高嶺の花
洞窟から出た後、俺たちはまず少女を起こすことにした。本当ならもう少しあそこにいてもよかったのだが、あまり長居しすぎるとこの子の家族が心配するだろうからな。
少し歩いてから草原の上で正座し、少女の頭を膝の上に乗せる。さらさらの銀髪とぴょこんとした狼耳をなでると気持ちいい。
「おーい、起きろー?」
少女の頬をつつきながら呼びかける。ぷにぷにとしたもち肌は弾力があって、気持ちいい。
何度呼びかけても目を覚まさない。それどころか、涎をたらしている始末だ。熟睡しすぎじゃないか……?
いや、寝る子は育つ。いいことだ。俺もよく授業中寝てたし。
少女の両頬を軽く引っ張る。白いもち肌が伸びるのを見たら、大福が頭に浮かんだ。久しぶりに食べたいという欲求から、引っ張る力が強くなってしまった。
「ふみゅ……ん? お兄ちゃんだれ~?」
少女は可愛い声を出しながら目を覚ました。
もう少し頬をみょんみょんしていたかったんだが……それは後でやらせてもらおう。それと、もっとお兄ちゃんって呼んでもいいんだぜ? むしろ推奨するレベル。
いやいや、これじゃ俺が変態みたいじゃないか。とりあえず質問には答えてあげないと。
「俺は八雲だ。どこか痛いところはないか?」
「痛いところ……?」
俺の言葉を聞くと、少女は不思議そうな顔をして体中をぺたぺたと触り始め――両頬を抑えた。
「ここだけ少しジンジンする……」
「……八雲さんのせいですよ?」
アリスが俺を睨んだ。先ほどまで涙を流していたので、彼女の目の周りは赤い。
泣きはらしたような目で睨まれるとその……付き合ってた彼女と別れた後みたいですね! もちろん彼女いたことないけどな。
「八雲さん……? なにを考えているんですか……?」
「ご、ごめんなさい……」
アリスの糾弾するような鋭い目つきに思わず委縮してしまう。
最近、アリスは俺に冷たいと思う。意外と傷ついているのだが、そんなこと彼女はお構いなしだ。
心中で嘆いていると、少女が笑顔を見せた。
「気にしなくていいよ? お兄ちゃんが私のことたすけてくれたの?」
「……ん、そうだぞ」
膝枕の状態で、少女が尋ねてくる。
見た目はアクアと変わらないが、口調はアクアよりも丁寧だ。アクアのたどたどしさを少し緩和したようなものだな。
「ありがとうお兄ちゃん!」
膝から降りて、少女は上目遣いをしながら俺の手を握った。小さな手でにぎにぎされる上に上目遣いとは……なかなかやってくれるじゃないか。
小動物のような可愛さに、思わず頭をなでてしまう。すると彼女は、「ふわぁ……」と言いながら目を細めた。さらにふわふわの尻尾が嬉しそうに揺れ、狼耳はぴょこぴょこ動いている。
この子……正直可愛すぎると思う。たぶん、今の俺の顔は緩みきっていることだろう。……あ、そういえば。
「名前を聞いてもいいか? それと、歳も」
「八雲さん?」
「違うぞ! 俺はそんな趣味じゃないって!」
どこまでも俺は疑われているらしい。信用ないのかな俺って……。ちょっとショック。
落ち込んでいる俺に、少女が元気な声で自己紹介をした。
「私の名前はリアだよ! 七さい!」
七歳か……年齢のわりに体が小さいな。もしかしたら、獣人族が人間族よりも長生きだからなのかもしれない。
でも、そうなるとイーナも結構小さいんだよな。だけどイーナは人間族で……でも竜王は竜だし……。あれ? あの二人ってどこで出会ったんだろう?
