃を戻す暇もないままに二弾目の火球が襲ってくる。
「うぉぉぉぉっ!」
ムラサメを握る腕に力が籠もる。
下から斜め右上方向へと斬り上げて、俺は二弾目の火球を斜めに分断した。
直後、視界がひらけたと思ったら、今度は竜の牙と舌、そして火の粉がすぐそこにまで接近していた。
「なっ! いつの間に!?」
戦慄のあまり、叫ぶ。
喉奥の上部から火の粉が集まって、そこにはすでに三弾目の火球が形成されていた。
————避けきれない!
灼けるような熱気を感じているというのに、底冷えするような悪寒が背筋を襲った。俺はこの感覚をよく知っている。
それは、“死”の恐怖だ。
その恐怖で埋め尽くされそうな思考を振り切り、射程範囲内からの脱出を図る。空気でできた足場を左足で踏み込み、“迅速”で一気に飛んだ。
————が、それは文字通り一足遅かった。
「——ッ!」
声にならない悲鳴。
逃げ遅れた左足を灼熱と激痛が襲う。痛みで意識が吹っ飛びそうだ————だけどッ!
「こんなんじゃ人は死なねえんだ!」
左足を溶かすのではないかと思うほどの熱————いや、熱どころじゃない。灼熱を通り越した激痛が俺の神経を刺激していた。
溜まる涙と吹き出してくる額の脂汗を左袖で拭い、歯を食いしばって痛みに耐える。
肉の焼け焦げた臭い、肉が焼ける音、この二つが俺の不快感を増幅させていた。
「ハッ! 自分の肉でも存外美味そうな匂いがするもんだ!」
声を張り上げ、意識を左足から少しでも逸らしてやろうと思ったのだが、そうもいかない。激痛の奔流が押し寄せてくる。
だったら、逆に意識してやろう。この左足を酷使してやろうじゃないか。
左足はまだ動くか……うん、大丈夫だ。溶けてないなら使えるとこまで使ってやる。骨が折れているわけじゃない、衝撃くらい耐えられるはずだ。それに、欠損さえしなければ治るんだから、多少の痛みなんて吹き飛ばしてやる。
意外にも、俺は冷静だった。以前ならば、ここで諦めていたかもしれないというのに。
そんなことに驚きを感じながら、少し、笑った。
「笑えるだけの気力が残ってんだ、やれるとこまでやってやるよ!」
体を反転させ、あえて左足でもう一度踏み込む。激痛を踏み越えてやる、という意思の表れだ。
三連続ブレスの余韻があるのか、竜の動きは鈍い。なら、今のうちに確かめてやる。
竜の背に乗って、鱗と鱗の隙間にムラサメを刺しこんだ。
「さて、どんなもんかね!」
ムラサメを斬り上げた。確かな手応えと共に、一枚の鱗が宙を舞う。
そのままムラサメを肉に突き刺し、回転させて肉を抉り取った。
「ぐっ!」
吹き出した鮮血が手にかかった瞬間、電流のごとき痛みが神経を伝っていく。湯気を出しながら、竜の血は俺の皮膚を熱した。
ムラサメを抜き、その場から離れる。見ると、手の甲の数か所に水ぶくれができていた。
「クソッ! 考えてなかった!」
冷たい風が吹き、手が冷やされる。感覚がなくなっちまいそうだ。
『大丈夫!?』
「あぁ、大丈夫じゃないなこれは。だから、さっさと殺すぞ。アリスも心配だ」
そう返し、ムラサメを握りしめる。
そのとき、突然竜が唸りながら暴れだした。
「グルゥァアア!」
何をするわけでもなく、ただ暴れている。その光景は、竜が何かに苦しみ、もがいているかのような印象を俺に与えた。
「さすがに痛かったってことか? いや、違うな……」
何かおかしい。まず焦点が定まっていない。
先ほどまでは確実に俺を狙っていたはずだ。それなのに、なぜ暴れてるんだ……?
「八雲さんっ!」
その声を聞き、ハッとする。横から来た彼女を見て、安堵の溜息を吐いた。
よかった。特に目立った外傷もないし、大丈夫そうだ。
「大丈夫でしたか?」
左足が焼け焦げている奴に掛ける言葉じゃないぞオイ。
「見ればわかんだろ。死ぬレベルで重傷だよ」
「なんだ、大丈夫じゃないですか。軽口を言えるのはまだまだ元気な証拠です!」
「なかなか辛辣なことを言ってくれる勇者様だな……」
一般人に対してのセリフじゃないだろ。ま、俺が人なのかどうかは置いといて。
「それよりアリス。あの竜はどうしたんだ?」
「わかりません。ただ——『八雲! アリス!』——どうしたんですか!?」
再び竜王の声が直接脳に届く。彼はどこか焦っているようだった。
『ヴォルがおかしいんじゃ! 声が一旦消えたと思ったら、叫び始めたんじゃ! 完全に狂気に飲み込まれておる!』
そういうことだったか。焦点が定まっていない理由と暴れだした理由は。
『先ほどよりも殺意と破壊衝動が強くなっておる! このままでは何を仕出かすかわからん! 早く! 早く奴を殺すんじゃ!』
竜王の言葉を聞いた瞬間、背筋が凍るほどの戦慄が走った。
赤焔竜に視線を向けると、奴は静止していた。どこか落ち着いたようで————いや、あれは落ち着いてるんじゃない。
「殺意の塊じゃねえか……」
赤焔竜が出していた熱気と雰囲気は異質なものへと化していた。
熱気はなくなって、その代わりに殺気が放出されている。見えるわけではないが、確かにそれは殺気だ。
ただ暴れ狂っている雰囲気は一転、落ち着いたものに感じられる。あくまでも感じられるだけだ。
嗜虐性の強い殺人鬼ほど冷静だ、という話を聞いたことがある。きっと、あの竜もそれと同じようなものだろう。
「なんなんですかこの魔力は……!」
「どうなってんだよ……」
膨大な魔力が漆黒の奔流となって、赤焔竜を中心に渦巻いている。それはまるで孵化のときを待っている卵のようだ。
見る者すべてに不気味な印象を与えるであろうその一枚。
動物の本能か、それとも違う何かなのか。目の前の存在に対して警戒音が鳴っている気がする。未だ瞑目している赤焔竜に鳥肌が立ち、全身の筋肉も緊張で強張ってしまう。
赤焔竜が徐にその瞼を持ち上げた。ルビーのように赤い瞳の中に、狂気という黒の炎が映し出されていた。
殻が今、静かに砕ける。




