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『漁師町ルカ』にて その2

 


 青い海、白い砂浜、そして水着!! ……なんか違うな。まあいいか。


 高く昇った太陽がじりじりと俺の肌を焼いている。そして俺は全力疾走していた。

 青春の一ページに見えるかもしれないが、それは違う。


「ふふふ、待ってくださいよ八雲さ~ん」


 俺は今、海で鬼ごっこをしている。アリスが笑顔で追いかけて来ているのだ。

 

「どうして逃げるんですか~? 待ってくださいよ~」

「逃げるに決まってるだろ!? 聖剣振り回す鬼からは逃げないと命に関わるじゃねえか!」

 

 そう、鬼ごっこ(理不尽な暴力)だ。

 なぜこんなことになっているかと言うと、まあそれは今日の朝に遡る。かなり前だなオイ。



   ♢   ♦   ♢   ♦


 目を覚ますと、魚の焼ける香ばしい匂いがした。外からは港の騒がしい喧騒が耳に響く。

 気持ちよさそうに寝ていたスライム型のアクアを起こして人型にさせてから下へ降りると、食堂にはすでに竜王たちがいた。


 全員に軽く挨拶を済ませ、今日の予定を尋ねる。


「みんなは今日の予定が決まってるのか?」

「魔獣車を買ってこの町を出るぞい。どこか行きたいところはあるかの?」

「ん~。じゃあ、防具屋に行きたい。それと、ある本屋にな」

「ふむ、わかった。では、そうしようかの」

 

 俺はまだ防具を持っていない。なので、俺は防具屋に行ってみたかった。

 あと、本屋というのは昨日のあの本屋だ。勿論、目的は商品のことについてだ。魔法で外装を綺麗に見せるなんてずるいからな。それに、『なにもない男』の作者について聞きたいこともたくさんある。

 

 考えていると、朝食が運ばれてきた。ガルガルの塩焼き定食だ。

 というか……なんで箸文化あるんだろう……? 米もそうだが、日本文化多くないか?

 ……ま、気にしても仕方ないな。俺としては楽でいいし。そういえば昨夜のガルガルの煮つけも美味かったが、やはり、ガルガルは塩焼きにかぎるな!

 

「やっぱガルガルはいつ食っても美味いな!!」

「え? そうですか? 私は昨日たくさん食べたので……」

「馬鹿野郎!! これはな……故郷を思い出す味なんだよ……」


 じいちゃん、もう勝手に鮎釣るんじゃないぞ……?

 隣の鈴木さんはいつでも見てるぜ? たぶんな。

 

「……そうだったんですか。すみません、何も考えずに……」 

「あくあはがるがるあきたー」

「確かに。ガルガルとかもう飽きたよな!」

「変わり身早っ!! 故郷の味はどこへ!?」


 故郷? いつだって俺の故郷はアクアのいる場所だぜ!!

 まあじいちゃんの教えは忘れないけどな!


「……私は好きだよ? ガルガル」

「やっぱり俺も好きだ」


 イーナが好きならば俺も好きと言うしかあるまい。

 アクアとイーナは二対の女神だからな。二人のいうことは絶対なのだ。


「どっち!? どっちなんですか!?」

「アリス、食事中は静かにな?」

「えっ! 私ですか? 私が悪いんですか!?」

「……アリス。しー、だよ」

「イーナちゃんまで!? うぅ、理不尽です……」


 ちょっと言い過ぎたかな? なんか申し訳ない……。

 まあ、仕方ないよね! アクアとイーナは女神だからね!


「ふぉっふぉっ。おぬしたちはやはり面白いわい」

 

 竜王って口を開くといつもこのセリフな気がする。というか、そんなに面白いのか?


「竜王さん! なんで止めてくれないんですか!!」

 

 どうやらアリスはだいぶ怒っているらしい。身を乗り出して竜王に食い掛かった。

 全く、けしからん。テーブルの上でそんなに揺らすなよ……。男ってのは単純(バカ)な生き物なんだからさ。視線がそっちにいくのは自然の理だぜ。

 

「アリス。しー、じゃぞ」


 うわぁ、これはウザったいわ……。

 皺くちゃのお爺さんが口元に人差し指を当てる。この世界のどこに需要があるのか……。絶対ないだろ。


「み、皆さんのばかああああーー!!」


 あら、飛び出して行っちゃったよアリスちゃん。じゃあ、残ったガルガルは俺がもらおう。

 うん、やっぱ美味いな。ご飯が進むね、ガルガルくん。

  

「ご飯食べないと!!」


 出ていったアリスが走って戻ってきた。怒りはどこ行ったんだ?

