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祐樹の選択

「ここは…?」


目が覚ますと小太りで健康そうな髭面の医師の顔が目に入った

確実に断言できるのはこの場所はあのミナがいた無人島ではない。あそこに彼女以外の人間はいなかったのだから

少なくとも自分以外に一人は『居る』のだ。すっかり物言わぬミイラとしてではあるが

いや・・・今となってはあの無人島が本当に在ったのかも、ミナと名乗る少女が実在していたのかも分からない

だが、祐樹は彼女が居たと信じたかった。彼女を抱いたときの温もりは紛れも無く本物だと思うから


「おお、気がついたのか。よかった」


「僕はいったいどうしたんです?」


眼鏡をくいっと上げながら、中年の医師が祐樹に説明した。

人が良さそうに見えるが腹は出ていて不健康そうだ。医師がこんなものでいいのかと胸の中で思う。

そんな祐樹の心情も知らず、聞かれても居ないのに医師は喋り始めていた。ストレスが溜まっているのだろうか?


「キミは車と共に恋人であり、籍を入れる予定だったサークルの女子大生と車に乗って崖から落ちて行方不明になったらしいな

その女子大生はキミの保険金目当てで心中を持ちかけたようだが気にする事は無い。その女は既に殺人犯の容疑で逮捕されている

いや、今となっては未遂犯かな? まぁ、どうでも良い。性根の悪い女に巻き込まれたのは運が悪かったと言うか

両親もどっちもどっちだな。あくまでも君が心中に見せかけて殺そうとしたと言い張っているようだ。

まぁ、こうして生還したからには『死人に口無し』というわけにもいかない。思う存分に法廷で証言し恨みを晴らしたまえ。

今はそういうのが多いから別段気にする必要はないだろう。此処まで悪質ではないが似たような女は居るからな

私も若い頃引っかかったものさ、馬鹿なマスコミが女を甘やかすからね。まあ、後に口うるさいが良妻に恵まれ子供も二人居るよ

なぁに、かえっていい教訓にはなる。私のように良い出会いもこれから待っていると思うよ…多分だがね」


仮にフェミニスト団体の耳に入ったら激怒して医師会に抗議を入れそうな発言ではあるが、幸いにして祐樹はそうではない。

無神経なのかそれともそういう性格なのか、中年の男性医師がぽんぽんと祐樹の背中を叩く。

医師は悪い人間ではないようだったが、それ以上に祐樹は気になることがあった。ミナの事である。


(僕は…そしてあの子は一体どうなったんだ?)


「しかし…何一つ後遺症もなく、二ヵ月後に近くのテトラポッドに漂着したのは運がいいとしか言いようが無い

いいや、宝くじの一等を当てるほどの奇跡といってもいい。一体何が起きた? 竜宮城にでも行ったのかね?