俺が疑問に駆られていると、アリスがリアに話しかけた。自分から訊いたのに返事しないなんて、俺が屑みたいじゃないか。
「リアちゃんですね? 私はアリスです」
「俺はさっきも言ったとおり、八雲だ。よろしくなリア」
アリスに続いて俺も二度目の自己紹介。
自己紹介といっても名前だけなんだがな。実際、クラス替えのときの自己紹介とか地獄。名前だけ言ったら「え、それだけ?」って顔をされるし、長々と続ければ「どうでもいい……」って顔をされるからな。
おっと、これこそどうでもいいな。脱線しすぎだ。
「で、リアはあそこで何をしてたんだ? かなり危険な場所だけど……」
俺が尋ねると、リアは黙って俯いてしまった。
「リア? ……って、どうしたんだ!? どこか痛いのか!?」
再び顔を上げた彼女は、その睫毛を濡らしていた。涙を流す彼女に俺とアリスは困惑してしまう。
少ししんみりとした雰囲気の中で、アリスは両手をわたわたと動かしながら口を開いた。
「大丈夫ですか!? ほら八雲さん謝って!」
「お、おう。ごめんなリア? いや、俺何も悪いことしてねえよ!?」
つい乗りツッコミを入れてしまったが、今のツッコミはかなりよかったと自分でも思う。
自画自賛していた俺に、アリスは精神へのダイレクトアタックを仕掛けてきた。
「そうでした? 八雲さんっていつも怪しいのでつい……ね?」
「ひどくない!? そろそろ俺の心折れちゃうよ!?」
何が一番辛いのかっていうと、アリスが素で言ってること。素で言われたら俺には返す言葉がないよ……。
「ふふっ……二人とも楽しそうだね!」
どうやら、俺の心を生贄にリアの笑顔を召喚できたようだ。女の子の笑顔のためなら俺の心の一つや二つ! 折れたって……折れたって…………別に構わないけどね。俺の心なんてそんなもんだ。
その後、リアは一頻り笑ってから目元を拭った。涙は止まったらしい。
「私ね……おばあちゃんにお花をあげるの! だから、あそこのお花をとろうと思って……」
でもとれなくて、と言ってリアは再び俯いた。肩が小刻みに震えている。お婆さんにあげたかったのに取れなかったのが悔しいのだろう。それにしても、こんな優しい孫を持っているなんて、リアのお婆さんは幸せ者だな。
微笑ましいその姿に自然と頬が緩んでしまう。俺は彼女の頭をなでながらある提案をした。
「リア、今から探そう! 俺も手伝うからさ」
「ほんとう……?」
「ああ、本当だ。一緒に綺麗な花を探そう」
「……うん!」
俺が笑顔で言うと、彼女は大きく頷いた。
小さい子が困っているときは手伝ってあげないと、なんて思うけど、実際は俺が彼女に過去の自分を投影しているだけなのかもしれない。自分が幼いころにできなかったことをやろうとしている彼女を手伝えば、自分もその気になれるから。そんな理由かもしれない。
だけど、今はそんな理由はどうだっていい。
「よし! じゃあ早速いくか!」
「わぁ! 高いね!」
リアを抱き上げて、そのまま肩車をする。
少し怖いのか、俺の髪をがっしりと掴んでいて少し痛い。俺の毛根よ、頑張って耐えろ。
「アリスは村に戻って、俺とリアが一緒にいることを伝えておいてくれ」
「わかりました。綺麗なお花が見つかるといいね、リアちゃん!」
「うん! がんばる!」
リア……可愛い。可愛いけど……髪を引っ張ったままでガッツポーズは止めて欲しかったかな……。毛根たちが断末魔の叫びをあげてたからね。ブチブチッ、って。
俺が将来の髪の毛事情を心配していると、アリスは手を振りながら村へと向かった。少しくらい心配してくれてもいいのに。
まぁ、毛根はどうでもいいとして俺たちもぼちぼち行くとしよう。
「リア、場所を教えてくれれば俺がそこまで行くから。遠慮なく命令してくれ」
「わかった! えっとね……あそこ!」
リアが指をさしている方向は————見えない。というか、彼女の指自体が見えない。肩車しているため、彼女の指先は視界の外だからだ。そのことに気づいた俺は、リアを肩から下ろして抱っこした。