 というか、なんでそんなに俺の方見てるの? ……ガルガルくんのことか。


「…………てへっ☆」


 私……かわいい……? え? グロイ? 

 もう! そんな当たり前のこと言わないでよねっ!! ……傷ついたわぁ。


「私の、ご飯…………」


 あれ? いつもみたいに突っ込んでくれない。痛くないけどイタイよ? 精神的に。

 というか……罪悪感が……。


「すいませんでしたあああ!! いらないんだな、と思って食べちゃいましたああ!」

 

 でもこれって仕方ないと思う。だってほら、ご飯は粗末にしちゃいけないしね?

 残すくらいなら俺の収納スペースに入れといた方がいいじゃん? 収納したら取り出せないけどな。


「いいんです……。私の扱いなんて所詮こんなものです……。薄々わかってましたよ……」

「ぐはっ!」

「私なんて戦闘でしか役に立たないんです……」

「ぐぅっ!!」

「私の存在意義なんて戦闘だけですから…………」

「あべしっ!!!」

 

 やめて! 折れる! こっちが折れるから!

 心がミシミシときしむ音がするような気がしてきたよ?  

 

「私は椅子に座ってはいけないんです。私の指定席は隅っこです……」

 

 そう言ってアリスは椅子ではなく、食堂内の隅っこの床に座った。膝を抱えて顔を伏せている。

 やべえ、やりすぎたこれ……。謝らないと……!


「なあアリス。ごめんな? やりすぎちまったよ。俺が悪かった……」

「……。……。…………」


 膝を抱えたアリスはブツブツと何かを呟いている。なんだか嫌な予感が……。


「あ、アリス……?」

「どうせ私なんてどうせ私なんてどうせ私なんてどうせ私なんて……」


 いやぁぁああ!! アリスさんまでそちら側に!?

 というか病む理由しょぼっ! ご飯だよ? そんなに病む必要ないでしょ!!

 

「あ、アリス? 一旦落ち着け? ……な?」

「どうせ私なんてどうせ私なんてどうせ私なんて……」

「あ、アリスさん? 俺のごはんあげるから……」

「どうせ私なんてどうせ私なんて……」

「ごめんよアリスううう! なんでも買ってあげるから! なんでもするから! 戻ってきてくれえええ!!」


 ほんと申し訳なかった……!“無の構え(ドゲザ)”で謝るから許してくれ……!! 何ならトーテムポール(三点倒立)もするから!

 

「ふふ、言質は取りましたよ? さ、行きましょっか!!」

「…………へ?」

「ですから、演技です。八雲さんはこういうのが苦手みたいなので、仕返ししようと思いまして!」

「…………」

「びっくりしました? でも、八雲さんが悪いんですからね?」

 

 俺は今、アホの子が進化して策士になる瞬間を見た……と思う。

 ちょっと驚きすぎて何にも言えない……。


「おーい、八雲さーん」

「あ、ああ。八雲だ。服部八雲くんだ。ヤクモ・ハットリだ」

「どうしたんです? ちょっと意味わかんないですよ?」

 

 いや、俺としてはお前の方が意味わからんよ?

 ちょっと本人かどうか疑っちゃうレベルだよ? よし、ここはひとつテストをしてみよう。


「アリス、ひじって十回言ってみてくれ」

「ひじひじひじひじ…………終わりました! あ、私これわかります! 目を瞑ってでも答えられますよ!!」

「じゃあ、ここは?」


 俺はひじを指さしたままだ。しかし、アリスは目を閉じている。

 多分彼女は俺が言い間違えを誘導させようとしている、と勘違いしているのだろう。


「もちろんひざです!!」

「よかった……! いつものアリスだ……!!」

「ふえ!? なに抱き付いてるんですか!? ていうかなんで泣いて!?」


 よかったよ本当に……! え? なんでアリスだとわかったのかだって?