それに、溺死体は発見されたとしても中々運の強いほうなんだ。魚が死肉を食べたり沖合いに流されてしまうからね

一体、キミはどんな強運を宿しているのか…私も興味が出てきたところだよ」


医師は本当に興味深そうな視線で満遍なく祐樹の体に視線を送っていた。

しかし当の祐樹はそんな事をお構い無しに、あの無人島での生活とミナの笑顔のことばかり頭に浮かんでくる。

あんな結末になってしまったが、あの二ヶ月は彼にとって人生で充実した時間であることに変わりないのだから。

だが、たとえこれから辛く退屈な日常が続くとしてもあそこまで楽しかった日々は戻ってくるのか? 彼は心配になっていた。


「キミ。何を考えているのかは知らんが、これからは無茶などせずに自分の命を大切にしたまえ

生きていればきっと良い事があるかもしれないよ。祐樹君はまだ若いのだろうからね」


「・・・・・・」


祐樹はその医者の言っている事が無責任な気休めにしか聞こえなかったが、反論せずに黙っていた

大切な人から二度も裏切りにあった気持ちなんて、誰にもわからないだろうし共有できるような物でもないだろうから・・・






「おーい祐樹。今日皆で飲みに行かねぇか?」


「…別に」


「なんでぇ…酒も飲めねぇのかよ。つまんねぇな」


吐き捨てるように行って現場で四十を過ぎた同僚が去っていく。この職場を訪れたのは二週間前で最初は飲み会の誘いも多かったが

それを断り続けて居る内にすっかりと彼は孤立してしまって、今では声をかけてくる人間も減った

あれから十年以上の時間が経過した。もう三十を過ぎ人生の折り返し地点に差し掛かったが、やはり日常は退屈でつまらない物だった

徐々に進行する不景気ゆえに正社員になれず、祐樹は派遣とバイトを交互にやって賃金を得ている

決して高くない収入だったが、貯金はそこそこ溜まっている。家庭を持たない独身だからだろうか

それ以前に彼自身に趣味がないからだ。酒もタバコ、ギャンブルも下らなく思え、どうしてそんな物に手を出すのかが分らない


世の中に余裕がなくなり、徐々につまらなく息苦しくなっていくのを肌で感じる

マスコミやネットに煽られるつまらない大衆に馬鹿な政治家や利権に塗れた官僚、生活用品は少しづつ値上げし始め

いつの日か訪れる崩壊を悟った、敏い金持ちは既に海外へと資産を移し…民衆は真綿で首を絞められるように税金だけが上がっていく日々

もしかしたら酒やギャンブルに逃避する人間は、本能的にいつか来る終わりに備えているのかもしれない

だから今の内に楽しんでいるのだろう。そんな後ろ向きの現実逃避に浸るほど、祐樹は愚かでも投げやりでもなかったが


(ミナは、今どうしているのだろうか?)


最近気になるのはその事ばかりだ。あの島の日差しを思い出す、自然の恵みたるスコールの嵐を思い出す

あそこは確かに、不便だったかもしれない。しかし、今の生活よりはるかに充実していた

やろうと思えば何でも出来たと思う。そう、あの事件が起きるまでは―――――


(あそこで殺されていても、良かったかもな)


やや強い太陽の日差しの暖かさ、降りしきる雨の冷たさ、森を裂くような雷の轟き、そしてミナが持つ肌の温もり――――

自分が好奇心を我慢して、森の中の小屋に入らずにあんな事が起きなければ

現在も自分は彼女の傍にいられたのだろうか? 子供のように笑っていられたのだろうか?

徐々に記憶が薄れつつある今となっては、美化された思い出に過ぎないのかもしれない

しかし…彼女がまだあの島にいるとしたら? ずっと自分を待っているのだとしたら?


(多分、最後のチャンスは今しかないのかもしれない…)


今、ミナの事を考えていた彼の中で何かが弾けた。そうと決めると行動は早い方が越したことは無い

後悔はしたくなかった。今、機を逃すと一生自分はずるずると生きる屍に堕してしまうだろう

職場の上司に適当な用件を言った後に会社をすぐさま早退し、更に退職の手続きをしたのは翌日の事であった






貯金を下ろしてモーターボートを購入、海岸の砂浜から出港したのは一週間後の夜の事だった

自分でも無謀で馬鹿らしい決断だと祐樹は思った。何故、若い頃にこうした決断力が出せなかったのか?

もっと早く前向きに行動できていれば、全てがいい方に向かって言ったのではないかと考える事がある

だが、もう遅かった。時間という名の大きなうねりの波は誰に求める事は出来ないのだから

今は只、過去の清算を考えるのみだった。現在に執着がなければ過去に目を向けるしかない

少しづつ迫ってくる老いと焦りが、祐樹を突き動かし続けていた。もう二度と後悔したくはなかった


(くっ…何処にあるんだ? あの島は!)


決行したのは夜だった。昼は誰かに見つかる恐れがあるし、何者にも見られたくなかったのだ

焦りの中。充ても無く、場所の分らない島を探すために彼のモーターボートは青い海に白い漣を刻んで南に向かう

既に海岸地帯を抜け、小さなボートは沖合いに向かって流されていく。ちっぽけなエンジンで海原を渡るには無謀すぎた

五メートルを超える波がうねる大海を小船のようなボートは進んでいくのだ

そこに乗っている祐樹は大地が恋しくなる。陸に根ざした場所は波打ったりしない

しかしここは違った。迷い込んできた哀れな闖入者を嬲るように波がボートを揺らす

唐突に、彼は理解してしまった。あまりにも無謀で他者から見るとおろかなる愚考を何故に実行したのかを


(ああ、分ったぞ。僕が何でこうしようと思ったのかが・・・)


彼は結論を出した。それはものすごくシンプルで納得がいく答えでも有ったのだ

長年生きてきた末のこの行動。人間しか取り得ない、または選択可能であるその回答

自分は自殺したかったのだと、祐樹は確信を得た。世の中に見切りを付ける決心をしたのだと

あの少女の事なんて、今に思えば幻だったのかもしれない。「彼女」に裏切られたショックが自分に見せた幻覚だったのかもしれない

ならば何故、あの時に自分は逃げたのだろう。ならば、ミナに幕を引いてもらうのが幸せだったのだろうか?


(いや…逃げたかったんだ。自分が逃げ込んだ場所から見える束の間の幻が本当に虚像だと悟らないように)


自分の人生とは何だったのだろう?波に飲まれる前に祐樹はそんな事を考えつつ

己を押しつぶそうと迫りくる大波が砕けた後の飛沫が、海面に散って元の水面を取り戻したときに彼の姿は見えなくなっている

そもそもあの自殺未遂の時にしっかり死んでおけば…と祐樹は最後に思ったのだ


大風で荒れ狂う白波は真っ青な大口を開き、彼の体や意識も容赦無く海の底へと吸い込んでいった

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