絹糸のように細く美しい銀髪が、穏やかな風で揺れて俺の頬をなでる。少しこそばゆいけど、これなら大丈夫だ。
改めて指さす方向を見ると、そこには高い崖。彼女が落ちた場所よりも、地面との高低差がある。ここは危険な崖ばかりだ。
「あそこでいいのか? 麓のお花畑じゃなくて?」
訊くと、リアは横顔で頷いた。
「お花畑のお花はいつもおばあちゃんにあげてるの! だから、今日はおばあちゃんにはもっときれいなお花をあげたいの! 今日はおばあちゃんの誕生日なんだ!」
「……そうか。リアは本当にいい子なんだな。偉いぞ~!」
彼女が顔を綻ばせる。そんな彼女の笑顔がなんだか愛おしく思えたので、俺はわしわしと彼女の頭をなでた。
まだ話し始めてから一時間と経っていないが、リアは素直でいい子だとわかる。ここまで真っ直ぐな想いを見せられたら俺だって手伝いたくなるというものだ。
彼女の指さした先——崖の中腹には一輪の花が凛として咲いていた。
やはり、艶やかな花ほど高く危険な場所に咲くということだろう。
俺はそれを見て、日本のある言葉を思い出した。
高嶺の花。ただ見ているばかりで、手に取ることのできないもののたとえ。
この言葉、実に的を射ている。
崖の中腹に咲いた花や、雲間に浮かぶ月、夜空を彩る星々、などのものは人を魅了させるが、どうやっても手には届かない。しかしその距離こそが、それらの美しさを強調しているのかもしれない。手に入らないもどかしさがあるからこそ、月は妖艶に、星は煌びやかに映るのだろう。
光る石ころがその辺に転がっていても、人はそれに魅了はされない。宝石は綺麗だが、それは自分や他の何かを彩る要素でしかない。人は自分にないものを求める。自分から遠く離れたものを欲する。水面に映る月を掴もうとして池に落ちたって話もあるくらいだ。
それにしても、人ってのはどこまでも貪欲だ。さまざまなものを欲し、それに飽きたらまた次の何かを欲する。欲望の塊だ。
「でも——」
————だからこそ、人は誰かを好きになるのだろう。
貪欲であるから、欲望の塊であるがゆえに、人は自分とは違う誰かに恋をする。もちろん、女性をとっかえひっかえするわけではないだろうが、好きな女性と別れた後に違う女性を好きになるというのはよくあることだ。むしろ、好きだった女性一人に固執しすぎる方がおかしい。それはヤンデレだ。
なんて考えていると、少し前に涙を流していた彼女が脳裏に浮かんだ。胸が締め付けられるように苦しい。洞窟内でのひと時と同じ感覚だ。
俺はこの感覚について、知っている。小学生のときに、よく西條に聞かされた話。
それは恋愛感情という、不定形で不確かで未知のもの。俺には全くわからないことだったので軽く聞き流していたが、西條の言っていたことはこういうことなのかもしれない。
心の中でポツリとつぶやく。
俺は彼女が——アリスのことが好きなのだろうか。
その問いに、答えは返ってこない。もしかしたらこれは一時の気の迷いかもしれないし、洞窟内で考えたように“家族”としての感情なのかもしれない。
けれど、今はそれでいい。もし、俺が彼女に恋をしていたとしても、それは叶わぬものだと思うから。彼女にとって俺は路傍の石————は言いすぎかもしれないが、せいぜいそこらの石像みたいなものだろう。結局、俺は有象無象の内の一人でしかない。
そう考えていると、俺の脳はある想像を始めた。
俺がもし主人公のような人物だったら。
もしも、彼女に出会っていたのが俺ではなく東條だったなら————
その、あくまでも仮定にしかすぎない想像は、俺の胸の内をかき回してくる。“心”という空っぽの鍋に、“嫉妬”という黒い液体を入れてかき混ぜてくる。
不快感に耐えられなくなり、俺はその鍋にふたをした。すると、再びあの言葉が頭の中で反響した。
「高嶺の花……」
なんて美しくて、なんて残酷な言葉だろう。
その二律背反は人を魅了し、また、人を切り捨てる。相反するその二つの意味を含んだその言葉は、どうしようもなく美しい。
俺も、そんな言葉に囚われているのかもしれない。
そんなことを思いながら、俺はリアを抱いて空を駆けだした。