 簡単なことだ。目を閉じているのに俺が指差す部位がわかるはずないだろう?

 

 騙される可能性に気づかないのはアリスくらいのものだ。


 今日もアリスはアホの子でした。

 


    ♢   ♦   ♢   ♦



 そんなこんなで朝食を終えた俺たちは防具屋へと向かった。アリスもそれでいいと納得してくれた。

 道中、たくさんの女性が俺と俺の腰を見つめて頬を赤らめながら「羨ましい……」と声を漏らしている。ちらと俺の顔を見ては腰に差してあるムラサメを見ている。噂の広がる速度ってすごい!


「昨日は何かあったのか?」

「……いろいろとな……」

『私と主人が結ばれた記念日なの』

「ええ!? つ、遂に……」

「ちげえよ!? いつものあれだよ!」

「……そういうことですか」


 どうやら把握してくれたらしい。俺が刀と結ばれるとかマジでありえないからな……。

 ヤンデレモードを解除する方法はもう使いたくないな……。


「おお、見えたぞ。あれが防具屋のようじゃな」

 

 竜王の指さす先には如何にも防具屋らしき店があった。看板として大きな盾を飾っている。


 中に入ると、鉄製の鎧や、兜、盾が飾ってあった。その他にもビキニなどがある。……なんでビキニ? 普通それ防具じゃなくね? 

 いや、ゲームの中にはあるけど現実では防御力皆無だろ……。むしろ攻撃力の方が高いし。男に対しては、の話だが。


「お、いらっしゃい! 気に入ったやつがあったら言ってくれ!」

 

 店の奥から出てきたのは俺と同じ歳か、少し上くらいの青年だった。爽やかな笑顔が眩しい。

 

「ああ、軽い装備はあるか? できれば鎧みたいな重い装備は着たくない」

「あることにはあるが……正直オススメはしないぜ?」

「そうか。見せるだけ見せて欲しい」


 そう言って再び青年は奥に戻ってしまったため、再び店内を物色する。

 あの黒ビキニをアリスに着せよう。絶対似合うと思う。


 数分ほどで戻ってきた青年が持っていたのは黒を基調とした衣服一式とロングブーツだった。

 なんというか、まさに厨二心をくすぐられる一式である。

 ちょっと恥ずかしいかな……? でもこの世界の人ってみんな厨二っぽい服装だからいいか。

 

「この衣服は海竜ウォルデニスの素材で作られたものだ。防御力や耐久性はさほど高くない」

「へえ、鱗とかじゃないんだな」

「ああ、ウォルデニスは鱗を持たない」

 

 ウォルデニスという海竜は鱗も翼も足も持たないらしい。その代りにあるのが滑らかな皮膚だ。

 皮膚の間に空気を入れて海上を滑るように泳ぐそうだ。かなり高性能な皮膚であるが、耐久性がなく、攻撃には弱い。

 しかしながら、試着してみるとその伸縮性は高く、機能性は抜群だった。さらに撥水性も高いらしく、少しの汚れは水を掛けるだけで落ちると言う。

 私生活用の服としてはかなりの優れものだ。戦闘中も攻撃を受けないよう気をつければいい。


 ロングブーツも不思議な素材を使っていた。強い衝撃を与えると瞬時にその硬度を高めるという性質を持ったレグニタフという魔物の皮だそうだ。

 こちらも厨二心をくすぐるものである。一式全てがかっこよかった。もうね、俺歓喜。ワクワクしたよ、本当に。

 

「これ全部くれ」

「本当にいいんだな? ……金貨三枚だ」


 なにっ!? き、金貨三枚……り、竜王先輩……いいでしょうか?

 懇願する表情で竜王を見ると、彼はゆっくりと口を動かした。


 ちゃ ん と か え す ん じゃ ぞ? 


 必死で頷き、竜王の慈悲深さに感謝してから購入した。あと、ビキニも買っておいた。

 青年は不思議そうに見ていたが、あの美人に着せるのだ、と小声で言うと、羨ましいぜ……と返した。


 男というのはやはり欲望に忠実なのだ。俺がお前の分も拝んどく、とウインクすると青年は引き笑いしていた。ちょっと傷つくなあ。



 その後、アリスの命令に従って服屋に来た。

 アリスは普段、聖衣というものを身につけている。見た目的には踊り子に近いので、露出度が高い。ちらりと見えるへそなどがかなり魅力的なのだが、彼女はやはり女の子ということだろう、普通の服を着たいようだ。 

 様々な服を試着していたのだが、彼女はどれも気に入らなかったらしい。数十分ほどで店を出た。


 よし、今しかない! 

 

「ちょっと海に行こうぜ。砂浜のあるところな!」



    ♢   ♦   ♢   ♦



 そして今に至る。

 アリスにお願いしてビキニを着てもらったあと、アクアに頼んで服を隠してもらった。こうでもしないとアリスは水着姿を見せてくれないだろうからな。ゲスの極み? なんとでも言え!

 案の定、アリスはぷりぷりと怒っている。それで聖剣を振り回しているのだ。


「八雲さんが悪いんです! こんなものを着せるからです!!」

「何を言うか!! 素晴らしいじゃないか!!」


 そう、素晴らしいのだ。漆黒のビキニが彼女のきめ細やかな白い美肌を強調している。

 黒と白の対比、所謂(いわゆる)コントラストである。まるで絵画のように神秘的なその姿は見る者すべてを魅了するのではないかと思えるほどだ。

 聖剣さえ持っていなければ両手をすり合わせていたというのに……。


「うぅ~! 恥ずかしいに決まってるじゃないですか!」

「……我慢って大事だぜ?」

「うるさいですぅ!」


 ちょっとやりすぎた感があるな……。というか、命の危険を感じるレベル。

 そろそろやめておこう。折角買った服をボロボロにしたくはないしな。


「アリス、服は返そう。それに土下座もしよう。だから、剣を下ろしてくださぁぁああい!」

「……仕方ないですね~。わかりましたよ」


 ほっ、と安堵の息をついたのだが、それは間違いだった。

 “危険察知”が発動した。そう、アリスは剣を振り上げたままだった。そこで俺が剣を下ろせと言えば、求められる解は一つしかない。


 そのまま聖剣が俺に対して振り下ろされる、ということだ。


「うわあああっ!」


 瞬時に横に飛ぶ。勿論“迅速”を使って。

 一秒と経たない内に砂浜は抉られた。俺のいた場所には深さ二メートルほどの裂け目ができる。

 こ、この子本気で殺しにきたんですけど……!


「……やはり避けられましたか」


 怖い、怖いよアリスさん!? 目が笑ってないよキミ!

 俺が避けられなかったらどうなってたかわかってるの!? 真っ二つだよ!?


「危ないだろ!!」

「でも、“危険察知”で避けられるでしょう?」

「そういう問題じゃないよね!?」

「私は最大限の恐怖を味わってもらおうと思っただけですよ?」


 小首を傾げて笑みを浮かべるアリスは本当に怖かった……。

 般若とかのレベルじゃない、あれは魔王だぜ……。俺も魔王候補だが、アリスの方が向いている気がしました。


「全く、最初からあんなことしなければよかったんですよ!」

「……ごめんなさい」

「……よしよし、怖かったね」


 い、いーなさん……。あなたはやはり女神だったんですね……?

 こんな俺の頭をなでてくれるだなんて……。


「ふむ。では魔獣車を買いに行くかの」

「あくあもいくー」

「あ、俺は本屋に行くから竜王たちは買っておいてくれ」

「わかったぞ。では、行くぞみんな」

 

 ここで俺たちは別れた。俺は本屋に、竜王たちは魔獣車を買いに。

 実のところ、俺が一人で行こうとしたのはちょっとしたプレゼントも買うためだ。俺はあいつらに助けられてばかりだから、感謝の気持ちくらいは伝えたい。

 

 俺はアクセサリー店で髪飾りを三つ買い、竜王には杖を買った。魔法用の杖だが、別にいいだろう。あいつ魔法使うし。

 結局金は竜王のものだが、絶対に返そう。いろいろと頑張って。


『主人、私には? 私には?』

「うん、手入れ用の道具買ってやるから。な?」

『指輪ぁ~』

 

 いや、お前指ないじゃん……。昨日もあったぞこれ……。

 唸るムラサメを無視して、俺は本屋へと向かった。



    ♢   ♦   ♢   ♦



「……どうなってるんだ」


 俺とアクアが訪れた本屋、その場所はただの空き地になっていた。俺が場所を間違えたのかと思ったのだが、何度確認しても昨日の本屋の場所はここだった。

 周辺の住民に尋ねたが、皆一様に「あそこは昔から何もない」と否定するのみだ。

 

 おかしい。俺は確実にこの場所で本屋を訪れたのだ。そしてここでこの本――『なにもない男』を買った。あの本屋は外装が古かったものの、中は最近開業したのかと思うほどに真新しいものだったはずだ。

 もう一点不思議なところがある。店主の顔を思い出せない。そもそも俺は会話をしたのか? 


 昨日俺は本屋で何をした?

 ————俺はただ立ってアクアを見ていた。

 その後何をした?

 ————アクアの持ってきた本『なにもない男』をぱらぱらとめくった。

 その後は? その後何かあったのか?

 ————会計を済ませて店を出たんだ。


 考えれば考えるほどに思考が渦に飲み込まれていく。おかしいと思えば思うほどに記憶の引き出しが(ひら)かなくなっていく。

 まるで底なし沼だ。もがけばもがくほど、抜け出そうとすればするほどにその深さに沈んでいく。


 漠然とした記憶。具体的に思い出せるのは払った銀貨五枚だけ。

 ————待て。銀貨五枚? 本当に払ったのならそれはどこへいった?

 それをきっかけに俺は必死に空き地を探した。


 あった。きっかり銀貨五枚がバラバラに落ちている。俺はこの場所で確かにこの本を手に入れたらしい。でも、なぜ空き地に?

 俺とアクアが見たのは確かに本屋だったはずだ。そうじゃないとおかしいんだ。


 疑惑と焦りが生じる。

 

 昨日から空き地であったならば、俺はこの本を持っていないはずだ。

 一体何があったんだ? この場所は何だったんだ?

 そうだ、一緒にいたムラサメとアクアなら————。


「ムラサメ! 昨日、俺はここで何をしていた? 何があった?」

『昨日? ちょっと待ってね。……ごめん主人、思い出せない。ここに来たことは覚えてるんだけど……』

「……そうか」


 ムラサメの言葉で、この場所の異様な点が浮き彫りになる。

 俺もムラサメもここに来たことは覚えている。が、本屋の中などの詳細は思い出せない。

 

 同じ場所にいた二人が何故かある一つの事柄を思い出せない、これがこの場所の異様さに対する何よりの証拠だ。

 しかし、アクアはどうなのだろう。彼女は本を持ってきた当人だ。何か覚えているかもしれない。


 そう思った俺はアクアの元へと駆け出した。





 竜王たちは魔獣車を連れて外で待機していた。

 アクアは魔獣車の中にいるらしく、アリスの問いかけも無視して魔獣車の中へ入る。


 

 昨日のことについて尋ねた俺に返ってきたのは残酷な言葉だった。



 「ほんや? あくあそんなところいってないよ~?」



    ♢   ♦   ♢   ♦




 

「八雲さん、大丈夫ですか?」

「……ごめん。一人にしてくれ」

「……はい。何があったのかはわかりませんけど、早く元気出してくださいね?」

「…………」




 アクアの返答を聞いて俺は絶句した。


 彼女は何も覚えていなかった。本屋に行ったことすら覚えていなかったのだ。

 思えば、あの時のアクアの声はいつになく冷たいものだった。

 

 あの時のアクアは別人? いや、そんなはずがない。それだけはあり得ない。


 自問自答を繰り返すが、何もわからない。見えない。その記憶(すがた)が見えることはない。

 必死に思い出そうとすれば、黒い(もや)が答えの前に現れる。


「クソッ……わかんねえ……」

 

 俺のつぶやきは虚無とも言えそうな夕闇に飲み込まれる。 

 空に立ち込める灰色の雲が俺を嘲笑っている、そんな気がした。


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